各々違う箱の収められた双幅の掛け軸です。このままでは各々別々になる可能性があるとして、購入することにしました。共箱ではないので出来れば双幅の収納箱に収めることが望ましいのだが、これにもやはりお金がかかることなのでなかなかそのようにできずにいます。追々・・・ 興味のない他人にはわからないこの義務感のようなものが趣味を持つ人間の悪い思考と思われますが・・。
七賢人をご存知ですか? 知らない人は少ないでしょうが、そらんじて七名の名を上げることができる人は稀でしょうね。まして何をした人物達かも・・・。
小村大雲の五作品目の投稿です>。「小村大雲は私の曾おじいさんです。」というコメントを頂くなど嬉しいコメントもありました。ときおり投稿した画家と縁のある方から当ブログへの応援をいただき嬉しく思います。
さて、本日の作品は小村大雲の双幅の作品です。
竹林七賢人之図双幅 小村大雲筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:縦1810*横465 画サイズ:縦1180*横245
竹林の七賢人のついてご存知の方も多いと思います。
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竹林の七賢人:竹林の七賢とは、3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した七人の称で「阮籍(げんせき) 嵆康(けいこう)山濤(さんとう) 劉伶(りゅうれい) 阮咸(げんかん) 向秀(しょうしゅう) 王戎(おうじゅう)」をいいます。
難しい名前ばかりですね。
「阮籍」が指導的存在で、その自由奔放な言動は『世説新語』に記されており、後世の人々から敬愛されています。「阮籍」くらいは覚えておきましょうか。
七人が一堂に会したことはないらしく、4世紀頃からそう呼ばれるようになったとされます。「七人が一堂に会したことはない」・・・、そうです竹林に集まったことなどありません
隠者と言われることがありますが、多くは役職についており、特に山濤と王戎は宰相格の高官に登っています。要は役人だったらしいのです。
日本では竹林の七賢というと、現実離れしたお気楽な発言をする者の代名詞となっていますが、当時の陰惨な状況では奔放な言動は死の危険があり、事実、嵆康は讒言により死刑に処せられています。
そう口は災いどころか命を落とす時代でした。「讒言」で殺される時代です。今もあまり変わらないかもしれませんが・・・
彼らの俗世から超越した言動は、悪意と偽善に満ちた社会に対する慷慨(憤り)と、その意図の韜晦(目くらまし)であり、当時の知識人の精一杯で命がけの批判表明と賞されています。
魏から晋の時代には、老荘思想に基づき俗世から超越した談論を行う清談が流行したそうです。その流行が竹林の七賢人を生んだのかもしれませんね。
『世説新語』には、彼ら以外の多く人物について記されていますが、彼ら以後は、社会に対する慷慨の気分は薄れ、詩文も華美な方向に流れました。文化は常に華美な方向の移り、そしてもう一度消滅して昇華されるようです。
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わりといい状態の双幅の掛け軸です。
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小村大雲:明治16年、島根県楯縫郡平田町(現出雲市平田町袋町)の穀物荒物商、小村豊兵衛とカメの長男として生まれる。明治30年に高等小学校を退校、翌31年両親の許可を得ず単身上京し、橋本雅邦の門や川端玉章の門をたたくが断られ帰郷、親戚会議で親の承認を得、広島で絵の修行をするが、訳あって脱門し、平田の鰐淵寺にあずけられる。その後京都に出て都路華香に師事したのち、明治36年には山元春挙の画塾早苗会に入門し画法を学ぶ。文展・帝展で受賞を重ね活躍する。昭和13年2月20日(1938)歿。享年54才。
大正元年(1912)島根の加賀浦で題材を得た「釣日和」が第6回文部省美術展覧会で第2科3等賞6席に入賞、以後3年連続入選、5年には「畫舫」が第10回文展で特選、以後も特選、無鑑査となる。8年第1回帝国美術展覧会で「推薦」にあげられ、永久無鑑査となり、以後ほぼ毎年作品を出品し、委員、審査員など歴任する。昭和10年(1935)明治神宮に壁画「京浜鉄道開業式行幸図」が完成。13年、たまたま京都より平田に帰省中の2月20日、54歳の若さで急逝、平田極楽寺に埋葬される。
名は権三郎、字は厳座、子荘と称した。別号は豊文・碧雲湖畔人・赤松子・豊瑞・豊花等有り。
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この掛け軸を飾りながら世評をしてみたら愉しいかもしれません。かなり学のレベルの高い言動だったのでしょうね。
