幕末から明治に活況を呈した南画ですが、明治 15 年にフェノロサの龍池会講演(『美術真説』)によって南画が.否定されて以後、特に関東で南画は退潮を見せたことは既に知られていることです。このような新たな日本画の端境期を前に活躍した画家のひとりである中西耕石を再度取り上げてみました。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
この作品も整理中に当方で再評価した作品のひとつです。
リメイク 蘇公赤壁図 中西耕石筆紙本水墨淡彩 軸先木製 合箱全体サイズ:縦1960*横640 画サイズ:縦1320*横520
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Image may be NSFW.
Clik here to view.
まずは中西耕石の画歴ですが、下記のとおりとなります。
********************************
中西耕石:1807年(文化4年)~ 1884年(明治17年)1月9日。江戸時代後期から明治時代の日本画家。筑前国芦屋中小路(福岡県芦屋町)出身。名を寿平、後に寿。字は亀年。別号に竹叟、筌岡など。山水画、花鳥画に優品を残しています。生家は陶工とも紺屋とも言われますがはっきりしていません。
若くして上洛し、京都で松村景文に師事し、のち小田海僊に四条派を学びます。大坂に出て漢学の篠崎小竹の門下となり、再び京都に戻ると小田海僊に南画を学び名声を得て、1882年(明治15年)には、京都府画学校の教授に就任しています。
日根野對山と共に近世の名家と双称せられていますが山水は殊にその得意とするところでした。筑前藩、津藩から禄米を受け、維新後は京都を代表する南画家として活躍、明治13年京都府画学校設立に際し出仕、同15年第1回内国絵画共進会で銅印を受賞するとともに絵事功労褒状を受けています。門下から巨勢小石、吉嗣拝山、木村耕巌らを輩出し、福岡南画壇の生みの親とされます。また日根対山と前田暢堂の3人で「対暢耕」とよばれていました。
*日根對山については最近のブログでも改めて紹介されています。
********************************
近年は殆ど評価されていない南画の作品ですが、再評価されるべきだろうと当方では考えています。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
南画は掛け軸としては大きな作品が多く、彩色も少ないという観点から、居住空間にて飾るところがなく人気がないのでしょうが、その画に収められている学識という観点からは大いに今後再評価されるべき要素はあります。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
たとえば本作品も「蘇公赤壁図」という題名から何を題材にしているかという点は学識が必要です。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
「赤壁」は、孫権と劉備の連合軍が魏の曹操と激烈な戦いを繰り広げた歴史上の舞台として「三国志」などでもおなじみです。現存の中国湖北省嘉魚県の西にあります。後年北宋の時代に、黄州(現在の湖北省内にある)で流刑の憂き目にあった詩人、蘇東坡(そとうば)が二度この地を訪れ、舟遊びに興じていますが、そのときに「前赤壁賦」「後赤壁賦」というふたつの詩を詠じています。この故事が、その後長いあいだ、中国や日本の文人のあいだで理想の境地と仰がれ、絵画の重要な主題となってきました。むろん画家はほとんどの場合は実地を訪れるわけではなく、蘇東坡の詩から得たイマジネーションを自分なりに咀嚼したり、なんらかの資料をもとにして描いています。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
「赤壁賦」について詳細に記述するのは多くの労を要するので、概要だけ記すると下記のような内容になります。
********************************
元豊5年(1082)の秋7月16日の夜、私は客と舟を浮かべて、赤壁のほとりで遊んだ。清々しい風が静かに吹いて来て、水面には波も立たない。酒をすすめて客に注ぎ、「詩経」の「月出」の詩を口ずさみ、「関雎」の詩を歌った。しばらくして、月が東の山の上に出て、南斗星と牽牛星との間をゆっくりと動いていった。白いもやが長江一面にかかり、川面の光がきらきらと天空に接するようである。一艘の小船の行くに任せ、果てしなく広い水面を越えていく。広々として身を虚空に浮かべて風に乗り、どこまで行くのか分からないようで、ふわふわとして俗世間を忘れてひとりいる気分で、羽が生えて仙人となって天に登るような気持ちである。そこで、酒を飲んで大いに楽しんだ。船べりを叩いて拍子を取りこのような歌を歌った。歌の文句は、「桂の香木の櫂と蘭の香木の槳で、川面に映る月の光に掉さして、水面にきらめく月の光をさかのぼる。遥かに遠く我が思いは、美しい月を天空の一方に望み見る」と。
