大橋翠石というと「虎」の作品で有名ですが、子虎ならぬ「猫」の作品にもその技量が発揮されています。
大橋翠石の作品としては以前に明治期の「虎」の作品を投稿しています。
正面之虎 大橋翠石筆
絹本着色軸装収納箱二重箱 所蔵箱書 軸先本象牙
全体サイズ:横552*縦2070 画サイズ:横410*縦1205
大橋翠石の作品は「なんでも鑑定団」にも出品されていますね。
ついでに玉置頼石も「なんでも鑑定団」に出品されていますが、本ブログにも投稿されています。
虎図 玉置頼石筆絹本着色軸装 軸先木製
全体サイズ:縦2175*横645 画サイズ:縦1290*横420
「伝」大橋翠石として狸の作品も出品されています。
本日は「猫」の作品です。
華蔭遊猫図 大橋翠石筆
絹本着色額装
全体サイズ:横695*縦630 画サイズ:横530*縦446(F10号)
落款は晩年の糸落款、印章は「翠石壽」の白文朱方印が押印されています。真作ならば、この落款の特徴から昭和15年〜昭和20年までの最晩年の作と推察されます。
本作品と同じような作品はいくつかインターネット上に掲載されています。
我が家の子虎の子虎視眈々?? 作品は子猫視眈々・・・。
本作品は共箱でないので題名が不明のため、インターネット上の作品を参考にして題名を「華蔭遊猫図」としました。
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大橋翠石:慶応元年(1865)生まれ、昭和20年(1945)没、享年81歳。岐阜県に生まれる。天野方壷・渡辺小華に南画を学ぶ。 その後、独学をして写生画派に転向する。動物画に秀で、特に虎の絵は細密かつ迫真にせまる作品である。
内外の博覧会でも大賞を受賞し、全盛期には横山大観・竹内栖鳳と並び高い人気と評価を得た。岐阜県大垣市の染物業の二男で、本名は卯三郎。父親の影響で幼いころから絵をかき、地元や京都、東京で南画の腕を磨いた。神戸に移ったのは大正元(1912)年、48歳のころ。故郷の大垣を離れ、須磨離宮公園の近くに千坪の邸宅を構えた。「結核を患ったため、温暖な神戸で療養をと考えたのでは」と推測する。
すでに名を上げていた翠石を、神戸では武藤山治や松方幸次郎ら財界人が後援会を結成して迎えた。虎の絵は神戸でも評判となり、当時「阪神間の資産家で翠石作品を持っていないのは恥」とまでいわれたという。神戸では悠々自適の暮らしを送った翠石だが、昭和20(1945)年、大空襲のあとで大垣に疎開。終戦後、老衰のため愛知県の娘の嫁ぎ先で亡くなっている。
円山応挙をはじめ虎を描いた日本画家は数多い。だが、翠石は本物の虎を写生したリアルさで群を抜く。中でも、自ら考案した平筆を駆使した毛並みの描写は圧巻だ。この画風で、パリ万博に続き米国セントルイス万博と英国の日英博覧会でも「金牌」を受賞した。虎だけでなく、ライオンやオオカミ、鹿、鶴など多様な動物画を描いた翠石。
神戸に移ってからは、背景に遠近感や立体感のある山林や雲などの背景を描き、独自の画風を完成に近づけた。神戸時代の画風を「須磨様式」と名づけ、そこに西洋絵画の影響をみる。「当時、松方コレクションはすでに散逸していたが、松方が集めた洋画はまだ神戸にあったはず。翠石がそれらを目にした可能性がある」。調査を進めると、意外な事実が次々に判明した。明治33(1900)年のパリ万博において日本人でただ一人、最高賞の「金牌(ぱい)」を受けたこと、明治天皇や皇后、朝鮮の李王家に絵を献上していたこと…。
老境を迎えた昭和初期には、日本画壇を代表する竹内栖鳳や横山大観と並ぶ高い画価が付けられるほどの人気を誇っていた。海外で華々しい成果を挙げながら、画壇とは交わらず、権威ある文展や帝展、院展に出展することもなく、わが道を歩んだ翠石。「孤高の生き方ゆえに、多くの作品が所在不明となり、名前すら忘れられたのでは」と考える。翠石は、明石市内に移された墓石の下で静かに眠っている。
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最晩年の作品と断定した根拠は下記の落款の特徴の記述によります。
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最晩年の作品の特徴
地肌に赤、金で毛書きがされ、毛書きの量も控えめになる。背景は晩年期より簡素化し、構図も前を向く虎の顔や全身に比べて尾や後身が抑えて書いてある。
落款変遷
?点石翠石 - 「石」字の第四画上部に点が付されている1910年(明治43年)夏まで
?翠石 - 二文字とも同じ大きさ 1期 1910年(明治43年)-1922年(大正11年)
?翠石 - 石の文字が太い 2期 1922年(大正11年)-1940年(昭和15年)
?糸落款翠石 - 翠石が細く書いてある 3期 1940年(昭和15年)-1945年(昭和20年)
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筋の良い確かな作品か否かはいま少し検証が必要ですが、確かな作品のようならばしみ抜きしてきれいにしておく必要がありそうです。
