親善試合とはいえ、相変わらずいらいらが募るばかりの日本代表の男子サッカーの試合です。日本の武器である組織力を使えない試合運びに世界ラグビーの日本代表とは対照的に夜遅く観ていてストレスが溜まるのは私ばかりではないでしょう。
まずは相変わらずほぼ同一人物のペナルテイエリア内で安易なゴール向きではない後ろからのファール。まるでサッカー賭博のように相手に意図的に点数を与えているとしか思えないプレーは許せるものではありません。ボール保持率の悪さからのばたばたしたパス回し、高校生並みにボール保持できない攻撃陣・・。少しは頭を使え、組織力を生かせと思いたくなりますね。
企業も同じ、組織を使わない単独行動は仕事をしないよりたちが悪い。功績を焦る者のしがちな初歩的な規律違反は徹底して排除することが必要です。
ところで「風鎮」というのをご存知の方は多いと思います。辞書などによると、「風鎮(ふうちん)とは、掛軸の軸先に付ける錘のことで、風を鎮める」という字の如く、掛軸が風に揺れないようにするためのもので、飾りとしての意味合いも強いものです。中空になった陶磁器などに房を通した構造をしており、その房を軸の両端に掛けます。」とあります。
ただし、風鎮は通常は長期には使用されません。その理由はインターネット上での説明では「風鎮は、元々は錘なので、実はあまり付けっ放しにするのは良くありません。というのは掛軸をかけたときにちょうどいい具合になるように、掛軸にはもともと「おもり」を入れて調整してあるのです。風鎮を付けっ放しにしておくと、掛軸をかける紐がゆるんでしまったり、風鎮で壁を傷つけることもあるので、実はあまりおすすめできないのです。今となっては本来の役割を失っていますので、付けっ放しにしないほうが良いですね。」ということです。
大きな掛け軸には軸の部分を重くしているものがありますので、そこで調整しているということなのでしょう。重さの感じる掛け軸にいいものがあるというのは、そのように調整されているということです。
ただし、続けての説明には「一時的に付けるのは問題ありませんので、来客時やお祝いの席など、特別な機会に付けて頂くのは問題ありません。風鎮をつける事で、いつもの掛軸と違った雰囲気を味わう事ができますので、たまには風鎮で掛軸のオシャレを楽しむのも良いと思います。」とあります。風鎮を愉しむのはいいと思います。極力軽い風鎮を掛けて、掛け軸の雰囲気を引き立たせるものを選んでみたらいかがでしょう。
ともかくなんでもいいから、風鎮を付けておけばいいというのは間違いで、とくに古い掛け軸に風鎮を付けっぱなしというのは禁物です。
さて本日の作品は朱墨による「鐘馗様」の作品です。北斎の「朱鐘馗」は著名ですが、朱で描かれる鐘馗の図は非常に多いのですが、どうしてでしょうか?
朱鐘馗之図 塩川文麟筆 その3
絹本朱墨軸装 軸先木製塗 合箱
全体サイズ:縦1470*横380 画サイズ:縦630*横310
塩川文麟の作品は本日の作品で「その3」となります。
改めて塩川文麟の説明はするまでもないでしょうが、久方ぶりの登場なので下記に「塩川文麟」についての説明文を列記しておきます。
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塩川文麟:(しおかわ ぶんりん、文化5年(1808年)~ 明治10年(1877年)5月11日)。江戸時代末から明治初期の日本画家。幼名は隼人、字は子温もしくは士温、号は初めは雲章、後に文麟、別に可竹斎や泉声答斎や木仏老人など、通称は図書(ずしょ)。
幕末の京都を代表する絵師の一人で、同じ四条派の横山清暉、岸派の岸連山、円山派の中島来章と共に、幕末の平安四名家と称された。
文化5年(1808年)、京都の安井門蓮華光院門跡に仕える者(久保遠州と称したと言われる)の子として生まれる。塩川家の遠祖は多田源氏で、代々摂津国川辺郡山下郷(現兵庫県川西市)に居する郷士だったという。
父の代に京都に出て、鷹司家に仕えた。同家の公子が蓮華光院門跡になるに際して付き従い、安井宮諸大夫久保某の家を継ぎ、久保遠江守を名乗った。
文政3年(1820年)13歳で両親を失い、久保の姓を淀藩士某に譲って、家系元来の塩川に復し、安井門跡の侍臣となった。しかし、文麟は生来絵が好きで、門主が原在中に絵を学ぶのを見ながら自らも励んでいるうちに認められ、主命に従って岡本豊彦の門に入り、やがて安井門跡の御抱絵師となるに至る。
伝統的な四条派の技法を受け継ぎながら、中国の山水画も学び、明治に入ってからは西洋の画風も積極的に取り入れ、文人画の精神性や近代的な感覚を加味した。
掛軸のように縦長の画面よりも、横長の画面にその特色を見ることが出来る。文麟は智にたけた技巧派肌の画家で、山水画が中心であったが、花鳥画や人物画もこなし、画域が非常に広かった。