客に洞簫を吹く者がいて、歌に合わせてこれと合奏した。その音は悲しみ嘆くような音色で、恨むようで慕うようで、また泣くようで訴えるようであった。余韻は細く長く続いて、絶えないことは細い糸のようである。奥深い谷に潜むみずちを舞わせ、一艘の小舟の未亡人を泣かせるほどであった。私は憂いて顔色を変え、襟元を正して、正座して客に尋ねた、「どうしてそれはこのような悲しい音であるのか」と。
客が言うには、「『月が明るく星がまばらで、カササギが南に飛んでいく』とは、これは曹孟徳の詩ではないか。西の方向に夏口を望み、東の方向に武昌を望めば、山と川とが互いにまつわりあい、こんもりとして草木が生い茂っている。この辺りは孟徳が呉の周郎に苦しめられた所ではないか。孟徳が荊州を破り、江陵から長江を下って、流れにのって東へ向かうその時には、船が多くて舳(とも)と艫(へさき)が続いて千里にも及び、軍の旗は空をおおうほどであった。その時孟徳は酒を酌んで飲み長江を目の前にして、槊(ほこ)を横たえて詩を作った。本当に時代の英雄である。しかしながらその英雄は今どこにいるというのか。まして私と君は、長江のほとりで魚をとり、きこりをし、魚やえびを友として大鹿や小鹿を仲間として、時には一艘の小船に乗り、酒の器をもってすすめ合い、かげろうのようにはかない身を天地にまかせる、はるかな大海原の中の一粒の穀物のような存在では、なおさら死ぬのは当然のことだ。私の人生がほんのしばらくの間であるのを悲しみ、長江が尽きることのないのをうらやましく思う。空飛ぶ仙人と腕を組んで気ままに遊び、明月を抱いて永遠に生き遂げることは、急にはできぬとわかっているから、洞簫の音の余韻を寂しい秋風に託したのだ」と。
私が言うには、「君もあの水と月とを理解しているのか。去り行くものはこの水のようであるが、いまだ流れ去ってなくなったことはない。満ち欠けするものはあの月のようだが、結局は消えたり大きくなったりするのではない。つらつら思うに変化するものからこのことを見ると、この天地ですら一瞬間も同じ状態ではありえない。逆に変化しないものからこのことを見ると、万物も私もすべて尽きることはないのである。それなのにこの上に何を羨ましがることがあろうか。そもそもまた天地の間にあるものは、それぞれ所有者がある。かりそめにも自分が所有するものでないならば、一本の毛といえども取ってはならない。ただ長江の上を吹く清々しい風と、山あいの明月だけは、耳に入れば音楽となり、目に映れば美しい景色となる。これらを取っても禁じるものはなく、使っても尽きることがない。これらは万物の創造主の尽きることのない蔵なのだ。そして私と君とのともに心にかなうものである」と。客は喜んで笑い、杯を洗って改めて酒を酌んだ。酒の肴はもう無くなって、杯や大皿が散乱している。そして二人はともに船の中で互いに寄りかかって寝てしまい、東の空がもう白く明けてきているのも分からなかった。
********************************
天地と人生を対比させ、自然の美しさに対する感動と人として世にあることの喜びが歌われており、価値観が多様化する現代においてこれほど意味深い詩はないのであろうと思います。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
賛には「時空□酉南□日 耕石道人壽」と記され、「耕石」の朱文白方印、「中西壽印」の白文朱方印が押印されています。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
多くの南画の山水画には、この「赤壁賦」の意図が含まれています。南画にも出来不出来があり、冒頭のようにこのような精神性の低い作品も多くなり、明治期以降の南画の多くが「つくもね山水」と蔑称される羽目になりました。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
ただ「いいものはいい。」という鑑識眼は持ち合わせていないとなんでもかんでも「黴臭い」と捨て去るのはいかがなものでしょうか?
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Image may be NSFW.
Clik here to view.
箱書きには「耕石翁画蘇公赤壁図 紙本條幅」とあり、「昭和三年戊辰夏日 観□栖□□ 題簽 赤松孝」と記されています。 残念ながらこの「赤松孝」という人物の詳細は不明です。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Image may be NSFW.
Clik here to view.
なんとはなしに蒐集してきた南画の作品も当方では結構な数となりました。ガラクタと言えばガラクタのなのですが、選別しながら遺していこうかと思います。
Image may be NSFW.
Clik here to view.

