昨日Yさんと大宮でお会いしました。米吉さんは具合はどうなのだろうか? 「痔じゃないの」だと・・・、「ん?」
クリスマスイブの男4人で遊ぶのもどうかと・・・。
今日から家内は再々入院です。明日はいよいよ手術です。
さて本日の作品は岡本豊彦の作品ですが、これで二作目だと思います。
先週の「なんでも鑑定団」に岡本豊彦の作品が出品されていました。この作品は贋作でしたが、本作品は如何?
松村景文の花鳥画と並んで豊彦の山水画と賞せられ、呉春より文人画的な要素が強いと評されますが、まさしくその評価にたがわぬ出来の作品の作品だと思いますが・・・。
60歳になってから3度目の結婚をし、6人の子供をもうけた画家です
源頼朝石橋山図 岡本豊彦筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1860*横480 画サイズ:縦1000*横290
賛には「天保己亥(天保10年 1839年)10月朝製」とありますから、豊彦が62歳頃の作と推察されます。
源頼朝の石橋山の戦いは、平安時代末期の治承4年(1180年)に源頼朝と大庭景親ら平氏方との間で行われた戦いである。治承・寿永の乱と呼ばれる諸戦役のひとつ。源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵。伊豆国目代山木兼隆を襲撃して殺害するが、続く石橋山の戦いで大敗を喫した。敗走した頼朝は山中に逃げ込み、船で安房国へ落ち延びてこの地で再挙することになるが、本作品はその山中に籠った時を描いた作品です。
同じ題材では前田青邨の作品が有名ですね。本作品は外から描き、前田青邨は洞窟内部を描いています。
以前に勤務した会社の応接室にも前田青邨の同じ歴史画の作品があり、びっくりしました。
岡本豊彦:安永2年生まれ、弘化2年没(1773年〜1845年)、享年68歳。字は子彦、号は紅村、丹岳山人。備中の人で京都に出て、松村呉春に学んで、景文とともに四条派の双壁をなした。明治初期の代表的な画家である塩川文鱗や柴田是真は門人。景文の花鳥画と並んで豊彦の山水画と賞せられ、呉春より文人画的な要素が強い。亮彦はその養子。
山水の描き方には品格があります。
補足
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生い立ち:安永2年7月8日(1773年8月25日)、備中国窪屋郡水江村(現在の岡山県倉敷市水江)にある裕福な「酒屋」岡本清左衛門行義の庶子として生まれる。しかし、実際に豊彦が生まれたのは、水江の岡本家ではなく、倉敷の向市場町にあった教善寺という真宗の寺であったといわれる。母が隣の中島村から岡本家に女中奉公に来た時に豊彦は生まれ、庶子故に母の実家で少年時代を送った。幼い頃より、黒田綾山に白神?々(鯉山)と共に師事し、絵を習っていた。寛政3年(1791年)、豊彦19歳の頃に黒田綾山の師である福原五岳の門に入る。寛政9年(1797年)豊彦25歳の時に、父清左衛門の死をきっかけに、一家を挙げて京都へ上洛することとなり、西阿知遍照院の住職、大圓和尚の世話で、当時高名であった松村呉春門下に入る。
呉春門下時代:豊彦は呉春門下で研鑽を積み(呉春の作品はすべて模写したと伝えられる)、実質的に四条派を作り上げることになる。呉春が与謝蕪村から学んだ俳諧的文芸や南画的文学と、円山応挙から学んだ写生画風を一緒にした、親しみやすく情趣的な画風を豊彦も受け継ぎ、呉春門下筆頭に挙げられ、京洛のうちでは「花鳥は景文(松村景文)、山水は豊彦」と謳われるほどの画家に成長を遂げた。また、人物・花鳥も巧みに処理し、広い画域を誇った。その名声は当時、京都で有名であった岸駒に拮抗するほどであったという。
また、30歳になるやならずやの若年の頃、江戸きっての高名な画家谷文晁、国文学者であり歌人である橘千蔭、狂歌界の泰斗で旗本武士の蜀山人こと大田南畝、六樹園こと石川雅望(宿屋飯盛)、京都では重鎮画家の岸駒、加茂社家の正四位下安房守の加茂季鷹、従五位下肥後守の歌人香川景樹らと同席を許され、一筆染めることまで出来たという。それも、有栖川宮家と親交があったことによることかと思われる。またそのためか、宮中のご用を承るようになり、現在でも修学院離宮などに作品が残っている。
