今週の月曜日は東北で一緒に仕事をしていて今は東京で仕事をしている方と一献、火曜日は東北で一緒に仕事をしていて今も東北で仕事をしている方と一献、お互いに仕事は違いますが、懐かしい話で盛り上がりました。
最近は作業員不足・・・、全国ネットで作業員を手配して応援しても、交通費、宿泊費が高くつき、感謝されるどころか高くなったのを暴利と非難されるのだからたまったものではない。
さて最近の投稿に南画が少なくなったせいか、南画ファンが読まれていないような気がします。とはいえ本ブログは南画のブログではありませんし、南画の良いものも簡単にはみつかりませんね。
本日は関東南画檀の金井烏洲の作品です、金井烏洲の投稿は二作品目の投稿となります。「忘れ去られた画家」で投稿しています。
「忘れ去られた画家 湖山雪霽図 金井烏洲筆」として投稿しています。この作品は1854年(安政元年)の作品で59歳の作品ですが、本日の投稿作品とほぼ同時期の作品と推察されます。
金井烏洲は天保末年(1843)から多くの名作を残していますが、さらに最晩年の安政元年(1854)春に、やや病の小康を得た烏洲はさかんに採管を揮ったらしく、この年「江山雪眺図」など稀有の名作が数多く残し、「風后一種の宏逸酒脱の気格を加う」と評されています。そういう観点から「湖山雪霽図」は重要な意味を持つ作品と思われます。
関東在住の方々にとっては身近な画家のはずですが、知っている人は本当に少ないでしょうね。私もよくは知りませんでしたが、関東出身の画家には欠かせない存在のようです。
「赤壁夜遊図」(56歳の作)などはなかなかの秀作で伊勢崎市の市指定重要文化財となっています。
群馬県の伊勢崎市の出身で伊勢崎市では展覧会が開催されたりしているようです。イントラ上には「金井烏洲の美術館」があるようです。
武陵春色 金井烏洲筆 その2
紙本墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1980*横610 画サイズ:縦1370*横470
賛には「武陵春色 烏洲老□ 押印(「白沙頓翁」の白文朱方印 「翠林巌?主」朱文白方印)とあります。
晩年は故郷にアトリエ呑山楼を構え、中風を患うも書画の製作に打ち込んだようです。この晩年の作を風後の作と称されます。享年が61歳ですから、現在の私と同じ年で亡くなっています。昔は60歳程度でも長生きなほうであったようです。
本作品は「湖山雪霽図」と製作が同じ頃と推察される作品で、60歳の春には中風がやや小康を得た烏洲はさかんに採管を揮ったらしく、この年江山雪眺図など稀有の名作が数多く残し、風后一種の宏逸酒脱の気格を加えた作品を描いています。翌安政2年中ばころから病が再発したらしく、画業作詩の一切が知られていません。金井家に伝わる絶筆二幅はこの年書かれたものですが、もう筆がふるえて判読に困難なほどとのことです。
本作品の賛にあり、題名とした「武陵春色」は武陵桃源と同じく、「世間とかけ離れた平和な別天地。桃源。桃源郷。陶淵明(とうえんめい)「桃花源記」によると、晋(しん)の太元年間に、湖南武陵の人が桃林の奥の洞穴の向こうに出てみると、秦末の戦乱を避けた人々の子孫が住む別天地があって、世の変遷も知らずに平和に暮らしていたという。」の意で、よくいう「桃源郷」を描いた作品でしょう。画題としてよく描かれますが、死期を悟ったか否かは解りませんが、死後はこういう世界に住みたいという願いあったようにも思います。
「少量の墨でかすれるように描く焦墨渇筆を多用したみずみずしい山水図表現に特色がある。」と評されています。ん?「焦墨渇筆」とは?
