仕事での全国行脚は東北、広島、横浜についで本日早朝より、大阪、名古屋に向かいます。4週連続週末休日なしなのでちょっとお疲れ・・・
「春汀」という画家をご存知の方は少ないでしょうし、後日「山元櫻月」という画家でもあるということを知っている人もまた少ないでしょう。最盛期以降は「画壇から一歩身を引くと共に画商とのつき合いも断った。」ことが大きく起因していることもあるのでしょう。
瑞祥 山元櫻月筆 その2
絹本着色軸装 軸先欠損(後日取付) 共箱(初号春汀銘)
全体サイズ:横490*縦2200 画サイズ:横1300*横357
山元桜月(春汀)は富士の作品で著名ですが、本作品は吉祥図として白雉を描き、題は「瑞祥」とあります。
「瑞祥」とは「めでたいことが起こるという前兆のこと、吉兆、祥瑞」のことです。
日本の歴史に名を残す瑞祥動物と言えば、雉(きじ)であり、白い雉は古くから吉祥とされています。下記の「白雉改元」を参考にしてください。
号は「春汀」とあることから、昭和10年(1935年)46歳までの作品であることが推察されます。
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山元桜月:山元桜月は、明治22年(1889年)に滋賀県滋賀郡膳所町(現滋賀県大津市)で山元治三郎と庄子夫妻の三男として誕生した。父治三郎は山元家の入婿で、母庄子の末弟は近代京都画壇を代表する画家の一人山元春挙である。
治三郎夫妻は子宝に恵まれ、六男二女の子をもうけ、桜月は四番目三男として生まれ三郎を名付けられ、叔父である春挙は幼ない桜月の画才を見抜き、明治33年(1900年)桜月の入門を許し春汀の名を与え、以降厳しく実写の道を教えたと伝えられる。
桜月は才能を遺憾なく発揮し、大正3年(1914年)第8回文展において『奔流』が初入選し、以降文展・その後の帝展に連続入選を果たし、昭和3年(1928年)には帝展で推薦(無鑑査)と順調に地位を固めていった。
その後、昭和8年(1933年)師であり叔父でもある春挙が亡くなると、昭和10年(1935年)には名を春汀から桜月に改め、帝展を退会し画壇から一歩身を引くと共に画商とのつき合いも断った。
桜月が描く対象も一般風景から山岳画へと変わり、昭和14年(1939年)改組文展に『早春の芙蓉峰』を出品し、以降富士山を描き続け、翌15年(1940年)には山梨県の山中湖村に移住し、富士山の観察とスケッチに没頭した。
桜月が描く富士山の絵について、横山大観は「富士の真の姿を描いて行くのは桜月君が最もふさわしい画家」と評し、昭和30年(1955年)東京で開かれた桜月個展において川合玉堂は、多くの期待を持って個展を楽しんだと伝えられる。
桜月は自著『神韻』の中で富士山を描くことに対して「芙蓉峰と雲の調和は他の高山に比類なき美の極地」、「先変万化の景観は、宇宙の無限大と等しく意義を示す世界無比の神秘」と称し、また後年「富士山を見ていたらその崇高な姿に魅入られ、誰も戦争など思い寄らないだろう。そして心から平和のためには力を合わすようになる。」との信念から、富士を描いた作品を世界の指導者に対して数多く寄贈した。昭和60年(1985年)に死去した。享年97才。
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軸先はとれてなく粗末にされていたのですが、共箱に収められ古来から吉兆の図としていた作品ですので、きちんと修復し後世に伝えていくべき作品であろうと思います。当方で所蔵することになったのも何かの縁でしょう。
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白雉元年(650年)二月十五日:白雉改元。
この年二月九日、穴戸(あなと、後の長門、山口県北部)国司草壁醜経(くさかべのしこふ)が白い雉を捕らえ、孝徳天皇に献上した。孝徳天皇はこのことの意味を百済君豊璋(くだらのきみほうしょう、後の再興百済王、当時百済の人質として日本にいた)や僧みん(「みん」は「日」の下に「文」)らに問うたところ、一様に中国の故事からこれは瑞祥現象(大変めでたい印である)と答えた。
