もう4年ほど前の原稿となりますね。振り返ると本ブログを投稿し始めてもうすぐ5年になろうとしています。延べで約45万人、閲覧数が240万という数字が多いのかどうかはわかりませんが、作品数が1200を数え5年続いたということはよく続いていると我ながら感心します。
投稿する作品に苦労することもしばしばですが、なんやかんやとあるものでまだ整理が追いつかない状況です。原稿が土日や夜遅くが多く最近は子守でますます時間がなく、不十分な検討のまま投稿することもしばしばです。
このブログにいいところは日記代わりに作品が整理されることと過去に渡って訂正や判明事項が追加できることです。読者本位でない点ですがいい整理場所で、処分したものも記録として残ります。
さて本日は蒐集対象となっている我が郷土の画家の寺崎廣業の作品のリメイクです。本作品は寺崎廣業が亡くなる前年に描かれたと思われる作品ですが、同時期に大作「杜甫」の大作の制作に打ち込んでいる時期でもあります。
寺崎廣業は大正7年の夏頃より体調を崩し、療養に専念したがそれでも信州の上林温泉の別宅にて大作「杜甫」の制作に打ち込んだ。上林温泉の別宅については下記のとおりです。
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明治40年(1907年)寺崎廣業画伯の天藾塾の塾頭をしていた鳥谷幡山が、小林館訪れてここの主、民作との出会いが上林温泉の発端であり、表閣の現在あるを期したともいえる。幡山は、寺崎廣業の門下生であり、町田曲江も寺崎廣業の塾生であった。曲江の兄町田浜之助が幡山を気に入り是非とも、平穏来遊するように奨めいた。幡山は越後に来る事になり、その帰途、地獄谷に案内され、その帰り路小林館に立ち寄った。上林温泉は当時小林館が一軒しかなく、静閑そのものが幡山を引きつけるものがあり、周囲の景観の素晴らしさに魅せられて、それから毎年上林を訪れ四方の風景を画帳収めている。
寺崎廣業は、明治41年(1908年)初めて来ているが、その後上林の風景にすっかり魅せられて、毎年夏には来るようになった。寺崎廣業と気の合った民作は喜んで画室を提供した。翌明治42年(1909年)寺崎廣業は塾生多数ともなって来ている。寺崎廣業は夏には上林で絵を描くのが楽しみにしていた。民作はその寺崎廣業に対して喜んで画室を提供したり、寺崎廣業が別荘がほしいというので別荘を建ててやった、又、温泉がほしいというので地獄谷から大正6年(年)引湯工事を始めた。翌7年7月浴場の工事も終わりかけたが、廣業は病となってしまい、その工事の完成も見ないで東京に引き上げてしまった。東京に帰った廣業は、病にはとうとう勝てず翌8年2月に将来を惜しまれつつ、数多くの名作を残し54才をもって不帰の客となった。
寺崎廣業の友人で、曹洞宗本山、永平寺住職の日置黙仙大和尚と廣業は、肝胆照し合う仲であった( 永平寺66世「維室黙仙(いしつもくせん)」禅師 )。寺崎廣業が生前に一度上林温泉に来るようにと、度々さそっていたが、黙仙もついぞその機に恵まれなかった。廣業の死を知り、その年の8月上林を訪れ、生前の約束を果たした。11月に浴室の開眼の儀を行って長寿温泉と命名することになった。黙仙は廣業が「別荘を寺にしてほしい」と家族の夢枕にたったという事を聞き、民作とも相談した。
民作も廣業の事とあって、すぐその準備にとりかかった。寺崎一門と関係者の寄進を得て、埼玉県にあった長寿院を移して建て、廣業の別荘は長寿山広業寺として開山がなり、本尊には広業の念仏でもあった薬師如来をまつり、永平寺の直末として寄進された。昔から、禅林より画家が出ている例が少なくないが、画家が寺を開基をした例は無くはないが、極めてまれなここといえるだろう。
