郷里の自宅の補修工事、亡くなった家内の実家の改修工事が終了しましたが、今年は帰省できず、出来具合が確認できそうにありません。今年の6月の墓以来、小生の入院もあり、帰省していませんが、郷里の義母や隣人、友人に会えないのが残念です。そういえば半年以上帰省しなかったことはなかったようなきがします。
さて、入院している家内の時間つぶしにと思い、幾つかの娯楽小説めいたものをいくつか購入したが、その中に「清洲会議」(三谷幸喜著 幻冬舎文庫)があったが、実に読むに耐えない品のない文章です。世にもてはやされるものには裏腹があるとよく言いますが、猪瀬知事の金銭がらみといい、世の寵児になると品格という鎧を脱ぎ捨ててしまうことがよくあるようです。
さて本日は淡水魚・・・、昔の釣堀を思い出します。釣堀はよく行きました。桂城公園の下にあった釣堀・・
天野方壷の鯉などの淡水魚を描いた愉しい作品です。
最近、一作品を投稿していますので、本作品が二作品目の投稿です。
鯉之図 天野方壷筆
絹本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1925*横475 画サイズ:縦1005*横345
賛には「辛巳((かみのと)秋分」とあり、明治14年(1881年)57歳の作と推察される。
漢詩は「陽鱗九々陰六々□稟魚形有 龍骨禹門寧肯點額帰 鯨海終項揚鬛出□哉貌此 化□姿丁紋錦信光陸離淵 潜一躍勢直上波清起立雲下垂太平時無□尾 悠々洋々□所止 明人丘瘧句」と解読に苦慮中です。
跳ね上がる鯉を独特な墨使いで表現しています。
墨にてみずみずしさをを表現するのはかなりの画力がいるものを推察します。
鯉のほかに小魚がいたり、
蝦がいたりで楽しい作品です。
天野方壷:天野方壷の名はそれほど知られていませんが、出身地の愛媛県では続木君樵と並んで伊予画壇の双壁といわれていました。天野方壷の経歴については、その実家に伝わる明治17年に書かれた自筆の履歴書により知ることができます。
*未だ印章や遊印の解読も不能な状況です。
文政7年(1824)8月16日、伊予松山藩の三津浜(松山市三津)に生まれた方壷は、13歳で京都に出て、文人画家の中林竹洞や、書家としても有名な儒者の貫名海屋に学んだのち、関西から山陽山陰を経て九州四国まで数年にわたり西日本各地を歴遊し、勝景、奇景を写生したり古画書を模写したりして修行を続けました. 21歳のとき一旦は京都に戻り、日根対山に師事しましたが間もなく京都を発って関東へ旅行、江戸に至り、渡辺華山高弟の椿椿山に学んだあと、蝦夷地にまで行って海岸の勝景を写生しております。
さらに、長崎で木下逸雲に学び、明治維新後、明治3年47歳の時には中国上海に渡航し、胡公寿にも師事しました。各地の有福な書画の愛好の庇護をうけつつ、休みなく全国を旅し画道修行を続けた彼は、明治8年52歳になってようやく京都に居を構え定住しました。画号としては方壷のほか、盈甫、三津漁者,銭幹、真々,石樵、銭岳、雲眠、白雲外史など多数あり、時々に自分の心境に合った号を付け、楽しんでいたものと思われます。
この間35歳の時、那須山の温泉で洪水に見舞われ、溺死しかかったが九死に一生を得ております。しかし、この時携えていた粉本、真景などをことごとく失いました。また、49歳の時東京に寓居中火災に会い、粉本をことごとく焼失しました。ほとんど日本全国に足跡を残してますが、京都に定住したのちは、四季の草花を栽培しこれを売って生計を営み、売花翁と号していたほか、京都府画学校(現在 京都市立芸術大学)に出仕を命じられたり、内国絵画共進会に出品したりしながらもやはり歴遊を続け、明治28年旅先の岐阜で逝去しました。享年72歳でした。墓は京都市上賀茂の霊源寺にあります。
方壷と交際のあった文人画の巨匠、富岡鉄斎は、私的な筆録(メモ帳)の中で方壷のことを[画匠]と記していて、かなり高く評価していたことが窺えます。鉄斎といえば[萬巻の書を読み万里の路を行く]を座右の銘として、全国を旅行しましたが、この[万里を行く]ことに関しては方壷は鉄斎を凌駕しているかもしれません。
愛媛県美術館には彼の作品が42点所蔵されております。平成16年は方壷生誕180年に当たり。これに因んで当美術館分館の萬翠荘において7月17日から8月29日の間展覧会が開催され作品20点が展示されました。また、平成15年の10月3日から12月25日まで福島県の桑折町種徳美術館において天野方壷展が開催され、作品13点が公開されました。
天野方壷・・・、再認識する佳作といえるのではないでしょうかと思うのは私だけでしょうか?