師である豊彦が暮景にひたりきって、もののあわれを味わうと言う画風に対して、文麟はもっと傍観的で、きびきびとした画風である。文麟にとっては抒情的であるよりも、むしろ変化に富んでいて、眼を楽しませる要素の強い方が好ましかったようである。文麟の画風の影響は、明治から現代の画壇にまで見ることが出来る。このような文麟の絵はアメリカ人に好まれ、代表作の幾つかはアメリカの美術館の所蔵になっている。
幅広い画風を持ち、豊彦の師である松村呉春が、たまたま文麟の絵を見る機会があった時、これを賞めて豊彦に、「おまえは良い弟子を持ったものだ、この者は必ず大成するぞ」と語ったという。このように文麟は、早くから嘱望されていて、優等生的なところや包容力の大きいところが多分にあったようである。
父に続いて心情的な尊王攘夷派であり、薩摩藩士とも交流があったが、それを表面に出すことはあまりなく、安政の大獄の頃には、「余は画工漫(みだり)に本文を謬(あやま)り、刀鋸に触るるを智となさず」と言って、近江の日野(現在の日野町)に引きこもり、用に応じて京都に出るといった生活を送った。
また、師の豊彦には元来一徹で怒りっぽく、意にそわないことがあると家内の者に憤怒してやまないような性格があったが、そんな時に文麟が来てなだめると、文麟の意に従って怒るのをやめた場合がよくあったという。
弟子や門下生には幸野楳嶺・塩川文鳳・鈴木松年・野村文挙・内海吉堂・山田文厚がいる。
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「鐘馗様」の作品は本ブログにて数多く投稿されていますので検索してみてください。「鐘馗様」についての説明はそちらをご参考ください。
展示スペースにも福田豊四郎の作品があります。ところで写真のように展示スペースのエアコンは極力隠すようにしました。苦肉の策・・・・。
さて一般的風鎮は下げておいたほうが良いという安易な思い込み」と、「自力で仕事を成して功績を上げたら評価される」という思い込み似たようなものです。傍目にはいいが全体の力を削ぐものであり、決してプラスの評価してはいけません。掛け軸のようにきちんとした「おもり」が組織にも必要であって、それは時には「規律」と称するもので、経営幹部には必要不可欠なものです。「鐘馗」のように睨みを利かせて、「だめなものはだめ」と時には赤点を付ける厳しさが必要です。
まずは相変わらずほぼ同一人物のペナルテイエリア内で安易なゴール向きではない後ろからのファール。まるでサッカー賭博のように相手に意図的に点数を与えているとしか思えないプレーは許せるものではありません。ボール保持率の悪さからのばたばたしたパス回し、高校生並みにボール保持できない攻撃陣・・。少しは頭を使え、組織力を生かせと思いたくなりますね。
企業も同じ、組織を使わない単独行動は仕事をしないよりたちが悪い。功績を焦る者のしがちな初歩的な規律違反は徹底して排除することが必要です。
ところで「風鎮」というのをご存知の方は多いと思います。辞書などによると、「風鎮(ふうちん)とは、掛軸の軸先に付ける錘のことで、風を鎮める」という字の如く、掛軸が風に揺れないようにするためのもので、飾りとしての意味合いも強いものです。中空になった陶磁器などに房を通した構造をしており、その房を軸の両端に掛けます。」とあります。
ただし、風鎮は通常は長期には使用されません。その理由はインターネット上での説明では「風鎮は、元々は錘なので、実はあまり付けっ放しにするのは良くありません。というのは掛軸をかけたときにちょうどいい具合になるように、掛軸にはもともと「おもり」を入れて調整してあるのです。風鎮を付けっ放しにしておくと、掛軸をかける紐がゆるんでしまったり、風鎮で壁を傷つけることもあるので、実はあまりおすすめできないのです。今となっては本来の役割を失っていますので、付けっ放しにしないほうが良いですね。」ということです。
大きな掛け軸には軸の部分を重くしているものがありますので、そこで調整しているということなのでしょう。重さの感じる掛け軸にいいものがあるというのは、そのように調整されているということです。
ただし、続けての説明には「一時的に付けるのは問題ありませんので、来客時やお祝いの席など、特別な機会に付けて頂くのは問題ありません。風鎮をつける事で、いつもの掛軸と違った雰囲気を味わう事ができますので、たまには風鎮で掛軸のオシャレを楽しむのも良いと思います。」とあります。風鎮を愉しむのはいいと思います。極力軽い風鎮を掛けて、掛け軸の雰囲気を引き立たせるものを選んでみたらいかがでしょう。
ともかくなんでもいいから、風鎮を付けておけばいいというのは間違いで、とくに古い掛け軸に風鎮を付けっぱなしというのは禁物です。
さて本日の作品は朱墨による「鐘馗様」の作品です。北斎の「朱鐘馗」は著名ですが、朱で描かれる鐘馗の図は非常に多いのですが、どうしてでしょうか?
