義父が畑で作っているサツマイモを捌ききれずに会社で好きな方々に持っていってもらいました。里芋、ピーナッツ、柿に続く「勝手に持っていけ」シリーズ・・。
小生と同じく見栄えが悪い(口も悪いらしい)が、味は保証付き。「国家の基本は農に在り」・・。
弁当、コンビニの野菜など都会の喧騒で忘れがちな土の温もりが伝わればいいのですが・・・。
本日の作品は「牀前(寝台)月光を看る 疑うらくは是地上の霜かと 頭を挙げて山月を望み 頭を垂れて故郷を思う」(唐 李白 「静夜思」)という漢詩が夕刻の情景に思い浮かぶ作品です。故郷を離れた人なら誰でも心情として経験するもので、故郷を離れている人にとって故郷は人生の原点なのです。
暮色 川村曼舟筆
絹本着色軸装 軸先骨 共箱二重箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横
この作品は何気ない風景画のようですが、実に出来が良い。
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川村 曼舟:(かわむら まんしゅう)1880年7月9日 ~ 1942年11月7日)は、日本画家。京都生まれ。本名は万蔵。
山元春挙に師事し、1902年新古美術品展で三等賞、1906年京都市立美術工芸学校助教諭、1910年教諭。1908年文展で三等賞、1916年「竹生島」で特選、翌年「日本三景」で特選、1922年京都市立絵画専門学校教授、1936年校長(兼美術工芸学校長)。
春挙門下四天王の一人と言われ、春挙歿後は画塾早苗会の指導者となり、また京都絵専・京美工校長として美術教育にも携わる。山川の美しい自然を洗練された感覚で詩情豊かに描き続けた。帝展審査員・帝国美術院会員。昭和17年(1942)歿、63才。
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「山川の美しい自然を洗練された感覚で詩情豊かに描き続けた。」という評がぴったりあてはまる作品といっていいでしょう。
川村曼舟は、出身地である京都の名勝地として名高い嵯峨嵐山に画室を構え、四季折々の豊かな自然風景の中で日々を送っていましたが、その作品もまた京洛の四季諷詠と同様に細やかなものを表現しています。豪快華麗と言われた春挙の作調を継承しながら、風景表現に新しい感性を導入し温雅な世界を築きました。
本作品においても、なんの変哲もない山水の一景を捉えながら、そこここに様々な情趣を見て取ることができます。
川村曼舟は、竹内栖鳳とともに京都画壇の双璧と称され、山元春挙の四天王の一人として活躍し、師春挙没後は画塾早苗会を率いるとともに、京都市立絵画専門学校教授、校長として後進の指導にあっていますが、残念ながら一般的な知名度は高くなく、「忘れさ去られた画家」といえるでしょう。
その理由は昭和17年という第二次世界大戦中に没したことや、戦後も今に至るまで大きな回顧展が開催されたこともなく、また代表作を網羅した画集が発刊されていないなど様々な要因があると推察されます、今後評価されるべき京都画壇を代表する画家の一人として本ブログで取り上げています。
山本春挙らその門人は本ブログにて投稿されていますので、リンク先を参考にしてください。
山元春挙:京都の日本画家野村文挙に入門、その後文挙が上京したため、明治18年文挙の師森寛斎に学ぶ。明治24年、竹内栖鳳、菊池芳文らと青年絵画懇親会を結成。大正6年に帝室技芸員に任命される。明治天皇も春挙のファンで、亡くなる際、床の間に掛かっていたのは春挙の作品だったという。
四天王以外の門人には植中直斎、歌川豊国 (6代目)、勝田哲、梥本一洋、山元春汀(桜月)、山本倉丘らがいる。
山元春挙の四天王:川村曼舟、小村大雲、庄田鶴友、服部春陽
ちょっと部屋を片付けて、壁に故郷の情景を思い起こすような掛け軸でも掛けてみてはいががでしょう。故郷創生の大儀名分の原点がわかるような気がしてきますよ。忘れ去られたのは画家だけではないようです。