教育者としての豊彦:呉春の没後、豊彦は「澄神社」という画塾を開き、多くの弟子を育成した。その中には、塩川文麟、柴田是真、田中日華、養子である岡本亮彦などがいる。また、同門には松村景文、柴田義董、小田海僊などがいる。
家庭環境:家庭的には恵まれなかったようで、比較的晩婚であったと思われる豊彦は、53歳の時、文政8年(1825年)10月21日に正妻佐々井美穂に先立たれた。
それから、継室として太田君を迎えたものの、彼女もまた天保3年(1832年)12月3日に26歳の若さでこの世を去っている。このとき豊彦は60歳であった。まもなくして、洛西西野木原から木村多美を迎えて三室とした。彼女との間に男児1人・女児5人をもうけるが早くに亡くなり、そこで、尾張国知多郡半田村の小栗伯圭(通称:半七)の4男の亮彦を養子として迎えた。
死:弘化2年7月11日(1845年8月13日)に73歳で、大和旅行中に病没した。岡本家の過去帳によると戒名は「龍鱗院梥月常光居士」となっている。
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いい作品は軸先が意外と重いものが多いように思います。象牙で出来ていると一層、高級感がありますね。
表具はわりとあっさりしていても、それなりに配慮があるものがいいようです。
「なんでも鑑定団」に出品された贋作と比較してみていかがでしょうか?
掛け軸は100本あると本物でなおかつ価値のある作品は1本程度でしょうか? そのような数からいいものを選び出さなくてはいけません。それでも高く売れるものでもありません。
ある意味では小生の忌み嫌うところのマニュアックな蒐集なところがあるかもしれません。しかし、今のままではなくなっていくものですので、いつかは再評価される時がくるでしょう。
クリスマスイブの男4人で遊ぶのもどうかと・・・。
今日から家内は再々入院です。明日はいよいよ手術です。
さて本日の作品は岡本豊彦の作品ですが、これで二作目だと思います。
先週の「なんでも鑑定団」に岡本豊彦の作品が出品されていました。この作品は贋作でしたが、本作品は如何?
松村景文の花鳥画と並んで豊彦の山水画と賞せられ、呉春より文人画的な要素が強いと評されますが、まさしくその評価にたがわぬ出来の作品の作品だと思いますが・・・。
60歳になってから3度目の結婚をし、6人の子供をもうけた画家です
源頼朝石橋山図 岡本豊彦筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1860*横480 画サイズ:縦1000*横290
賛には「天保己亥(天保10年 1839年)10月朝製」とありますから、豊彦が62歳頃の作と推察されます。
源頼朝の石橋山の戦いは、平安時代末期の治承4年(1180年)に源頼朝と大庭景親ら平氏方との間で行われた戦いである。治承・寿永の乱と呼ばれる諸戦役のひとつ。源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵。伊豆国目代山木兼隆を襲撃して殺害するが、続く石橋山の戦いで大敗を喫した。敗走した頼朝は山中に逃げ込み、船で安房国へ落ち延びてこの地で再挙することになるが、本作品はその山中に籠った時を描いた作品です。
同じ題材では前田青邨の作品が有名ですね。本作品は外から描き、前田青邨は洞窟内部を描いています。
以前に勤務した会社の応接室にも前田青邨の同じ歴史画の作品があり、びっくりしました。
岡本豊彦:安永2年生まれ、弘化2年没(1773年〜1845年)、享年68歳。字は子彦、号は紅村、丹岳山人。備中の人で京都に出て、松村呉春に学んで、景文とともに四条派の双壁をなした。明治初期の代表的な画家である塩川文鱗や柴田是真は門人。景文の花鳥画と並んで豊彦の山水画と賞せられ、呉春より文人画的な要素が強い。亮彦はその養子。