「俗世から超越した言動は、悪意と偽善に満ちた社会に対する慷慨(憤り)と、その意図の韜晦(目くらまし)であり、当時の知識人の精一杯で命がけの批判表明と賞されています。」ということができる人も少なくなりつつあります。とにもかくにも批判よりも実行あるのみですがね。
七賢人をご存知ですか? 知らない人は少ないでしょうが、そらんじて七名の名を上げることができる人は稀でしょうね。まして何をした人物達かも・・・。
小村大雲の五作品目の投稿です>。「小村大雲は私の曾おじいさんです。」というコメントを頂くなど嬉しいコメントもありました。ときおり投稿した画家と縁のある方から当ブログへの応援をいただき嬉しく思います。
さて、本日の作品は小村大雲の双幅の作品です。
竹林七賢人之図双幅 小村大雲筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:縦1810*横465 画サイズ:縦1180*横245
竹林の七賢人のついてご存知の方も多いと思います。
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竹林の七賢人:竹林の七賢とは、3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した七人の称で「阮籍(げんせき) 嵆康(けいこう)山濤(さんとう) 劉伶(りゅうれい) 阮咸(げんかん) 向秀(しょうしゅう) 王戎(おうじゅう)」をいいます。
難しい名前ばかりですね。
「阮籍」が指導的存在で、その自由奔放な言動は『世説新語』に記されており、後世の人々から敬愛されています。「阮籍」くらいは覚えておきましょうか。
七人が一堂に会したことはないらしく、4世紀頃からそう呼ばれるようになったとされます。「七人が一堂に会したことはない」・・・、そうです竹林に集まったことなどありません
隠者と言われることがありますが、多くは役職についており、特に山濤と王戎は宰相格の高官に登っています。要は役人だったらしいのです。
日本では竹林の七賢というと、現実離れしたお気楽な発言をする者の代名詞となっていますが、当時の陰惨な状況では奔放な言動は死の危険があり、事実、嵆康は讒言により死刑に処せられています。
そう口は災いどころか命を落とす時代でした。「讒言」で殺される時代です。今もあまり変わらないかもしれませんが・・・
彼らの俗世から超越した言動は、悪意と偽善に満ちた社会に対する慷慨(憤り)と、その意図の韜晦(目くらまし)であり、当時の知識人の精一杯で命がけの批判表明と賞されています。
魏から晋の時代には、老荘思想に基づき俗世から超越した談論を行う清談が流行したそうです。その流行が竹林の七賢人を生んだのかもしれませんね。
『世説新語』には、彼ら以外の多く人物について記されていますが、彼ら以後は、社会に対する慷慨の気分は薄れ、詩文も華美な方向に流れました。文化は常に華美な方向の移り、そしてもう一度消滅して昇華されるようです。
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わりといい状態の双幅の掛け軸です。
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小村大雲:明治16年、島根県楯縫郡平田町(現出雲市平田町袋町)の穀物荒物商、小村豊兵衛とカメの長男として生まれる。明治30年に高等小学校を退校、翌31年両親の許可を得ず単身上京し、橋本雅邦の門や川端玉章の門をたたくが断られ帰郷、親戚会議で親の承認を得、広島で絵の修行をするが、訳あって脱門し、平田の鰐淵寺にあずけられる。その後京都に出て都路華香に師事したのち、明治36年には山元春挙の画塾早苗会に入門し画法を学ぶ。文展・帝展で受賞を重ね活躍する。昭和13年2月20日(1938)歿。享年54才。
大正元年(1912)島根の加賀浦で題材を得た「釣日和」が第6回文部省美術展覧会で第2科3等賞6席に入賞、以後3年連続入選、5年には「畫舫」が第10回文展で特選、以後も特選、無鑑査となる。8年第1回帝国美術展覧会で「推薦」にあげられ、永久無鑑査となり、以後ほぼ毎年作品を出品し、委員、審査員など歴任する。昭和10年(1935)明治神宮に壁画「京浜鉄道開業式行幸図」が完成。13年、たまたま京都より平田に帰省中の2月20日、54歳の若さで急逝、平田極楽寺に埋葬される。
名は権三郎、字は厳座、子荘と称した。別号は豊文・碧雲湖畔人・赤松子・豊瑞・豊花等有り。
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この掛け軸を飾りながら世評をしてみたら愉しいかもしれません。かなり学のレベルの高い言動だったのでしょうね。
「俗世から超越した言動は、悪意と偽善に満ちた社会に対する慷慨(憤り)と、その意図の韜晦(目くらまし)であり、当時の知識人の精一杯で命がけの批判表明と賞されています。」ということができる人も少なくなりつつあります。とにもかくにも批判よりも実行あるのみですがね。