週末には浜田庄司の作品を再度整理して投稿していますが、本日紹介する2作品は再度調べた資料を箱内に納めています。
当方では浜田庄司の作品は晩年の作をメインして蒐集していますが、この2作品も浜田庄司の晩年の代表的な作例です。
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この最初の作品は、大砲の弾のような形に鉄絵で描いた黍文様の花入の作品ですが、この作例は浜田庄司の作品では数多く見受けられます。
鉄繪花瓶 浜田庄司作(花瓶・花立 その5)共箱最大胴径130*高さ276*口径106*底径105
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沖縄の時代から浜田庄司はこの黍を赤絵、鉄絵、はたまた蝋抜で作品に随所に取り入れています。
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浜田庄司の代名詞ともされる「黍文」と呼ばれる独自の文様を施した作品は、どれも力強く健康的です。
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糖黍文に関しは、浜田庄司が沖縄で糖黍畑を見て描き始めたことから、沖縄との関係が専ら言及されています。さらに浜田庄司が陶芸活動を行った英国、沖縄、益子については多く論 及 されれています。ただ一方で、朝鮮陶磁の影響との関連性については浜田庄司が度々訪れた朝鮮への記述は少ないようです。
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「絵唐津の鉄釉による絵付は濱田の糖黍文の描き方に活かされている」と絵唐津からの影響を指摘している記述もあります。
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「(糖)黍文は、濱田作品のトレードマークとされ、 1920 年代から生涯にわたって最も多く見出されるものですが、浜田庄司の糖黍文は、沖縄時代の比較的写実に近かった初期の表現が、時代を経るにつれ、簡略化され、晩年は絵画よりも書に近づいた。」という記述がありますが、その表現は至極的を得ていますね。
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柳宗悦( 1889 1961 )は「活きつつある生命の紋」と高く評価しています。浜田庄司自身も「糖黍文には作風の多様性が みられる。」と述べています。このように様々な言及がなされてきたにも関わらず、浜田庄司の糖黍文の表現をめぐる変遷について詳しい検討は未だ行われていないようです。
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濱田の朝鮮への関心は。 1918 年に始めて渡朝して以降、英国滞在期( 1920 1923にも続いており、 当時 『白樺』(李朝陶磁器特集号、 1922 年 9 月号)の記事では浜田庄司は朝鮮陶磁に触れています。さらにその関心は、本作品より早い時期に作られた同じようなデザインの浜田庄司作の「絵刷毛目花瓶」( 1923 )にも表現されています。
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ところで底周りにあるのは指の跡です。
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これをなぞると釉薬を掛ける時の持ち方が想像できますが、浜田庄司の手はかなり大きかったと思われます。
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箱の蓋カバーがあり、どこかの店?にて売られていたことが解ります。
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蓋裏にはデザインが施されていますが、どこのお店かは解っていません。
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次は同じ黍文様の鉄絵の茶碗です。
鉄繒茶碗 その1 浜田庄司作(茶碗 その3)浜田庄司作:「茶碗 その3」 「鉄絵茶碗 その1」 高さ89*口径137~139*高台径52
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糖黍文を通し、濱田の作風と朝鮮陶磁の関係を考察する上で、作風の転換期とされる 1930 年代後半から 40 年代前半に注目に値します。この時期は浜田庄司が益子を拠点にし、活発に作品活動を行うと同時に、民藝運動が本格的に始まった時期ですが、とくに濱田が二度目の渡朝をした 1936 年と 1937 年に注目したいと思います。 なぜなら、朝鮮へ渡って表現の幅を広げた浜田庄司は、この頃から糖黍文の表現を簡略化しつつ、力強い筆使いを用いるようになったからです。
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(糖)黍文を中心とする浜田庄司の作品と、現在益子参考館に所蔵されている濱田が蒐集した朝鮮陶磁、及び日本民藝館所蔵の柳による朝鮮陶磁蒐集作品を比較検討すると、糖黍文の表現には朝鮮陶磁の影響があることが明確に解ります。
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柳宗悦の蒐集品「鉄砂 草文瓶 」の単純化された草文は、浜田庄司の 1939 年作「鉄絵水差」の表現と近いとされます。また、同年作「灰釉鉄絵長方角鉢」に見られる糖黍文も同種の描法を用いています。
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また、濱田による朝鮮蒐集品の絵付の大半は草花文と竹文ですが、たとえば「鉄砂笹文瓶」にみられる文様感覚は、晩年の浜田庄司作の「塩釉鉄砂抜絵方壺」 の糖黍文と共通しています。
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結論として浜田庄司の糖黍文の源泉が沖縄にあるにせよ、糖黍文の変遷と晩年の非具象的な表現は、朝鮮陶磁の草花文の影響によるものであったと推察されます。茶碗では高台、釉薬にも李朝と似通っている作風が感じられます。
いくら沖縄時代の赤絵の作品が数が少ないから高価とはいえ、本来の浜田庄司の作品の粋は、釉薬の変遷とともに晩年の作に凝縮されています。本日のこの2作品は典型的な浜田庄司の作ですが、そのことがよく解る作品です。
