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Channel: 夜噺骨董談義
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忘れ去られた画家 渓閣松聲図 服部二柳筆

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先日夜遅くなりタクシーで帰宅しましたが、ナビのデータが古く住所では自宅がナビでは断定できず、とはいえ新しい住まいに証明のない夜、自力で帰宅できるほどまだ記憶が明確でないため恐る恐る帰宅しましたがなんとかたどり着くことが出来ました。

引越しするたびに経験することですが、こういうことのひとつをとっても引越しはたいへんです。マンションに引っ越したときでは部屋番号すらうろ覚えで帰宅に歳して廊下でうろうろしたことさえありますが、住む環境が生活に馴染むまではしばらく時間がかかりそうです。

本日投稿されている服部二柳という画家を知っている人はほとんどいないでしょう。橋本関雪や竹内栖鳳と並び称された南画家の大家・服部五老を父とする南画家ですが、その奇行ゆえもあって評価はあまり高くはありません。なんら気負いのないいい作品だと私は評価しますが、本作品については評価の分かれるところでしょう。

渓閣松聲図 服部二柳筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦1890*横470 画サイズ:縦1320*横350



「服部二柳」についてインターネットで検索した記事は下記のとおりです。

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服部二柳:(はっとり にりゅう)本名:辰雄。1904年(明治37年)3月10日 ~1968年(昭和43年)1月1日)。日本の南画家。服部双柳子、服部双柳、二柳散人とも。奇人の南画家として知られる。高祖父は、葛飾北斎の弟子の浮世絵師・大山北李で、父は橋本関雪や竹内栖鳳と並び称された南画家の大家・服部五老である。



橋本関雪に学び、もとは「双柳」を号としていたが、後に出生地である京都二条柳馬場の「二」と「柳」の二字を取って「二柳」と号した。二柳には共に画を描いたという兄・寛司と姉・夏井がいたが、兄は24歳、姉は35歳で亡くなっている。

1935年(昭和10年)関雪に破門されたため、放浪の末に父と離縁し鶴岡に戻っていた母のもとに辿り着く。そして、1938年(昭和13年)には遠縁の松平穆堂らの援助で画会が開催されるのだが、しだいに、汚い身なりをして白い歯をむき出しにしてイヒヒと笑う、などの奇人の如く振る舞いをしたり、絵を描く見返りにお金ではなく食べ物を貰うという、乞食のような生活を送る。そんな二柳を町人達は「ヤッコの二柳」と呼んで馬鹿にした。

それを見兼ねた穆堂は、自宅の一隅を二柳に与えて思う存分に絵を描かせた。しかし、1957年(昭和32年)医師に極度の非常識と診断され精神衛生法の適用で鶴岡市立荘内病院に入院させられてしまう。その後は、湯野浜思恩園を経て山形県立療養所 金峯園に入院し1968年(昭和43年)の元旦に、昼食で食べた雑煮の餅を喉に詰まらせて、窒息したのが原因で死去。64年の生涯を閉じた。



二柳は最後まで画筆を離さず持っていたと言う。再従甥にあたる黒羽根洋司は自著の中で二柳の画は「ゴッホに似ている」と語る。また、1929年(昭和4年)頃と思われる時期に、相国寺塔頭・瑞春院に小僧として修行に出されていた水上勉(後の直木賞作家)が、その当時、寺に住み込んで画の練習をしている画家達がおり、その中にいた二柳が風狂画家的で一番印象深かったと、自著『京都遍歴』の中で述べている。代表作には日本南画院展で入選(第4回と第5回のどちらかは不明)した『夢』がある。

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*1904年(明治37年)3月10日 - 南画家・服部五老の次男として京都二条柳馬場に生れる。
*1916年(大正5年) 3月 - 柳池尋常小学校(現・柳池中学校)卒業
*1917年(大正6年) - 京都府第一中学校中退
            橋本関雪に学ぶ。
*1925年(大正14年) - 第4回日本南画院展入選
*1926年(昭和元年)[元号要検証] - 第5回日本南画院展入選
*1936年(昭和11年) - 前年に関雪から破門されたため、放浪の果てに鶴岡の母のもとに身を寄せる。
*1938年(昭和13年) - 松平穆堂らの協力で『二柳の画会』開催
            乞食の様な生活を送り、町人から「ヤッコの二柳」などと呼ばれ馬鹿にされながらも多くの作品を描く。
            穆堂の家の一隅を与えられ絵を描く。
*1952年(昭和27年) - この頃から致道博物館の書画展を見に来るようになる。
            
致道博物館(ちどうはくぶつかん)は:山形県鶴岡市にある山形県の登録博物館である。名称は旧庄内藩の藩校「致道館」に由来し、同藩校で使用されていた文物や用具に加え庄内地方の民俗資料が収蔵・展示されている。運営は公益財団法人致道博物館。また近隣の歴史的建造物も敷地内に移設保存している。

*1957年(昭和32年) - 医師に極度の非常識と診断され精神病扱いで鶴岡市立荘内病院に入院させられる。
*1958年(昭和33年) - 湯野浜思恩園に入園
*1959年(昭和34年) - 山形県立療養所 金峯園に入園
*1968年(昭和43年)1月1日 - 同園で死去。享年64。鶴岡市陽光町の総穏寺に無縁仏として葬られる。

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マンションの廊下でうろうろしたり、タクシーで帰宅に際してこの辺という客も奇行のひとつと見られているかもしれませんね

数千円さえあれば購入できる画家で、下手をすると今では買い手さえつかない「忘れ去られた画家」の一人と言えるでしょう。


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