物置改修にあたり種々の準備中・・、その手始めに棚を購入しました。
総檜でやたらと重いらしい・・、まだ私は見ていないので
気に入ったのは背面の明りとり・・。
この後ろの壁に窓をつける予定・・。
ちょっとした改修ですが、いろいろと愉しみたいものです。
本日はわが郷里の画家である平福百穂の作品です。
荒磯 平福百穂筆 その17
絹本水墨淡彩 絹装軸 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横660*縦2340 画サイズ:横1380*横510
印章から大正6年前後の作品と推察されます。切手にもなっている有名な「荒磯(ありそ)(東京国立近代美術館蔵)」は1926年(大正15年 昭和元年)の製作ですから、その前に描かれた作品ではないかと推察されます。
わりと大きな作品で小さな床の間では高さが足りないかもしれません。
自然の一瞬の動きを実に清らかに表現してる作品だと思います。
海鵜を描いた作品であろうと思われ、本ブログで投稿された作品の中には同じような構図で池上秀畝の作品があります。
鵜 池上秀畝筆
紙本水墨淡彩 軸先象牙 堀田秀叢鑑定箱
全体サイズ:縦2145*横405 画サイズ:縦1250*横270
この作品は昭和15年以降の最晩年の作品と推察されますから、本日の作品のあとで製作された作品と思われます。ほぼ同時代に活躍した二人の画家の作品を比べられるには非常に興味深いものがあります。
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平福百穂:穂庵の第4子として明治10年(1877)角館に生まれた。本名を貞蔵という。13歳のころに父から運筆を習っている。父穂庵は常に旅に出て留守勝ちであったが,明治22年,身体をこわして帰郷し,しばらく家にいることになった。その時,筆の持ち方,座り方,墨の擦り方まで教えた。しかし翌年,父が47才のとき,脳溢血のために急逝し,その教えを受けることはかなわなかった。百穂は「上の兄3人が絵とは違う道を志していたため『一人ぐらいは父の跡を継いだらよかろう』という周囲の勧めもあって,絵を学ぶことになった」と述懐している。が,14歳の時,穂庵追悼秋田絵画品評会に出品した半切が激賞されるなど,父の画才を色濃く受け継いでいた。
16歳で父の後援者・瀬川安五郎の支援の下,絵の修行のため上京,川端玉章の門人となる。玉章は穂庵と旧知の中であり,そのころ,四条派の第一人者で,東京美術学校日本画科の教授をしていた。ここで,後に盟友となる結城素明を知ることになる。東京美術学校で学び,画家としての地歩を築いた百穂は22歳の時,いったん郷里に帰り,郷里にあって絵の勉強をするかたわら,友人達と中尊寺などに遊んだ。
素明の勧めもあって,2年後の明治34年(1901)に再び上京し,やがて中央画壇で頭角を現していった。活躍の主舞台は素明らと結成した「无声会(むせいかい)」であった。自然や人間を清新な感覚でとらえた作品を発表して注目された。明治36年ころから伊藤左千夫,正岡子規,長塚節,斉藤茂吉らと交友するようになり,アララギ派の歌人としても活躍している。大正期(1912-1925)に入ると百穂の画風はさらに多彩となり,文展に「七面鳥」「豫譲」(第11回特選),「牛」を出品した。昭和7年に母校・東京美術学校の教授に任じられている。しかし翌年10月,横手市に住んでいた次兄の葬儀の準備中,脳溢血で倒れ,同月30日に享年57才で亡くなった。
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総檜でやたらと重いらしい・・、まだ私は見ていないので
気に入ったのは背面の明りとり・・。
この後ろの壁に窓をつける予定・・。
ちょっとした改修ですが、いろいろと愉しみたいものです。
本日はわが郷里の画家である平福百穂の作品です。
荒磯 平福百穂筆 その17
絹本水墨淡彩 絹装軸 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横660*縦2340 画サイズ:横1380*横510
印章から大正6年前後の作品と推察されます。切手にもなっている有名な「荒磯(ありそ)(東京国立近代美術館蔵)」は1926年(大正15年 昭和元年)の製作ですから、その前に描かれた作品ではないかと推察されます。
わりと大きな作品で小さな床の間では高さが足りないかもしれません。
自然の一瞬の動きを実に清らかに表現してる作品だと思います。
海鵜を描いた作品であろうと思われ、本ブログで投稿された作品の中には同じような構図で池上秀畝の作品があります。
鵜 池上秀畝筆
紙本水墨淡彩 軸先象牙 堀田秀叢鑑定箱
全体サイズ:縦2145*横405 画サイズ:縦1250*横270
この作品は昭和15年以降の最晩年の作品と推察されますから、本日の作品のあとで製作された作品と思われます。ほぼ同時代に活躍した二人の画家の作品を比べられるには非常に興味深いものがあります。
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平福百穂:穂庵の第4子として明治10年(1877)角館に生まれた。本名を貞蔵という。13歳のころに父から運筆を習っている。父穂庵は常に旅に出て留守勝ちであったが,明治22年,身体をこわして帰郷し,しばらく家にいることになった。その時,筆の持ち方,座り方,墨の擦り方まで教えた。しかし翌年,父が47才のとき,脳溢血のために急逝し,その教えを受けることはかなわなかった。百穂は「上の兄3人が絵とは違う道を志していたため『一人ぐらいは父の跡を継いだらよかろう』という周囲の勧めもあって,絵を学ぶことになった」と述懐している。が,14歳の時,穂庵追悼秋田絵画品評会に出品した半切が激賞されるなど,父の画才を色濃く受け継いでいた。
16歳で父の後援者・瀬川安五郎の支援の下,絵の修行のため上京,川端玉章の門人となる。玉章は穂庵と旧知の中であり,そのころ,四条派の第一人者で,東京美術学校日本画科の教授をしていた。ここで,後に盟友となる結城素明を知ることになる。東京美術学校で学び,画家としての地歩を築いた百穂は22歳の時,いったん郷里に帰り,郷里にあって絵の勉強をするかたわら,友人達と中尊寺などに遊んだ。
素明の勧めもあって,2年後の明治34年(1901)に再び上京し,やがて中央画壇で頭角を現していった。活躍の主舞台は素明らと結成した「无声会(むせいかい)」であった。自然や人間を清新な感覚でとらえた作品を発表して注目された。明治36年ころから伊藤左千夫,正岡子規,長塚節,斉藤茂吉らと交友するようになり,アララギ派の歌人としても活躍している。大正期(1912-1925)に入ると百穂の画風はさらに多彩となり,文展に「七面鳥」「豫譲」(第11回特選),「牛」を出品した。昭和7年に母校・東京美術学校の教授に任じられている。しかし翌年10月,横手市に住んでいた次兄の葬儀の準備中,脳溢血で倒れ,同月30日に享年57才で亡くなった。
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