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「杜甫」の作品については廣業の意図は左右風景の三連作であったらしいが、中央の人物だけで絶筆となったようです。諸流派を総合した画格をもち、制作意欲が旺盛で、画壇の主導的存在であった広業は、江戸時代の谷文晃に擬せられことがあります。しかし、七十八歳という長寿に恵まれた文晃より二十年以上も若くして広業は人生に幕を下ろさねばならりませんでした。
大正八年二月二十一日、最期まで意識のしっかりしていた広業は、家人、知人、門人たちにそれぞれ別れのことばや訓戒を与え、大勢の絵画ファンに惜しまれながら不帰の客となりましたが、まだ五十三歳でした
なお上林温泉と赤倉温泉は20KMほどの距離であり、大正7年9月に赤倉温泉に寺崎廣業が訪れた可能性はあります。
以下は2011年7月23日投稿した原稿のままです。投稿後に弟子であった高橋万年の「杜甫「の写しの作品を入手でき、寺崎廣業の作品がより身近なものとなりました。この高橋万年の作品は新たな発見としておおいに意義の有る作品だと思います。
木曜日の夜、北浦和の二木屋にてお客様の社長交代にてお祝いの食事会・・。話が弾みつい日本酒を痛飲してしまいました。金曜日は同僚と水戸で鰻を食べながら盛り上がり、土曜日は大洗でゴルフ・・鈍っていた体もだいぶ調子がいいですが、あまり調子に乗るとなにが起こるかわかりませんので、少し自重しないと。
ということで少し時間が遅れての投稿です。
さて、「骨董が趣味でない方」は真贋ということになると、一般的な知識でしか話をせず、腰が引けてしまうようですが、それでは作品の表面しかみていないことになります。
美術館でのみ鑑している御仁に真贋の解る方はいません。買うこと、売ること、勉強することのみが美術鑑賞の極意です。そういう観点から「学芸員」という肩書きのつく御仁にまず真贋は見極められません。
さて本作品の真贋や如何。
寿嶽 寺崎廣業筆
紙本水墨淡彩軸装由来書箱入
全体サイズ:縦2190*横438 画サイズ:横308*縦1250
大正7年9月に咽頭癌で箱根、信州別荘で静養中に赤倉温泉
(妙高山の中腹に広がる妙高高原の温泉のなかでも最大の規模を誇る赤倉温泉は、文化13(1816)年に高田藩の事業として、地獄谷から引き湯をしたのがはじまり。明治時代以降は、文化人や芸術家、財界人の別荘地として栄え、日本近代美術の祖・岡倉天心はこの地で没した。近代的なホテルも多いが、静かで昔ながらの湯治場の雰囲気は今も健在)
にて描いた作品とあります。
箱書きに「此紙本半切富嶽ハ大正7年9月 先生赤倉温泉来遊揮毫ス」とあることからの判断です。
所有者の名は、所有者の希望により箱書から消されていました。
入手先は長野県諏訪市です。
落款、印章、出来から真贋は判断しなくてはなりません。
本作品の落款には力強さが欠けています。鑑定した場合は鑑定立会の全員のオーケー?が出ないとだめですから、おそらく本作品は真作とは万人には認められないでしょう。
でも、でもですよ・・という思いがあります
下の写真は大正7年の作品の落款です。大正8年2月21日に、全盛期の廣業は惜しまれながら亡くなってます。病気がかなり進んでいますので落款の多少力強さは・・とは思います。
真作と断定できないの本作品以降の月日の作品の落款の力強さだと思われます。
またしかしですが・・病気による体調は波がある。
む~、迷うほどの作品でもないか
寺崎廣業の作品の佳作はまだ郷土の個人収集家に残っています。
お口直しに・・、所有者の許可が出ればいずれそのうち紹介したいと思っています。
寺崎廣業:慶応2年生まれ、大正8年没、享年54歳。秋田藩の家老の家に生まれる。幼名は忠太郎、字は徳郷。初め秀齋、後に宗山、騰竜軒・天籟散人等と号した。初め郷土の小室秀俊に狩野派を学び、のちに上京して刻苦精励、諸派を摂取して晩年には、倪雲林、王蒙に私淑し、新南画の開拓に努めた。東京美術学校教授、文展開設以来審査員、帝室技芸員に任ぜられ東都画壇の重鎮となり、交友広くその生活は頗る華やかであった。