朱鐘馗之図 塩川文麟筆 その3
絹本朱墨軸装 軸先木製塗 合箱
全体サイズ:縦1470*横380 画サイズ:縦630*横310
塩川文麟の作品は本日の作品で「その3」となります。
改めて塩川文麟の説明はするまでもないでしょうが、久方ぶりの登場なので下記に「塩川文麟」についての説明文を列記しておきます。
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塩川文麟:(しおかわ ぶんりん、文化5年(1808年)~ 明治10年(1877年)5月11日)。江戸時代末から明治初期の日本画家。幼名は隼人、字は子温もしくは士温、号は初めは雲章、後に文麟、別に可竹斎や泉声答斎や木仏老人など、通称は図書(ずしょ)。
幕末の京都を代表する絵師の一人で、同じ四条派の横山清暉、岸派の岸連山、円山派の中島来章と共に、幕末の平安四名家と称された。
文化5年(1808年)、京都の安井門蓮華光院門跡に仕える者(久保遠州と称したと言われる)の子として生まれる。塩川家の遠祖は多田源氏で、代々摂津国川辺郡山下郷(現兵庫県川西市)に居する郷士だったという。
父の代に京都に出て、鷹司家に仕えた。同家の公子が蓮華光院門跡になるに際して付き従い、安井宮諸大夫久保某の家を継ぎ、久保遠江守を名乗った。
文政3年(1820年)13歳で両親を失い、久保の姓を淀藩士某に譲って、家系元来の塩川に復し、安井門跡の侍臣となった。しかし、文麟は生来絵が好きで、門主が原在中に絵を学ぶのを見ながら自らも励んでいるうちに認められ、主命に従って岡本豊彦の門に入り、やがて安井門跡の御抱絵師となるに至る。
伝統的な四条派の技法を受け継ぎながら、中国の山水画も学び、明治に入ってからは西洋の画風も積極的に取り入れ、文人画の精神性や近代的な感覚を加味した。
掛軸のように縦長の画面よりも、横長の画面にその特色を見ることが出来る。文麟は智にたけた技巧派肌の画家で、山水画が中心であったが、花鳥画や人物画もこなし、画域が非常に広かった。
師である豊彦が暮景にひたりきって、もののあわれを味わうと言う画風に対して、文麟はもっと傍観的で、きびきびとした画風である。文麟にとっては抒情的であるよりも、むしろ変化に富んでいて、眼を楽しませる要素の強い方が好ましかったようである。文麟の画風の影響は、明治から現代の画壇にまで見ることが出来る。このような文麟の絵はアメリカ人に好まれ、代表作の幾つかはアメリカの美術館の所蔵になっている。
幅広い画風を持ち、豊彦の師である松村呉春が、たまたま文麟の絵を見る機会があった時、これを賞めて豊彦に、「おまえは良い弟子を持ったものだ、この者は必ず大成するぞ」と語ったという。このように文麟は、早くから嘱望されていて、優等生的なところや包容力の大きいところが多分にあったようである。
父に続いて心情的な尊王攘夷派であり、薩摩藩士とも交流があったが、それを表面に出すことはあまりなく、安政の大獄の頃には、「余は画工漫(みだり)に本文を謬(あやま)り、刀鋸に触るるを智となさず」と言って、近江の日野(現在の日野町)に引きこもり、用に応じて京都に出るといった生活を送った。
また、師の豊彦には元来一徹で怒りっぽく、意にそわないことがあると家内の者に憤怒してやまないような性格があったが、そんな時に文麟が来てなだめると、文麟の意に従って怒るのをやめた場合がよくあったという。
弟子や門下生には幸野楳嶺・塩川文鳳・鈴木松年・野村文挙・内海吉堂・山田文厚がいる。
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「鐘馗様」の作品は本ブログにて数多く投稿されていますので検索してみてください。「鐘馗様」についての説明はそちらをご参考ください。
展示スペースにも福田豊四郎の作品があります。ところで写真のように展示スペースのエアコンは極力隠すようにしました。苦肉の策・・・・。
さて一般的風鎮は下げておいたほうが良いという安易な思い込み」と、「自力で仕事を成して功績を上げたら評価される」という思い込み似たようなものです。傍目にはいいが全体の力を削ぐものであり、決してプラスの評価してはいけません。掛け軸のようにきちんとした「おもり」が組織にも必要であって、それは時には「規律」と称するもので、経営幹部には必要不可欠なものです。「鐘馗」のように睨みを利かせて、「だめなものはだめ」と時には赤点を付ける厳しさが必要です。