日本の陶磁器の大きな本流に九谷焼があります。その流れに中には古九谷と再興九谷があります。本ブログでも幾つかの作品と取り上げてきましたが、なかなか氏素性のつかみきれない作品群でもあります。
伝再興九谷松山窯 青手草花紋深皿
古箱
口径313*高台径150*高さ58
時代・・・江戸末期(嘉永元年1848〜明治五年1872)?
金繕いが綺麗に施されています。
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青手九谷:加賀藩の支藩大聖寺藩九谷村で慶安年間(1650年頃)から作陶された古九谷と呼ばれるものの中にもみられ伝世されている。青手古九谷などと呼ばれている。青手古九谷は、赤色を全く使わないのが特徴であり、紫・黄・緑・紺青のうち三彩または二彩を使用し、作品全面を塗埋める技法が使われている。古九谷時代を通して作られた。慶安年間とは関ヶ原の戦いから戦後50年にあたり、武士に代わって台頭した町人文化が自由闊達の風に花開いた時期である。また海外の文化・技術を積極的に取り入れた安土桃山時代の絢爛華麗な記憶が鎖国の中でもまだ残っていた時代でもある。 青手九谷はこうした時代背景をもとに作られ、写実精密緻密であるより大胆奔放華麗の作風であるといえる。空を飛び舞う兎あり、デフォルメの大樹あり、黄素地に鮮やかな竹松あり、四彩(緑、紺青、黄、紫)で色取られた百合ありと まさに大胆不敵とも見える意匠である。 古九谷は、発掘結果とその考古地磁気測定法による年代測定から50年後には作られないようになり80年後には完全に終わったとされる。ただし、伝世九谷の素地と同じものが古九谷窯からは全く発掘されないことや、前者に多くある目跡(窯の中で器同士の溶着を防ぐスペースサーの跡)が後者には全くないなどから、古九谷は九谷村で作られたものではなく、有田(伊万里)で作られたものとする説(古九谷伊万里説)が出された。これに対し、藩主の命を受けた後藤才次郎が修業した地である有田から素地を移入し、九谷で絵付けのみを行なったという説(素地移入説)が出され、古九谷伊万里説と素地移入説で論争が起こっている。その後九谷焼は作られなかったが、文化年間(1804年以降)になり、古九谷の再興を目指して加賀藩により新しい窯が築かれ、その後明治期まで次々と新しい窯が作られ、合わせて「再興九谷」と称されている。再興九谷で最初に現れたのが「春日山窯」で、京都より青木木米が招聘され作陶が始まったが、木米の作風は赤や青を基調としたもので、青手古九谷の技法は見られない。その後再興九谷では一番の名声を博した「吉田屋窯」が古九谷窯跡地に作られた。大聖寺の豪商豊田伝右衛門が開窯しその屋号から命名されたものである。この吉田屋窯では日用品が多く量産されたが、古九谷同様高台に角福の入った青手九谷も多く作られた。
赤を使わず塗埋手の技法を使うという青手古九谷の技法を用いたものだが、青手古九谷より落ち着いた濃さをもっている。全体として青く見えるため、青九谷と呼ばれ、後世これに倣った絵付けが多く行われるようになった。吉田屋窯はわずか8年で閉じられ、その後番頭であった宮本屋宇右衛門が「宮本窯」を開いたが、精緻な赤絵金襴の意匠が多く青手九谷は見られない。その後も「民山窯」「若杉釜」「小野窯」などが作られたが、嘉永年間(1848年以降)になって大聖寺藩松山村に著名な「松山窯」が藩の贈答用とするために始まり、吉田屋窯の意匠を継いで青手九谷が作られた。
以上のように古九谷、吉田屋窯、松山窯で青手九谷が作陶されたとするが、骨董として取引される青手九谷うち、古九谷では350年を経ているため多くが伝世されているとは考えにくい。吉田屋窯では購入時に日用品であるのに箱書きとしてその名を記したとは思われない。松山窯は官営であったため多くが作られたとは思われず、また全般に後世のように作者名が有ったわけではないため、結局伝世の青手九谷の真贋は決めがたいとされる。市場でこれら窯として取引される伝世品の多くが、次の明治以降のものである可能性が高いと思われる。
明治維新(1868年以降)で成った明治政府は、開国に沿って殖産興業を推進し伝統工芸品の輸出を奨励した。そのため九谷では各国の博覧会に出展し名声を得、多くを輸出した。明治前期には九谷焼の8割が輸出に回され輸出陶磁器の1位を占めるようになり、「ジャパン クタニ」のブランドはいやが上にも高まった。
現存する半陶半磁を呈する骨董としての青手九谷の多くがこの時期のものと推量され、また明治前期に輸出された九谷が逆輸入されているものも多い。 青手九谷はその後も徳田八十吉などにより作られ、また現在も工芸品として金沢を中心として売られている。
