母の日を前に練馬の母を家内と息子で表敬訪問です。
息子と母仲良く遊びました。母曰く「いつから一緒に住んでいるの?」「???」どう息子もらってきたと思い込んでいるらしい。
ときおり施設にいることとなる母だ元気そうで少しほっとしました。息子は早速施設の中で人気者になりました。まだ歩けないのに車椅子を押そうと必死です。
さて本日は本ブログでときおり投稿している福田豊四郎とも縁が深い川端龍子に初期の作品と思われます。
春雲波 川端龍子筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦2330*横670 画サイズ:縦1410*横520
下記の参考作品(思文閣墨蹟資料目録 第469号 作品NO23「佐渡も見えず」)とほぼ同時期の作品と考えられます。
参考作品は大正七年十二月の作です。川端龍子は大正二年に洋画を学ぶ目的で単身で渡米しています。
この渡米を機に洋画よりも日本画の魅力を強く意識することとなり、帰国後の大正三年には初めての日本画を展覧会に出品している。翌大正四年には日本画一本で生きていくことを決心しています。
川端龍子の日本画最初期の珍しい作品のひとつです。誰も川端龍子の真作と思わずにいたのでしょうね。軸の痛みも出てきている作品ですが、初期の作品として大切にしたい作品のひとつです。
*****************************************
川端龍子:(1885―1966) 日本画家。明治18年6月6日和歌山市に生まれる。本名昇太郎。11歳のとき上京。1904年(明治37)中学校を中退し、葵橋洋画研究所、太平洋画会研究所で洋画を学んだ。国民新聞社などに勤め、挿絵を描いて名を知られるようになったが、13年(大正2)にアメリカを旅行し帰国すると日本画に転じた。
初め无声(むせい)会に加わったが、15年、平福百穂らと珊瑚会を結成した。またこの年、再興日本美術院展に『狐の径』が入選、翌年には『霊泉由来』が樗牛(ちょぎゅう)賞を受賞するなど、院展で頭角を現し、17年には同人に推された。
しかしやがて大胆な表現が異端視されるようになり、28年(昭和3)に美術院を脱退、翌年、主宰する御形塾を母胎として青龍社を創立し、会場芸術を唱えて豪放で動感に富む作風を打ち出した。35年帝国美術院会員に任命されたが翌年辞退、37年には帝国芸術院会員にあげられたがこれも辞退した。
59年に文化勲章を受章。62年、青龍社創立35周年を記念して自邸に龍子記念館(社団法人青龍社龍子記念館・東京都大田区中央4丁目2-1)を建設し、自作を公開した。『鳴門(なると)』『真珠』『新樹の曲』『潮騒』などが代表作。また俳句に親しみ、句集がある。昭和41年4月10日没。なお、青龍社は龍子の死とともに解散した。
*****************************************
表具がいいものを使っています。軸先はずっしりくる象牙の軸先です。
箱はニ重箱です。初期の作品ですのでこの程度ですが、最盛期の作品はより高級な仕立てとなります。
誰も川端龍子の真作と思わずにいたのでしょうね。軸の痛みも出てきている作品ですが・・・。
印章・落款の比較
参考作品「思文閣墨蹟資料目録 第469号 作品NO23「佐渡も見えず」より」との比較
他の幾つかの参考作品や所蔵作品を紹介します。
東海第一日 川端龍子筆
紙本着色絹装軸装軸先象牙太巻箱二重箱
全体サイズ:横745*縦1795 画サイズ:縦473*横575
第62回鑑賞会出品作品 須磨家旧蔵品
胡蝶花 川端龍子筆紙本着色絹装 上表具太巻共箱二重箱軸先本象牙
全体サイズ:縦2315*横740 画サイズ:縦1485*横565
親孝行したいと思ったときには既に親は居ず・・という言葉がありますが、親に限らず大切な人を失った後に「ああしてあげればよかった。」とか「あんなふうに言わなくてもよかった」と後悔することが多いものですが、後悔することのないように日々努力するのが人としての日々の努めです。
