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偕楽園焼 紫交趾(写)二彩寿字文大花入 

昨日は続く会食と日本酒でバタンキュ〜Image may be NSFW.
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本日は偕楽園焼の作品ですが、本歌か写しかは当方では判断できかねていますImage may be NSFW.
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偕楽園焼は大きく楽焼系統と磁器系統の二種類に大別されるようです。

偕楽園焼については、当方ではあまり詳しくありませんが、20年以上前に盛岡の骨董店で下記の作品を購入し、所蔵していましたが知人に贈呈し、今は手元には今回投稿する作品のみとなります。

「眠り猫香炉」の作品は楽焼系統の作品となり、銘となる印章が押印されていますが、楽焼系統の作品群には幾つかの印の種類があるようです。

眠り猫香炉 偕楽園焼
合箱
幅120*奥行き80*高さ60

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本日の作品は花入れになります。磁器系統の銘となる印章は一種類のようです。写しが多く存在し、写しか本歌か焦点となります。この判断が当方ではその判断ができかねています。

偕楽園焼 紫交趾(写)二彩寿字文大花入 
合箱
口径130*胴径160*高台径100*高さ305

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典型的な偕楽園焼の二彩寿字文花生です。釉薬はやや薄いですが、内面全体にも紫釉が施されています。

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底面高台内に陰印刻銘で「偕楽園製」(楷書体)とあります。この種の交趾写の作品は、西浜御殿内の窯で製作されたものか、このような銘のある破片が発見された南紀男山窯もしくは南紀高松窯で製作されたものかは、判別することができないとのことです。

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磁器系の偕楽園焼に押されているのは、この「偕楽園製」(陽文無郭方印)のハンコのみで、制作時期による区別などはないようです。

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偕楽園焼:紀州藩御庭焼。紀州藩主十代徳川治宝の西浜御殿の偕楽園における御庭焼。制作期間 文政十年(1827)〜嘉永五年(1852)。京より 楽九代了入・十代旦入 永楽保全 仁阿弥道八 二代弥助(久楽)らが来て制作している。

作品は 楽焼、釉の色が黄・紫・緑等の交趾・青磁等がある。紀伊藩10代藩主である徳川治宝は、文政2年(1819)、和歌山城下の南西(現在の県立和歌山工業高校付近)に別邸・西浜御を築き、以後、その御殿の庭園・偕楽園で偕楽園焼という御庭焼をおこないました。

この偕楽園焼の制作や指導には、京都から表千家9代の了々斎(1775-1825)や、表千家10代の吸江斎(1818-60)をはじめ、楽旦入(1795-1854)、永楽保全(1795-1854)などの著名な陶工が招かれています。文政2年、文政10年(1827)、天保7年(1836)の少なくとも3回焼かれたことがわかっており、作品も楽焼系と磁器系の二つの種類があります。

磁器系の作品は、文政10年に招かれた保全が制作を指導した可能性もありますが、そうした磁器系の作品がどのような窯で焼かれたかなどについては、よくわかっていません。

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紀州徳川家十代藩主「治宝公」と紀州徳川家御庭焼「偕楽園焼」について
治宝公は紀州徳川家八代藩主「重倫公」の第二子として、明和八年に江戸にて生まれ、十九才にして藩主の位に就かれました。在任中は歴代藩主中の名君と言われ、其の治績顕著なるもの多く、上下の節約を奨励し商工を起こし、特に学問を奨励され、八才以上三十才以下の藩士子弟の就学を義務となし、明教館、医学館、松阪学校を開設し本居宣長を始め多くの学者を招いたり、又、紀伊続風土記、紀伊国名所図絵等々を編纂させるなど紀州文学史上多大な功績を残されました。

