日本画家にはその師と弟子がある程度因果関係にあり、師弟関係の教育指導が厳しかったようですが、現代の日本にはそのような師弟関係が薄れ、ものづくりの伝承がうまくいっていないように思われます。
先日テレビで放映された日本体育大学の集団行動の放送を観ましたが、あのような指導は学校のクラブ活動などで普通にありました。小生もかなり厳しい指導を学生の頃のクラブ活動で受けた経験がありますが、ことを成すには厳しい修練を乗り越えることがつきものということを経験する必要があろうかと感じました。
先日紹介しました水野年方の弟子に荒井寛方がいますが、その紹介作品を紹介しることを失念していました。「まくり」のままなのでしまい込んで忘れていたようです。もともと仏画で著名な画家で仏画を物色しているのですが、なかなか高値で入手できていません。今回は動物画で、さらりと描けています。
梅下鳩図 荒井寛方筆
絹本彩色絹装軸 軸先 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1320*横360
「まくり」の状態での購入作品。
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荒井 寛方:(あらい かんぽう)明治11年(1878年)8月15日 ~ 昭和20年(1945年)4月16日)。近代の日本画家。本名は寛十郎。栃木県塩谷郡氏家町(現在のさくら市)生まれ。院展同人。紋所や提灯の上絵を描く家に生まれる。父・藤吉は素雲と号し、瀧和亭に師事して南画を学んでいた。
明治32年(1899年)瀧和亭の勧めで水野年方に入門、歴史画・風俗画を学ぶ。翌年、年方から「寛方」の号を与えられ、同門の四天王の一人と称される。四天王は鏑木清方、池田輝方、榊原蕉園らで鏑木清方は兄弟弟子となります。
明治34年(1901年)第10回日本絵画協会共進会に風俗画「温和」を出品し、2等褒状を受け、以後同会で受賞を重ねる。翌35年(1902年)国華社へ入社、同社出版の古美術雑誌『国華』で掲載する木製複製図版用に、仏画模写の仕事を通じて画家として修練を積んだ。第一回文展に「菩提樹下」が入選し、第二回から第四回展まで連続受賞。
この頃巽画会や紅児会にも参加し、原三渓の庇護を受ける。
大正3年(1914年)再興第一回院展で「暮れゆく秋」(さくら市ミュージアム蔵 荒井寛方記念館)を出品し、院友となる。翌年、第二回展の「乳糜供養」では、スジャータが粥を釈迦に捧げる場面を描いて、院の東洋主義的理想とも合致し、中村岳陵・冨田溪仙と共に同人に推される。以後は院展で活躍した。大正5年(1916年)詩人のラビンドラナート・タゴールに招かれて、ビチットラ美術学校の絵画教授としてインドに渡り、アジャンター石窟群の壁画などを模写。
大正7年(1918年)帰国後は、仏教関連に多く題材を得て院展を中心に作品を発表、「仏画の寛方」と呼ばれ、大正期院展の傾向であるインド的趣向の代表者として認められた。大正13年(1924年)から翌年にかけて、中国を訪問。この頃から画風が変わり、伝統的な日本の古典に取材するようになる。大正15年(1926年)、渡欧しローマの遺跡などを訪問。昭和15年(1940年)から法隆寺金堂壁画の模写事業の主任画家に選ばれ、春秋は斑鳩の里の阿彌陀院に住み模写に力を注いだが、昭和20年福島県郡山駅で急逝し、完成を見ることはなかった。
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参考落款・印章:参考にした印章は荒井寛方の最大のスポンサーであった三渓園のオーナー原さんと親しかった旅館より新発見の作品に押印されていたもの。その落款・印章は下記写真左、右は本作品。
本作品が「まくり」の状態のままの理由については詳細は解りませんが、このような氏素性の解らぬ作品の投稿ばかりで読者の皆さんには申し訳ありませんが、氏素性の解らぬ作品を整理するのが本ブログの目的のひとつですのでご了解願います。ときおり氏素性のはっきりとした作品を投稿しようかと思っております。