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松山窯:今から350年前に九谷焼を興したのは、実はこの加賀大聖寺藩前田家です。その九谷焼の窯は江戸初めの大聖寺藩の御用窯、藩窯になりますが、この松山窯も別名「御上窯(おかみがま)」といわれ、幕末の大聖寺藩の藩窯として興った窯です。つまり、嘉永元年(1848)頃、当時の第11代藩主 前田利平の命により、青手様式の九谷焼を主に贈答用品として使うため、領内松山村の山本彦左衛門に命じて開窯させ、この窯で作らせました。
*藩主 前田利平は、小藩の宿命でもある慢性的な財政赤字に対策を講じ、倹約を強化し、さらに文治の奨励も行ないました。この文治政治が九谷松山窯にも影響を与えているといわれます。
嘉永年間は黒船ペリーが来航するなど幕末の混沌とした時代であり、加えて江戸後期の天保年間に宮本屋窯で飯田屋八郎右衛門が赤絵の細書きの九谷焼を完成させ、九谷焼きと言えば赤・金といったようなものが本流になっていたときに、大聖寺前田家はこの青手の九谷焼を再び領内で復活させました。大聖寺前田家は、古九谷、吉田屋窯といわれた各窯の青手九谷、つまり緑色を中心にした青々しい九谷焼が次第に焼かれなくなったことに対し、かつての古九谷、吉田屋窯を意識して青手九谷を復活させました。このために、文政年間に再興九谷で最も名高い吉田屋窯で色絵窯の主任をした粟生屋源右衛門(小松の材木町に居住していた)が松山窯の主軸になる主工に迎えられました。彼のもとには松屋菊三郎ら若手の優れた画工たちが集まり、絵筆を揮いました。こうして後の九谷焼を支える名陶工たちが輩出されることになりました。
“九谷焼は絵が命である”といわれるように、松山窯の特徴は、『松山窯もいろんな絵が描かれています。丸い皿を一枚のキャンバスに見立て、そこに青手の四彩の色を使って、さまざまな絵をまさに絵師が描いていると思って下さい』といわれる。そして、デザイン的な意匠面もたいへん優れています。そういった面からも九谷焼のひとつの完成形というものが松山窯の中に見てとれます。絵具の一つの特徴として、古九谷や吉田屋窯のような濃紺の紺ではなく、少し空色をしているような花紺青が多用されています。それが松山窯の一つの特徴になっています。花紺青は、18世紀初めイギリスで製造され、陶磁器などに使われた青色顔料で、それが清国経由で日本に多量に輸入され広がりました。古くは伊藤若冲が使用したことがわかっており、葛飾北斎も使っています。古来、日本には岩紺青という紺青の顔料があり、それと区別されています。
古九谷、吉田屋窯、松山窯の三つの九谷焼に共通してわかることは、縁文様が同じ形式で、これをひし形の木目文様と称しています。青手古九谷ではこの文様が地文様として描かれ、それが吉田屋窯にも引きつながれて吉田屋風に描かれています。そして松山の作品にも古九谷のようなひし形の木目文様を縁文様に描かれています。そして見込にそれぞれのメインテーマである画題を描いているところは、全く様式的には一緒です。このように系統立てて見てみると、古九谷、吉田屋窯の伝統を松山窯は受けついでいるといったことがわかります。だた、松山窯も松山窯なりの成立という過程があるので、決して吉田屋窯の真似をしていないし、古九谷の真似もしていません。もうひとつの特徴は、キャンパスが少々歪んでいて、少々難があってもその難を覆い隠すがごとく、それ以上の成果をもって絵付けで見せる、これが九谷の本領と思えます。
吉田屋窯が宮本屋窯に変わってから20年も経っていないとき、再び、吉田屋伝右衛門のロマンを彷彿とさせるようなことが加賀の地で起こりましたが、この九谷松山窯も今の九谷焼に与えた影響は大きかったと考えられます。
*松山窯と同時期(幕末)には、青手を焼く窯が加賀地方にいくつもありました。蓮代寺窯、小野窯、九谷本窯(宮本屋窯を引き継いだ窯)などです。普通、ひっくるめて青九谷と呼ばれます。
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「結論として本当に再興九谷??」
「ちゃんと説明よんだが? さてそれはお前がこれから確かめるんだべさ・・」
「おっと、枝豆の殻を食べてはいけねど。贋作を食っているようなもんだべさ。」
伝再興九谷松山窯 青手草花紋深皿
古箱
口径313*高台径150*高さ58
時代・・・江戸末期(嘉永元年1848〜明治五年1872)?