これをもとにこの日朝賀の儀式(元旦の儀式であり、朝廷の最大の儀式であった)のような盛大な儀仗を整え、左大臣巨勢徳陀古(こせのとこだこ)、右大臣大伴長徳(おおとものながとこ)以下の百官が四列に整列する前をこの白雉を乗せた輿を宮門の中に入れ、続いて左右大臣、百済君豊璋を始めとする百済・高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)の人々に至るまで朝堂に参入、天皇と皇太子(中大兄皇子)にこの白雉をご覧いただいた。
百官を代表した巨勢徳陀古の慶賀の言葉に応え、天皇はこの瑞祥現象を記念して大化六年を改めて白雉(はくち)元年と改元することを告げ、またその雉を産した穴戸の住民の調(税)・労役を三年間免除した。
日本最初の公的年号である大化に続く二番目の元号「白雉」はこうして「白雉が出た。」という瑞祥現象を記念して制定された。こういった現象を記念しての改元は奈良時代を中心にこれ以降もよく見られるようになる。ただ元号そのものはこの孝徳天皇の崩御によって白雉以降、天武天皇の朱鳥(あかみとり)まで暫く途絶えることになる。(日本書紀)
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山元春汀は山元桜月のことであることと、めでたい吉祥の図であることから購入した作品ですが、そのようなことを知っていないと見落とす作品です。本作品は両方の軸先が欠損しており、軸先がいいものだったので他の作品の表装に用いた可能性もあります。作者や図柄の意図を理解していない所蔵者は、知らずにそういうことをしたのなら、あまりいいことはなかったでしょうね。骨董というものは不思議で、貴重な作品や由緒ある作品を手放すとあまりいいことはないようですよ。
家内に本作品が吉祥図だyほと説明したら、「ふ~ん、だから一文字は梅の図柄なんだ。竹と若松が描かれているから合わせて松竹梅なんですね。」だと、小生は気がつかなかった
掛け軸の整理が追いつかないので、しばらく本作品を今に飾っていたら、息子が掛け軸用の矢はずを振り回し、さも「そろそろ、飽きてきたのでほかの作品がいい。」とばかり・・・
「春汀」という画家をご存知の方は少ないでしょうし、後日「山元櫻月」という画家でもあるということを知っている人もまた少ないでしょう。最盛期以降は「画壇から一歩身を引くと共に画商とのつき合いも断った。」ことが大きく起因していることもあるのでしょう。
瑞祥 山元櫻月筆 その2
絹本着色軸装 軸先欠損(後日取付) 共箱(初号春汀銘)
全体サイズ:横490*縦2200 画サイズ:横1300*横357
山元桜月(春汀)は富士の作品で著名ですが、本作品は吉祥図として白雉を描き、題は「瑞祥」とあります。
「瑞祥」とは「めでたいことが起こるという前兆のこと、吉兆、祥瑞」のことです。
日本の歴史に名を残す瑞祥動物と言えば、雉(きじ)であり、白い雉は古くから吉祥とされています。下記の「白雉改元」を参考にしてください。
号は「春汀」とあることから、昭和10年(1935年)46歳までの作品であることが推察されます。
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山元桜月:山元桜月は、明治22年(1889年)に滋賀県滋賀郡膳所町(現滋賀県大津市)で山元治三郎と庄子夫妻の三男として誕生した。父治三郎は山元家の入婿で、母庄子の末弟は近代京都画壇を代表する画家の一人山元春挙である。
治三郎夫妻は子宝に恵まれ、六男二女の子をもうけ、桜月は四番目三男として生まれ三郎を名付けられ、叔父である春挙は幼ない桜月の画才を見抜き、明治33年(1900年)桜月の入門を許し春汀の名を与え、以降厳しく実写の道を教えたと伝えられる。
桜月は才能を遺憾なく発揮し、大正3年(1914年)第8回文展において『奔流』が初入選し、以降文展・その後の帝展に連続入選を果たし、昭和3年(1928年)には帝展で推薦(無鑑査)と順調に地位を固めていった。
その後、昭和8年(1933年)師であり叔父でもある春挙が亡くなると、昭和10年(1935年)には名を春汀から桜月に改め、帝展を退会し画壇から一歩身を引くと共に画商とのつき合いも断った。