山水の描き方には品格があります。
補足
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生い立ち:安永2年7月8日(1773年8月25日)、備中国窪屋郡水江村(現在の岡山県倉敷市水江)にある裕福な「酒屋」岡本清左衛門行義の庶子として生まれる。しかし、実際に豊彦が生まれたのは、水江の岡本家ではなく、倉敷の向市場町にあった教善寺という真宗の寺であったといわれる。母が隣の中島村から岡本家に女中奉公に来た時に豊彦は生まれ、庶子故に母の実家で少年時代を送った。幼い頃より、黒田綾山に白神?々(鯉山)と共に師事し、絵を習っていた。寛政3年(1791年)、豊彦19歳の頃に黒田綾山の師である福原五岳の門に入る。寛政9年(1797年)豊彦25歳の時に、父清左衛門の死をきっかけに、一家を挙げて京都へ上洛することとなり、西阿知遍照院の住職、大圓和尚の世話で、当時高名であった松村呉春門下に入る。
呉春門下時代:豊彦は呉春門下で研鑽を積み(呉春の作品はすべて模写したと伝えられる)、実質的に四条派を作り上げることになる。呉春が与謝蕪村から学んだ俳諧的文芸や南画的文学と、円山応挙から学んだ写生画風を一緒にした、親しみやすく情趣的な画風を豊彦も受け継ぎ、呉春門下筆頭に挙げられ、京洛のうちでは「花鳥は景文(松村景文)、山水は豊彦」と謳われるほどの画家に成長を遂げた。また、人物・花鳥も巧みに処理し、広い画域を誇った。その名声は当時、京都で有名であった岸駒に拮抗するほどであったという。
また、30歳になるやならずやの若年の頃、江戸きっての高名な画家谷文晁、国文学者であり歌人である橘千蔭、狂歌界の泰斗で旗本武士の蜀山人こと大田南畝、六樹園こと石川雅望(宿屋飯盛)、京都では重鎮画家の岸駒、加茂社家の正四位下安房守の加茂季鷹、従五位下肥後守の歌人香川景樹らと同席を許され、一筆染めることまで出来たという。それも、有栖川宮家と親交があったことによることかと思われる。またそのためか、宮中のご用を承るようになり、現在でも修学院離宮などに作品が残っている。
教育者としての豊彦:呉春の没後、豊彦は「澄神社」という画塾を開き、多くの弟子を育成した。その中には、塩川文麟、柴田是真、田中日華、養子である岡本亮彦などがいる。また、同門には松村景文、柴田義董、小田海僊などがいる。
家庭環境:家庭的には恵まれなかったようで、比較的晩婚であったと思われる豊彦は、53歳の時、文政8年(1825年)10月21日に正妻佐々井美穂に先立たれた。
それから、継室として太田君を迎えたものの、彼女もまた天保3年(1832年)12月3日に26歳の若さでこの世を去っている。このとき豊彦は60歳であった。まもなくして、洛西西野木原から木村多美を迎えて三室とした。彼女との間に男児1人・女児5人をもうけるが早くに亡くなり、そこで、尾張国知多郡半田村の小栗伯圭(通称:半七)の4男の亮彦を養子として迎えた。
死:弘化2年7月11日(1845年8月13日)に73歳で、大和旅行中に病没した。岡本家の過去帳によると戒名は「龍鱗院梥月常光居士」となっている。
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いい作品は軸先が意外と重いものが多いように思います。象牙で出来ていると一層、高級感がありますね。
表具はわりとあっさりしていても、それなりに配慮があるものがいいようです。
「なんでも鑑定団」に出品された贋作と比較してみていかがでしょうか?
掛け軸は100本あると本物でなおかつ価値のある作品は1本程度でしょうか? そのような数からいいものを選び出さなくてはいけません。それでも高く売れるものでもありません。
ある意味では小生の忌み嫌うところのマニュアックな蒐集なところがあるかもしれません。しかし、今のままではなくなっていくものですので、いつかは再評価される時がくるでしょう。