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エビと魚図 伝藤田嗣治筆

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我が郷里の秋田県に縁の深い画家の一人に藤田嗣治がいます。支援者の一人に秋田市内の平野政吉がいますが、彼の所蔵した藤田嗣治の作品が平野美術館から秋田県立美術館に収められ(平野政吉美術館所蔵の壁画「秋田の行事」(高さ3.65m・幅20.5m))、その美術館の館長に本ブログで何度か紹介した平野政吉の縁戚の保戸野窯の平野庫太郎氏が就任したのも非常に興味深いことです。

エビと魚図 藤田嗣治筆
紙本水墨額装
全画サイズ:縦265*横195



なにしろ巨匠の作品ゆえ贋作は星の数ほどあるようです。「東郷青児」の鑑定があるといいのですが

エビの描き方は「斉白石」よりもうまい・・。



この作品は面白いと思い購入したものです。独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像や猫や子供を描いた作品とは画風の全く異なる作品ですが、このような作品も描いています。



真作なら日本に帰国中に描かれた作品と推察され、1933年〜1937年、1939年、1940年〜1949年のいずれかの時期と思われます。私は1937年ころではないかと推察していますが・・。

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藤田 嗣治:(ふじた つぐはる、レオナール・フジタ、Léonard Foujita または Fujita)1886年11月27日 〜 1968年1月29日)は東京都出身の画家・彫刻家。現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家(晩年にフランスに帰化)である。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家である。

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1886年(明治19年)、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・藤田嗣章(つぐあきら)は、陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。兄・嗣雄(法制学者・上智大学教授)の義父は、陸軍大将児玉源太郎である(妻は児玉の四女)。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野(詩人中原中也の名づけ親<父が中村の当時部下>)が、従兄には小山内薫がいる。甥に舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信がいる。なお藤田のその他の親族に関しては廣澤金次郎・石橋正二郎・鳩山由紀夫・郷和道・吉國一郎・吉國二郎(6人とも藤田と姻戚関係にある)

彼の作品は東京のブリヂストン美術館、国立西洋美術館、赤坂迎賓館や箱根のポーラ美術館、秋田市の平野政吉美術館で見ることができる。 関連図書にある「世界のフジタに世界一巨大な絵・・」の絵とは、平野政吉美術館所蔵の壁画「秋田の行事」(高さ3.65m・幅20.5m)のことである。 晩年に手がけた最後の大作は、死の直前に描きあげたランスの教会における装飾画である。

1933年に日本に帰国、1935年に25才年下の君代(1911年-2009年)と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添った。1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として中国に渡り、1939年に日本に帰国。その後パリへ戻ったが、第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国した。

日本においては陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画(下参照)の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年この戦争協力に対する心無い批判に嫌気が差して日本を去った。また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあった。戦時中日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。しかし、彼はクリスチャンの思想を戦争画に取り入れ表現している。戦後になり、日本美術会の書記長内田巌(同時期に日本共産党に入党)などにより半ば生贄に近い形で戦争協力の罪を非難された彼は、渡仏の許可が得られると「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残してパリへ向かい、二度と日本には戻らなかった。

フランスに行った後、「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく藤田は語った。その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いた」のになぜ非難されなければならないか、と手記の中でも嘆いている。取分け藤田は陸軍関連者の多い家柄にあるため軍関係者には知己が多く、また戦後占領軍としてGHQで美術担当に当たった米国人担当者とも友人であったが故に、戦後の戦争協力者としてのリストを作るときの窓口となる等の点などで槍玉にあげられる要素があった。

パリでの成功後も戦後も、藤田は存命中に日本社会から認められる事はついになかった。また君代夫人も没後「日本近代洋画シリーズ」「近代日本画家作品集」等の、他の画家達と並ぶ形での画集収録は断ってきた。近年になり、日本でも藤田の展覧会が開かれるようになった。

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