昨夜は取引先らと東京駅近くで日本酒に鰻・・、美味かったですが、ちと痛飲・・
本日の投稿作品は大町桂月遺稿の「十和田湖」に掲載された福田豊四郎による挿絵原画(紙本水墨淡彩 全21点)ですが、小生にとっては骨董という域をを出た作品で、おもいのほか高価でしたが購入しました。ときには金額にかかわらず欲しいものがあるものです。
幼い頃に十和田湖畔へ父に連れて行かれて食べた十和田湖のヒメマス、小学生の頃友人と自転車で行った奥入瀬、学生時代に初めてデートした湖畔、ゴルフの前の日に宿泊した蔦温泉、接待でマージャンをして国士無双をつもった宿、家内との思い出のせせらぎ・・思いでは尽きない十和田湖と蔦温泉。そこにはさらに前に大町桂月、父や母と親交のあった福田豊四郎らが先にいました。
大町桂月遺稿「十和田湖」 福田豊四郎挿絵原画
紙本水墨淡彩 全21点
昭和11年頃 龍星閣出版
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大町 桂月(おおまち けいげつ):1869年3月6日(明治2年1月24日)-~1925年(大正14年)6月10日)。高知県出身で、近代日本の詩人、歌人、随筆家、評論家です。
「来迎寺石像」・・、来迎寺??
1869年(明治2年)、高知市北門筋に元土佐藩士の通の息子として生まれ、名は芳衛。昆虫学者の大町文衛は2男です。雅号の桂浜月下漁郎はよさこい節にも唄われる月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたものとのことです。土佐藩出身は名前から判断できるのですね。
胡粉の使い方が巧いと言われた福田豊四郎・・。
1896年(明治29年)、東京帝国大学国文科卒。1899年(明治32年)、島根県で中学教師として奉職。1900年(明治33年)、博文館に入社し、1906年(明治39年)まで在籍。『文芸倶楽部』『太陽』『中學世界』などに随筆を書き美文家として知られました。
なにの実でしょうか?
韻文・随筆・紀行・評論・史伝・人生訓など多彩であったようです。格調高い文体から擬古派と言われました。 1913年(大正2年)に出版された『人の運』は、洋の東西を問わず通ずる処世訓集として当時のベストセラーとなりました。
十和田湖に舟・・。今はボートしかみませんが・・。
和漢混在の独特な美文の紀行文は広く読まれました。終生酒と旅を愛し、酒仙とも山水開眼の士とも称されたようです。これは福田豊四郎もまた同じく酒が大好きでした。
この竹の描き方はよく見ますね。
晩年は遠く朝鮮、旧満州(中国東北部)まで足を延ばしています。大雪山系、桂月岳(右から2番目)、黒岳(右端)桂月は北海道の層雲峡や羽衣の滝の名付け親でもあります。北海道各地を旅行してその魅力を紀行文で紹介しています。大雪山系の黒岳の近くには、彼の名前にちなんだ桂月岳という山があります。
動物をほのぼのと描く福田豊四郎の真骨頂の作。
青森県の十和田湖と奥入瀬をことに愛し、晩年は同地の蔦温泉(現:十和田市)に居住し、1925年(大正14年)4月には本籍も蔦温泉に移したが、ほどなく胃潰瘍のため死去、57歳。墓は、蔦温泉の温泉旅館の近くにあります。(現在は雑司ヶ谷霊園にもあるそうです。)
小品ながら佳作ですね。
仏ヶ浦極楽浜に立つ大町桂月歌碑桂浜に碑があり、側面には「見よや見よ みな月のみのかつら浜 海のおもよりいづる月かげ」の歌が刻まれ、大正7年、38年ぶりに、故郷の土を踏んだ桂月が、同郷の愛弟子田中桃葉(貢太郎)と、この桂浜に遊歩した折の作歌だそうです。
なかなか粋なスケッチです。
1904年(明治37年)9月に『明星』に発表された与謝野晶子の「きみ死にたまうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と『太陽』誌上で非難しています。これに対して与謝野晶子は『明星』11月号で「ひらきぶみ」を発表し、「歌はまことの心を歌うもの」と弁明しています。
本に記載されている作品のひとつです。
現在、大町桂月の評価が低いのは、こうした当時としては「常識的」で「多数派」であった発言が、後年の目から見れば国粋主義的に写ることから来ている面もあるようです。しかし、この騒動以前には桂月は晶子の才能を認めており、親交も深かった歌人であったようです。晶子は57歳で病没した桂月に「横浜貿易新報(現在の神奈川新聞)」に追憶をよせています。
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桂月が初めて十和田湖を訪れたのは,明治41年のことです。五戸町出身の鳥谷部春汀が,「故郷に十和田湖という景色のよいところがある。是非一度見せたい。」と誘ったことが始まりだそうです。
金色の色彩がアクセントになっている木村武山のような描き方の作品ですね。
初秋の十和田湖を訪れた桂月は,あまりの美しさに,すっかり心をうたれてしまいました。その風光を「日光に勝るとも劣らぬ,まさに天下の絶景」と,名句を連ねて褒め称えました。「奥羽一周記」という題で,雑誌「太陽」に掲載した一文によって,十和田湖は全国にその名を知られるようになったのです。自然を愛する桂月にとって,旅行は欠かせぬものでした。
トンボを描いた福田豊四郎の作品はこの作品が唯一かも?