掛け軸を見ながら熱々のサツマイモを頬張り故郷を思う。
小生と同じく見栄えが悪い(口も悪いらしい)が、味は保証付き。「国家の基本は農に在り」・・。
弁当、コンビニの野菜など都会の喧騒で忘れがちな土の温もりが伝わればいいのですが・・・。
本日の作品は「牀前(寝台)月光を看る 疑うらくは是地上の霜かと 頭を挙げて山月を望み 頭を垂れて故郷を思う」(唐 李白 「静夜思」)という漢詩が夕刻の情景に思い浮かぶ作品です。故郷を離れた人なら誰でも心情として経験するもので、故郷を離れている人にとって故郷は人生の原点なのです。
暮色 川村曼舟筆
絹本着色軸装 軸先骨 共箱二重箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横
この作品は何気ない風景画のようですが、実に出来が良い。
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川村 曼舟:(かわむら まんしゅう)1880年7月9日 ~ 1942年11月7日)は、日本画家。京都生まれ。本名は万蔵。
山元春挙に師事し、1902年新古美術品展で三等賞、1906年京都市立美術工芸学校助教諭、1910年教諭。1908年文展で三等賞、1916年「竹生島」で特選、翌年「日本三景」で特選、1922年京都市立絵画専門学校教授、1936年校長(兼美術工芸学校長)。
春挙門下四天王の一人と言われ、春挙歿後は画塾早苗会の指導者となり、また京都絵専・京美工校長として美術教育にも携わる。山川の美しい自然を洗練された感覚で詩情豊かに描き続けた。帝展審査員・帝国美術院会員。昭和17年(1942)歿、63才。
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「山川の美しい自然を洗練された感覚で詩情豊かに描き続けた。」という評がぴったりあてはまる作品といっていいでしょう。
川村曼舟は、出身地である京都の名勝地として名高い嵯峨嵐山に画室を構え、四季折々の豊かな自然風景の中で日々を送っていましたが、その作品もまた京洛の四季諷詠と同様に細やかなものを表現しています。豪快華麗と言われた春挙の作調を継承しながら、風景表現に新しい感性を導入し温雅な世界を築きました。
本作品においても、なんの変哲もない山水の一景を捉えながら、そこここに様々な情趣を見て取ることができます。
川村曼舟は、竹内栖鳳とともに京都画壇の双璧と称され、山元春挙の四天王の一人として活躍し、師春挙没後は画塾早苗会を率いるとともに、京都市立絵画専門学校教授、校長として後進の指導にあっていますが、残念ながら一般的な知名度は高くなく、「忘れさ去られた画家」といえるでしょう。
その理由は昭和17年という第二次世界大戦中に没したことや、戦後も今に至るまで大きな回顧展が開催されたこともなく、また代表作を網羅した画集が発刊されていないなど様々な要因があると推察されます、今後評価されるべき京都画壇を代表する画家の一人として本ブログで取り上げています。
山本春挙らその門人は本ブログにて投稿されていますので、リンク先を参考にしてください。
山元春挙:京都の日本画家野村文挙に入門、その後文挙が上京したため、明治18年文挙の師森寛斎に学ぶ。明治24年、竹内栖鳳、菊池芳文らと青年絵画懇親会を結成。大正6年に帝室技芸員に任命される。明治天皇も春挙のファンで、亡くなる際、床の間に掛かっていたのは春挙の作品だったという。
四天王以外の門人には植中直斎、歌川豊国 (6代目)、勝田哲、梥本一洋、山元春汀(桜月)、山本倉丘らがいる。
山元春挙の四天王:川村曼舟、小村大雲、庄田鶴友、服部春陽
ちょっと部屋を片付けて、壁に故郷の情景を思い起こすような掛け軸でも掛けてみてはいががでしょう。故郷創生の大儀名分の原点がわかるような気がしてきますよ。忘れ去られたのは画家だけではないようです。
掛け軸を見ながら熱々のサツマイモを頬張り故郷を思う。