本ブログは作品の種類、製作者、季節などを一切構わずランダムに投稿していますが、並行して画家、陶芸家などの製作者別にデジタルとアナログの両方に再整理しています。デジタルだけでは作品を俯瞰的に見れないので図集のようなファイルが必要となりますね。現在は主力をそちらにおいて、出来不出来も含めて整理されてきています。こちらに集中するために本ブログの投稿は数が減少していきます。
再整理されもしない作品群がありますが、本日はそのような作品の紹介です・・。本日の作品は作品が気に入って入手したのですが、画家については作者不詳として購入した作品です。どうもキャンパス裏の書付、サイン、鑑定書では「青木繁」の作?? まさかね、やはり画風が違う。おそらく鑑定書まで模造した悪意のある贋作と判断されます。
*下記に記述のように青木繁の作品にもっともらしい「多々羅義雄鑑定シール」を貼り付けた作品は多々ありますので注意が必要です。
さてこのような作品を入手したのを反省しながら、負け惜しみとしてその費用を勉強代金として回収すべく調べた事項を投稿します。
氏素性の解らぬ作品(悪しき贋作) 耳飾りの婦人 伝青木繁画 1897年(明治30年)頃作
油彩額装 右下サイン 多々羅義雄鑑定シール タトウ+黄袋
画サイズF6号:横320*縦408 全体サイズ:横452*縦543
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青木繁の画歴は下記のとおりです。
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青木繁:(あおき しげる) 1882年(明治15年)7月13日~1911年(明治44年)3月25日)。日本の洋画家。号は香葩。
明治期の日本絵画のロマン主義的傾向を代表する画家であり、代表作『海の幸』はその記念碑的作品と評されています。若くして日本美術史上に残る作品を次々と生み出しましたが、名声を得ることなく放浪の末に胸を患い、28歳で早世しています。その生涯については虚実取り混ぜたエピソードが多く、半ば伝説化され、短命だったこともあって残された作品の数は多くはなく、代表作『海の幸』を含め、未完成の作品が多いとされます。
なお作品キャンパスの裏には書付(下記写真左)があり、また本作品の右下にはサインがあります。(下記写真右)
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真作の作品のサインは右の写真です。
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出生・少年時代
青木繁は現在の福岡県久留米市荘島町で、旧久留米藩士である青木廉吾の長男として生まれました。武士の系譜を引く父は厳格な人物で息子の画家志望を聞かされた時、「美術だと。武術の間違いではないのか」となじったという逸話が残っています。
青木は同じ久留米生まれの洋画家坂本繁二郎とは同い年で小学校の同級生、そして終生の親友でした。同時代人の証言や本人による『自伝草稿』によれば、青木は歴山帝に憧れる早熟な文学少年であったとされ、絵画のほかに短歌もよくし、短い生涯に多くの文章を残しています。
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画家時代
青木は1899年(明治32年)、満16歳の時に中学明善校(現福岡県立明善高等学校)の学業を半ばで放棄して単身上京、画塾「不同舎」に入って主宰者の小山正太郎に師事した。
本作品はこの頃からの明治30年代の作と推定されます。
その後肺結核のため麻布中学を中退。1900年(明治33年)、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、黒田清輝から指導を受けています。1902年(明治35年)秋から翌年正月にかけて、久留米から上京していた坂本らと群馬県の妙義山や信州小諸方面へスケッチ旅行に出かけていますが、これは無銭旅行に近い珍道中だったことが坂本の書簡などから窺え、青木はこの旅行中に多くの優れたスケッチを残しています。
1903年(明治36年)に白馬会8回展に出品した『神話画稿』は白馬会賞を受賞。『古事記』を愛読していた青木の作品には古代神話をモチーフにしたものが多く、題材、画風ともにラファエル前派などの19世紀イギリス絵画の影響が見られます。
1904年(明治37年)夏、美術学校を卒業したばかりの青木は、坂本や不同舎の生徒で恋人でもあった福田たねらとともに千葉県南部の布良に滞在しています。代表作『海の幸』はこの時描かれたもので、画中人物のうちただ1人鑑賞側と視線を合わせている人物のモデルは「たね」だとされています。
