新年明けましておめでとうございます。1月3日まで郷里に帰省しておりました。雪は例年の2倍以上とのことでしたが、それほどでもなかったというのが正直なところ・・。ただ我が息子は雪国の洗礼を受けました。
今年の夜噺骨董談義はじっくりと厳選の年とし、ペース配分を考えて毎日の投稿というよりは、作品を取捨選択しながら、リメイクを含めての内容になろうか思いますが、あくまでもそういう計画・・。
本日はめでたい掛け軸ということで朝陽に松ニ鷹・・。帰省に際して再撮影。
リメイク再投稿 2010年5月10日掲載
松鷹之図 狩野芳崖筆
紙本水墨淡彩絹装上表具本多天城鑑定箱布装カバー二重箱軸先本象牙
全体サイズ:縦2300*横760 画サイズ:縦1282*横612
本作品は家に古くからあった作品です。本家から当家へ、その後母の実家へと伝えられ、その後私が入手した作品です。一時期、事業のために売りに出されそうになったこともありました。
由来のある作品はきちんとしています。まずは箱の拵えが違いますね。焼杉の板目の美しい箱に入っています。厳選された木目です。「第弐拾弐号」というのは本家で所蔵していた時に祖父が整理させた番号です。幾つか縁があって入手していますが、そのほかには横山大観、伊東深水などそうそうたる作品があったようです。
昭和29年の新聞が入っていますので、その頃に祖父が購入したものでしょう。
外の箱に保護されて中身はしっかりしています。この取り扱いはきちんと丁寧に行う必要があります。今後も取り扱い方を知っている人がきちんと管理する必要があります。
狩野芳崖の門下である本多天城の鑑定箱があります。正式な鑑定は受けていませんが、今後正式な鑑定を受けるなくてはなりませんね。
非常に細工のいい二重箱入です。明治12年頃の島津家の庇護を受けている当時の狩野派の影響の強い作風ですが、その品格の高さが窺い知れる作品です。
狩野芳崖については記述する必要もないでしょう。
************************************
狩野芳崖:文政11年1月13日(1828年2月27日)~明治21年(1888年)11月5日)。近代日本画の父。長府藩(山口県下関)御用絵師の家に生まれる。
19歳の頃上京、橋本稚邦と奥絵師木挽町狩野の晴川院養信に入門、晴川院を継いだ勝川院雅信(1823‐80)のもとで活躍、塾頭にまでなった。しかし、江戸幕府崩壊、明治維新によって定職を失ってしまい、生活苦と闘うことになる。
明治12年(1879)頃より島津公爵家の庇護をうけ、生活はようやく安定、同家所蔵の雪舟・雪村などの古画を学んだ。
明治15年(1882)、第1回内国共進会に出品した≪山水図≫≪布袋図≫など8点は受賞の対象外で嘲笑的な批評をあびたが、当時、沈滞していた日本画の復興運動を指導するフェノロサがその個性を認め、以降、フェノロサ・岡倉天心らとともに、伝統に根ざしての日本画の近代化を推進していった。
ほぼ同時代を生きた高橋由一が、日本近代洋画の最初の画家だとすると、近代日本画史の最初を飾るのは芳崖であろう。由一にとってイギリス人画家ワーグマンとの出会いが決定的であったのと同様、芳崖にとってはフェノロサとの出会いが重要であった。
日本美術を高く評価していたフェノロサは、日本画の伝統に西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた、新・日本画の創生を芳崖に託した。
フェノロサと知り合った1882年、すでに54歳であった芳崖に残された時間はあまり多くなかったが、さまざまな試行錯誤の結果、畢生の名作「悲母観音」が誕生した。この絵の観音像の衣文表現などには仏画や水墨画の描法が看取される一方、色彩感覚や空間把握には西洋画の息吹が感じられる。
芳崖は東京美術学校(後の東京藝術大学)の教官に任命されたが、「悲母観音」を書き上げた4日後の1888年11月5日、同校の開学を待たずに死去した。
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狩野芳崖の作品は、他にも投稿していますが、本作品は島津家所縁にて伝えられたものと判断しています。