北海道旅行を終えた桂月は,全国の山水行脚を計画し,手始めに青森県の各地を巡り歩きました。大正11年から,下北めぐり,ついて弘前,岩木山,暗門の滝,大鰐などが主たる場所です。
大正14年になんと蔦に本籍を移し,蔦温泉では,六畳間を冬ごもりの部屋としました。ここで村長の依頼で,「十和田国立公園認定の請願文」を起草しています。この年「極楽に越ゆる峠のひと休み,蔦のいで湯に身をば清めて」と辞世の句をうたい,6月10日,57歳で多彩な人生に幕を下ろしました。
滲みを利かせた粋な描き方ですね。
十和田湖は四季を通じて美しいところであり、とくに人ごみのない冬の美しさは絶景です。一度や二度だけの訪れではその良さは味わったことにはなりませんね。
大町桂月遺稿の「十和田湖」に掲載された福田豊四郎による挿絵原画(紙本水墨淡彩 全21点)が、小生が入手したのもなにかの縁でしょうね。当時の編集者か、大町桂月か福田豊四郎に近い人が大事に保管していたようです。
福田豊四郎は十和田湖を好んで描き、当方でも所蔵している作品があります。そのうちの一点が下記の作品です。郷里の住職さんが所蔵していた作品です。
十和田湖早春 福田豊四郎筆
紙本水墨淡彩絹装軸 宝勝寺秩父威仙和尚箱書箱入 550*415
だいぶ前に撮影した写真ですので写りが悪いようですが・・。
福田豊四郎の原画がすべて大町桂月遺稿「十和田湖」に掲載されているのではなく、それどころか上記に投稿した主だった作品のうち数点のみの掲載です。掲載されていない作品のほうがかえって福田豊四郎の佳作のように思えます。むろん小品であり、落款がないもの、すべて印章がありませんので価値的には低いかもしれませんが、小生にとってはかけがいのない作品のひとつです。
紅葉の時期だけでなく一度は十和田湖の四季をじっくり味わってみませんか? 人生が豊かになりますよ。
福田豊四郎の作品は贋作と称する作品が「なんでも鑑定団」の出品されましたが、郷里では物議を醸しています。果たして贋作かと・・・?? 「なんでも鑑定団」は値段はまず信用になりません。真贋も怪しいことがありますので要注意のようです。
本日の投稿作品は大町桂月遺稿の「十和田湖」に掲載された福田豊四郎による挿絵原画(紙本水墨淡彩 全21点)ですが、小生にとっては骨董という域をを出た作品で、おもいのほか高価でしたが購入しました。ときには金額にかかわらず欲しいものがあるものです。
幼い頃に十和田湖畔へ父に連れて行かれて食べた十和田湖のヒメマス、小学生の頃友人と自転車で行った奥入瀬、学生時代に初めてデートした湖畔、ゴルフの前の日に宿泊した蔦温泉、接待でマージャンをして国士無双をつもった宿、家内との思い出のせせらぎ・・思いでは尽きない十和田湖と蔦温泉。そこにはさらに前に大町桂月、父や母と親交のあった福田豊四郎らが先にいました。
大町桂月遺稿「十和田湖」 福田豊四郎挿絵原画
紙本水墨淡彩 全21点
昭和11年頃 龍星閣出版
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大町 桂月(おおまち けいげつ):1869年3月6日(明治2年1月24日)-~1925年(大正14年)6月10日)。高知県出身で、近代日本の詩人、歌人、随筆家、評論家です。
「来迎寺石像」・・、来迎寺??
1869年(明治2年)、高知市北門筋に元土佐藩士の通の息子として生まれ、名は芳衛。昆虫学者の大町文衛は2男です。雅号の桂浜月下漁郎はよさこい節にも唄われる月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたものとのことです。土佐藩出身は名前から判断できるのですね。
胡粉の使い方が巧いと言われた福田豊四郎・・。
1896年(明治29年)、東京帝国大学国文科卒。1899年(明治32年)、島根県で中学教師として奉職。1900年(明治33年)、博文館に入社し、1906年(明治39年)まで在籍。『文芸倶楽部』『太陽』『中學世界』などに随筆を書き美文家として知られました。
なにの実でしょうか?