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この頃が青木の最盛期であった。以後は展覧会への入選もかなわず、下降線をたどっていった。
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放浪生活・死
1905年(明治38年)8月、今の茨城県筑西市に滞在中、たねとの間に長男の幸彦(福田蘭童)が誕生した。しかし、彼女とは最後まで入籍しませんでした。
1907年(明治40年)8月、父・廉吾の危篤の知らせを聞いた青木は単身帰郷するも、程なく父は亡くなります。画家としては天才と言われた青木でしたが、父亡き後の家や妻子を支える才はなく、家族と衝突の末に1908年(明治41年)10月、郷里を離れて天草、佐賀など九州各地を放浪する生活となります。
この間にも創作を続け、『月下滞船』(1908年(明治41年))のような佳作もありますが、持病の肺結核が悪化して心身共に衰弱し、画家としてのピークは過ぎていたと言わざる得ません。
1911年(明治44年)3月、福岡市の病院で死去。死の床において、妻子や家族に向けて自らの不甲斐なさを詫びる旨の手紙を書き遺しています。
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死後
青木の死後、坂本は遺作展の開催や画集の刊行に奔走。死の翌年である1912年(明治45年)には東京上野と福岡で遺作展が開催され、その翌年には『青木繁画集』が刊行されました。また、1948年(昭和23年)には遺言にしたがい、筑紫平野を見渡す久留米市兜山(通称「けしけし山」)に繁の歌碑が建立されています。除幕式には坂本のほか、たね(当時は野尻姓)、長男の蘭童も出席しました。命日に行なわれるけしけし祭には、青木の短歌「我が国は 筑紫の国や白日別 母います国 櫨多き国」に蘭童が曲をつけた『母います国』が歌われています。
2003年(平成15年)には久留米市と地元企業、地域住民らの支援によって、老朽化の進んだ生家が復元整備され、青木繁旧居として一般公開された。館内では青木に関する写真パネルや解説パネル、作品の複製画などが展示されているほか、関連図書および映像資料を閲覧することができる。
*ハナ肇とクレージーキャッツの元メンバーで料理研究家の石橋エータローは蘭童の息子であり、青木の孫にあたります。
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額は真新しいですが、絵自体やキャンパス、鑑定書は古そうです。釘も錆があり、絵の具にも古さを感じます。どうせ贋作に仕上げるなら額まで凝って欲しいものです。
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作品の裏には鑑定シール(下記写真左)があります。流浪中の青木繁に師事した画家「多々羅義雄」のよるものらしいです。多々羅義雄による字体は下記写真右です。
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多々羅義雄:タタラ ヨシオ 生年明治27(1894)年9月18日~没年昭和43(1968)年12月10日
出生地福岡県能古島 経歴明治43年佐賀に出て、流浪中の青木繁に師事する。45年上京し、満谷国四郎に学び、また太平洋画会研究所、本郷洋画研究所で学ぶ。
大正2年の第7回文展に「南の海」が入選、9回展の「海岸の山」で褒状を受け、11回展から無鑑査となり、12回展の「上総の海」で特選を受賞。昭和4年太平洋美術学校教授となり、25年太平洋画会代表となったが、29年光陽会を創立し、会長となった。
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何はともあれ本物を追う者を迷わせる作品です。
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青木繁と言えば坂本繁二郎とブリジストン創始者の石橋昭二氏ですね。市場に青木繁の作品が在ろう筈がないのですが、その青木繁と考えるから心が揺れる・・。
贋作ならこれくらいしないと騙せないという見本か?? しかしやはり画風が違う。それにしても当方で支払った対価は贋作を作成に労したそれに値しないであろう。今回の入手で得た知識のほうが支払った対価より価値が高いようです。これも負け惜しみ・・・Image may be NSFW.
