小生がどうしても入手できない画家の作品の一つに桑山玉洲の作品があります。もう三作品目になりますが、どうも贋作が横行しているようです。釧雲泉の作品でも苦戦していますが、南画は一時期にかなりの高値で取引されたこともあり、腕の良い画家が大量の贋作を製作した時期があるようです。
本作品は雰囲気がよいので購入しましたが、真作という自信はありませんので「伝」としておきます。
秋景江山図 伝桑山玉洲筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1770*横538 画サイズ:縦1117*横410
落款には「玉洲?嗣燐写」と記されています。印章は「桑嗣粲(嗣燦)」の白文朱方印と「明夫氏」の朱文白方印の累印が押印されています。印章は未確認です。
桑山玉洲のきちんとした資料が当方に不足してることも判断ができない理由のひとつです。
やわらかな色調の山水画を数多く描いているのが桑山玉洲の特徴です。
祇園南海・桑山玉洲・野呂介石の三人の画人を総称して、紀州の「三大文人画家」といわれています。本ブログでは野呂介石の作品を取り上げたことがあります。
祇園南海を取り上げたこともありました。
大雅、蕪村らを引き継ぐ形で画を模索し、後期の玉堂、木米、竹田らの活躍へと文人画の展開をつなげた玉洲の役割は意義深いと言われています。
池大雅の影響を受けながら、中国絵画の修学に勤め、独学で独自の境地を開いた絵画は興味深いものがあります。
初期には長崎派の影響を受けた極彩色の絵を描きましたが、その後は山水画に傾倒したようです。
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桑山 玉洲:延享3年(1746年)〜寛政11年4月13日(1799年5月17日))。江戸中期の南画家。名は嗣幹,のち嗣燦(嗣粲)。通称茂平次,のち左内。名は政近をはじめに嗣幹、嗣粲、嗣燦と改め、字を白瑞、子戔、明夫、通称は茂兵次。号は玉洲の他に明光居士、珂雪漁人、玉津嶋漁人、蘆泮、また堂号は鶴跡園、珂雪堂、聴雨堂、勧耕舎など。
紀州和歌浦(和歌山市)の人。家業の廻船業を継ぐ。明和年間(1764〜72),開墾事業に従事して地主となる。幼年より古書画を好み,同郷の野呂介石と交友。明和〜安永のころ,江戸に遊学。はじめは南蘋系統の花鳥画を描いていたが,安永年間(1772〜81),京坂で池大雅,高芙蓉,細合半斎,木村蒹葭堂などと交わり,南画を志す。
遺作には南蘋系の花鳥画と南画山水とがあり,柔らかい筆線と濃い色彩に特色がある。『玉洲画趣』『絵事鄙言』を著し,後者で「近衛公(信尹あるいは家煕),惺々翁(松花堂昭乗),宗達,光琳ナトハ本朝ノ南宗トモ云ハンカ」と述べるなど,独自の日本南画論を展開。真景図の重要性を主張する点とあわせて,大雅の影響と考えられる。自らも「若浦図巻」「明光浦十覧冊」(いずれも個人蔵),「那智山・橋柱巌図屏風」(和歌山・念誓寺蔵)など,真景図に秀作を残す。
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思文閣のカタログにもいくつか紹介されています。今回は省略します。
参考作品 その1
富嶽山林
思文閣墨蹟資料目録「和の美」 第460号 作品NO39
参考作品 その2
飛泉大観
思文閣墨蹟資料目録「和の美」 第466号 作品NO38
本作品は雰囲気がよいので購入しましたが、真作という自信はありませんので「伝」としておきます。
秋景江山図 伝桑山玉洲筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1770*横538 画サイズ:縦1117*横410
落款には「玉洲?嗣燐写」と記されています。印章は「桑嗣粲(嗣燦)」の白文朱方印と「明夫氏」の朱文白方印の累印が押印されています。印章は未確認です。
桑山玉洲のきちんとした資料が当方に不足してることも判断ができない理由のひとつです。
やわらかな色調の山水画を数多く描いているのが桑山玉洲の特徴です。
祇園南海・桑山玉洲・野呂介石の三人の画人を総称して、紀州の「三大文人画家」といわれています。本ブログでは野呂介石の作品を取り上げたことがあります。
祇園南海を取り上げたこともありました。
大雅、蕪村らを引き継ぐ形で画を模索し、後期の玉堂、木米、竹田らの活躍へと文人画の展開をつなげた玉洲の役割は意義深いと言われています。
池大雅の影響を受けながら、中国絵画の修学に勤め、独学で独自の境地を開いた絵画は興味深いものがあります。
初期には長崎派の影響を受けた極彩色の絵を描きましたが、その後は山水画に傾倒したようです。
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桑山 玉洲:延享3年(1746年)〜寛政11年4月13日(1799年5月17日))。江戸中期の南画家。名は嗣幹,のち嗣燦(嗣粲)。通称茂平次,のち左内。名は政近をはじめに嗣幹、嗣粲、嗣燦と改め、字を白瑞、子戔、明夫、通称は茂兵次。号は玉洲の他に明光居士、珂雪漁人、玉津嶋漁人、蘆泮、また堂号は鶴跡園、珂雪堂、聴雨堂、勧耕舎など。
紀州和歌浦(和歌山市)の人。家業の廻船業を継ぐ。明和年間(1764〜72),開墾事業に従事して地主となる。幼年より古書画を好み,同郷の野呂介石と交友。明和〜安永のころ,江戸に遊学。はじめは南蘋系統の花鳥画を描いていたが,安永年間(1772〜81),京坂で池大雅,高芙蓉,細合半斎,木村蒹葭堂などと交わり,南画を志す。
遺作には南蘋系の花鳥画と南画山水とがあり,柔らかい筆線と濃い色彩に特色がある。『玉洲画趣』『絵事鄙言』を著し,後者で「近衛公(信尹あるいは家煕),惺々翁(松花堂昭乗),宗達,光琳ナトハ本朝ノ南宗トモ云ハンカ」と述べるなど,独自の日本南画論を展開。真景図の重要性を主張する点とあわせて,大雅の影響と考えられる。自らも「若浦図巻」「明光浦十覧冊」(いずれも個人蔵),「那智山・橋柱巌図屏風」(和歌山・念誓寺蔵)など,真景図に秀作を残す。
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思文閣のカタログにもいくつか紹介されています。今回は省略します。
参考作品 その1
富嶽山林
思文閣墨蹟資料目録「和の美」 第460号 作品NO39
参考作品 その2
飛泉大観
思文閣墨蹟資料目録「和の美」 第466号 作品NO38