焦墨:筆に水を加えず、磨ったままの墨を用いる
渇筆:筆の穂の中の水分を布巾などで拭き取ってから描くと墨線がかすれてカサカサし枯れた感じを表現できること
板橋区立美術館発刊の「関東南画大集合 のぞいてみよう心の風景」という本にも谷文晁、渡辺崋山らとともに金井烏洲が掲載されています。但し掲載作品はやはり群馬県立近大美術館や群馬県立歴史博物館所蔵の作品です。
金井烏洲は本ブログに登場する画家と縁の深い画家のようです。
春木南湖に師事・・・子息の春木南溟の作品を投稿しています。
菅井梅関と交流・・・仙台四大画家の一人としていくつかの作品を投稿しています。
田崎草雲の入門・・・もともと烏洲家と田崎家は親縁の関係であったようです。
本ブログの投稿された画家の関連を整理すると面白いかもしれませんが、時間が足りない
最近は作業員不足・・・、全国ネットで作業員を手配して応援しても、交通費、宿泊費が高くつき、感謝されるどころか高くなったのを暴利と非難されるのだからたまったものではない。
さて最近の投稿に南画が少なくなったせいか、南画ファンが読まれていないような気がします。とはいえ本ブログは南画のブログではありませんし、南画の良いものも簡単にはみつかりませんね。
本日は関東南画檀の金井烏洲の作品です、金井烏洲の投稿は二作品目の投稿となります。「忘れ去られた画家」で投稿しています。
「忘れ去られた画家 湖山雪霽図 金井烏洲筆」として投稿しています。この作品は1854年(安政元年)の作品で59歳の作品ですが、本日の投稿作品とほぼ同時期の作品と推察されます。
金井烏洲は天保末年(1843)から多くの名作を残していますが、さらに最晩年の安政元年(1854)春に、やや病の小康を得た烏洲はさかんに採管を揮ったらしく、この年「江山雪眺図」など稀有の名作が数多く残し、「風后一種の宏逸酒脱の気格を加う」と評されています。そういう観点から「湖山雪霽図」は重要な意味を持つ作品と思われます。
関東在住の方々にとっては身近な画家のはずですが、知っている人は本当に少ないでしょうね。私もよくは知りませんでしたが、関東出身の画家には欠かせない存在のようです。
「赤壁夜遊図」(56歳の作)などはなかなかの秀作で伊勢崎市の市指定重要文化財となっています。
群馬県の伊勢崎市の出身で伊勢崎市では展覧会が開催されたりしているようです。イントラ上には「金井烏洲の美術館」があるようです。
武陵春色 金井烏洲筆 その2
紙本墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1980*横610 画サイズ:縦1370*横470
賛には「武陵春色 烏洲老□ 押印(「白沙頓翁」の白文朱方印 「翠林巌?主」朱文白方印)とあります。
晩年は故郷にアトリエ呑山楼を構え、中風を患うも書画の製作に打ち込んだようです。この晩年の作を風後の作と称されます。享年が61歳ですから、現在の私と同じ年で亡くなっています。昔は60歳程度でも長生きなほうであったようです。
本作品は「湖山雪霽図」と製作が同じ頃と推察される作品で、60歳の春には中風がやや小康を得た烏洲はさかんに採管を揮ったらしく、この年江山雪眺図など稀有の名作が数多く残し、風后一種の宏逸酒脱の気格を加えた作品を描いています。翌安政2年中ばころから病が再発したらしく、画業作詩の一切が知られていません。金井家に伝わる絶筆二幅はこの年書かれたものですが、もう筆がふるえて判読に困難なほどとのことです。
本作品の賛にあり、題名とした「武陵春色」は武陵桃源と同じく、「世間とかけ離れた平和な別天地。桃源。桃源郷。陶淵明(とうえんめい)「桃花源記」によると、晋(しん)の太元年間に、湖南武陵の人が桃林の奥の洞穴の向こうに出てみると、秦末の戦乱を避けた人々の子孫が住む別天地があって、世の変遷も知らずに平和に暮らしていたという。」の意で、よくいう「桃源郷」を描いた作品でしょう。画題としてよく描かれますが、死期を悟ったか否かは解りませんが、死後はこういう世界に住みたいという願いあったようにも思います。
「少量の墨でかすれるように描く焦墨渇筆を多用したみずみずしい山水図表現に特色がある。」と評されています。ん?「焦墨渇筆」とは?
焦墨:筆に水を加えず、磨ったままの墨を用いる
渇筆:筆の穂の中の水分を布巾などで拭き取ってから描くと墨線がかすれてカサカサし枯れた感じを表現できること
板橋区立美術館発刊の「関東南画大集合 のぞいてみよう心の風景」という本にも谷文晁、渡辺崋山らとともに金井烏洲が掲載されています。但し掲載作品はやはり群馬県立近大美術館や群馬県立歴史博物館所蔵の作品です。
金井烏洲は本ブログに登場する画家と縁の深い画家のようです。
春木南湖に師事・・・子息の春木南溟の作品を投稿しています。
菅井梅関と交流・・・仙台四大画家の一人としていくつかの作品を投稿しています。
田崎草雲の入門・・・もともと烏洲家と田崎家は親縁の関係であったようです。
本ブログの投稿された画家の関連を整理すると面白いかもしれませんが、時間が足りない