家内が一時退院してブログが復活したら、急激にアクセス件数が増えてきました。家内が一時入院したおかげで本ブログのアクセス件数が増えたという???
当方のブログはどちらかというとある程度知識がないと入り込めないブログなので、家内のブログの愛読者とは相入れないでしょう
本日の作品の作者である斎藤畸庵の作品はなかなか入手できないでいます。入手してもいまいちピンと来ず、売却したものもあります。どうも贋作があるようです。斎藤畸庵とともに収集したい画家である桑山玉洲はまだ真作にお目にかかっていません。
「林良」は今週の「なんでも鑑定団」に出品されましたが、真作ではなかったようですね。「林良」が描いたという作品は巷には数多く見受けられますが、ひとつとして真作はみたことがありません。そうそうあるものではないのですが、「なんでも鑑定団」に出品されたもののように無落款であれば古画としての価値があるようですね。
今回は残念ながら斎藤畸庵の得意とする山水画ではなく、花鳥画ですがその墨使いはなかなかのもののように思います。とうぜん「林良」には敵いませんが・・。
売却時の題名が「秋草鴨図」・・・・・???
蘆雁図 斎藤畸庵筆
紙本水墨軸装 軸先象牙(片側欠損) 合箱
全体サイズ:縦2045*横905 画サイズ:縦1360*横730
「倣林良法 奇庵 押印」とあり、長崎において中国の元朝代から明・清代に至る諸家の作品を臨模していたという記述があることから、その当時の作品ではないかと推察されます。
「奇庵」とあるので「斎藤畸庵」か否かも含めて検証する必要がありますが、おそらく「斎藤畸庵」の作に相違ないと思われますがいかがでしょうか。「斎藤畸庵」の作ならば山水以外の「斎藤畸庵」の作品として貴重な作と言えるかもしれません。
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斎藤畸庵 :(1805−1883)文化2年に温泉街として有名な兵庫県城崎町の旅館「伊勢屋」に生まれ名を淳、字を仲醇、幼名を小太郎(後に文之助)といい、別号を息軒老人と称しました。文政3年、16歳の時に画家を志して京都に上り、南画界の重鎮 中林竹洞の門下に入り画法を学びます。
嘉永6年、49歳の時に竹洞の下を離れ、播州〜阿波〜讃岐〜長崎と諸国遊歴の旅に出て、晩年は東京の神田駿河台に住まいにしました。そして明治16年4月1日、2日の両日 長野県富士見町の「三光寺」での書画会に出席の後、甲府に赴き4月15日 甲府の旅館「佐渡幸」にて79歳で亡くなりました。
畸庵の描く山水画は神経質な細い線と点描表現、緻密な細かい筆致で描かれているのが特徴で一部の愛好家に大変人気があり、素晴らしい作品が多いのですが、畸庵自身は名誉や利益には一切興味がなく、世の中の流れには乗らず一貫して風流人として自身の人生を楽しんだので、確かな技量があるにも関わらず、南画家としては地味な存在です。しかし、近年その作品は高く評価され隠れた大家の一人として挙げられています。
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かなりの大幅なので普通の床の間では掛けることができないようです。軸先はかなり飴色になった象牙で味がありますが、片方が欠損しています。
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林良:中国,明中期の画家。生没年不詳。字は以善。南海(広東省)の人。若いとき,藩司奏差をつとめ,同郷の顔宗,何寅善に画を学んだが,花鳥画に最も秀でた。その後,工部営繕所丞に推薦され,仁智殿に奉職して錦衣衛鎮撫となった。画院では,著色花鳥画家の呂紀に対して,水墨花鳥画家として文人の間でも高く評価され,写意的な荒々しい筆墨によって,花竹翎毛(れいもう)の生態を巧妙にとらえた。活躍期は景泰から成化年間(1450‐87)である。
林良の真作が市場に出回ることはそうないと思います。下記の作品がネットオークションに出品されていましたが・・。
箱書きは田能村直入らしい・・・・、落札金額は40万??