投稿する作品に苦労することもしばしばですが、なんやかんやとあるものでまだ整理が追いつかない状況です。原稿が土日や夜遅くが多く最近は子守でますます時間がなく、不十分な検討のまま投稿することもしばしばです。
このブログにいいところは日記代わりに作品が整理されることと過去に渡って訂正や判明事項が追加できることです。読者本位でない点ですがいい整理場所で、処分したものも記録として残ります。
さて本日は蒐集対象となっている我が郷土の画家の寺崎廣業の作品のリメイクです。本作品は寺崎廣業が亡くなる前年に描かれたと思われる作品ですが、同時期に大作「杜甫」の大作の制作に打ち込んでいる時期でもあります。
寺崎廣業は大正7年の夏頃より体調を崩し、療養に専念したがそれでも信州の上林温泉の別宅にて大作「杜甫」の制作に打ち込んだ。上林温泉の別宅については下記のとおりです。
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明治40年(1907年)寺崎廣業画伯の天藾塾の塾頭をしていた鳥谷幡山が、小林館訪れてここの主、民作との出会いが上林温泉の発端であり、表閣の現在あるを期したともいえる。幡山は、寺崎廣業の門下生であり、町田曲江も寺崎廣業の塾生であった。曲江の兄町田浜之助が幡山を気に入り是非とも、平穏来遊するように奨めいた。幡山は越後に来る事になり、その帰途、地獄谷に案内され、その帰り路小林館に立ち寄った。上林温泉は当時小林館が一軒しかなく、静閑そのものが幡山を引きつけるものがあり、周囲の景観の素晴らしさに魅せられて、それから毎年上林を訪れ四方の風景を画帳収めている。
寺崎廣業は、明治41年(1908年)初めて来ているが、その後上林の風景にすっかり魅せられて、毎年夏には来るようになった。寺崎廣業と気の合った民作は喜んで画室を提供した。翌明治42年(1909年)寺崎廣業は塾生多数ともなって来ている。寺崎廣業は夏には上林で絵を描くのが楽しみにしていた。民作はその寺崎廣業に対して喜んで画室を提供したり、寺崎廣業が別荘がほしいというので別荘を建ててやった、又、温泉がほしいというので地獄谷から大正6年(年)引湯工事を始めた。翌7年7月浴場の工事も終わりかけたが、廣業は病となってしまい、その工事の完成も見ないで東京に引き上げてしまった。東京に帰った廣業は、病にはとうとう勝てず翌8年2月に将来を惜しまれつつ、数多くの名作を残し54才をもって不帰の客となった。
寺崎廣業の友人で、曹洞宗本山、永平寺住職の日置黙仙大和尚と廣業は、肝胆照し合う仲であった( 永平寺66世「維室黙仙(いしつもくせん)」禅師 )。寺崎廣業が生前に一度上林温泉に来るようにと、度々さそっていたが、黙仙もついぞその機に恵まれなかった。廣業の死を知り、その年の8月上林を訪れ、生前の約束を果たした。11月に浴室の開眼の儀を行って長寿温泉と命名することになった。黙仙は廣業が「別荘を寺にしてほしい」と家族の夢枕にたったという事を聞き、民作とも相談した。
民作も廣業の事とあって、すぐその準備にとりかかった。寺崎一門と関係者の寄進を得て、埼玉県にあった長寿院を移して建て、廣業の別荘は長寿山広業寺として開山がなり、本尊には広業の念仏でもあった薬師如来をまつり、永平寺の直末として寄進された。昔から、禅林より画家が出ている例が少なくないが、画家が寺を開基をした例は無くはないが、極めてまれなここといえるだろう。