治宝公自身としては、表流茶道を究め、十才の幼少で紀州藩に出仕した表千家第十世吸江斎が十九才になったおり、治宝公御自らが真点前の皆伝を伝授しています。そして、書画、音楽等々と多能多芸にして、特に西浜御殿(県立和歌山工業高校周辺と言われている)に窯を築き、京より「楽 吉左衛門」「永楽 善五郎」等々を招き陶器を作らせました。これが、有名な「紀州御庭焼」として今日珍重されています。かくのごとく、紀州芸術の後世に伝うべき特異なものは、治宝公に負うところが多々あります。退位後も良く十一代斉順公を援け、 従一位大納言を拝し、「一位様」と呼ばれ後世までその徳を称えられています。

偕楽園焼は、前記、西浜御殿の庭園偕楽園で焼かれた陶器である。確実なものだけで、文政二年、同十年、天保七年の三回焼かれている。それ以外にも焼かれたようであるが、不明な点が多い。偕楽園には、京都から、楽 旦入、永楽 保全、仁阿弥 道八、二代弥介、らが招かれている。又、主要な資材はやはり京都で調達、搬入されている。この資材搬入には、御用商人 三井高祐が尽力してる。

又、偕楽園焼の特色の一つに、陶工以外の人々の作陶が数多く残されている点である。治宝公と側室八詠の他、西浜御殿御広敷御用人 森玄蕃(陳章、余楽庵)、木村弥兵衛(松窓庵)、西浜御殿御数寄屋坊主(陶器係) 坂本宗辰、吸江斎後見人 住山楊甫、吸江斎、御用商人 三井則兵衛(高祐)らが知られており、藩主、側室、藩士、等々が一体となって、作る楽しみを満喫する作陶 喫茶文化が忍ばれる。

作品には、楽焼き系統の作品、陶磁質の素材に交趾釉を掛けた作品が多く知られている。しかし、後者については、西浜御殿において焼かれたとするには窯の規模など多くの疑問点が残る。さらにこれらの陶片が南紀男山窯、南紀高松焼の窯跡から検出されていることがそれを物語っている。

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紀男山焼について
南紀男山焼は、文政十年(1827)頃から、明治11年(1878)にかけて、和歌山県有田郡広川町男山において焼かれたもので、紀州で最大の規模を持っていた。当初、男山焼は紀州徳川家十代藩主治宝公の、殖産興業政策の一つとして生まれ、藩の御用窯であったが、安政3年(1856)頃から明治維新にかけての時期に、藩の手を離れ、開窯者 崎山 利兵衛 の個人経営となり、途中一時開物局時代に藩との共同経営となったが、明治8年(1875)、利兵衛の没後、男山 嘉兵衛、土屋 政吉、など五人の共同経営となったが、製品の売れ行きが悪く、廃窯となった。



男山焼は、あらゆる物が焼かれたと言っても過言ではなく、交趾写、青磁写、色絵写、等々が制作されたが、染付けの物が最も多く、一般大衆向けの製品を数多く作り、伊万里焼きに習って、紀州簑島の陶器商人の手により、藩、県の内外に販売された。又、製品には、在銘のものと、無銘のものが有り、割合から言えば、無銘の物が圧倒的に多く、在銘品は最初から念を入れて作られたようで、技術的にも非常に優秀であり、嗜好的な製品が多いようである。銘の種類としては、「南紀男山」の染付け銘が大半を占めるが、作者の名前が入った物もある。

その他、窯跡からは、「偕楽園製」「三楽園製」「南紀高松」の銘の入った物も出土している。一方、無銘品は、技術的にも在銘品に比べ低級な物が多く、これらは伊万里焼に混ぜて売りさばいた例が多くあげられている。そして、在銘品は藩の御用品であったとも言われている。しかし、長い間焼かれたわりには、土取場、原材料の供給源、職人の問題等々、不明な点が多い

緻密に出来ているように見えますが、釉薬の垂れ、溜りがあり、かえって見所となっています。
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下の部分も見所があります・

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中は綺麗なまでの紫釉薬・・・。

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