息子と母仲良く遊びました。母曰く「いつから一緒に住んでいるの?」「???」どう息子もらってきたと思い込んでいるらしい。
ときおり施設にいることとなる母だ元気そうで少しほっとしました。息子は早速施設の中で人気者になりました。まだ歩けないのに車椅子を押そうと必死です。
さて本日は本ブログでときおり投稿している福田豊四郎とも縁が深い川端龍子に初期の作品と思われます。
春雲波 川端龍子筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦2330*横670 画サイズ:縦1410*横520
下記の参考作品(思文閣墨蹟資料目録 第469号 作品NO23「佐渡も見えず」)とほぼ同時期の作品と考えられます。
参考作品は大正七年十二月の作です。川端龍子は大正二年に洋画を学ぶ目的で単身で渡米しています。
この渡米を機に洋画よりも日本画の魅力を強く意識することとなり、帰国後の大正三年には初めての日本画を展覧会に出品している。翌大正四年には日本画一本で生きていくことを決心しています。
川端龍子の日本画最初期の珍しい作品のひとつです。誰も川端龍子の真作と思わずにいたのでしょうね。軸の痛みも出てきている作品ですが、初期の作品として大切にしたい作品のひとつです。
*****************************************
川端龍子:(1885―1966) 日本画家。明治18年6月6日和歌山市に生まれる。本名昇太郎。11歳のとき上京。1904年(明治37)中学校を中退し、葵橋洋画研究所、太平洋画会研究所で洋画を学んだ。国民新聞社などに勤め、挿絵を描いて名を知られるようになったが、13年(大正2)にアメリカを旅行し帰国すると日本画に転じた。
初め无声(むせい)会に加わったが、15年、平福百穂らと珊瑚会を結成した。またこの年、再興日本美術院展に『狐の径』が入選、翌年には『霊泉由来』が樗牛(ちょぎゅう)賞を受賞するなど、院展で頭角を現し、17年には同人に推された。
しかしやがて大胆な表現が異端視されるようになり、28年(昭和3)に美術院を脱退、翌年、主宰する御形塾を母胎として青龍社を創立し、会場芸術を唱えて豪放で動感に富む作風を打ち出した。35年帝国美術院会員に任命されたが翌年辞退、37年には帝国芸術院会員にあげられたがこれも辞退した。
59年に文化勲章を受章。62年、青龍社創立35周年を記念して自邸に龍子記念館(社団法人青龍社龍子記念館・東京都大田区中央4丁目2-1)を建設し、自作を公開した。『鳴門(なると)』『真珠』『新樹の曲』『潮騒』などが代表作。また俳句に親しみ、句集がある。昭和41年4月10日没。なお、青龍社は龍子の死とともに解散した。
*****************************************
表具がいいものを使っています。軸先はずっしりくる象牙の軸先です。
箱はニ重箱です。初期の作品ですのでこの程度ですが、最盛期の作品はより高級な仕立てとなります。
誰も川端龍子の真作と思わずにいたのでしょうね。軸の痛みも出てきている作品ですが・・・。
印章・落款の比較
参考作品「思文閣墨蹟資料目録 第469号 作品NO23「佐渡も見えず」より」との比較
他の幾つかの参考作品や所蔵作品を紹介します。
東海第一日 川端龍子筆
紙本着色絹装軸装軸先象牙太巻箱二重箱
全体サイズ:横745*縦1795 画サイズ:縦473*横575
第62回鑑賞会出品作品 須磨家旧蔵品
胡蝶花 川端龍子筆紙本着色絹装 上表具太巻共箱二重箱軸先本象牙
全体サイズ:縦2315*横740 画サイズ:縦1485*横565
親孝行したいと思ったときには既に親は居ず・・という言葉がありますが、親に限らず大切な人を失った後に「ああしてあげればよかった。」とか「あんなふうに言わなくてもよかった」と後悔することが多いものですが、後悔することのないように日々努力するのが人としての日々の努めです。