心機一転、落ち着いて制作に励もうとした矢先に眼病を患い、明治33年(1900年)に失明した画家です。人生なにが起きるか解らない・・。日頃、何気ない毎日が平穏に過ぎていくことに感謝できる人は、なにが起こるか解らないという経験をした人が多いかと思います。人生が何が大切かも同時に味わった人もその中には多いと思います。地位、お金、名誉などというものを求めて仕事などに励むのも結構だが、本当に大切なものは全く別次元にある。
さて、本日はノスタルジックな田舎の風景の作品です。昔はこのような風景があちこちで見られてのですが、今では探しても見られなくなりました。
山村春色之図 久保田米僊筆
絹本着色軸装 軸先鹿骨 共箱
全体サイズ:横544*縦1935 画サイズ:横422*縦1290
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久保田 米僊:(くぼた べいせん)。嘉永5年(1852年)2月25日〜明治39年(1906年)5月19日)は、明治時代の日本画家。鈴木百年の門人。
京都錦小路東洞院西入元法然寺町生まれ。本名は久保田満寛、後に寛。幼名は米吉といった。字は簡伯といい、米僊、米仙、漁村、錦鱗子、紫桜庵、塵芥頭陀などと号す。
代々割烹料理店を営む家の一人っ子として生まれた。幼少から絵が好きで、矢立を腰に挿し町内の白壁や門に描いてまわり、家業を継がせようとする父から絵を禁じられても、深夜密かに起きて描いたという。
慶応3年(1867年)6月、日本画家の田中有美の紹介で四条派の鈴木百年に師事する。更に沢渡精斎に経史を習い、京都中の貸本屋を巡り古代の歴史風俗を独学したという。明治維新の後、明治6年(1873年)第二回京都博覧会の在洛五十名の揮毫者のうちに選ばれる。この頃から幸野楳嶺との親交が始まり、『京都日日新聞』の挿絵を描いたり、風刺雑誌『我楽多文庫』の編集に関わる。この頃は南画が大流行しており、米僊らの写生派は困窮し、友禅の下絵や貿易画を描いて糊口をしのいだ。一方、油画を試したのもこの頃である。
明治11年(1878年)京都画壇の興隆を目指し、楳嶺・望月玉泉・巨勢小石らと京都府画学校の設立を建議した。同13年6月画学校開校と同時に出仕し、翌14年同校議事及び工業委員に選ばれる。しかし、国会に請願したり、立憲改進党に加入するなど、画壇の刷新するため政治活動に熱中したのが災いし、まもなく職を辞す。
師風を継いだ雄渾な画風の風景画で知られており、明治15年(1882年)第1回内国絵画共進会では京都の画人を代表して出品人総代として上京、楳嶺・原在泉らと共に審査員を務め、出品作は銅牌、絵事功労賞を受ける。同17年(1884年)第2回内国絵画共進会展では、豊臣秀吉の名護屋城の陣に取材した「朧月夜」を出品し最高賞の銀章を受賞して世に知られるようになる。以後、内国勧業博覧会でも受賞を重ねている。主に、歴史画、風俗画、漫画、小説の挿絵を描いている。
明治22年(1889年)私費でフランスに渡り、パリ万国博覧会に「水中遊漁」で金賞を受賞、ギメ東洋美術館に「年中行事絵巻」を寄贈してローヤル・アカデミー賞を贈与される。渡欧中に林忠正と交流し、渡辺省亭に次いで早い時期にフランス遊学も果たした。一方で、『京都日報』に寄稿し、帰途に立ち寄ったベトナムとサイゴンの風物を『米僊漫遊画乗』としてまとめて刊行している。同年暮れには、楳嶺と共に京都美術協会の結成にも尽力した。
翌24年(1890年)には徳富蘇峰の誘いにより、上京して國民新聞社に入社。同社で挿絵を描くかたわら、芝桜田町に「司馬画塾」という塾を開き後進を育てる。明治26年(1893年)のシカゴ万博の様子を描き『閣龍世界博覧会美術品画譜』(大倉書店)として出版され、翌明治27年(1894年)、日清戦争中には従軍画家として『日清戦闘画報』を描いて名を上げた。これらの幅広い活動によって、画家だけでなく各界の人々との交流を広げており、特に森鴎外ら根岸派の文人たちとは親しかった。
反面、明治20年代末頃から絵画一筋に研鑽を重ね実力をつけてきた東京画壇の若手や竹内栖鳳らの作品を目の当たりにし、手を広げすぎ散漫になった自らの画風を内省し始める。そんな折の明治30年(1897年)、岡倉天心や納富介次郎に該博な見識を評価・懇願され、石川県立工芸学校の図案絵画科の教授として赴任する。彼の地で心機一転、落ち着いて制作に励もうとした矢先に眼病を患い、明治33年(1900年)に失明する。以降は主に俳句や評論活動で心を慰め、明治35年(1902年)その見聞録を『米僊画談』して纏めた。代表作として、「半葛捨身」などが挙げられる。
胃癌のため死去、享年55。墓所は京都市右京区鳴滝音戸山町の専修寺京都別院。長男の久保田米斎も日本画家で舞台芸術家。次男の吉太郎(1875年-1954年)は、金僊と号しており、19歳の時に父とともに上京、国民新聞社に入社、従軍記者になって、日清・