金繕いが綺麗に施されています。
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青手九谷:加賀藩の支藩大聖寺藩九谷村で慶安年間(1650年頃)から作陶された古九谷と呼ばれるものの中にもみられ伝世されている。青手古九谷などと呼ばれている。青手古九谷は、赤色を全く使わないのが特徴であり、紫・黄・緑・紺青のうち三彩または二彩を使用し、作品全面を塗埋める技法が使われている。古九谷時代を通して作られた。慶安年間とは関ヶ原の戦いから戦後50年にあたり、武士に代わって台頭した町人文化が自由闊達の風に花開いた時期である。また海外の文化・技術を積極的に取り入れた安土桃山時代の絢爛華麗な記憶が鎖国の中でもまだ残っていた時代でもある。 青手九谷はこうした時代背景をもとに作られ、写実精密緻密であるより大胆奔放華麗の作風であるといえる。空を飛び舞う兎あり、デフォルメの大樹あり、黄素地に鮮やかな竹松あり、四彩(緑、紺青、黄、紫)で色取られた百合ありと まさに大胆不敵とも見える意匠である。 古九谷は、発掘結果とその考古地磁気測定法による年代測定から50年後には作られないようになり80年後には完全に終わったとされる。ただし、伝世九谷の素地と同じものが古九谷窯からは全く発掘されないことや、前者に多くある目跡(窯の中で器同士の溶着を防ぐスペースサーの跡)が後者には全くないなどから、古九谷は九谷村で作られたものではなく、有田(伊万里)で作られたものとする説(古九谷伊万里説)が出された。これに対し、藩主の命を受けた後藤才次郎が修業した地である有田から素地を移入し、九谷で絵付けのみを行なったという説(素地移入説)が出され、古九谷伊万里説と素地移入説で論争が起こっている。その後九谷焼は作られなかったが、文化年間(1804年以降)になり、古九谷の再興を目指して加賀藩により新しい窯が築かれ、その後明治期まで次々と新しい窯が作られ、合わせて「再興九谷」と称されている。再興九谷で最初に現れたのが「春日山窯」で、京都より青木木米が招聘され作陶が始まったが、木米の作風は赤や青を基調としたもので、青手古九谷の技法は見られない。その後再興九谷では一番の名声を博した「吉田屋窯」が古九谷窯跡地に作られた。大聖寺の豪商豊田伝右衛門が開窯しその屋号から命名されたものである。この吉田屋窯では日用品が多く量産されたが、古九谷同様高台に角福の入った青手九谷も多く作られた。
赤を使わず塗埋手の技法を使うという青手古九谷の技法を用いたものだが、青手古九谷より落ち着いた濃さをもっている。全体として青く見えるため、青九谷と呼ばれ、後世これに倣った絵付けが多く行われるようになった。吉田屋窯はわずか8年で閉じられ、その後番頭であった宮本屋宇右衛門が「宮本窯」を開いたが、精緻な赤絵金襴の意匠が多く青手九谷は見られない。その後も「民山窯」「若杉釜」「小野窯」などが作られたが、嘉永年間(1848年以降)になって大聖寺藩松山村に著名な「松山窯」が藩の贈答用とするために始まり、吉田屋窯の意匠を継いで青手九谷が作られた。
以上のように古九谷、吉田屋窯、松山窯で青手九谷が作陶されたとするが、骨董として取引される青手九谷うち、古九谷では350年を経ているため多くが伝世されているとは考えにくい。吉田屋窯では購入時に日用品であるのに箱書きとしてその名を記したとは思われない。松山窯は官営であったため多くが作られたとは思われず、また全般に後世のように作者名が有ったわけではないため、結局伝世の青手九谷の真贋は決めがたいとされる。市場でこれら窯として取引される伝世品の多くが、次の明治以降のものである可能性が高いと思われる。
明治維新(1868年以降)で成った明治政府は、開国に沿って殖産興業を推進し伝統工芸品の輸出を奨励した。そのため九谷では各国の博覧会に出展し名声を得、多くを輸出した。明治前期には九谷焼の8割が輸出に回され輸出陶磁器の1位を占めるようになり、「ジャパン クタニ」のブランドはいやが上にも高まった。
現存する半陶半磁を呈する骨董としての青手九谷の多くがこの時期のものと推量され、また明治前期に輸出された九谷が逆輸入されているものも多い。 青手九谷はその後も徳田八十吉などにより作られ、また現在も工芸品として金沢を中心として売られている。