******************************
「杜甫」の作品については廣業の意図は左右風景の三連作であったらしいが、中央の人物だけで絶筆となったようです。諸流派を総合した画格をもち、制作意欲が旺盛で、画壇の主導的存在であった広業は、江戸時代の谷文晃に擬せられことがあります。しかし、七十八歳という長寿に恵まれた文晃より二十年以上も若くして広業は人生に幕を下ろさねばならりませんでした。
大正八年二月二十一日、最期まで意識のしっかりしていた広業は、家人、知人、門人たちにそれぞれ別れのことばや訓戒を与え、大勢の絵画ファンに惜しまれながら不帰の客となりましたが、まだ五十三歳でした
なお上林温泉と赤倉温泉は20KMほどの距離であり、大正7年9月に赤倉温泉に寺崎廣業が訪れた可能性はあります。
以下は2011年7月23日投稿した原稿のままです。投稿後に弟子であった高橋万年の「杜甫「の写しの作品を入手でき、寺崎廣業の作品がより身近なものとなりました。この高橋万年の作品は新たな発見としておおいに意義の有る作品だと思います。
木曜日の夜、北浦和の二木屋にてお客様の社長交代にてお祝いの食事会・・。話が弾みつい日本酒を痛飲してしまいました。金曜日は同僚と水戸で鰻を食べながら盛り上がり、土曜日は大洗でゴルフ・・鈍っていた体もだいぶ調子がいいですが、あまり調子に乗るとなにが起こるかわかりませんので、少し自重しないと。
ということで少し時間が遅れての投稿です。
さて、「骨董が趣味でない方」は真贋ということになると、一般的な知識でしか話をせず、腰が引けてしまうようですが、それでは作品の表面しかみていないことになります。
美術館でのみ鑑している御仁に真贋の解る方はいません。買うこと、売ること、勉強することのみが美術鑑賞の極意です。そういう観点から「学芸員」という肩書きのつく御仁にまず真贋は見極められません。
さて本作品の真贋や如何。
寿嶽 寺崎廣業筆
紙本水墨淡彩軸装由来書箱入
全体サイズ:縦2190*横438 画サイズ:横308*縦1250
大正7年9月に咽頭癌で箱根、信州別荘で静養中に赤倉温泉
(妙高山の中腹に広がる妙高高原の温泉のなかでも最大の規模を誇る赤倉温泉は、文化13(1816)年に高田藩の事業として、地獄谷から引き湯をしたのがはじまり。明治時代以降は、文化人や芸術家、財界人の別荘地として栄え、日本近代美術の祖・岡倉天心はこの地で没した。近代的なホテルも多いが、静かで昔ながらの湯治場の雰囲気は今も健在)
にて描いた作品とあります。
箱書きに「此紙本半切富嶽ハ大正7年9月 先生赤倉温泉来遊揮毫ス」とあることからの判断です。
所有者の名は、所有者の希望により箱書から消されていました。
入手先は長野県諏訪市です。
落款、印章、出来から真贋は判断しなくてはなりません。
本作品の落款には力強さが欠けています。鑑定した場合は鑑定立会の全員のオーケー?が出ないとだめですから、おそらく本作品は真作とは万人には認められないでしょう。
でも、でもですよ・・という思いがあります
下の写真は大正7年の作品の落款です。大正8年2月21日に、全盛期の廣業は惜しまれながら亡くなってます。病気がかなり進んでいますので落款の多少力強さは・・とは思います。
真作と断定できないの本作品以降の月日の作品の落款の力強さだと思われます。
またしかしですが・・病気による体調は波がある。
む~、迷うほどの作品でもないか
寺崎廣業の作品の佳作はまだ郷土の個人収集家に残っています。
お口直しに・・、所有者の許可が出ればいずれそのうち紹介したいと思っています。
寺崎廣業:慶応2年生まれ、大正8年没、享年54歳。秋田藩の家老の家に生まれる。幼名は忠太郎、字は徳郷。初め秀齋、後に宗山、騰竜軒・天籟散人等と号した。初め郷土の小室秀俊に狩野派を学び、のちに上京して刻苦精励、諸派を摂取して晩年には、倪雲林、王蒙に私淑し、新南画の開拓に努めた。東京美術学校教授、文展開設以来審査員、帝室技芸員に任ぜられ東都画壇の重鎮となり、交友広くその生活は頗る華やかであった。