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忘れ去られた画家 舞美人図 池田焦園筆

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週末の土曜日は施設に居る母を訪ねてきました。元気そうでしたが、おばあちゃんやら看護師さんから幸紀はモテモテ・・。



「三都三園」と称する女流美人画家三人をご存知でしょうか。一応、画家の分野ではよく知られている言葉です。その三人の中ではもっとも早世しており、なんと33歳で亡くなっており、もっとも惜しむべき画家の一人です。

舞美人図 池田焦園筆
絹本着色軸装 軸先塗 鑑定箱 
全体サイズ:横552*縦2200 画サイズ:横415*縦1100



箱書については詳細は不明ですが、昭和20年晩春とあり、、まだ戦時中の箱書と思われます。

箱の表には「女流□□池田焦園先生舞美人□□」とあります。裏には「焦園池田百合子東京人本姓榊原池田輝方妻□□年方門美人画□□京都上村松園と双璧也 大正六年没享年三十二昭和二十年晩春 ・・・押印」 なんとも読みにくい字・・。

 

「京都上村松園と双璧也」と・・、たしかに当時はそのように高い評価を受けていたようです。




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紅葉紋様の着物のあでやかな逸品といえます。

池田焦園:(1886年5月13日 ~ 1917年12月1日)明治から大正にかけての女性浮世絵師、日本画家。本名池田(旧姓榊原)百合子(あるいは由理子)。夫も日本画家の池田輝方日本画家。水野年方、川合玉堂に師事する。



文展等諸種の展覧会に出品し、多くの賞を得た。烏合会会員。大正6年(1917年)没、享年33歳。明治、

大正、昭和初期の近代日本画において美人画のジャンルは絶頂期を向かえ、その中でも女流画家の活躍はめざましいものがあったが、「三都三園」とはそんな近代女流美人画家の代表的な3人を称しますが、京都の上村松園、東京の池田焦園、大阪の島成園がその3名で池田焦園があげられています。ただし島・池田とも松園にあやかって園の文字が使われたとのことです。

明治に始まる東京画壇の鏑木清方、池田輝方と池田焦園の夫婦などは浮世絵の美人絵を清新な時代感覚で蘇生させようとした画人達であり、伊東深水などに受けつがれて、これらの人々は近代美人画の主流となっていきます。

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実に興味深い話・・。

池田輝方と婚約するも、その直後に輝方は別の女性と池田輝方が失踪。この出来事の顛末は田口掬汀による連載記事「絵具皿」で万朝報に報じられ、広く話題となった。蕉園は悲しみのあまりしばらく作品制作から遠ざかったほどであったが、こうした経験がもたらした苦悩と、水野から学び受け継いだ浮世絵風の造形美が、独特の甘く感傷的な作風へと昇華されたといわれています。八年後、放浪生活から戻った輝方と結婚しましたが、両名ともに早く亡くなっています。




女流美人画家は恋多い。上村松園もしかり・・。未婚の母ですから・・。人生は悔いが残っても、悔いがなくても? 思い切り生きたほうがいい。順風満帆な人生は終わってみれば意外につまらないもの。


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池田焦園の補足説明

1886年(明治19年)5月13日、東京・神田雉子町に、榊原浩逸、綾子夫妻の長女として生まれる。下に一人の弟、三人の妹がいる。父浩逸は旧岸和田藩士であったが、慶應義塾で福沢諭吉に学び、彼の勧めによりアメリカ・ラトガース大学に留学して鉄道を研究、日本鉄道に勤務したのち、岩倉鉄道学校(現在の岩倉高等学校)の幹事となった人物。母綾子は実業家にして歌人でもあった間島冬道の娘で、和歌や書に優れていたほか、1876年(明治9年)ごろからは国沢新九郎の主宰する彰技堂画塾に入門、国沢のほか本多錦吉郎にも師事して洋画を学んだ経験を持つ。夫妻は鹿鳴館にも出入りしていた名士であった。



1893年(明治26年)4月に両国の江東小学校に入学、1895年(明治28年)には一家が麹町区富士見町に転居したため、富士見小学校3年に編入。この頃より草双紙の絵を石版に描き写すなどして画才を発揮し始める。1898年(明治31年)4月に女子学院(現在の女子学院中学校・高等学校)に入学、当時開明的とされた教育を受けるが、1901年(明治34年)、学業のかたわら15歳で日本画家・水野年方(1866-1908)の主宰する慶斎画塾に入門。蕉園の号は、上村松園に憧れる百合子に、松園に負けぬ美人画家になるようにと、師年方が与えた。入門翌年1902年(明治35年)ごろに「桜狩」を発表して画壇デビュー。この頃より同門であった池田輝方と相思相愛の間柄となり、学業を放棄。1903年(明治36年)からは、同門であった鏑木清方が主宰する研究グループ・烏合会に、村岡応東、吉川霊華(1875-1929)らとともに参加してさらに研鑽を積む。同年第9回絵画共進会で「つみ草」が、第10回の同会では「夕暮れ」が入選。