桜月が描く対象も一般風景から山岳画へと変わり、昭和14年(1939年)改組文展に『早春の芙蓉峰』を出品し、以降富士山を描き続け、翌15年(1940年)には山梨県の山中湖村に移住し、富士山の観察とスケッチに没頭した。
桜月が描く富士山の絵について、横山大観は「富士の真の姿を描いて行くのは桜月君が最もふさわしい画家」と評し、昭和30年(1955年)東京で開かれた桜月個展において川合玉堂は、多くの期待を持って個展を楽しんだと伝えられる。
桜月は自著『神韻』の中で富士山を描くことに対して「芙蓉峰と雲の調和は他の高山に比類なき美の極地」、「先変万化の景観は、宇宙の無限大と等しく意義を示す世界無比の神秘」と称し、また後年「富士山を見ていたらその崇高な姿に魅入られ、誰も戦争など思い寄らないだろう。そして心から平和のためには力を合わすようになる。」との信念から、富士を描いた作品を世界の指導者に対して数多く寄贈した。昭和60年(1985年)に死去した。享年97才。
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軸先はとれてなく粗末にされていたのですが、共箱に収められ古来から吉兆の図としていた作品ですので、きちんと修復し後世に伝えていくべき作品であろうと思います。当方で所蔵することになったのも何かの縁でしょう。
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白雉元年(650年)二月十五日:白雉改元。
この年二月九日、穴戸(あなと、後の長門、山口県北部)国司草壁醜経(くさかべのしこふ)が白い雉を捕らえ、孝徳天皇に献上した。孝徳天皇はこのことの意味を百済君豊璋(くだらのきみほうしょう、後の再興百済王、当時百済の人質として日本にいた)や僧みん(「みん」は「日」の下に「文」)らに問うたところ、一様に中国の故事からこれは瑞祥現象(大変めでたい印である)と答えた。
これをもとにこの日朝賀の儀式(元旦の儀式であり、朝廷の最大の儀式であった)のような盛大な儀仗を整え、左大臣巨勢徳陀古(こせのとこだこ)、右大臣大伴長徳(おおとものながとこ)以下の百官が四列に整列する前をこの白雉を乗せた輿を宮門の中に入れ、続いて左右大臣、百済君豊璋を始めとする百済・高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)の人々に至るまで朝堂に参入、天皇と皇太子(中大兄皇子)にこの白雉をご覧いただいた。
百官を代表した巨勢徳陀古の慶賀の言葉に応え、天皇はこの瑞祥現象を記念して大化六年を改めて白雉(はくち)元年と改元することを告げ、またその雉を産した穴戸の住民の調(税)・労役を三年間免除した。
日本最初の公的年号である大化に続く二番目の元号「白雉」はこうして「白雉が出た。」という瑞祥現象を記念して制定された。こういった現象を記念しての改元は奈良時代を中心にこれ以降もよく見られるようになる。ただ元号そのものはこの孝徳天皇の崩御によって白雉以降、天武天皇の朱鳥(あかみとり)まで暫く途絶えることになる。(日本書紀)
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山元春汀は山元桜月のことであることと、めでたい吉祥の図であることから購入した作品ですが、そのようなことを知っていないと見落とす作品です。本作品は両方の軸先が欠損しており、軸先がいいものだったので他の作品の表装に用いた可能性もあります。作者や図柄の意図を理解していない所蔵者は、知らずにそういうことをしたのなら、あまりいいことはなかったでしょうね。骨董というものは不思議で、貴重な作品や由緒ある作品を手放すとあまりいいことはないようですよ。
家内に本作品が吉祥図だyほと説明したら、「ふ~ん、だから一文字は梅の図柄なんだ。竹と若松が描かれているから合わせて松竹梅なんですね。」だと、小生は気がつかなかった
掛け軸の整理が追いつかないので、しばらく本作品を今に飾っていたら、息子が掛け軸用の矢はずを振り回し、さも「そろそろ、飽きてきたのでほかの作品がいい。」とばかり・・・