もはや本ブログでなんども投稿されている天龍道人の作品ですが、代表的な「葡萄図」や「鷹之図」ではなく、希少な山水画のしかもさらに珍しい双幅の作品です。
(月下)山水図 その3 双幅 天龍道人筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1740*横346 画サイズ:縦995*横278
落款には「鵞湖王瑾写 押印 」とあり、印章は「吊ニ山房」の白文方印と「公瑜氏」の朱文方印が押印されています。以上より60歳前後の作品と推察されます。
なんとも言えない?? 作品ですね。
水墨によるみずみずしい作品ですが、粗末な紙表具で軸先も取れてなくなっています。
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天龍道人:日本画家。姓は王。名は瑾、子は公瑜、通称は渋川虚庵、別号に草龍子・水湖観。鷹・葡萄の画を能くした。肥前鹿島(佐賀県鹿島市)の出身で、一説では九州鍋島藩(佐賀)の支藩・鹿島藩家老の板部堅忠の子とされる。天龍道人は鍋島藩の主家に当たる龍造寺隆信の七世下の孫にあたる。半生の詳細は明らかでないが19歳の時に京に出て、絵画と医術を習い、京では勤皇の活動をしていた。30歳代、40歳代頃には京都の尊王論者、山縣大弐のもとで活動をおこなっていたとされるが、時期早しと言うことで、44歳の時温泉と風向明媚な信州諏訪湖の近くに住み着いた。54歳のころから絵に専念し、74歳の頃からは諏訪湖が天龍川の水源であることにちなんで「天龍道人」と号した。50歳代から死去する93歳までの後半生、画歴の詳細は明らかでないが、確認される作品は50歳代以降の後半生、信州で制作したもので、鷹と蒲萄を題材とした作品を得意とした。天龍道人は諏訪に来てからは、渋川虚庵と称していた。龍道人は鷹と葡萄の画家とも言われる様に、葡萄の絵はかなり多いそうですが、鷹の方は少なく、山水画の方はもっと少ない。文化7年(1810)歿、93才。
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そこいらにある山水画のように思われるでしょうが、鑑賞していると飽きのこない作品です。
月のある風景、煙の出ている家屋・・・。
製作年代の推測は下記の資料によります。
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号について:天龍道人の絵画制作は明和8年(1771年)54 歳頃 から死去する93 歳近くまでおよそ 40 年間 です。初期には「虚庵」、「虚庵道人」のほか「草龍子」や「源義教」という署名がみられます。晩年、足を折って不自由になった時期から「折脚仙」という号を使っています。名の「瑾」については、「固くて美しい玉」という意味で「瑾瑜」も同じような意味で使われているようです。
「王瑾」というのは、ひっくり返すと「瑾王」で、勤王思想の「勤王」と音通するところから、天皇親政を理想としていた道人が自らの名前にしたのではないかと想像されます。ほかに「長門」や「錦水」、「錦水漁叟」の文字を添えた署名をもつ作品が残されています。「錦水」は安永2年(1773)56歳作「梅花寒月図」や同じく安永5年(1776)59歳作「鷹鶉図」にみられ、「錦水」から岩国の錦帯橋が架かる「錦川」が連想され、長門や周防岩国あたりに滞在していた時期があった可能性が考えられています。
この後に、「鵞湖(がこ)」、「鵞湖漁叟」、「鵞湖逸士」などが出てきます。鵞湖というのは諏訪湖の別称で、61歳で下諏訪に家屋敷を購入すると年譜にあり、それ以降の作品に、たとえば「鵞湖王瑾」という組み合わせの署名がみられます。「天龍道人」という署名は、70歳頃からのようです。諏訪湖を源流とするのが天龍(竜)川で、浜松辺りに流れ下って太平洋に注ぐのですが、この天龍川にちなんで「天龍道人」と称したわけです。「天龍道人」と署名をした作品で、制作時期が判明する一番早い作品は「天龍道人王瑾七十三歳筆」と署名されています。
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朝早く息子と玄関前で打ち合わせ・・、「天気もいいし、今日は何をしようか?」と・・。
子供の頃を思い出すと「沢にカニを採りにいこうか。」、「川にカジカをを採りに行こうか」、さらには「材木場にカブトムシを採りに行こうか」など田舎にはたくさんの愉しみがあったので悪友達との事前会議は喧々諤々であった。おまけに日が暮れても帰宅せず、こっぴどく怒られた