1903年(明治36年)師の立会いのもと、池田輝方と婚約するも、その直後に輝方は別の女性と失踪、この出来事の顛末は田口掬汀による連載記事「絵具皿」で万朝報に報じられ、広く話題となった。蕉園は悲しみのあまりしばらく作品制作から遠ざかったほどであったが、こうした経験がもたらした苦悩と、水野から学び受け継いだ浮世絵風の造形美が、独特の甘く感傷的な作風へと昇華されたといわれ、3年間のブランクの後、1906年(明治39年)に美術研精会に出品した「わが鳩」で研精賞碑を受賞、橋本雅邦に実力を認められる。1907年(明治40年)、21歳で東京勧業博覧会に『花の蔭』を出品して2等賞、同年秋に開催された第1回文部省美術展覧会(文展)では「もの詣で」で3等賞を受賞。




1908年(明治41年)の第2回文展には「やよい」を出品して3等賞を受賞。この年には師・年方が死去したため、翌1909年(明治42年)からは川合玉堂に師事し、鈴木華邨にも指導を受ける。こうした研鑽の甲斐あってか、この前後の数年間は彼女の全作品の半分以上が集中して生み出され、完成度の高い力作も集中する充実期となった。同年刊行の泉鏡花の『柳筥』の挿絵が知られており、同年の第3回巽画会展へは「帰途」、やはり同年の第3回文展に「宴の暇」、1910年(明治43年)の第4回展に「秋のしらべ、冬のまどい」、1915年(大正4年)の第9回展に「かえり路」を出品してそれぞれ3等賞、1916年(大正5年)の第10回展では「こぞのけふ」で特選を受賞し、1912年(大正元年)の第6回展第2科の「ひともしごろ」、1914年(大正3年)の第8回展の「中幕のあと」はともに褒状を受けた。1910年(明治43年)の日英博覧会には「紅葉狩」「貝覆」の二曲一双屏風を出品。1911年(明治44年)の第1回東京勧業博覧会へ出品した「夢の跡」では、「朦朧派」の影響の下、人物の目元などにぼかしをかける叙情的な表現が用いられたが、これは伊東深水、竹久夢二などの追随者を生んだ。

この活躍により、同様の動きを見せていた京都の上村松園とともに「東の蕉園、西の松園」「閨秀画家の双璧」「東西画壇の華」とされた他、のちには大阪の島成園を加えて「三都三園」と呼ばれたりもした。こうした一方で泉鏡花の『柳筥』『白鷺』の口絵を手がけ、徳田秋声の『誘惑』、雑誌「女学世界」「女鑑」「少女世界」「少女画報」などの挿絵も描いた。蕉園自身は泉鏡花の文学の熱烈なファンでもあり、1908年(明治41年)には彼を支持する人々の集まり「鏡花会」に参加。泉本人のほか、長谷川時雨との交友も盛んとなった。このほか観劇、邦楽などの愛好家としても知られた。




1911年(明治44年)、放浪生活から戻った輝方と結婚、輝方も蕉園同様に文展で受賞を重ね、夫婦で屏風や双幅を合作したりもして、「文展のおしどり画家」と呼ばれた。1914年(大正3年)には再興・第1回日本美術院展(院展)に輝方の「お夏」とともに「おはん」を出品しているが、これは二人のただ一回の院展出品となった。そのころには国民的名士として知られ、上流階級の夫人、令嬢を多く門弟としたほか、大正天皇の前で絵を描いてみせたりもし、作品は高値で買い取られた[4]一方、文展には多くの模倣作が溢れて識者の顰蹙を買い、私生活での行動までもが人々の興味の対象[5]となった。1916年(大正5年)の第10回文展での特選受賞は夫婦揃ってのものだったが、蕉園はこの翌年1917年(大正6年)に結核に倒れ、夫輝方の献身的な看病もむなしく、やがて肋膜炎を併発、同年12月1日、31歳で死去。犬養毅、当時の皇后宮大夫、文部次官など政、官界の要人、高村光雲、鏑木清方、徳田秋声、松岡映丘ら多くの美術人、門弟、愛好家たちが参列する盛大な葬儀が営まれ、谷中墓地に埋葬された。法名は「彩雲院蕉園妙観大姉」。夫の輝方も4年後の1921年(大正10年)に38歳で没した。弟子に、木谷千種、松本華羊、ポール・ジャクレーなど。

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