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Channel: 夜噺骨董談義
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氏素性の解らぬ作品 壺屋焼 黍文赤絵鉢 伝新垣栄三郎作 その2

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今週の祭日には母を家内と息子とで訪問。息子と母はどこか波長が合うようです。今は姉の居る練馬にいますが、母が住めるように建てた郷里の家に今年も墓参りもあり年末には息子と家内で帰省します。郷里に家を建てたので仕事の都合でジプシー状態でしたしたが、最終的には帰郷するつもりがいろいろあって郷里は遠くなってきました。今年は雪が少ないようです。

母とは波長が合うようです。



帰りにはご褒美にクリスマスプレゼントを買ってきました。興奮したのかその夜は寝付けず、寝てからも起き出して小生の寝床にもぐりこんできました。



人生には家族という大切なものがある。たとえ自分は一人でも他の人には家族がいるということを忘れてはならない。そのことは何事においても人に接する原点であろう。人を思いやり、自分を大切にするという基本的な理由がそこにあるし、仕事では厳しくなる理由もそこにある。

それに比したら骨董なんぞとるに足らないものものです。本日もそのとるに足らないものの投稿です。

本日は沖縄の焼き物ですが、沖縄県が指定してる焼き物として琉球焼と壷屋焼というふたつの呼称があります。沖縄の焼物のうち琉球王府時代の六古窯の流れをくみ、さらに壺屋焼の影響を受けながら沖縄県域全体で焼かれている焼物を沖縄焼と区分しており、壺屋焼以外の陶器を琉球焼と称しています。我々には解ったようでよくわからない区分ですが、沖縄で焼き物に携わる方々には大きなことなのだと推察されます。

壷屋焼というと真っ先に思い浮かぶのが人間国宝になった金城次郎ですが、さらに代表されるのが彼を含めて壷屋焼三人男と称される小橋川永昌、新垣栄三郎です。金城次郎だけが人間国宝となり有名になった感が否めませんが、実力では他の二人が上という方も多くおられます。当方では沖縄の焼き物は蒐集の対象ではないので投稿している数は少ないのですが、幾つかの沖縄の作品を紹介しています。また小橋川永昌と2代目仁王の作品も紹介しています。金城次郎、(伝)新垣栄三郎の作品についても数は少ないながら紹介しています。

この三人と関わりが深いのが浜田庄司であるということを知っている方は多いでしょう。本日はその中でももっとも浜田庄司と関わりが深かった新垣栄三郎の作品の紹介です。正確には「新垣栄三郎」の作品と「思われる作品」です。

壺屋焼 黍文赤絵鉢 伝新垣栄三郎作 その2
合箱
口径295*高台径*高さ116



箱書がないのであくまで「伝新垣栄三郎作」としています。

新垣栄三郎の作品にふれるのは本ブログでは2回目となります。

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新垣栄三郎:1921年(大正11年)に生まれ。13歳の頃にはロクロの仕事をし、一中(首里高校)を卒業後、濱田庄司、河井寛次郎両氏のもとで1年間修行しています。しかし、父栄徳は焼物よりももっと待遇のいい仕事に就かせたかったようで、教員の仕事を息子に望み、栄三郎は台湾の学校を卒業して教職に就いていました。

父栄徳が亡くなった後、壺屋小学校での仕事を最後に教職を辞め本格的に作陶を開始。沖展や国画展などに出品し、金城次郎と二人展を開始しています。

1961年から琉球大学で教鞭を執り(助教授となっている)、工房では分業制を確立していました。長男勲はロクロや壺作りを専門とし、次男の修はお皿や湯呑み、三男の勉も同じようにロクロ物を中心に製作、その時、太郎という職人がおり、彼は土作りと抱瓶、角瓶などの型物を製作、菊おばさんは線彫の加飾を中心にしています。染め付けは栄三郎の奥さんが行っていました。さらに窯詰めはハルおばさんで、ハルおばさんは時間が空くと抱瓶などを製作、一さんは小さな楊枝壺と土練機の担当、娘の紀美江は主に販売だったそうです。