この作品も整理中に当方で再評価した作品のひとつです。
リメイク 蘇公赤壁図 中西耕石筆紙本水墨淡彩 軸先木製 合箱全体サイズ:縦1960*横640 画サイズ:縦1320*横520
Image may be NSFW.
Clik here to view.

Clik here to view.

まずは中西耕石の画歴ですが、下記のとおりとなります。
********************************
中西耕石:1807年(文化4年)~ 1884年(明治17年)1月9日。江戸時代後期から明治時代の日本画家。筑前国芦屋中小路(福岡県芦屋町)出身。名を寿平、後に寿。字は亀年。別号に竹叟、筌岡など。山水画、花鳥画に優品を残しています。生家は陶工とも紺屋とも言われますがはっきりしていません。
若くして上洛し、京都で松村景文に師事し、のち小田海僊に四条派を学びます。大坂に出て漢学の篠崎小竹の門下となり、再び京都に戻ると小田海僊に南画を学び名声を得て、1882年(明治15年)には、京都府画学校の教授に就任しています。
日根野對山と共に近世の名家と双称せられていますが山水は殊にその得意とするところでした。筑前藩、津藩から禄米を受け、維新後は京都を代表する南画家として活躍、明治13年京都府画学校設立に際し出仕、同15年第1回内国絵画共進会で銅印を受賞するとともに絵事功労褒状を受けています。門下から巨勢小石、吉嗣拝山、木村耕巌らを輩出し、福岡南画壇の生みの親とされます。また日根対山と前田暢堂の3人で「対暢耕」とよばれていました。
*日根對山については最近のブログでも改めて紹介されています。
********************************
近年は殆ど評価されていない南画の作品ですが、再評価されるべきだろうと当方では考えています。
Image may be NSFW.
Clik here to view.

南画は掛け軸としては大きな作品が多く、彩色も少ないという観点から、居住空間にて飾るところがなく人気がないのでしょうが、その画に収められている学識という観点からは大いに今後再評価されるべき要素はあります。
Image may be NSFW.
Clik here to view.

たとえば本作品も「蘇公赤壁図」という題名から何を題材にしているかという点は学識が必要です。
Image may be NSFW.
Clik here to view.

「赤壁」は、孫権と劉備の連合軍が魏の曹操と激烈な戦いを繰り広げた歴史上の舞台として「三国志」などでもおなじみです。現存の中国湖北省嘉魚県の西にあります。後年北宋の時代に、黄州(現在の湖北省内にある)で流刑の憂き目にあった詩人、蘇東坡(そとうば)が二度この地を訪れ、舟遊びに興じていますが、そのときに「前赤壁賦」「後赤壁賦」というふたつの詩を詠じています。この故事が、その後長いあいだ、中国や日本の文人のあいだで理想の境地と仰がれ、絵画の重要な主題となってきました。むろん画家はほとんどの場合は実地を訪れるわけではなく、蘇東坡の詩から得たイマジネーションを自分なりに咀嚼したり、なんらかの資料をもとにして描いています。
Image may be NSFW.
Clik here to view.