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松山窯:今から350年前に九谷焼を興したのは、実はこの加賀大聖寺藩前田家です。その九谷焼の窯は江戸初めの大聖寺藩の御用窯、藩窯になりますが、この松山窯も別名「御上窯(おかみがま)」といわれ、幕末の大聖寺藩の藩窯として興った窯です。つまり、嘉永元年(1848)頃、当時の第11代藩主 前田利平の命により、青手様式の九谷焼を主に贈答用品として使うため、領内松山村の山本彦左衛門に命じて開窯させ、この窯で作らせました。
*藩主 前田利平は、小藩の宿命でもある慢性的な財政赤字に対策を講じ、倹約を強化し、さらに文治の奨励も行ないました。この文治政治が九谷松山窯にも影響を与えているといわれます。
嘉永年間は黒船ペリーが来航するなど幕末の混沌とした時代であり、加えて江戸後期の天保年間に宮本屋窯で飯田屋八郎右衛門が赤絵の細書きの九谷焼を完成させ、九谷焼きと言えば赤・金といったようなものが本流になっていたときに、大聖寺前田家はこの青手の九谷焼を再び領内で復活させました。大聖寺前田家は、古九谷、吉田屋窯といわれた各窯の青手九谷、つまり緑色を中心にした青々しい九谷焼が次第に焼かれなくなったことに対し、かつての古九谷、吉田屋窯を意識して青手九谷を復活させました。このために、文政年間に再興九谷で最も名高い吉田屋窯で色絵窯の主任をした粟生屋源右衛門(小松の材木町に居住していた)が松山窯の主軸になる主工に迎えられました。彼のもとには松屋菊三郎ら若手の優れた画工たちが集まり、絵筆を揮いました。こうして後の九谷焼を支える名陶工たちが輩出されることになりました。
“九谷焼は絵が命である”といわれるように、松山窯の特徴は、『松山窯もいろんな絵が描かれています。丸い皿を一枚のキャンバスに見立て、そこに青手の四彩の色を使って、さまざまな絵をまさに絵師が描いていると思って下さい』といわれる。そして、デザイン的な意匠面もたいへん優れています。そういった面からも九谷焼のひとつの完成形というものが松山窯の中に見てとれます。絵具の一つの特徴として、古九谷や吉田屋窯のような濃紺の紺ではなく、少し空色をしているような花紺青が多用されています。それが松山窯の一つの特徴になっています。花紺青は、18世紀初めイギリスで製造され、陶磁器などに使われた青色顔料で、それが清国経由で日本に多量に輸入され広がりました。古くは伊藤若冲が使用したことがわかっており、葛飾北斎も使っています。古来、日本には岩紺青という紺青の顔料があり、それと区別されています。
古九谷、吉田屋窯、松山窯の三つの九谷焼に共通してわかることは、縁文様が同じ形式で、これをひし形の木目文様と称しています。青手古九谷ではこの文様が地文様として描かれ、それが吉田屋窯にも引きつながれて吉田屋風に描かれています。そして松山の作品にも古九谷のようなひし形の木目文様を縁文様に描かれています。そして見込にそれぞれのメインテーマである画題を描いているところは、全く様式的には一緒です。このように系統立てて見てみると、古九谷、吉田屋窯の伝統を松山窯は受けついでいるといったことがわかります。だた、松山窯も松山窯なりの成立という過程があるので、決して吉田屋窯の真似をしていないし、古九谷の真似もしていません。もうひとつの特徴は、キャンパスが少々歪んでいて、少々難があってもその難を覆い隠すがごとく、それ以上の成果をもって絵付けで見せる、これが九谷の本領と思えます。
吉田屋窯が宮本屋窯に変わってから20年も経っていないとき、再び、吉田屋伝右衛門のロマンを彷彿とさせるようなことが加賀の地で起こりましたが、この九谷松山窯も今の九谷焼に与えた影響は大きかったと考えられます。
*松山窯と同時期(幕末)には、青手を焼く窯が加賀地方にいくつもありました。蓮代寺窯、小野窯、九谷本窯(宮本屋窯を引き継いだ窯)などです。普通、ひっくるめて青九谷と呼ばれます。
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「結論として本当に再興九谷??」
「ちゃんと説明よんだが? さてそれはお前がこれから確かめるんだべさ・・」
「おっと、枝豆の殻を食べてはいけねど。贋作を食っているようなもんだべさ。」