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本作品がどのような作品を倣った描いたのかは不明ですが、下記の作品のようなものではなかったかと推測しています。
斎藤畸庵の補足説明
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晩年の竹洞の元で画、詩文を学び、嘉永6年、師・竹洞の死とともに遊歴の旅に出ます。時に畸庵、49歳。竹洞の盟友山本梅逸もその時、郷里の名古屋に戻っているので、いかに竹洞の人徳が高かったかがわかります。遊歴の旅は、郷里から四国、九州長崎へ、長崎来舶清人、各地の文人たちと交わったといいます。
後、東京に居を移し神田駿河台に住まいしました。明治16年、旅泊先の甲州にて亡くなりました。享年79歳。
彼の作品には、清浄な空気が漂っており、アブストラクトに近いような細かい描写は、師・竹洞の繊細さをより心の世界に閉じ込めた感があります。世の中が、開かれていく時代に一人、名利と離れ江戸の文人の世界に遊んだ文人と言えます。現在は知る人も少ない画家ですが、彼自身も著名になることに繋がることを別に求めていなかったような気がします。殺伐とした現代になって高く評価されている理由が充分に理解できる画家です。
江戸の半ばから維新にかけてようやく庶民にまで詩書画が、拡がり有名無名の文人たちが日本の山海市井を遊歴する土壌ができた矢先に文明開化になりました。絵画史の中で、変わりゆく社会に対する孤独感の中、南画を描き続けた画家の一群を「遅れてきた文人」ともいえます。
文人画は端的にいえば詩心を絵画化したものであると言えるでしょう。文人画家の最高の褒め言葉として「詩書画三絶」という言葉があります。まず詩があり書がありその上の画であり、そのいずれもが諸人を絶しているほど素晴らしい、という意味です。
鑑賞者の側から考えると、明治期には、まだ詩を書き、詩を読む市井の人々がいました。それが、詩は、読めるが、書けなくなり、そして美の愛好家たちは、読むことも書くことも覚束ない現代にいたっております。芸術は、それを理解する大多数の人々がいてこその芸術であり、「遅れてきた文人」たちは、理解者少なき芸術家です。現代は文人画の受難の時代です。というより文人画の存続の危機と言えるでしょう。
奄美大島に死んだ孤独の画家・田中一村もまた「遅れてきた文人」の一人であるといえます。一村の若描きの画は、まさに文人画そのものであります。中央に集中する文化に、嫌気がさした一村は、彼なりの文人画を最後に描いたのかもしれません。そして、「遅れてきた文人」とは、何かを考える上で、この斎藤畸庵の画は、ある示唆を与えています。現代人が失った文人の心意気を取り戻すことが大切です。
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テレビの「なんでも鑑定団」に全面的に賛同はできない点はありますが、古いくていいものを紹介してくれるにはいい企画だと思います。鑑定人が表現する奥の深い意味を理解してもらいたいものです。
我々の跡を継ぐべき人にはモノづくりの気概というものが薄れていますね
当方のブログはどちらかというとある程度知識がないと入り込めないブログなので、家内のブログの愛読者とは相入れないでしょう
本日の作品の作者である斎藤畸庵の作品はなかなか入手できないでいます。入手してもいまいちピンと来ず、売却したものもあります。どうも贋作があるようです。斎藤畸庵とともに収集したい画家である桑山玉洲はまだ真作にお目にかかっていません。
「林良」は今週の「なんでも鑑定団」に出品されましたが、真作ではなかったようですね。「林良」が描いたという作品は巷には数多く見受けられますが、ひとつとして真作はみたことがありません。そうそうあるものではないのですが、「なんでも鑑定団」に出品されたもののように無落款であれば古画としての価値があるようですね。
今回は残念ながら斎藤畸庵の得意とする山水画ではなく、花鳥画ですがその墨使いはなかなかのもののように思います。とうぜん「林良」には敵いませんが・・。
売却時の題名が「秋草鴨図」・・・・・???
