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山水図 伝円山応挙筆・皆川淇園賛 その4 

*本作品は改装した「リメイク」の原稿が誤って先に投稿されました。一年分に近い原稿の下書きがあるため、未整理のままの投稿してしまうというミスをしてしまいました。
「落款の「寫」の字が「日」になっているが、本来は「目」になっているはず・・。」という趣旨の投稿は「リメイク」でも記述しています。このことなどの重複している部分は修正しています。
山水図 伝円山応挙筆・皆川淇園賛 その4 絹本水墨軸装 軸先木製 時代箱入全体サイズ:縦1310*横660 画サイズ:縦380*横515
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賛を記している皆川淇園の略歴は下記のとおりです。
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皆川淇園:享保19年12月8日(1735年1月1日) - 文化4年5月16日(1807年6月21日))。江戸時代中期の儒学者。父は皆川成慶(春洞、白洲)で、実弟に国学者富士谷成章(層城、北辺)がいる。淇園は号で、名は愿(げん)。字は伯恭。通称は文蔵。別号に有斐斎がある。生まれは京都。
皆川淇園は伊藤錦里や三宅元献などに儒学を学んだ。易学について研究を深め、独自の言語論により「名」と「物」との関係を解釈する開物論を唱え、「老子」「荘子」「列子」「論語」など多くの経書に対する注釈書を著した。亀山藩(松平信岑)・平戸藩(松浦清)・膳所藩(本多康完)などの藩主に賓師として招かれた。京都に家塾を開き、門人は3,000人を超えたという。また、江村綬の錫杖堂詩社に影響され、柴野栗山や赤松滄洲らと三白社という詩社を起こす。
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絵画の腕も卓越しており、山水画では、師の円山応挙に劣らずという評価も受けている。
晩年の文化3年(1806年)には様々な藩主の援助を受けて京都に学問所「弘道館」を開いた。志半ばにして、翌年、74歳で没する。門弟として富士谷成章・巖垣龍渓・稲毛屋山・小浜清渚・東条一堂・北条霞亭などがいる。京極の阿弥陀寺に葬られた。墓誌は松浦清が文を製し、その書は本多康完が記した。東京国立博物館には「明経先生像」と題された淇園の遺像が残る(渡辺南岳筆、東京国立博物館 情報アーカイブ)。
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ポイントは皆川淇園と円山応挙が交友し始めた時期・・・??? 
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漢詩は「遠岸生風雨□究 渓雲初起水光□ 村□未見門扉鎖 早牧人牽□帰 皆川□□題 押印(「淇」「園」朱文白方印の累印)かな?
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詳細な意味は当方では解りかねています。
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改装前の資料として投稿しており、真贋は「伝」ですのでご了解願います。

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古い掛け軸はそのままという御仁もおられますが、どんどん痛むのはどうなのかな? 雰囲気を壊さないように修復するのが蒐集家の役目・・。

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本作品の最低限のメンテとして天地交換のみを施しています。

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