我が家の幼子は元気そのもの・・、腹や背中に乗ってきては予想外の行動をするので眼鏡が何個か壊されました。
ところが元気な息子が生まれてから2回目の高熱を出しました。夜遅く帰宅したら泣き止きやまないでいたので、抱いてあげるとまもなくすやすやと眠りこけました。翌朝に入浴していると起き出しきてお風呂場の扉を開けて「にこり」・・。かわいいものです。
さて本日の作品を描いた画家の西村五雲というと動物画においては言わずと知れた第一人者。門下生の山口華楊にも引き継がれています。愛らしい絵が魅力の画家です。
双幼図 西村五雲筆
紙本着色軸装 軸先象牙 一雨鑑定箱
全体サイズ:縦1120*横490 画サイズ:縦230*横350
箱書には「昭和壬戌(みずのえいぬ、じんじゅつ)新春 一雨鑑 花押」とあり、昭和57年(1982年)の鑑定のようですが、「一雨」なる鑑定者については詳細は不明です。
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西村五雲:1877年(明治10年)11月6日 ~1938年(昭和13年)9月16日)。日本画家。京都出身、本名・源次郎。日本画家の西村卓三は息子(次男)。
動物の生態を生き生きと捉える絵を描き、平和でのどかな動物画を得意としていた。
1890年(明治23年)13歳で岸竹堂に入門、ただしこの頃の作品は殆ど現存しない。竹堂没後の1899年(明治32年)に竹内栖鳳に師事。1907年(明治40年)の第1回文展で「咆哮」(山種美術館蔵)が三等賞受賞。1913年(大正2年)に京都美術工芸学校教諭、1924年(大正13年)に京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)教授、1933年(昭和8年)に帝国美術院会員、1937年(昭和12年)に帝国芸術院会員。
晩年の五雲は名声を得たが、生来病弱で、官設展などの大きな展覧会にはあまり出品しておらず、大作や作品数も少ない。画塾・晨鳥社を主宰、門下に山口華楊などがいる。
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小生が帰宅してからしばらく遊んだり、風呂に入って、そして熟睡・・。
息子が寝てからが小生の自由時間・・、息子が眠るとほっとしますね。
ところが元気な息子が生まれてから2回目の高熱を出しました。夜遅く帰宅したら泣き止きやまないでいたので、抱いてあげるとまもなくすやすやと眠りこけました。翌朝に入浴していると起き出しきてお風呂場の扉を開けて「にこり」・・。かわいいものです。
さて本日の作品を描いた画家の西村五雲というと動物画においては言わずと知れた第一人者。門下生の山口華楊にも引き継がれています。愛らしい絵が魅力の画家です。
双幼図 西村五雲筆
紙本着色軸装 軸先象牙 一雨鑑定箱
全体サイズ:縦1120*横490 画サイズ:縦230*横350
箱書には「昭和壬戌(みずのえいぬ、じんじゅつ)新春 一雨鑑 花押」とあり、昭和57年(1982年)の鑑定のようですが、「一雨」なる鑑定者については詳細は不明です。
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西村五雲:1877年(明治10年)11月6日 ~1938年(昭和13年)9月16日)。日本画家。京都出身、本名・源次郎。日本画家の西村卓三は息子(次男)。
動物の生態を生き生きと捉える絵を描き、平和でのどかな動物画を得意としていた。
1890年(明治23年)13歳で岸竹堂に入門、ただしこの頃の作品は殆ど現存しない。竹堂没後の1899年(明治32年)に竹内栖鳳に師事。1907年(明治40年)の第1回文展で「咆哮」(山種美術館蔵)が三等賞受賞。1913年(大正2年)に京都美術工芸学校教諭、1924年(大正13年)に京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)教授、1933年(昭和8年)に帝国美術院会員、1937年(昭和12年)に帝国芸術院会員。
晩年の五雲は名声を得たが、生来病弱で、官設展などの大きな展覧会にはあまり出品しておらず、大作や作品数も少ない。画塾・晨鳥社を主宰、門下に山口華楊などがいる。
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小生が帰宅してからしばらく遊んだり、風呂に入って、そして熟睡・・。
息子が寝てからが小生の自由時間・・、息子が眠るとほっとしますね。