先日テレビで放映された日本体育大学の集団行動の放送を観ましたが、あのような指導は学校のクラブ活動などで普通にありました。小生もかなり厳しい指導を学生の頃のクラブ活動で受けた経験がありますが、ことを成すには厳しい修練を乗り越えることがつきものということを経験する必要があろうかと感じました。
先日紹介しました水野年方の弟子に荒井寛方がいますが、その紹介作品を紹介しることを失念していました。「まくり」のままなのでしまい込んで忘れていたようです。もともと仏画で著名な画家で仏画を物色しているのですが、なかなか高値で入手できていません。今回は動物画で、さらりと描けています。
梅下鳩図 荒井寛方筆
絹本彩色絹装軸 軸先 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1320*横360
「まくり」の状態での購入作品。
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荒井 寛方:(あらい かんぽう)明治11年(1878年)8月15日 ~ 昭和20年(1945年)4月16日)。近代の日本画家。本名は寛十郎。栃木県塩谷郡氏家町(現在のさくら市)生まれ。院展同人。紋所や提灯の上絵を描く家に生まれる。父・藤吉は素雲と号し、瀧和亭に師事して南画を学んでいた。
明治32年(1899年)瀧和亭の勧めで水野年方に入門、歴史画・風俗画を学ぶ。翌年、年方から「寛方」の号を与えられ、同門の四天王の一人と称される。四天王は鏑木清方、池田輝方、榊原蕉園らで鏑木清方は兄弟弟子となります。
明治34年(1901年)第10回日本絵画協会共進会に風俗画「温和」を出品し、2等褒状を受け、以後同会で受賞を重ねる。翌35年(1902年)国華社へ入社、同社出版の古美術雑誌『国華』で掲載する木製複製図版用に、仏画模写の仕事を通じて画家として修練を積んだ。第一回文展に「菩提樹下」が入選し、第二回から第四回展まで連続受賞。
この頃巽画会や紅児会にも参加し、原三渓の庇護を受ける。
大正3年(1914年)再興第一回院展で「暮れゆく秋」(さくら市ミュージアム蔵 荒井寛方記念館)を出品し、院友となる。翌年、第二回展の「乳糜供養」では、スジャータが粥を釈迦に捧げる場面を描いて、院の東洋主義的理想とも合致し、中村岳陵・冨田溪仙と共に同人に推される。以後は院展で活躍した。大正5年(1916年)詩人のラビンドラナート・タゴールに招かれて、ビチットラ美術学校の絵画教授としてインドに渡り、アジャンター石窟群の壁画などを模写。
大正7年(1918年)帰国後は、仏教関連に多く題材を得て院展を中心に作品を発表、「仏画の寛方」と呼ばれ、大正期院展の傾向であるインド的趣向の代表者として認められた。大正13年(1924年)から翌年にかけて、中国を訪問。この頃から画風が変わり、伝統的な日本の古典に取材するようになる。大正15年(1926年)、渡欧しローマの遺跡などを訪問。昭和15年(1940年)から法隆寺金堂壁画の模写事業の主任画家に選ばれ、春秋は斑鳩の里の阿彌陀院に住み模写に力を注いだが、昭和20年福島県郡山駅で急逝し、完成を見ることはなかった。
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参考落款・印章:参考にした印章は荒井寛方の最大のスポンサーであった三渓園のオーナー原さんと親しかった旅館より新発見の作品に押印されていたもの。その落款・印章は下記写真左、右は本作品。
本作品が「まくり」の状態のままの理由については詳細は解りませんが、このような氏素性の解らぬ作品の投稿ばかりで読者の皆さんには申し訳ありませんが、氏素性の解らぬ作品を整理するのが本ブログの目的のひとつですのでご了解願います。ときおり氏素性のはっきりとした作品を投稿しようかと思っております。