その根拠となる作品が下記の作品です。
参考作品 その1
松上鶴之図
思文閣 墨蹟資料目録「和の美」第478号 作品NO52
「芳崖先生遺墨全集 乾」並「芳崖先生遺墨大観」所載
久原房之助(元衆議院議員、通信大臣)旧蔵
岡倉秋水箱書
全体サイズ:縦2250*横800 画サイズ:縦1350*横620
橋本雅邦の紹介で明治十二年頃に狩野芳崖は島津家に雇われたのを契機に、島津家および同家ゆかりの人々のために多くの作品を描いたと伝えられているそうです。「松上鶴之図」もそうした縁の一幅だそうです。
松に鶴という得意の主題が、狩野派の特徴的な描線と墨色によって見事に描き出されていると評されていますが、「松鷹之図」にも適用されている。幾つかの注文に応じるために松の表現は同じにしたように思われます。「松鷹之図」と松の構図や上部の朝日のような赤の共通部分により、本作品も島津家にゆかりの人の依頼に応じて描かれた作品ではないかと推察されます。
この鶴図は、岡倉秋水(岡倉天心の甥、日本画家。狩野忠信らと狩野会結成に尽力した。昭和25年没)は狩野芳崖が52歳の頃の作と推察しています。「この図は芳崖翁が五十二歳頃の作にして島津家の於いて揮毫セルモノと鑑定候也」と鑑定しています。
ただし鶴の図よりも鷹の図のようが数倍引き立ちますね。「鶴」は評価がよくなく、「鷹」に書き直すように注文を受けた可能性があります。そのような注文を出すのはかなりの位の武士かと思われます。
島津家との関わりは下記の作品でも解ります。薩摩焼の硯屏です。
絵柄は狩野芳崖の作品です。
狩野派の精神を基本に持つ狩野芳崖は武家との関わりを持つことは喜びにひとつだったのでしょう。
橋本雅邦の紹介による島津家での作画を契機に狩野芳崖は飛躍的に技量が向上します。本作品もまた島津家縁の作品である可能性があります。
何度かの所蔵者の変遷を経た本作品ではありますが、小生にとっては大切な作品のひとつであり、わたしの守り神のような作品です。息子に伝えていきたい作品のひとつです。
「息子よ、強くなれ。」 大きくなったら寝床に掛けてやろう。
今年の夜噺骨董談義はじっくりと厳選の年とし、ペース配分を考えて毎日の投稿というよりは、作品を取捨選択しながら、リメイクを含めての内容になろうか思いますが、あくまでもそういう計画・・。
本日はめでたい掛け軸ということで朝陽に松ニ鷹・・。帰省に際して再撮影。
リメイク再投稿 2010年5月10日掲載
松鷹之図 狩野芳崖筆
紙本水墨淡彩絹装上表具本多天城鑑定箱布装カバー二重箱軸先本象牙
全体サイズ:縦2300*横760 画サイズ:縦1282*横612
本作品は家に古くからあった作品です。本家から当家へ、その後母の実家へと伝えられ、その後私が入手した作品です。一時期、事業のために売りに出されそうになったこともありました。
由来のある作品はきちんとしています。まずは箱の拵えが違いますね。焼杉の板目の美しい箱に入っています。厳選された木目です。「第弐拾弐号」というのは本家で所蔵していた時に祖父が整理させた番号です。幾つか縁があって入手していますが、そのほかには横山大観、伊東深水などそうそうたる作品があったようです。
昭和29年の新聞が入っていますので、その頃に祖父が購入したものでしょう。
外の箱に保護されて中身はしっかりしています。この取り扱いはきちんと丁寧に行う必要があります。今後も取り扱い方を知っている人がきちんと管理する必要があります。
狩野芳崖の門下である本多天城の鑑定箱があります。正式な鑑定は受けていませんが、今後正式な鑑定を受けるなくてはなりませんね。
非常に細工のいい二重箱入です。明治12年頃の島津家の庇護を受けている当時の狩野派の影響の強い作風ですが、その品格の高さが窺い知れる作品です。
狩野芳崖については記述する必要もないでしょう。
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狩野芳崖:文政11年1月13日(1828年2月27日)~明治21年(1888年)11月5日)。近代日本画の父。長府藩(山口県下関)御用絵師の家に生まれる。