大橋翠石の作品としては以前に明治期の「虎」の作品を投稿しています。
正面之虎 大橋翠石筆
絹本着色軸装収納箱二重箱 所蔵箱書 軸先本象牙
全体サイズ:横552*縦2070 画サイズ:横410*縦1205
大橋翠石の作品は「なんでも鑑定団」にも出品されていますね。
ついでに玉置頼石も「なんでも鑑定団」に出品されていますが、本ブログにも投稿されています。
虎図 玉置頼石筆絹本着色軸装 軸先木製
全体サイズ:縦2175*横645 画サイズ:縦1290*横420
「伝」大橋翠石として狸の作品も出品されています。
本日は「猫」の作品です。
華蔭遊猫図 大橋翠石筆
絹本着色額装
全体サイズ:横695*縦630 画サイズ:横530*縦446(F10号)
落款は晩年の糸落款、印章は「翠石壽」の白文朱方印が押印されています。真作ならば、この落款の特徴から昭和15年〜昭和20年までの最晩年の作と推察されます。
本作品と同じような作品はいくつかインターネット上に掲載されています。
我が家の子虎の子虎視眈々?? 作品は子猫視眈々・・・。
本作品は共箱でないので題名が不明のため、インターネット上の作品を参考にして題名を「華蔭遊猫図」としました。
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大橋翠石:慶応元年(1865)生まれ、昭和20年(1945)没、享年81歳。岐阜県に生まれる。天野方壷・渡辺小華に南画を学ぶ。 その後、独学をして写生画派に転向する。動物画に秀で、特に虎の絵は細密かつ迫真にせまる作品である。
内外の博覧会でも大賞を受賞し、全盛期には横山大観・竹内栖鳳と並び高い人気と評価を得た。岐阜県大垣市の染物業の二男で、本名は卯三郎。父親の影響で幼いころから絵をかき、地元や京都、東京で南画の腕を磨いた。神戸に移ったのは大正元(1912)年、48歳のころ。故郷の大垣を離れ、須磨離宮公園の近くに千坪の邸宅を構えた。「結核を患ったため、温暖な神戸で療養をと考えたのでは」と推測する。
すでに名を上げていた翠石を、神戸では武藤山治や松方幸次郎ら財界人が後援会を結成して迎えた。虎の絵は神戸でも評判となり、当時「阪神間の資産家で翠石作品を持っていないのは恥」とまでいわれたという。神戸では悠々自適の暮らしを送った翠石だが、昭和20(1945)年、大空襲のあとで大垣に疎開。終戦後、老衰のため愛知県の娘の嫁ぎ先で亡くなっている。
円山応挙をはじめ虎を描いた日本画家は数多い。だが、翠石は本物の虎を写生したリアルさで群を抜く。中でも、自ら考案した平筆を駆使した毛並みの描写は圧巻だ。この画風で、パリ万博に続き米国セントルイス万博と英国の日英博覧会でも「金牌」を受賞した。虎だけでなく、ライオンやオオカミ、鹿、鶴など多様な動物画を描いた翠石。
神戸に移ってからは、背景に遠近感や立体感のある山林や雲などの背景を描き、独自の画風を完成に近づけた。神戸時代の画風を「須磨様式」と名づけ、そこに西洋絵画の影響をみる。「当時、松方コレクションはすでに散逸していたが、松方が集めた洋画はまだ神戸にあったはず。翠石がそれらを目にした可能性がある」。調査を進めると、意外な事実が次々に判明した。明治33(1900)年のパリ万博において日本人でただ一人、最高賞の「金牌(ぱい)」を受けたこと、明治天皇や皇后、朝鮮の李王家に絵を献上していたこと…。
老境を迎えた昭和初期には、日本画壇を代表する竹内栖鳳や横山大観と並ぶ高い画価が付けられるほどの人気を誇っていた。海外で華々しい成果を挙げながら、画壇とは交わらず、権威ある文展や帝展、院展に出展することもなく、わが道を歩んだ翠石。「孤高の生き方ゆえに、多くの作品が所在不明となり、名前すら忘れられたのでは」と考える。翠石は、明石市内に移された墓石の下で静かに眠っている。
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最晩年の作品と断定した根拠は下記の落款の特徴の記述によります。
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最晩年の作品の特徴
地肌に赤、金で毛書きがされ、毛書きの量も控えめになる。背景は晩年期より簡素化し、構図も前を向く虎の顔や全身に比べて尾や後身が抑えて書いてある。
落款変遷
?点石翠石 - 「石」字の第四画上部に点が付されている1910年(明治43年)夏まで
?翠石 - 二文字とも同じ大きさ 1期 1910年(明治43年)-1922年(大正11年)
?翠石 - 石の文字が太い 2期 1922年(大正11年)-1940年(昭和15年)
?糸落款翠石 - 翠石が細く書いてある 3期 1940年(昭和15年)-1945年(昭和20年)
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筋の良い確かな作品か否かはいま少し検証が必要ですが、確かな作品のようならばしみ抜きしてきれいにしておく必要がありそうです。