蘆雁図 斎藤畸庵筆
紙本水墨軸装 軸先象牙(片側欠損) 合箱
全体サイズ:縦2045*横905 画サイズ:縦1360*横730
「倣林良法 奇庵 押印」とあり、長崎において中国の元朝代から明・清代に至る諸家の作品を臨模していたという記述があることから、その当時の作品ではないかと推察されます。
「奇庵」とあるので「斎藤畸庵」か否かも含めて検証する必要がありますが、おそらく「斎藤畸庵」の作に相違ないと思われますがいかがでしょうか。「斎藤畸庵」の作ならば山水以外の「斎藤畸庵」の作品として貴重な作と言えるかもしれません。
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斎藤畸庵 :(1805−1883)文化2年に温泉街として有名な兵庫県城崎町の旅館「伊勢屋」に生まれ名を淳、字を仲醇、幼名を小太郎(後に文之助)といい、別号を息軒老人と称しました。文政3年、16歳の時に画家を志して京都に上り、南画界の重鎮 中林竹洞の門下に入り画法を学びます。
嘉永6年、49歳の時に竹洞の下を離れ、播州〜阿波〜讃岐〜長崎と諸国遊歴の旅に出て、晩年は東京の神田駿河台に住まいにしました。そして明治16年4月1日、2日の両日 長野県富士見町の「三光寺」での書画会に出席の後、甲府に赴き4月15日 甲府の旅館「佐渡幸」にて79歳で亡くなりました。
畸庵の描く山水画は神経質な細い線と点描表現、緻密な細かい筆致で描かれているのが特徴で一部の愛好家に大変人気があり、素晴らしい作品が多いのですが、畸庵自身は名誉や利益には一切興味がなく、世の中の流れには乗らず一貫して風流人として自身の人生を楽しんだので、確かな技量があるにも関わらず、南画家としては地味な存在です。しかし、近年その作品は高く評価され隠れた大家の一人として挙げられています。
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かなりの大幅なので普通の床の間では掛けることができないようです。軸先はかなり飴色になった象牙で味がありますが、片方が欠損しています。
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林良:中国,明中期の画家。生没年不詳。字は以善。南海(広東省)の人。若いとき,藩司奏差をつとめ,同郷の顔宗,何寅善に画を学んだが,花鳥画に最も秀でた。その後,工部営繕所丞に推薦され,仁智殿に奉職して錦衣衛鎮撫となった。画院では,著色花鳥画家の呂紀に対して,水墨花鳥画家として文人の間でも高く評価され,写意的な荒々しい筆墨によって,花竹翎毛(れいもう)の生態を巧妙にとらえた。活躍期は景泰から成化年間(1450‐87)である。
林良の真作が市場に出回ることはそうないと思います。下記の作品がネットオークションに出品されていましたが・・。
箱書きは田能村直入らしい・・・・、落札金額は40万??
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本作品がどのような作品を倣った描いたのかは不明ですが、下記の作品のようなものではなかったかと推測しています。
斎藤畸庵の補足説明
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晩年の竹洞の元で画、詩文を学び、嘉永6年、師・竹洞の死とともに遊歴の旅に出ます。時に畸庵、49歳。竹洞の盟友山本梅逸もその時、郷里の名古屋に戻っているので、いかに竹洞の人徳が高かったかがわかります。遊歴の旅は、郷里から四国、九州長崎へ、長崎来舶清人、各地の文人たちと交わったといいます。
後、東京に居を移し神田駿河台に住まいしました。明治16年、旅泊先の甲州にて亡くなりました。享年79歳。
彼の作品には、清浄な空気が漂っており、アブストラクトに近いような細かい描写は、師・竹洞の繊細さをより心の世界に閉じ込めた感があります。世の中が、開かれていく時代に一人、名利と離れ江戸の文人の世界に遊んだ文人と言えます。現在は知る人も少ない画家ですが、彼自身も著名になることに繋がることを別に求めていなかったような気がします。殺伐とした現代になって高く評価されている理由が充分に理解できる画家です。
江戸の半ばから維新にかけてようやく庶民にまで詩書画が、拡がり有名無名の文人たちが日本の山海市井を遊歴する土壌ができた矢先に文明開化になりました。絵画史の中で、変わりゆく社会に対する孤独感の中、南画を描き続けた画家の一群を「遅れてきた文人」ともいえます。
文人画は端的にいえば詩心を絵画化したものであると言えるでしょう。文人画家の最高の褒め言葉として「詩書画三絶」という言葉があります。まず詩があり書がありその上の画であり、そのいずれもが諸人を絶しているほど素晴らしい、という意味です。
鑑賞者の側から考えると、明治期には、まだ詩を書き、詩を読む市井の人々がいました。それが、詩は、読めるが、書けなくなり、そして美の愛好家たちは、読むことも書くことも覚束ない現代にいたっております。芸術は、それを理解する大多数の人々がいてこその芸術であり、「遅れてきた文人」たちは、理解者少なき芸術家です。現代は文人画の受難の時代です。というより文人画の存続の危機と言えるでしょう。
奄美大島に死んだ孤独の画家・田中一村もまた「遅れてきた文人」の一人であるといえます。一村の若描きの画は、まさに文人画そのものであります。中央に集中する文化に、嫌気がさした一村は、彼なりの文人画を最後に描いたのかもしれません。そして、「遅れてきた文人」とは、何かを考える上で、この斎藤畸庵の画は、ある示唆を与えています。現代人が失った文人の心意気を取り戻すことが大切です。
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テレビの「なんでも鑑定団」に全面的に賛同はできない点はありますが、古いくていいものを紹介してくれるにはいい企画だと思います。鑑定人が表現する奥の深い意味を理解してもらいたいものです。
我々の跡を継ぐべき人にはモノづくりの気概というものが薄れていますね