壺屋ではどの工房でも家内工業でしたので、従業員もほとんどいなかったそうです。例にもれず新垣栄三郎の窯も家族で分業を行っていたようです。1人が同じものをたくさん作っているので、ひとつとしておかしい製品は出てこない、素晴らしい製品を作り出していました。それは化粧の細かさ、形の端正さに現れています。一日おきに窯を焚いていたので生産量もすごかったと推測され、壺屋に組合の販売店が出来た頃、新垣製陶所の売上は組合の半分近い量を誇っていました。それだけ新垣の窯では、安定したシステムの中で、品質が端正で綺麗な製品が作られていたとのことです。

子息の新垣勲は現在の壷屋焼の第一人者といって過言ではないでしょう。

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新垣栄三郎については知らない方がほとんどでしょう。



新垣栄三郎の模様についてはサトウキビをアレンジした文様が特徴で、濱田庄司の「黍文」と同じように、数多く使われたデザインが非常に特徴的です。このような文様を多く描き、非常にモダンで幾何学的な文様の作品になっています。

形態的にはユシビン等に見られるように、叩いて、もしくは削って面取りをして、そこに模様を描くというのが、栄三郎ならではの形態の特徴です。この辺りは、濱田庄司の影響もあるのかと思われますが、さらに国画会の会員でもあるので、そういった影響もあろうかと推察されます。



他に線彫、赤絵、飛び飽という技法の併用も見られ、全体的にみて非常にモダンでごちゃごちゃしていない、どちらかというと壺屋焼の作品では文様をたくさん描きたがる傾向にあるようですが、栄三郎の作品は全体にすっきりした抽象的な文様を描いています。



新垣栄三郎の文様は具象が少なく、一方で仁王(永昌)は鳥や花などにしても具象的に描いていますが、栄三郎は抽象的な文様を描いています。また栄三郎は電動のロクロは使わず、亡くなるまで蹴ロクロで作陶されていました。ロクロの技術がとても素晴らしく、非常に手が細かく緻密な仕事をしています。



文様には浜田庄司の影響が明らかですね。



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浜田庄司は、新垣の工房でロクロを引いて作品を作っています。浜田庄司は赤絵の作品も新垣で焼いていたようです。浜田庄司の沖縄での作品はフースー窯もガス窯も両方あるとのことです。浜田庄司が沖縄に来ると、たくさんの人がぞろぞろとついてきて、いろいろなことを浜田庄司に聞いたりしたようです。

浜田庄司が新垣栄三郎の窯でお昼休みをしていると、たまたま栄三郎の抹茶茶碗を買った客が「箱書きがない、困ったなあ。」と言っているところへ、浜田庄司が「では、私が箱書きを書いてあげましょう。」と箱書きをしたことがあるそうです。当然ながら客はこの茶碗より箱書きの方が大事だと言って喜んだそうです。

仁王窯では小橋川秀義さんという方がほとんど箱書を書いています。製品が売れると、秀義さんを捜しに壺屋を探し回ったという逸話があるそうです。仁王窯は製作者本人が箱書をしていないらしい・・。

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ところで浜田庄司の赤絵の作品は浜田庄司の作品の中でも群を抜いて人気が高いことは周知の事実ですが、主に沖縄で製作した作品ではないかと推察されます。沖縄の赤絵の作品は力強く陽気な雰囲気があって魅力的です。



本作品については箱がないので新垣栄三郎の作品次か否かは後学とせざる得ません。浜田庄司も箱書がないと本人作と断定できないという・・・。作品の出来不出来での判断になりますが、絵付の筆の勢いとかで判断するのでしょうが、当方では判断できません。沖縄の壷屋焼にも贋作があるのでしょうか?

とるに足らないものにこだわってしまうのが人の世の常ですが、とるに足らぬものと会得するまで人は学ぶものが多いようです。

メリークリスマス、息子よ、学べ! 学べ!!  




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