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さて絵自体は嫌いではなく、盗難にあっても支障のないところに飾って置くにはそれなりにいい作品・・、これもさらに負け惜しみ。
再整理されもしない作品群がありますが、本日はそのような作品の紹介です・・。本日の作品は作品が気に入って入手したのですが、画家については作者不詳として購入した作品です。どうもキャンパス裏の書付、サイン、鑑定書では「青木繁」の作?? まさかね、やはり画風が違う。おそらく鑑定書まで模造した悪意のある贋作と判断されます。
*下記に記述のように青木繁の作品にもっともらしい「多々羅義雄鑑定シール」を貼り付けた作品は多々ありますので注意が必要です。
さてこのような作品を入手したのを反省しながら、負け惜しみとしてその費用を勉強代金として回収すべく調べた事項を投稿します。
氏素性の解らぬ作品(悪しき贋作) 耳飾りの婦人 伝青木繁画 1897年(明治30年)頃作
油彩額装 右下サイン 多々羅義雄鑑定シール タトウ+黄袋
画サイズF6号:横320*縦408 全体サイズ:横452*縦543
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青木繁の画歴は下記のとおりです。
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青木繁:(あおき しげる) 1882年(明治15年)7月13日~1911年(明治44年)3月25日)。日本の洋画家。号は香葩。
明治期の日本絵画のロマン主義的傾向を代表する画家であり、代表作『海の幸』はその記念碑的作品と評されています。若くして日本美術史上に残る作品を次々と生み出しましたが、名声を得ることなく放浪の末に胸を患い、28歳で早世しています。その生涯については虚実取り混ぜたエピソードが多く、半ば伝説化され、短命だったこともあって残された作品の数は多くはなく、代表作『海の幸』を含め、未完成の作品が多いとされます。
なお作品キャンパスの裏には書付(下記写真左)があり、また本作品の右下にはサインがあります。(下記写真右)
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真作の作品のサインは右の写真です。
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出生・少年時代
青木繁は現在の福岡県久留米市荘島町で、旧久留米藩士である青木廉吾の長男として生まれました。武士の系譜を引く父は厳格な人物で息子の画家志望を聞かされた時、「美術だと。武術の間違いではないのか」となじったという逸話が残っています。
青木は同じ久留米生まれの洋画家坂本繁二郎とは同い年で小学校の同級生、そして終生の親友でした。同時代人の証言や本人による『自伝草稿』によれば、青木は歴山帝に憧れる早熟な文学少年であったとされ、絵画のほかに短歌もよくし、短い生涯に多くの文章を残しています。
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画家時代
青木は1899年(明治32年)、満16歳の時に中学明善校(現福岡県立明善高等学校)の学業を半ばで放棄して単身上京、画塾「不同舎」に入って主宰者の小山正太郎に師事した。
本作品はこの頃からの明治30年代の作と推定されます。
その後肺結核のため麻布中学を中退。1900年(明治33年)、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、黒田清輝から指導を受けています。1902年(明治35年)秋から翌年正月にかけて、久留米から上京していた坂本らと群馬県の妙義山や信州小諸方面へスケッチ旅行に出かけていますが、これは無銭旅行に近い珍道中だったことが坂本の書簡などから窺え、青木はこの旅行中に多くの優れたスケッチを残しています。
1903年(明治36年)に白馬会8回展に出品した『神話画稿』は白馬会賞を受賞。『古事記』を愛読していた青木の作品には古代神話をモチーフにしたものが多く、題材、画風ともにラファエル前派などの19世紀イギリス絵画の影響が見られます。
1904年(明治37年)夏、美術学校を卒業したばかりの青木は、坂本や不同舎の生徒で恋人でもあった福田たねらとともに千葉県南部の布良に滞在しています。代表作『海の幸』はこの時描かれたもので、画中人物のうちただ1人鑑賞側と視線を合わせている人物のモデルは「たね」だとされています。
