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鮎之図 小泉檀山筆

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一昨日は前の職場のOB会の会合・・、昨日は新潟から長岡への挨拶回り・・。定年になると自分の故郷に帰る人が必ず何人かいます。人も魚も同じかも・・・。

鮎の図といえば小泉檀山という画家が思い浮かぶ人はなかなかの日本画に通の人でしょう。本ブログでも鮎を描いた作品はなんどか投稿していますが、小泉檀山の作品は今回が初めてです。

鮎之図 小泉檀山筆
絹本着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1085*横570



鮎を描いた作品は下記の作品のリンク先を参考にしてください。福田豊四郎の描いた作品も投稿されています。

清流(仮題) 田中以知庵筆絹本着色軸装 軸先象牙 
全体サイズ:縦1440*横653 画サイズ:縦446*横509



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小泉檀山:小泉 斐(こいずみ あやる)とも称される。明和7年3月(1770年)~ 嘉永7年7月5日(1854年7月29日)。江戸時代後期の画家。殊に鮎と猫は真に迫るといわれた。本姓は木村。幼名を勝、諱は光定、字を桑甫・子章とし、檀山・青鸞・檀森斎・非文道人などと号した。下野国の人。下野国芳賀郡益子(現在の栃木県芳賀郡益子町)に生まれる。父は鹿島神社神官の木村一正、母は片岡氏。



幼少より絵を好み、11歳で高田敬輔の門人島崎雲圃に入門。唐美人図・鮎図などを習う。師との関係から近江に頻繁に出向き、日野祭の山車の見送幕の製作などをしている。

30歳頃、那須郡両郷村(現在の栃木県那須郡黒羽町)温泉神社の小泉光秀の養子となり同社の神官を継いだ。立原翠軒に就いて経学や詩文を修め、その子立原杏所に画を教えた。また和歌、音楽を嗜んだともいう。

享和元年(1801年)に、甲斐守に任ぜられ従五位に叙される。50歳の時に黒羽藩主大関増業より城北の鎮国社宮司職を与えられ、その後は旺盛に画の創作を行った。

画は唐の王維を敬慕した。各地から門弟が雲集し30年もの間、画技を伝えたという。「小泉檀山門人録」には100名もの人名が記され島崎玉淵・宇佐美太奇などが育つ。高久靄も画技を受けたひとりという。




鮎図に猫が飛びついたというエピソードが伝わる。斐は立原翠軒の従者として寛政7年(1795年)に藤田幽谷などと吉原口から富士登山に成功している。このときを元に製作した「富嶽写真」は富岡鉄斎が富士図製作に携わるとき大いに参考にした。

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生まれたところに戻るのが敵わなくても、故郷を思う気持ちは変わらない。



地方の崩壊は都会に住んでいる人には理解できないだろうが、予想以上に大きい。



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