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忘れ去られた画家 雁来紅 鈴木華邨筆 その2

先週末は家族総出で畑で玉ねぎの採取。息子は前の日から大張り切りで、当日は朝早くから起き出して段取りしていました。

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近所で畑を面倒見てくれている方も・・・、というかどちらかというと当方は応援・・。

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玉ねぎの採取は早いのであっという間に完了・・。

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ただし車庫に運んで食べるように段取りがあります。

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さて本日は明治から大正にかけて活躍した鈴木華邨の2作品目。

鈴木華邨は渡辺省亭とともに菊地容斎派のもとで絵を学び、渡辺省亭と同じくヨーロッパで高く評価されましたが、現在では忘れ去られた画家となっているといっても過言ではないでしょう。現在、渡辺省亭が再評価される中で、鈴木華邨もまた再評価されるべき画家の一人であろうと思います。

鈴木華邨は優美で繊細、そして巧緻な写実性、四季感を生かした瀟洒な画風が特徴で、明治33年(1900)のパリ万国博覧会で受賞したこともあり、ヨーロッパで高く評価された画家の一人です。

国内でもイタリア公使館の壁画の花鳥画を手掛けたりするなど、その実力は高く評価されていましたが、現在では残念ながら当時の活躍の面影は無く、忘れさられた画家となってしまっている感があります。

忘れ去られた画家 雁来紅 鈴木華邨筆 その2 
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2000*横535 画サイズ:縦1128*横410

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鈴木華邨の簡単な画歴は下記のとおりです。

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鈴木華邨(すずき かそん):安政7年2月17日(1860年3月9日) ~大正8年(1919年)1月3日)。明治から大正にかけて活躍した日本画家。名は茂雄、通称は惣太郎。華邨は号で、しばしば華村とも表記される。別号として「魚友」、「忍青」を用いた。

はじめ容斎派の人物画を学んだが、のちに四条派から土佐派や浮世絵の要素を加えた独自の画法を立ち上げ、特に花鳥画に優れた。20世紀初頭ヨーロッパで北斎以来の日本画家とされ、もっとも知られた日本画家と称された。小林一三が評価していたため、作品は大阪府池田市の逸翁美術館にまとまって収蔵されている。

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もしかしたら忘れされた画家になった理由のひとつは作品を見てみると意外にも駄作が多いせいかもしれません。これはただ渡辺省亭にもその傾向があり、花鳥画というのは生計のためにはそうならざるえない背景があったのかもしれませんね。

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ただ本作品を含めて全体には品格のある「いい出来の作品」が多いと思います。

補足の画歴は下記のとおりです。

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江戸下谷池ノ端茅町に、加賀藩出入りの呉服商 「武蔵屋」 鈴木清次郎の長男として生まれる。

明治7年(1874年)14歳で菊池容斎の高弟中島亨斎に師事した。

翌8年フィラデルフィア博覧会事務局図画係に傭われ、明治9年(1876年)勧業寮編輯係を務める。また、このころ起立工商会社で図案係として働き、陶磁器や漆器などの図案を作成した。

明治10年(1877年)第1回内国勧業博覧会に 「金髹図案」 を出品し、花紋賞メダルを受賞。

明治14年(1887年)第2回内国勧業博覧会にも 「群亀図」 を出品し褒状。その後は画業に専念。

明治16年(1883年)龍池会主催の第2回パリ日本美術縦覧会において選抜揮毫者として指名を受けた。翌年 「大船碇泊ノ図」 を出品。

明治19年(1886年)4月鑑画会第二回大会に 「山水」 を出品し受賞。

明治20年(1887年)ごろから単行本や雑誌の口絵・挿絵。

明治22年(1889年)『新小説』第一巻第一号の表紙を任される。同年、親交のあった納富介次郎に招かれ、石川県立工業学校(現・石川県立工業高等学校)の絵画と図案意匠を担当する教諭に就任。同26年まで在職し、写実を重んじる画風で後進の育成に努めた。

明治31年(1898年)に梶田半古、松本楓湖らとともに日本画会の結成に参加し、同年の日本美術院創設にあたっては評議員となり、共進会の審査員を勤めた。

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明治33年(1900年)パリ万国博覧会に 「山水」 「雪中鷹狩」 「月下魚網」 を出品し銅牌を受賞。

明治34年(1901年)春の院展第5回で 「牡丹睡猫」 が銀賞、翌年春の第7回では 「布袋」 が銀牌を受賞。

明治39年(1906年)1月、小林一三らが15名で華邨、寺崎広業、川合玉堂を後援する鼎会を発足する。

明治40年(1907年)の第1回文展に 「平和」 を出品し、三等賞。

明治41年(1908年)巽画会の審査員となる。

明治43年(1910年)の日英博覧会に 「雨中渡船」 を出品し、金牌を受賞。

大正8年(1919年)、東京・雑司が谷の自宅で肺炎療養中に腹膜炎を併発し死去。
法名は清廉院華邨永豊居士。墓所は港区の宝生院。

文展や博覧会での入賞の他、尾崎紅葉 『なにがし』 『不言不語』、幸田露伴 『新羽衣物語』 口絵 『天うつ浪』 第三口絵、泉鏡花 『小萩集』 口絵 『錦帯記』 『照葉狂言』 口絵、など書籍の口絵や挿絵を手がけた。門下の梶田半古とは最も親しく、長男光雲を弟子入りさせている。

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本作品には、以前に本ブログで紹介した作品である「游鯉図」と同一印章画押印されています。 

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画歴も含めて多くの点で渡辺省亭を共通するところのある画家ですね。さて皆さんはどのように評価するでしょうか?

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