ただ、またしても痛みがあります。改装すべきかどうか悩むところですね。箱もありませんでした。
子共の頃通った釣堀は都会の釣堀とは違って子共の遊び場でした。無論、川や沼にも、市内の公園のお堀でも、はては大きな本家の池でも釣りはしましたが、釣堀にもなぜか数多く通った思い出があります。むろん、子共らだけで・・・。いろんな小学校の低学年が来ていたので、ある種の子共の社交場であったように思います。あまりに遊びすぎる子共だったので、強制的に勉強するように家庭教師をつけられる羽目になりました
さて、入院している家内の時間つぶしにと思い、幾つかの娯楽小説めいたものをいくつか購入したが、その中に「清洲会議」(三谷幸喜著 幻冬舎文庫)があったが、実に読むに耐えない品のない文章です。世にもてはやされるものには裏腹があるとよく言いますが、猪瀬知事の金銭がらみといい、世の寵児になると品格という鎧を脱ぎ捨ててしまうことがよくあるようです。
さて本日は淡水魚・・・、昔の釣堀を思い出します。釣堀はよく行きました。桂城公園の下にあった釣堀・・
天野方壷の鯉などの淡水魚を描いた愉しい作品です。
最近、一作品を投稿していますので、本作品が二作品目の投稿です。
鯉之図 天野方壷筆
絹本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1925*横475 画サイズ:縦1005*横345
賛には「辛巳((かみのと)秋分」とあり、明治14年(1881年)57歳の作と推察される。
漢詩は「陽鱗九々陰六々□稟魚形有 龍骨禹門寧肯點額帰 鯨海終項揚鬛出□哉貌此 化□姿丁紋錦信光陸離淵 潜一躍勢直上波清起立雲下垂太平時無□尾 悠々洋々□所止 明人丘瘧句」と解読に苦慮中です。
跳ね上がる鯉を独特な墨使いで表現しています。
墨にてみずみずしさをを表現するのはかなりの画力がいるものを推察します。
鯉のほかに小魚がいたり、
蝦がいたりで楽しい作品です。
天野方壷:天野方壷の名はそれほど知られていませんが、出身地の愛媛県では続木君樵と並んで伊予画壇の双壁といわれていました。天野方壷の経歴については、その実家に伝わる明治17年に書かれた自筆の履歴書により知ることができます。
*未だ印章や遊印の解読も不能な状況です。
文政7年(1824)8月16日、伊予松山藩の三津浜(松山市三津)に生まれた方壷は、13歳で京都に出て、文人画家の中林竹洞や、書家としても有名な儒者の貫名海屋に学んだのち、関西から山陽山陰を経て九州四国まで数年にわたり西日本各地を歴遊し、勝景、奇景を写生したり古画書を模写したりして修行を続けました. 21歳のとき一旦は京都に戻り、日根対山に師事しましたが間もなく京都を発って関東へ旅行、江戸に至り、渡辺華山高弟の椿椿山に学んだあと、蝦夷地にまで行って海岸の勝景を写生しております。
さらに、長崎で木下逸雲に学び、明治維新後、明治3年47歳の時には中国上海に渡航し、胡公寿にも師事しました。各地の有福な書画の愛好の庇護をうけつつ、休みなく全国を旅し画道修行を続けた彼は、明治8年52歳になってようやく京都に居を構え定住しました。画号としては方壷のほか、盈甫、三津漁者,銭幹、真々,石樵、銭岳、雲眠、白雲外史など多数あり、時々に自分の心境に合った号を付け、楽しんでいたものと思われます。
この間35歳の時、那須山の温泉で洪水に見舞われ、溺死しかかったが九死に一生を得ております。しかし、この時携えていた粉本、真景などをことごとく失いました。また、49歳の時東京に寓居中火災に会い、粉本をことごとく焼失しました。ほとんど日本全国に足跡を残してますが、京都に定住したのちは、四季の草花を栽培しこれを売って生計を営み、売花翁と号していたほか、京都府画学校(現在 京都市立芸術大学)に出仕を命じられたり、内国絵画共進会に出品したりしながらもやはり歴遊を続け、明治28年旅先の岐阜で逝去しました。享年72歳でした。墓は京都市上賀茂の霊源寺にあります。
方壷と交際のあった文人画の巨匠、富岡鉄斎は、私的な筆録(メモ帳)の中で方壷のことを[画匠]と記していて、かなり高く評価していたことが窺えます。鉄斎といえば[萬巻の書を読み万里の路を行く]を座右の銘として、全国を旅行しましたが、この[万里を行く]ことに関しては方壷は鉄斎を凌駕しているかもしれません。
愛媛県美術館には彼の作品が42点所蔵されております。平成16年は方壷生誕180年に当たり。これに因んで当美術館分館の萬翠荘において7月17日から8月29日の間展覧会が開催され作品20点が展示されました。また、平成15年の10月3日から12月25日まで福島県の桑折町種徳美術館において天野方壷展が開催され、作品13点が公開されました。
天野方壷・・・、再認識する佳作といえるのではないでしょうかと思うのは私だけでしょうか?
ただ、またしても痛みがあります。改装すべきかどうか悩むところですね。箱もありませんでした。
子共の頃通った釣堀は都会の釣堀とは違って子共の遊び場でした。無論、川や沼にも、市内の公園のお堀でも、はては大きな本家の池でも釣りはしましたが、釣堀にもなぜか数多く通った思い出があります。むろん、子共らだけで・・・。いろんな小学校の低学年が来ていたので、ある種の子共の社交場であったように思います。あまりに遊びすぎる子共だったので、強制的に勉強するように家庭教師をつけられる羽目になりました