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Channel: 夜噺骨董談義
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源内焼 その56 三彩陽刻桐鳳凰図皿

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仙台、横浜についで本日は名古屋へ・・、今年も全国行脚の開始です。

さて本日は源内焼の佳作のひとつ?です。もう「その56」ですね。本ブログを開始のちに蒐集を始めた分野ですが、時の経つのは早いものです。

縁の紋様が額縁の役割を果たしており、見込みはまるで絵画を見るよう。計算されつくした源内焼の紋様は西欧とも和洋ともとれる独特の趣を醸し出しています。

源内焼 その56 三彩陽刻桐二鳳凰図皿 その2
合箱
口径255*高台径*高さ50



緑釉を基調とした三彩の源内焼。桐二鳳凰の紋様の作品は三作品目となります。



「桐竹鳳凰文は中国からの伝えで、鳳凰は桐の木に棲み、竹の実を食べたとのことから桐と竹、想像上の瑞鳥である鳳凰を組み合わせた文様をいいます。



桐竹鳳凰文は、天皇の夏冬の御袍(ごほう)に用いられた高貴な文様で有職文様の一つでもあります。また桐竹鳳凰文に麒麟を組み合わせた桐竹鳳麟文(きりたけほうりんもん)も同様に扱われ、格調高い文様です。」という説明のように格調高い吉祥紋様の作品です。



一部に釉薬の禿がありますが、型の抜け、釉薬の発色がよい佳品ですね。このような出来や保存状態の良い作品は少なくなります。



源内焼はその側面、裏面も綺麗な作品は珍しいです、



軟陶のため傷つきやすいので、完全な状態で残っている作品が少ないのでしょう。



本作品と同じ図柄もまた五島美術館の「源内焼」という展覧会を開催した時に作成された刊行本に掲載されています(作品番号71)。
こちらに掲載の作品は大きさが一尺もある大きなものです。



源内焼の復習は下記のとおりです。

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源内焼とは香川県大川郡志度町で焼成された陶器です。別名を志度焼、舜民といいます。赤松弥右衛門と子・清兵衛は1738(元文3)年に筑前国須恵村の陶工・権平を雇い、製陶業を営んでいたとされます。その後、清兵衛の子である赤松光信(号:松山)、忠左衛門、新七によって陶業は受け継がれ、1755(宝暦5)年に松山が平賀源内の指導を受けて源内焼を創始しました。

源内焼は交趾釉法に基づいた陶器で万国地図皿を始めとした斬新な意匠に特徴があり、長崎遊学を通して修得した源内の新奇な知識によるものとされています。源内自身は作陶に携わらず、松山を中心に焼成されたと考えられています

1771(明和8)年に天草代官所に源内が提出した『陶器工夫書』の「取立候職人共」には、「器用なる者」として松山、源吾、舜民、山が記されています。松山は1781(天明元)年の家屋焼失により富田村に居を移して富田焼に携わりますが、1788(天明8)年に志度に戻った後、1791(寛政3)年に再び富田で独立します。

松山や脇田舜民が独立した後は堺屋源吾が源内焼の中心的存在となっていきます。明治時代の博覧会で源内の子孫が一時再興しましたが、質的にもデザイン的にもオリジナルには遠く及ばずに衰退しました。

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当方の所蔵している源内焼は残念ながら一流品とは言えないでしょう。一流品は地図皿に多く下記の写真のような作品群で、大き目の作品となります。いつかは入手したいものですが、市販されている作品を見たことは一度もありません。






いつかは・・・、いつかはと向上心を持つことは常に必要ですね。




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