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忘れ去られた画家 孔雀図 佐伯岸良筆

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今週の「なんでも鑑定団」に「大津絵」が出品されました。大津絵にも贋作があるという・・、まずは2枚つなぎの紙に描かれていること。これは長めの作品で知っていました。次に折り目が均等に入っている入るものは怪しいと・・、これは知らなかった。改めて本ブログの作品を見直す必要がありそう・・。それにしても大津絵の仏画は少ない・・。でも相変わらず「なんでも鑑定団」のお値段は高すぎる。その10分の1以下で流通取引されています。自分で売却すると良くわかりますよ。

本日は佐伯岸駒に始まる岸派の実力者の作品です。娘婿で2代目が実子の長男のため、忘れ去られていますが実力はこちらが上・・。

孔雀図 佐伯岸良筆
絹本水墨着色軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:縦1915*横600  画サイズ:縦1110*横475




南蘋派風の濃彩豊かな作品で技量の確かさがうかがえる。孔雀を得意とした同時期の画家である岡本秋暉の影響が明らかにみられる。岸派2代目の岸岱の陰に隠れて目立たないが、技量は岸良が上と思われる。



同時期の画家と比較してみると非常に興味深い鑑賞が出来ると思います。本ブログでは数は多くありませんが、他の作品を検索したりして鑑賞するとより深く日本画を愉しめます。

ところでどうして孔雀と牡丹が対で描かれるかご存知ですか? ちょっと気になって調べてみました。

「雄々しく華麗な鳥「孔雀」、その姿から富貴の象徴とされる。九つの徳(忠・信・敬・剛・柔・和・個・貞・順)を持つとされ、宮廷にも欠かせない鳥であることから、現代まで様々な書画・吉祥図に用いられてきた。実際の絵画では、牡丹と併せて番いの孔雀が描かれることが多い、これは孔雀を陽(男性)・牡丹を陰(女性)の象徴として表し、交歓・和合の意を持ち、新婚の夫婦の部屋に飾られることも多い。」

なぬ?・・孔雀は男、牡丹は女・・、交歓、和合の意味・・、新婚の夫婦の部屋に飾るだと・・。む~、今は寝ている部屋に飾っているが ま~、牡丹が蕾だしね。


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岸良:(がんりょう)寛政10年(1798年)~嘉永5年3月19日(1852年5月7日))は、江戸時代後期の絵師。京都生まれ。旧姓濱谷、名は五郎、昌良、字を子良、号は画雲(楼)、乗鶴など。佐伯岸良(さえきがんりょう)とも。 人物画、花鳥画に優れた。

画歴はよく分かっていないが、若くして岸駒に学んだという。岸駒の長女・貞は、岸成と結婚し一女・春(岸連山妻)をもうけていたが、岸成が早世したため、後婿に岸良を迎えた。有栖川宮家に仕え、雅楽助を名乗る。岸派2代目の岸岱の陰に隠れて目立たないが、画技は確かで、お家芸の虎図だけでなく、南蘋派風の濃彩な写実画も良くする。

御所や高野山西門院の仕事もこなしており、岸岱と共に岸駒亡き後の岸派を支えた。室町四条南に住す。嘉永5年没する。戒名は画雲院殿良虎日猛居士。墓所は上京区の本禅寺。



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さらりと描かれており、南蘋派風の作品でありながら、さわやかささを感じます。



現在は掛け軸ではこのような作品は、二束三文で売られています。いい作品はもっと見直されていいと思います。もっと「なんでも鑑定団」で取り上げて欲しいものですね。

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岸岱:(がんたい)天明2年(1782年)または天明5年(1785年)~ 元治2年2月19日(1865年3月16日)は、江戸時代後期の絵師。岸駒の長子に生まれ、岸派の2代目として継承・発展させた。名は若い頃は国章、のち昌岱。字を君鎮。別号に卓堂、虎岳、紫水、同功館など。

父から厳しく画法を習い、画才が乏しいことを責められたという。文化5年(1808年)従六位下筑前介に任ぜられ、その翌年父岸駒とともに金沢城内に障壁画を描く。文政8年10月に正六位下に、天保7年(1836年)には越前守に進む。天保15年間(1844年)有栖川宮の代参として金刀比羅宮に参拝、奥書院の障壁画を制作を申し出、2ヶ月足らずで「柳の間」「菖蒲の間」「春の間」全てを完成させた。嘉永6年(1853年)従五位下筑前守に叙す。安政年間(1854年-1860年)御所造営に岸誠・岸連山・岸竹堂らと共に参加し、御常御殿二之間、御学問所中段之間、皇后宮常御殿御寝之間、御花御殿北之間の障壁画を担当した。墓所は上京区の本禅寺。

岸駒や呉春亡き後、長命だったことも手伝い、岸派の二代目として京都画壇に大きな勢力を築いた。『平安人物誌』には文化10年(1813年)から嘉永5年(1852年)の長期に渡って
掲載されている。その画法は岸駒の筆法を受け継ぎ、虎などの動物画を得意としつつも、四条派を意識した温和な作品や、伝統的な大和絵の画題や金地濃彩の障壁画など幅広い作
風を示す。金刀比羅宮の障壁画では、80年前に描かれた伊藤若冲の障壁画へのオマージュや宮への恭敬からか、敢えて自分の得意な画題を描かず、与えられた空間を最大限活かすように作画している。絵だけでなく文筆にも秀で、書籍の序なども手掛けた。弟子に、長男の岸慶、次男の岸礼、末子の岸誠、喜田華堂など。

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