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干柿之図 正宗得三郎筆 

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今ではすっかり高級菓子になってしまった干し柿。田舎では秋も深まると家の軒下には干し柿がぶら下がっていたものでした。

干柿之図 正宗得三郎筆 
紙本水彩軸装 軸先 向井潤吉箱
全体サイズ:横655*縦1375 画サイズ:横505*横350



子どもの頃には塀によじ登って、よその家の柿の実を採っては食べたものです。大概は渋柿でした。子どもが採っても大目に見るのは渋柿と知ったのは大人になってからです。



その後、軒下には干し柿が吊るされました。さすがに失敬するわけにもいかず、後日おやつになってから食べたものです。



今では一束数千円する高級お菓子のようです。思わず手が伸びそうな干し柿に懐かしさの感じる作品です。

家内曰く「ちっとも美味しそうではないよ」だと・・。我々の世代の干し柿はこんなもの、こぎたい感じのするもの

実兄に小説家の正宗白鳥、国文学者の正宗敦夫、弟に植物学者の正宗厳敬というエリート兄弟です。

明治35年(1902年)に日本画家を志して東京に出て寺崎広業に師事しています。のち洋画に転じ、明治40年(1907年)東京美術学校(後の東京芸術大学)西洋画科を卒業しています。


正宗得三郎と向井潤吉はどういう関係でしょうね? 高島屋の梱紙に包まれたいましたが・・。

「30年の伝統をもつ二科会は1944年10月6日幹部会を開いて、熊谷守一、正宗得三郎、宮本三郎、向井潤吉、東郷青児、田村孝之介、栗原信、渡辺義知等の評議員が集り、各団体に率先して解消することを決議、その旨声明書を発表した。」という記録があり、二科会にて両名のつながりがあるようです。

向井潤吉の茅葺の家・・、いつかは欲しい油絵のひとつです。


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正宗 得三郎(まさむね とくさぶろう):明治16年(1883年)8月21日 〜 昭和37年(1962年)3月14日)。日本の洋画家。岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に生まれる。実兄に小説家の正宗白鳥、国文学者の正宗敦夫、弟に植物学者の正宗厳敬がいる。

明治35年(1902年)に日本画家を志して東京に出て寺崎広業に師事した。のち洋画に転じ、明治40年(1907年)東京美術学校(後の東京芸術大学)西洋画科を卒業。

大正3年から5年(1914年 - 1916年)、大正10年から13年(1921年 - 1924年)にかけてヨーロッパに渡り本場の西洋絵画を学ぶ。この時アンリ・マティスにも学んだ。大正4年(1915年)前年に創立したばかりの二科会会員となる。

第二次世界大戦前は二科会の重鎮として活躍した。東京都中野区東中野にアトリエを構えていたが、昭和20年(1945年)空襲によりアトリエを焼失し作品の多くを失った。

戦後は昭和19年(1944年)に解散した二科会に代わり、昭和22年(1947年)正宗は熊谷守一、栗原信、黒田重太郎、田村孝之介、中川紀元、鍋井克之、宮本三郎、横井礼市と共に「第二紀会」(後、二紀会と改称)を結成した。晩年は富岡鉄斎の研究を行った。

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向井 潤吉(むかい じゅんきち):1901年(明治34年)11月30日 〜1995年(平成7年)11月14日)は日本の洋画家。

戦前から戦後にかけて活躍、40年以上に渡り北海道から鹿児島までを旅し、生涯古い民家の絵を描き続け「民家の向井」と呼ばれた洋画家であった。

長男は元TBSディレクターで萩本欽一を育てた事で有名な向井爽也。京都市下京区仏光寺通に父・才吉と母・津禰の長男生まれる。父はもともと宮大工の家柄で東本願寺の建築にも関わった。潤吉が物心ついた頃には、家で10人近い職人を雇い輸出向けの刺繍屏風や衝立を製造していた。

1914年(大正3年)4月、父と日本画を学ぶことを約して京都市立美術工芸学校予科に入学するが、2年後どうしても油絵が描きたくて父の反対を押し切って中退、家業を手伝いながらという条件で関西美術院に入り、4年間学ぶ。

1919年(大正8年)、二科会第6回展に初入選。翌年家に無断で上京、半年ほど新聞配達で働きながら川端画学校に通うが、年内には再び京都に戻る。1927年(昭和2年)、当時最も安い経路だったシベリア鉄道を使いフランスへ向かう。滞仏中は、午前中はルーブル美術館で模写、午後は自由制作、夜はアカデミー・ド・ラ・ショーミエールで素描をおこなうのが日課であった。

潤吉は後年「私の如き貧乏の画学生には、費用のかからないそして自由に名画に接し得られる美術館での勉強はまことに有り難かった」と述懐している。模写した作品はヴェネツィア派からバロック絵画にかけての作品が目に付く他、コローの作品が多い。その一方で、スーティンやココシュカを想起させる荒々しい筆触の作品も描いており、フォーヴィスムへの接近を色濃く感じさせる。

3年後の1930年(昭和5年)に帰国し、模写の展覧会を開く。同年結婚、また、二科会に渡欧中に制作したフォーヴィスム調の作品11点を出品、樗牛賞を受ける。1933年(昭和8年)、東京都世田谷区弦巻に転居し、以後没年まで居住する。1937年(昭和12年)、個人の資格で中国の天津、北京、大同方面に従軍、1938年(昭和13年)、大日本陸軍従軍画家協会が設立されると、潤吉も会員となり戦争画を描く。終戦後の1945年(昭和20年)秋、新潟県の川口村で取材した作品「雨」(個人蔵)を制作、以後生涯の主題として草屋根の民家を描き続ける。しかし、初期の頃は労働や生活の現場を画面に取り込んだ作風を見せ、いかにも潤吉らしい民家作品としての作風が確立するのは昭和30年代に入ってからのようである。1993年(平成5年)5月、世田谷区に自宅を兼ねたアトリエとその土地、ならびに所蔵の作品を寄贈、同年7月、世田谷美術館の分館として向井潤吉アトリエ館が開館する。1995年(平成7年)、急性肺炎のため自宅で逝去。93歳没。

戦後の高度経済成長により次第に伝統的家屋が失われていくなか、潤吉は全国を巡り古い藁葺き屋根の家屋を描き続けた。種々の資料や潤吉自身の言葉から推定すると描き残した民家は1000軒を超え、油彩による民家作品は2000点にも及ぶとされる。1959年(昭和34年)から1988年(昭和63年)までに描いた1074点の製作記録が残っており、これによると、制作場所は埼玉県が約32%、長野県が約19%、京都府が13%と大きな偏りがあり、近畿以西は旅で訪れてはいても作品は極めて少ない。一年の内の製作時期は、2月から4月が一つのピークで、ついで10月から12月が多く、逆に8月は非常に少ない。この理由として潤吉は「民家を描くためには、繁茂した木や草が邪魔になるからであるとともに、緑という色彩が自ら不得手だと知っているからでもあると述べている。

美術史家・辻惟雄は、今後も評価されるに違いない画家の一人として、潤吉の名を挙げている。

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