山中の自然の生活はそれはそれで愉しいもの。さて打ち捨てるべき作品か、再表具する作品か・・・資金不足につき悩ましい
(月下)山水図 その3 双幅 天龍道人筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1740*横346 画サイズ:縦995*横278
落款には「鵞湖王瑾写 押印 」とあり、印章は「吊ニ山房」の白文方印と「公瑜氏」の朱文方印が押印されています。以上より60歳前後の作品と推察されます。
なんとも言えない?? 作品ですね。
水墨によるみずみずしい作品ですが、粗末な紙表具で軸先も取れてなくなっています。
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天龍道人:日本画家。姓は王。名は瑾、子は公瑜、通称は渋川虚庵、別号に草龍子・水湖観。鷹・葡萄の画を能くした。肥前鹿島(佐賀県鹿島市)の出身で、一説では九州鍋島藩(佐賀)の支藩・鹿島藩家老の板部堅忠の子とされる。天龍道人は鍋島藩の主家に当たる龍造寺隆信の七世下の孫にあたる。半生の詳細は明らかでないが19歳の時に京に出て、絵画と医術を習い、京では勤皇の活動をしていた。30歳代、40歳代頃には京都の尊王論者、山縣大弐のもとで活動をおこなっていたとされるが、時期早しと言うことで、44歳の時温泉と風向明媚な信州諏訪湖の近くに住み着いた。54歳のころから絵に専念し、74歳の頃からは諏訪湖が天龍川の水源であることにちなんで「天龍道人」と号した。50歳代から死去する93歳までの後半生、画歴の詳細は明らかでないが、確認される作品は50歳代以降の後半生、信州で制作したもので、鷹と蒲萄を題材とした作品を得意とした。天龍道人は諏訪に来てからは、渋川虚庵と称していた。龍道人は鷹と葡萄の画家とも言われる様に、葡萄の絵はかなり多いそうですが、鷹の方は少なく、山水画の方はもっと少ない。文化7年(1810)歿、93才。
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そこいらにある山水画のように思われるでしょうが、鑑賞していると飽きのこない作品です。
月のある風景、煙の出ている家屋・・・。
製作年代の推測は下記の資料によります。
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号について:天龍道人の絵画制作は明和8年(1771年)54 歳頃 から死去する93 歳近くまでおよそ 40 年間 です。初期には「虚庵」、「虚庵道人」のほか「草龍子」や「源義教」という署名がみられます。晩年、足を折って不自由になった時期から「折脚仙」という号を使っています。名の「瑾」については、「固くて美しい玉」という意味で「瑾瑜」も同じような意味で使われているようです。
「王瑾」というのは、ひっくり返すと「瑾王」で、勤王思想の「勤王」と音通するところから、天皇親政を理想としていた道人が自らの名前にしたのではないかと想像されます。ほかに「長門」や「錦水」、「錦水漁叟」の文字を添えた署名をもつ作品が残されています。「錦水」は安永2年(1773)56歳作「梅花寒月図」や同じく安永5年(1776)59歳作「鷹鶉図」にみられ、「錦水」から岩国の錦帯橋が架かる「錦川」が連想され、長門や周防岩国あたりに滞在していた時期があった可能性が考えられています。
この後に、「鵞湖(がこ)」、「鵞湖漁叟」、「鵞湖逸士」などが出てきます。鵞湖というのは諏訪湖の別称で、61歳で下諏訪に家屋敷を購入すると年譜にあり、それ以降の作品に、たとえば「鵞湖王瑾」という組み合わせの署名がみられます。「天龍道人」という署名は、70歳頃からのようです。諏訪湖を源流とするのが天龍(竜)川で、浜松辺りに流れ下って太平洋に注ぐのですが、この天龍川にちなんで「天龍道人」と称したわけです。「天龍道人」と署名をした作品で、制作時期が判明する一番早い作品は「天龍道人王瑾七十三歳筆」と署名されています。
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朝早く息子と玄関前で打ち合わせ・・、「天気もいいし、今日は何をしようか?」と・・。
子供の頃を思い出すと「沢にカニを採りにいこうか。」、「川にカジカをを採りに行こうか」、さらには「材木場にカブトムシを採りに行こうか」など田舎にはたくさんの愉しみがあったので悪友達との事前会議は喧々諤々であった。おまけに日が暮れても帰宅せず、こっぴどく怒られた
山中の自然の生活はそれはそれで愉しいもの。さて打ち捨てるべき作品か、再表具する作品か・・・資金不足につき悩ましい