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この頃が青木の最盛期であった。以後は展覧会への入選もかなわず、下降線をたどっていった。
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放浪生活・死
1905年(明治38年)8月、今の茨城県筑西市に滞在中、たねとの間に長男の幸彦(福田蘭童)が誕生した。しかし、彼女とは最後まで入籍しませんでした。
1907年(明治40年)8月、父・廉吾の危篤の知らせを聞いた青木は単身帰郷するも、程なく父は亡くなります。画家としては天才と言われた青木でしたが、父亡き後の家や妻子を支える才はなく、家族と衝突の末に1908年(明治41年)10月、郷里を離れて天草、佐賀など九州各地を放浪する生活となります。
この間にも創作を続け、『月下滞船』(1908年(明治41年))のような佳作もありますが、持病の肺結核が悪化して心身共に衰弱し、画家としてのピークは過ぎていたと言わざる得ません。
1911年(明治44年)3月、福岡市の病院で死去。死の床において、妻子や家族に向けて自らの不甲斐なさを詫びる旨の手紙を書き遺しています。
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死後
青木の死後、坂本は遺作展の開催や画集の刊行に奔走。死の翌年である1912年(明治45年)には東京上野と福岡で遺作展が開催され、その翌年には『青木繁画集』が刊行されました。また、1948年(昭和23年)には遺言にしたがい、筑紫平野を見渡す久留米市兜山(通称「けしけし山」)に繁の歌碑が建立されています。除幕式には坂本のほか、たね(当時は野尻姓)、長男の蘭童も出席しました。命日に行なわれるけしけし祭には、青木の短歌「我が国は 筑紫の国や白日別 母います国 櫨多き国」に蘭童が曲をつけた『母います国』が歌われています。
2003年(平成15年)には久留米市と地元企業、地域住民らの支援によって、老朽化の進んだ生家が復元整備され、青木繁旧居として一般公開された。館内では青木に関する写真パネルや解説パネル、作品の複製画などが展示されているほか、関連図書および映像資料を閲覧することができる。
*ハナ肇とクレージーキャッツの元メンバーで料理研究家の石橋エータローは蘭童の息子であり、青木の孫にあたります。
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額は真新しいですが、絵自体やキャンパス、鑑定書は古そうです。釘も錆があり、絵の具にも古さを感じます。どうせ贋作に仕上げるなら額まで凝って欲しいものです。
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作品の裏には鑑定シール(下記写真左)があります。流浪中の青木繁に師事した画家「多々羅義雄」のよるものらしいです。多々羅義雄による字体は下記写真右です。
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多々羅義雄:タタラ ヨシオ 生年明治27(1894)年9月18日~没年昭和43(1968)年12月10日
出生地福岡県能古島 経歴明治43年佐賀に出て、流浪中の青木繁に師事する。45年上京し、満谷国四郎に学び、また太平洋画会研究所、本郷洋画研究所で学ぶ。
大正2年の第7回文展に「南の海」が入選、9回展の「海岸の山」で褒状を受け、11回展から無鑑査となり、12回展の「上総の海」で特選を受賞。昭和4年太平洋美術学校教授となり、25年太平洋画会代表となったが、29年光陽会を創立し、会長となった。
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何はともあれ本物を追う者を迷わせる作品です。
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青木繁と言えば坂本繁二郎とブリジストン創始者の石橋昭二氏ですね。市場に青木繁の作品が在ろう筈がないのですが、その青木繁と考えるから心が揺れる・・。
贋作ならこれくらいしないと騙せないという見本か?? しかしやはり画風が違う。それにしても当方で支払った対価は贋作を作成に労したそれに値しないであろう。今回の入手で得た知識のほうが支払った対価より価値が高いようです。これも負け惜しみ・・・Image may be NSFW.
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さて絵自体は嫌いではなく、盗難にあっても支障のないところに飾って置くにはそれなりにいい作品・・、これもさらに負け惜しみ。