今では数万円で入手できる浜田庄司の作品群ですが、一律で観ては価値が解りません。その中には飛びぬけていい秀作があるものです。修練した陶工の作品には陶磁器の歴史が詰まっているものですね。否、世情の歴史そのものが詰まっているのかも・・。
当方では浜田庄司の作品は晩年の作をメインして蒐集していますが、この2作品も浜田庄司の晩年の代表的な作例です。
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この最初の作品は、大砲の弾のような形に鉄絵で描いた黍文様の花入の作品ですが、この作例は浜田庄司の作品では数多く見受けられます。
鉄繪花瓶 浜田庄司作(花瓶・花立 その5)共箱最大胴径130*高さ276*口径106*底径105
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沖縄の時代から浜田庄司はこの黍を赤絵、鉄絵、はたまた蝋抜で作品に随所に取り入れています。
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浜田庄司の代名詞ともされる「黍文」と呼ばれる独自の文様を施した作品は、どれも力強く健康的です。
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糖黍文に関しは、浜田庄司が沖縄で糖黍畑を見て描き始めたことから、沖縄との関係が専ら言及されています。さらに浜田庄司が陶芸活動を行った英国、沖縄、益子については多く論 及 されれています。ただ一方で、朝鮮陶磁の影響との関連性については浜田庄司が度々訪れた朝鮮への記述は少ないようです。
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「絵唐津の鉄釉による絵付は濱田の糖黍文の描き方に活かされている」と絵唐津からの影響を指摘している記述もあります。
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「(糖)黍文は、濱田作品のトレードマークとされ、 1920 年代から生涯にわたって最も多く見出されるものですが、浜田庄司の糖黍文は、沖縄時代の比較的写実に近かった初期の表現が、時代を経るにつれ、簡略化され、晩年は絵画よりも書に近づいた。」という記述がありますが、その表現は至極的を得ていますね。
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柳宗悦( 1889 1961 )は「活きつつある生命の紋」と高く評価しています。浜田庄司自身も「糖黍文には作風の多様性が みられる。」と述べています。このように様々な言及がなされてきたにも関わらず、浜田庄司の糖黍文の表現をめぐる変遷について詳しい検討は未だ行われていないようです。
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濱田の朝鮮への関心は。 1918 年に始めて渡朝して以降、英国滞在期( 1920 1923にも続いており、 当時 『白樺』(李朝陶磁器特集号、 1922 年 9 月号)の記事では浜田庄司は朝鮮陶磁に触れています。さらにその関心は、本作品より早い時期に作られた同じようなデザインの浜田庄司作の「絵刷毛目花瓶」( 1923 )にも表現されています。
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ところで底周りにあるのは指の跡です。
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箱の蓋カバーがあり、どこかの店?にて売られていたことが解ります。
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蓋裏にはデザインが施されていますが、どこのお店かは解っていません。
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次は同じ黍文様の鉄絵の茶碗です。
鉄繒茶碗 その1 浜田庄司作(茶碗 その3)浜田庄司作:「茶碗 その3」 「鉄絵茶碗 その1」 高さ89*口径137~139*高台径52
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糖黍文を通し、濱田の作風と朝鮮陶磁の関係を考察する上で、作風の転換期とされる 1930 年代後半から 40 年代前半に注目に値します。この時期は浜田庄司が益子を拠点にし、活発に作品活動を行うと同時に、民藝運動が本格的に始まった時期ですが、とくに濱田が二度目の渡朝をした 1936 年と 1937 年に注目したいと思います。 なぜなら、朝鮮へ渡って表現の幅を広げた浜田庄司は、この頃から糖黍文の表現を簡略化しつつ、力強い筆使いを用いるようになったからです。
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(糖)黍文を中心とする浜田庄司の作品と、現在益子参考館に所蔵されている濱田が蒐集した朝鮮陶磁、及び日本民藝館所蔵の柳による朝鮮陶磁蒐集作品を比較検討すると、糖黍文の表現には朝鮮陶磁の影響があることが明確に解ります。
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柳宗悦の蒐集品「鉄砂 草文瓶 」の単純化された草文は、浜田庄司の 1939 年作「鉄絵水差」の表現と近いとされます。また、同年作「灰釉鉄絵長方角鉢」に見られる糖黍文も同種の描法を用いています。
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また、濱田による朝鮮蒐集品の絵付の大半は草花文と竹文ですが、たとえば「鉄砂笹文瓶」にみられる文様感覚は、晩年の浜田庄司作の「塩釉鉄砂抜絵方壺」 の糖黍文と共通しています。
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結論として浜田庄司の糖黍文の源泉が沖縄にあるにせよ、糖黍文の変遷と晩年の非具象的な表現は、朝鮮陶磁の草花文の影響によるものであったと推察されます。茶碗では高台、釉薬にも李朝と似通っている作風が感じられます。
いくら沖縄時代の赤絵の作品が数が少ないから高価とはいえ、本来の浜田庄司の作品の粋は、釉薬の変遷とともに晩年の作に凝縮されています。本日のこの2作品は典型的な浜田庄司の作ですが、そのことがよく解る作品です。
今では数万円で入手できる浜田庄司の作品群ですが、一律で観ては価値が解りません。その中には飛びぬけていい秀作があるものです。修練した陶工の作品には陶磁器の歴史が詰まっているものですね。否、世情の歴史そのものが詰まっているのかも・・。