日露戦争に参加した。 弟子に一見連城、田一華、福田眉仙、名取春仙など。
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さて、本日はノスタルジックな田舎の風景の作品です。昔はこのような風景があちこちで見られてのですが、今では探しても見られなくなりました。
山村春色之図 久保田米僊筆
絹本着色軸装 軸先鹿骨 共箱
全体サイズ:横544*縦1935 画サイズ:横422*縦1290
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久保田 米僊:(くぼた べいせん)。嘉永5年(1852年)2月25日〜明治39年(1906年)5月19日)は、明治時代の日本画家。鈴木百年の門人。
京都錦小路東洞院西入元法然寺町生まれ。本名は久保田満寛、後に寛。幼名は米吉といった。字は簡伯といい、米僊、米仙、漁村、錦鱗子、紫桜庵、塵芥頭陀などと号す。
代々割烹料理店を営む家の一人っ子として生まれた。幼少から絵が好きで、矢立を腰に挿し町内の白壁や門に描いてまわり、家業を継がせようとする父から絵を禁じられても、深夜密かに起きて描いたという。
慶応3年(1867年)6月、日本画家の田中有美の紹介で四条派の鈴木百年に師事する。更に沢渡精斎に経史を習い、京都中の貸本屋を巡り古代の歴史風俗を独学したという。明治維新の後、明治6年(1873年)第二回京都博覧会の在洛五十名の揮毫者のうちに選ばれる。この頃から幸野楳嶺との親交が始まり、『京都日日新聞』の挿絵を描いたり、風刺雑誌『我楽多文庫』の編集に関わる。この頃は南画が大流行しており、米僊らの写生派は困窮し、友禅の下絵や貿易画を描いて糊口をしのいだ。一方、油画を試したのもこの頃である。
明治11年(1878年)京都画壇の興隆を目指し、楳嶺・望月玉泉・巨勢小石らと京都府画学校の設立を建議した。同13年6月画学校開校と同時に出仕し、翌14年同校議事及び工業委員に選ばれる。しかし、国会に請願したり、立憲改進党に加入するなど、画壇の刷新するため政治活動に熱中したのが災いし、まもなく職を辞す。
師風を継いだ雄渾な画風の風景画で知られており、明治15年(1882年)第1回内国絵画共進会では京都の画人を代表して出品人総代として上京、楳嶺・原在泉らと共に審査員を務め、出品作は銅牌、絵事功労賞を受ける。同17年(1884年)第2回内国絵画共進会展では、豊臣秀吉の名護屋城の陣に取材した「朧月夜」を出品し最高賞の銀章を受賞して世に知られるようになる。以後、内国勧業博覧会でも受賞を重ねている。主に、歴史画、風俗画、漫画、小説の挿絵を描いている。
明治22年(1889年)私費でフランスに渡り、パリ万国博覧会に「水中遊漁」で金賞を受賞、ギメ東洋美術館に「年中行事絵巻」を寄贈してローヤル・アカデミー賞を贈与される。渡欧中に林忠正と交流し、渡辺省亭に次いで早い時期にフランス遊学も果たした。一方で、『京都日報』に寄稿し、帰途に立ち寄ったベトナムとサイゴンの風物を『米僊漫遊画乗』としてまとめて刊行している。同年暮れには、楳嶺と共に京都美術協会の結成にも尽力した。
翌24年(1890年)には徳富蘇峰の誘いにより、上京して國民新聞社に入社。同社で挿絵を描くかたわら、芝桜田町に「司馬画塾」という塾を開き後進を育てる。明治26年(1893年)のシカゴ万博の様子を描き『閣龍世界博覧会美術品画譜』(大倉書店)として出版され、翌明治27年(1894年)、日清戦争中には従軍画家として『日清戦闘画報』を描いて名を上げた。これらの幅広い活動によって、画家だけでなく各界の人々との交流を広げており、特に森鴎外ら根岸派の文人たちとは親しかった。
反面、明治20年代末頃から絵画一筋に研鑽を重ね実力をつけてきた東京画壇の若手や竹内栖鳳らの作品を目の当たりにし、手を広げすぎ散漫になった自らの画風を内省し始める。そんな折の明治30年(1897年)、岡倉天心や納富介次郎に該博な見識を評価・懇願され、石川県立工芸学校の図案絵画科の教授として赴任する。彼の地で心機一転、落ち着いて制作に励もうとした矢先に眼病を患い、明治33年(1900年)に失明する。以降は主に俳句や評論活動で心を慰め、明治35年(1902年)その見聞録を『米僊画談』して纏めた。代表作として、「半葛捨身」などが挙げられる。
胃癌のため死去、享年55。墓所は京都市右京区鳴滝音戸山町の専修寺京都別院。長男の久保田米斎も日本画家で舞台芸術家。次男の吉太郎(1875年-1954年)は、金僊と号しており、19歳の時に父とともに上京、国民新聞社に入社、従軍記者になって、日清・
日露戦争に参加した。 弟子に一見連城、田一華、福田眉仙、名取春仙など。
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