19歳の頃上京、橋本稚邦と奥絵師木挽町狩野の晴川院養信に入門、晴川院を継いだ勝川院雅信(1823‐80)のもとで活躍、塾頭にまでなった。しかし、江戸幕府崩壊、明治維新によって定職を失ってしまい、生活苦と闘うことになる。
明治12年(1879)頃より島津公爵家の庇護をうけ、生活はようやく安定、同家所蔵の雪舟・雪村などの古画を学んだ。
明治15年(1882)、第1回内国共進会に出品した≪山水図≫≪布袋図≫など8点は受賞の対象外で嘲笑的な批評をあびたが、当時、沈滞していた日本画の復興運動を指導するフェノロサがその個性を認め、以降、フェノロサ・岡倉天心らとともに、伝統に根ざしての日本画の近代化を推進していった。
ほぼ同時代を生きた高橋由一が、日本近代洋画の最初の画家だとすると、近代日本画史の最初を飾るのは芳崖であろう。由一にとってイギリス人画家ワーグマンとの出会いが決定的であったのと同様、芳崖にとってはフェノロサとの出会いが重要であった。
日本美術を高く評価していたフェノロサは、日本画の伝統に西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた、新・日本画の創生を芳崖に託した。
フェノロサと知り合った1882年、すでに54歳であった芳崖に残された時間はあまり多くなかったが、さまざまな試行錯誤の結果、畢生の名作「悲母観音」が誕生した。この絵の観音像の衣文表現などには仏画や水墨画の描法が看取される一方、色彩感覚や空間把握には西洋画の息吹が感じられる。
芳崖は東京美術学校(後の東京藝術大学)の教官に任命されたが、「悲母観音」を書き上げた4日後の1888年11月5日、同校の開学を待たずに死去した。
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狩野芳崖の作品は、他にも投稿していますが、本作品は島津家所縁にて伝えられたものと判断しています。
その根拠となる作品が下記の作品です。
参考作品 その1
松上鶴之図
思文閣 墨蹟資料目録「和の美」第478号 作品NO52
「芳崖先生遺墨全集 乾」並「芳崖先生遺墨大観」所載
久原房之助(元衆議院議員、通信大臣)旧蔵
岡倉秋水箱書
全体サイズ:縦2250*横800 画サイズ:縦1350*横620
橋本雅邦の紹介で明治十二年頃に狩野芳崖は島津家に雇われたのを契機に、島津家および同家ゆかりの人々のために多くの作品を描いたと伝えられているそうです。「松上鶴之図」もそうした縁の一幅だそうです。
松に鶴という得意の主題が、狩野派の特徴的な描線と墨色によって見事に描き出されていると評されていますが、「松鷹之図」にも適用されている。幾つかの注文に応じるために松の表現は同じにしたように思われます。「松鷹之図」と松の構図や上部の朝日のような赤の共通部分により、本作品も島津家にゆかりの人の依頼に応じて描かれた作品ではないかと推察されます。
この鶴図は、岡倉秋水(岡倉天心の甥、日本画家。狩野忠信らと狩野会結成に尽力した。昭和25年没)は狩野芳崖が52歳の頃の作と推察しています。「この図は芳崖翁が五十二歳頃の作にして島津家の於いて揮毫セルモノと鑑定候也」と鑑定しています。
ただし鶴の図よりも鷹の図のようが数倍引き立ちますね。「鶴」は評価がよくなく、「鷹」に書き直すように注文を受けた可能性があります。そのような注文を出すのはかなりの位の武士かと思われます。
島津家との関わりは下記の作品でも解ります。薩摩焼の硯屏です。
絵柄は狩野芳崖の作品です。
狩野派の精神を基本に持つ狩野芳崖は武家との関わりを持つことは喜びにひとつだったのでしょう。
橋本雅邦の紹介による島津家での作画を契機に狩野芳崖は飛躍的に技量が向上します。本作品もまた島津家縁の作品である可能性があります。
何度かの所蔵者の変遷を経た本作品ではありますが、小生にとっては大切な作品のひとつであり、わたしの守り神のような作品です。息子に伝えていきたい作品のひとつです。
「息子よ、強くなれ。」 大きくなったら寝床に掛けてやろう。