離れの一階のギャラリーには当方のお気に入りの作品が飾られています。
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三岸節子、福田豊四郎、木下孝則・・・。
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そして本日紹介する作品は杉本健康吉の油彩の作品です。
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牡丹(唐傭) 杉本健吉画 1967年油彩額装 左下サイン(1967年作) 裏面共シール「牡丹(唐傭)」 誂タトウ+黄袋 F10号 岡村多聞堂額装 全体サイズ:縦772*横653 画サイズ:縦560*横440 東京美術倶楽部鑑定書 令和3年10月25日 NO021-1582
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杉本健吉は絵の具を布団に入れて寝るほど、小さい頃から絵が大好きだったしょうです。。当然、絵描きになりたかったのですが、とある洋画家に「絵は趣味でやり、生活を支える職業は図案家(今で言うグラフィックデザイナー)として勉強しなさい」と言われ、工業学校の図案科に進学したそうです。
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その後は18歳で卒業後は企業に就職し、図案などの仕事に従事します。そのかたわら、20歳で岸田劉生に弟子入り、本格的に絵画の道も歩み始めます。
22歳になると図案家として独立、名古屋鉄道(名鉄)の観光ポスターなどを多数手がけるようになります。24歳で結婚し、その後、昭和天皇・皇后両陛下の伊勢神宮参拝の際に、案内図を担当するほど、名古屋のグラフィックデザイン界の第一人者となりますが、好きな絵を描くこともやめなかったようです。
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師であった岸田劉生の亡き後は、30歳で梅原龍三郎に師事しています。杉本は、「絵の骨格を岸田劉生から、華やかさを梅原龍三郎から学んだ」と言っていますように、洋画界の巨匠から多くを学びました。
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35歳頃からは大和の風物に魅せられ、奈良へ頻繁に通って作家や写真家などさまざまな一流の人たちと親交しています。戦争中も、博物館や埴輪、仏像、風景などを多数描いています。
45歳で、「週刊朝日」の連載小説、吉川英治の「新・平家物語」の挿絵に抜擢され、最終回まで7年間担当。
その後は、1962(昭和37年)年57歳での沖縄(当時はアメリカ占領下)旅行を皮切りに、96歳の中国まで、たびたび海外へスケッチ旅行にも出かけました。2004(平成16)年2月10日、肺炎のため満98歳でこの世を去りましたが、その直前まで絵筆を放さなかったといいます。
「絵は子どもと同じ」と言って、ほとんど自分の絵を手放さなかった杉本健吉ですが、当時すでに4,000点以上あった作品を収蔵・展示する場所として1987(昭和62)年に知多半島の杉本美術館がオープンしています。
現在はこの美術館に9,700点あまりを収蔵しており、杉本健吉の肉筆の作品はほとんどこの美術館に所蔵されており、市場に出回る数は限れています。
美術館のモダンで瀟洒な館内と庭は設計段階から杉本自身も関わり、ロゴマークも本人のデザインだそうです。この美術館の地下のアトリエでもたくさんの作品を描いています。
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「まず驚きだ、感激だね。感激すれば受胎して、その子どもが絵なの」「感激というのは出逢わなければわからない。対面しないとわからないから、対面するために自分がいろんなことをやったり、出かけていく。それが外国でなくてもかまわないし、身近なことでもかまわない。いつも見ているものでも感激したら、それに夢中になる」(『杉本健吉画文集 余生らくがき』より)これらは杉本が96歳の時、自身の絵の原点について語った言葉です。
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「杉本作品の魅力は、どんな人が見ても楽しめる絵画」と評されています。
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たまにはと茶室の床に洋画を飾ってみました。
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手前は修理が完了した「老子立像 加納鉄哉作」の作品を飾っています。
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愉しめや楽しめや・・・・、心の赴くままに・・。小生のすこしばかり贅沢な時間です。

三岸節子、福田豊四郎、木下孝則・・・。

そして本日紹介する作品は杉本健康吉の油彩の作品です。

牡丹(唐傭) 杉本健吉画 1967年油彩額装 左下サイン(1967年作) 裏面共シール「牡丹(唐傭)」 誂タトウ+黄袋 F10号 岡村多聞堂額装 全体サイズ:縦772*横653 画サイズ:縦560*横440 東京美術倶楽部鑑定書 令和3年10月25日 NO021-1582

杉本健吉は絵の具を布団に入れて寝るほど、小さい頃から絵が大好きだったしょうです。。当然、絵描きになりたかったのですが、とある洋画家に「絵は趣味でやり、生活を支える職業は図案家(今で言うグラフィックデザイナー)として勉強しなさい」と言われ、工業学校の図案科に進学したそうです。

その後は18歳で卒業後は企業に就職し、図案などの仕事に従事します。そのかたわら、20歳で岸田劉生に弟子入り、本格的に絵画の道も歩み始めます。
22歳になると図案家として独立、名古屋鉄道(名鉄)の観光ポスターなどを多数手がけるようになります。24歳で結婚し、その後、昭和天皇・皇后両陛下の伊勢神宮参拝の際に、案内図を担当するほど、名古屋のグラフィックデザイン界の第一人者となりますが、好きな絵を描くこともやめなかったようです。

師であった岸田劉生の亡き後は、30歳で梅原龍三郎に師事しています。杉本は、「絵の骨格を岸田劉生から、華やかさを梅原龍三郎から学んだ」と言っていますように、洋画界の巨匠から多くを学びました。


35歳頃からは大和の風物に魅せられ、奈良へ頻繁に通って作家や写真家などさまざまな一流の人たちと親交しています。戦争中も、博物館や埴輪、仏像、風景などを多数描いています。
45歳で、「週刊朝日」の連載小説、吉川英治の「新・平家物語」の挿絵に抜擢され、最終回まで7年間担当。
その後は、1962(昭和37年)年57歳での沖縄(当時はアメリカ占領下)旅行を皮切りに、96歳の中国まで、たびたび海外へスケッチ旅行にも出かけました。2004(平成16)年2月10日、肺炎のため満98歳でこの世を去りましたが、その直前まで絵筆を放さなかったといいます。
「絵は子どもと同じ」と言って、ほとんど自分の絵を手放さなかった杉本健吉ですが、当時すでに4,000点以上あった作品を収蔵・展示する場所として1987(昭和62)年に知多半島の杉本美術館がオープンしています。
現在はこの美術館に9,700点あまりを収蔵しており、杉本健吉の肉筆の作品はほとんどこの美術館に所蔵されており、市場に出回る数は限れています。
美術館のモダンで瀟洒な館内と庭は設計段階から杉本自身も関わり、ロゴマークも本人のデザインだそうです。この美術館の地下のアトリエでもたくさんの作品を描いています。

「まず驚きだ、感激だね。感激すれば受胎して、その子どもが絵なの」「感激というのは出逢わなければわからない。対面しないとわからないから、対面するために自分がいろんなことをやったり、出かけていく。それが外国でなくてもかまわないし、身近なことでもかまわない。いつも見ているものでも感激したら、それに夢中になる」(『杉本健吉画文集 余生らくがき』より)これらは杉本が96歳の時、自身の絵の原点について語った言葉です。

「杉本作品の魅力は、どんな人が見ても楽しめる絵画」と評されています。

たまにはと茶室の床に洋画を飾ってみました。

手前は修理が完了した「老子立像 加納鉄哉作」の作品を飾っています。

愉しめや楽しめや・・・・、心の赴くままに・・。小生のすこしばかり贅沢な時間です。