「赤壁賦」について詳細に記述するのは多くの労を要するので、概要だけ記すると下記のような内容になります。
********************************
元豊5年(1082)の秋7月16日の夜、私は客と舟を浮かべて、赤壁のほとりで遊んだ。清々しい風が静かに吹いて来て、水面には波も立たない。酒をすすめて客に注ぎ、「詩経」の「月出」の詩を口ずさみ、「関雎」の詩を歌った。しばらくして、月が東の山の上に出て、南斗星と牽牛星との間をゆっくりと動いていった。白いもやが長江一面にかかり、川面の光がきらきらと天空に接するようである。一艘の小船の行くに任せ、果てしなく広い水面を越えていく。広々として身を虚空に浮かべて風に乗り、どこまで行くのか分からないようで、ふわふわとして俗世間を忘れてひとりいる気分で、羽が生えて仙人となって天に登るような気持ちである。そこで、酒を飲んで大いに楽しんだ。船べりを叩いて拍子を取りこのような歌を歌った。歌の文句は、「桂の香木の櫂と蘭の香木の槳で、川面に映る月の光に掉さして、水面にきらめく月の光をさかのぼる。遥かに遠く我が思いは、美しい月を天空の一方に望み見る」と。
客に洞簫を吹く者がいて、歌に合わせてこれと合奏した。その音は悲しみ嘆くような音色で、恨むようで慕うようで、また泣くようで訴えるようであった。余韻は細く長く続いて、絶えないことは細い糸のようである。奥深い谷に潜むみずちを舞わせ、一艘の小舟の未亡人を泣かせるほどであった。私は憂いて顔色を変え、襟元を正して、正座して客に尋ねた、「どうしてそれはこのような悲しい音であるのか」と。
客が言うには、「『月が明るく星がまばらで、カササギが南に飛んでいく』とは、これは曹孟徳の詩ではないか。西の方向に夏口を望み、東の方向に武昌を望めば、山と川とが互いにまつわりあい、こんもりとして草木が生い茂っている。この辺りは孟徳が呉の周郎に苦しめられた所ではないか。孟徳が荊州を破り、江陵から長江を下って、流れにのって東へ向かうその時には、船が多くて舳(とも)と艫(へさき)が続いて千里にも及び、軍の旗は空をおおうほどであった。その時孟徳は酒を酌んで飲み長江を目の前にして、槊(ほこ)を横たえて詩を作った。本当に時代の英雄である。しかしながらその英雄は今どこにいるというのか。まして私と君は、長江のほとりで魚をとり、きこりをし、魚やえびを友として大鹿や小鹿を仲間として、時には一艘の小船に乗り、酒の器をもってすすめ合い、かげろうのようにはかない身を天地にまかせる、はるかな大海原の中の一粒の穀物のような存在では、なおさら死ぬのは当然のことだ。私の人生がほんのしばらくの間であるのを悲しみ、長江が尽きることのないのをうらやましく思う。空飛ぶ仙人と腕を組んで気ままに遊び、明月を抱いて永遠に生き遂げることは、急にはできぬとわかっているから、洞簫の音の余韻を寂しい秋風に託したのだ」と。
私が言うには、「君もあの水と月とを理解しているのか。去り行くものはこの水のようであるが、いまだ流れ去ってなくなったことはない。満ち欠けするものはあの月のようだが、結局は消えたり大きくなったりするのではない。つらつら思うに変化するものからこのことを見ると、この天地ですら一瞬間も同じ状態ではありえない。逆に変化しないものからこのことを見ると、万物も私もすべて尽きることはないのである。それなのにこの上に何を羨ましがることがあろうか。そもそもまた天地の間にあるものは、それぞれ所有者がある。かりそめにも自分が所有するものでないならば、一本の毛といえども取ってはならない。ただ長江の上を吹く清々しい風と、山あいの明月だけは、耳に入れば音楽となり、目に映れば美しい景色となる。これらを取っても禁じるものはなく、使っても尽きることがない。これらは万物の創造主の尽きることのない蔵なのだ。そして私と君とのともに心にかなうものである」と。客は喜んで笑い、杯を洗って改めて酒を酌んだ。酒の肴はもう無くなって、杯や大皿が散乱している。そして二人はともに船の中で互いに寄りかかって寝てしまい、東の空がもう白く明けてきているのも分からなかった。
********************************
天地と人生を対比させ、自然の美しさに対する感動と人として世にあることの喜びが歌われており、価値観が多様化する現代においてこれほど意味深い詩はないのであろうと思います。
Image may be NSFW.
Clik here to view.

賛には「時空□酉南□日 耕石道人壽」と記され、「耕石」の朱文白方印、「中西壽印」の白文朱方印が押印されています。
Image may be NSFW.
Clik here to view.

多くの南画の山水画には、この「赤壁賦」の意図が含まれています。南画にも出来不出来があり、冒頭のようにこのような精神性の低い作品も多くなり、明治期以降の南画の多くが「つくもね山水」と蔑称される羽目になりました。
Image may be NSFW.
Clik here to view.

ただ「いいものはいい。」という鑑識眼は持ち合わせていないとなんでもかんでも「黴臭い」と捨て去るのはいかがなものでしょうか?
Image may be NSFW.
Clik here to view.

Clik here to view.

箱書きには「耕石翁画蘇公赤壁図 紙本條幅」とあり、「昭和三年戊辰夏日 観□栖□□ 題簽 赤松孝」と記されています。 残念ながらこの「赤松孝」という人物の詳細は不明です。
Image may be NSFW.
Clik here to view.

Clik here to view.

なんとはなしに蒐集してきた南画の作品も当方では結構な数となりました。ガラクタと言えばガラクタのなのですが、選別しながら遺していこうかと思います。