韻文・随筆・紀行・評論・史伝・人生訓など多彩であったようです。格調高い文体から擬古派と言われました。 1913年(大正2年)に出版された『人の運』は、洋の東西を問わず通ずる処世訓集として当時のベストセラーとなりました。
十和田湖に舟・・。今はボートしかみませんが・・。
和漢混在の独特な美文の紀行文は広く読まれました。終生酒と旅を愛し、酒仙とも山水開眼の士とも称されたようです。これは福田豊四郎もまた同じく酒が大好きでした。
この竹の描き方はよく見ますね。
晩年は遠く朝鮮、旧満州(中国東北部)まで足を延ばしています。大雪山系、桂月岳(右から2番目)、黒岳(右端)桂月は北海道の層雲峡や羽衣の滝の名付け親でもあります。北海道各地を旅行してその魅力を紀行文で紹介しています。大雪山系の黒岳の近くには、彼の名前にちなんだ桂月岳という山があります。
動物をほのぼのと描く福田豊四郎の真骨頂の作。
青森県の十和田湖と奥入瀬をことに愛し、晩年は同地の蔦温泉(現:十和田市)に居住し、1925年(大正14年)4月には本籍も蔦温泉に移したが、ほどなく胃潰瘍のため死去、57歳。墓は、蔦温泉の温泉旅館の近くにあります。(現在は雑司ヶ谷霊園にもあるそうです。)
小品ながら佳作ですね。
仏ヶ浦極楽浜に立つ大町桂月歌碑桂浜に碑があり、側面には「見よや見よ みな月のみのかつら浜 海のおもよりいづる月かげ」の歌が刻まれ、大正7年、38年ぶりに、故郷の土を踏んだ桂月が、同郷の愛弟子田中桃葉(貢太郎)と、この桂浜に遊歩した折の作歌だそうです。
なかなか粋なスケッチです。
1904年(明治37年)9月に『明星』に発表された与謝野晶子の「きみ死にたまうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と『太陽』誌上で非難しています。これに対して与謝野晶子は『明星』11月号で「ひらきぶみ」を発表し、「歌はまことの心を歌うもの」と弁明しています。
本に記載されている作品のひとつです。
現在、大町桂月の評価が低いのは、こうした当時としては「常識的」で「多数派」であった発言が、後年の目から見れば国粋主義的に写ることから来ている面もあるようです。しかし、この騒動以前には桂月は晶子の才能を認めており、親交も深かった歌人であったようです。晶子は57歳で病没した桂月に「横浜貿易新報(現在の神奈川新聞)」に追憶をよせています。
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桂月が初めて十和田湖を訪れたのは,明治41年のことです。五戸町出身の鳥谷部春汀が,「故郷に十和田湖という景色のよいところがある。是非一度見せたい。」と誘ったことが始まりだそうです。
金色の色彩がアクセントになっている木村武山のような描き方の作品ですね。
初秋の十和田湖を訪れた桂月は,あまりの美しさに,すっかり心をうたれてしまいました。その風光を「日光に勝るとも劣らぬ,まさに天下の絶景」と,名句を連ねて褒め称えました。「奥羽一周記」という題で,雑誌「太陽」に掲載した一文によって,十和田湖は全国にその名を知られるようになったのです。自然を愛する桂月にとって,旅行は欠かせぬものでした。
トンボを描いた福田豊四郎の作品はこの作品が唯一かも?
北海道旅行を終えた桂月は,全国の山水行脚を計画し,手始めに青森県の各地を巡り歩きました。大正11年から,下北めぐり,ついて弘前,岩木山,暗門の滝,大鰐などが主たる場所です。
大正14年になんと蔦に本籍を移し,蔦温泉では,六畳間を冬ごもりの部屋としました。ここで村長の依頼で,「十和田国立公園認定の請願文」を起草しています。この年「極楽に越ゆる峠のひと休み,蔦のいで湯に身をば清めて」と辞世の句をうたい,6月10日,57歳で多彩な人生に幕を下ろしました。
滲みを利かせた粋な描き方ですね。
十和田湖は四季を通じて美しいところであり、とくに人ごみのない冬の美しさは絶景です。一度や二度だけの訪れではその良さは味わったことにはなりませんね。
大町桂月遺稿の「十和田湖」に掲載された福田豊四郎による挿絵原画(紙本水墨淡彩 全21点)が、小生が入手したのもなにかの縁でしょうね。当時の編集者か、大町桂月か福田豊四郎に近い人が大事に保管していたようです。
福田豊四郎は十和田湖を好んで描き、当方でも所蔵している作品があります。そのうちの一点が下記の作品です。郷里の住職さんが所蔵していた作品です。
十和田湖早春 福田豊四郎筆
紙本水墨淡彩絹装軸 宝勝寺秩父威仙和尚箱書箱入 550*415
だいぶ前に撮影した写真ですので写りが悪いようですが・・。
福田豊四郎の原画がすべて大町桂月遺稿「十和田湖」に掲載されているのではなく、それどころか上記に投稿した主だった作品のうち数点のみの掲載です。掲載されていない作品のほうがかえって福田豊四郎の佳作のように思えます。むろん小品であり、落款がないもの、すべて印章がありませんので価値的には低いかもしれませんが、小生にとってはかけがいのない作品のひとつです。
紅葉の時期だけでなく一度は十和田湖の四季をじっくり味わってみませんか? 人生が豊かになりますよ。
福田豊四郎の作品は贋作と称する作品が「なんでも鑑定団」の出品されましたが、郷里では物議を醸しています。果たして贋作かと・・・?? 「なんでも鑑定団」は値段はまず信用になりません。真贋も怪しいことがありますので要注意のようです。