積雪で庭に倒れていた楓の木を根元からチェーンソウで切断して片づけましたが、その枝がもったいないということで庭にあったツボに・・・。
このツボは倉庫改修に際して出てきた品物・・・??
いったいいつ頃にどこで作られたものやら・・、捨てるにはもったいないのでとりあえず仮置きです。
本日は壺と同じく家内の実家に遺されていた作品で処分せずにおいた作品のひとつです。出来から判断して真作とは思えませんが、古くからあった作品として遺しました。地方では狩野派の作品はヤマとあります。狩野探幽の作品はあちこちに点在しますが、まず地方に真作はないでしょう。
唐美人唐子図 伝狩野惟信(養川院)筆
絹本水墨軸装 軸先鹿角 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横
落款には「養川法眼筆 押印(「惟信之印」の白文朱方印)」とあることから天明元年(1781年)29歳以降から寛政6年(1794年)42歳で法印になるまでの間の作品と推察されます。落款の特徴からは良さそうですが、真作との確証までにいたるものではありません。
宮廷内、楼閣と思われる前庭で女性や子供たちが楽しくくつろぐ様子墨を主体として描いていますが、出来は不十分でなんらかの下絵の写しの可能性があります。
「画風は大人しく、父・典信が推進した江戸狩野派の新たな展開に大きく寄与することはなかった。しかし、大和絵を良くし、温和で軽妙な筆致に持ち味がある。」がありますが、その評がしっくりくるような作風ではあります。
痛みのある状態から判断すると本作品自体は再表具されています。
模写に後落款という可能性もあり、本作品は「伝」としております。
*********************************
狩野 惟信:(かのう これのぶ)宝暦3年10月15日(1753年11月9日)~文化5年1月9日(1808年2月5日)。江戸時代の木挽町(こびきちょう)家狩野派7代目の絵師である。父は狩野典信で、子に狩野栄信がおり、鍬形斎が弟子だった時期がある。号は養川(法眼時代)、養川院(法印時代)、玄之斎。号と合わせて養川院惟信と表記されることも多い。
狩野栄川典信の長男で父が築いた地位を順調に受け継いで、歴代の狩野派の絵師の中でも異例に早い出世を遂げる。明和元年(1764年)12歳で早くも奥御用を務め、父と同様10代将軍徳川家治や老中田沼意次に厚遇され、天明元年(1781年)29歳で法眼に叙せられる。
寛政2年(1790年)父の跡をうけ、木挽町狩野家を継ぐ。更に寛政6年(1794年)42歳で法印となり、病死が続いた宗家の中橋狩野家を尻目に、奥絵師四家筆頭の地位を確たるものにする。江戸城障壁画や京都御所関係の絵事を多く手がけた。
文化5年(1808年)、56歳で死去。早い栄達の割に画風は大人しく、父・典信が推進した江戸狩野派の新たな展開に大きく寄与することはなかった。しかし、大和絵を良くし、温和で軽妙な筆致に持ち味がある。
*********************************
表具が剥がれてきていましたので小生が修復しています。これがけっこう大変でひと月ほどかかりました。骨董というものは古くから伝わるものは金額的な価値以前に大切にする思いが大切で、そのことが将来の恩恵につながるものです。粗末してはいけません。
このツボは倉庫改修に際して出てきた品物・・・??
いったいいつ頃にどこで作られたものやら・・、捨てるにはもったいないのでとりあえず仮置きです。
本日は壺と同じく家内の実家に遺されていた作品で処分せずにおいた作品のひとつです。出来から判断して真作とは思えませんが、古くからあった作品として遺しました。地方では狩野派の作品はヤマとあります。狩野探幽の作品はあちこちに点在しますが、まず地方に真作はないでしょう。
唐美人唐子図 伝狩野惟信(養川院)筆
絹本水墨軸装 軸先鹿角 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横
落款には「養川法眼筆 押印(「惟信之印」の白文朱方印)」とあることから天明元年(1781年)29歳以降から寛政6年(1794年)42歳で法印になるまでの間の作品と推察されます。落款の特徴からは良さそうですが、真作との確証までにいたるものではありません。
宮廷内、楼閣と思われる前庭で女性や子供たちが楽しくくつろぐ様子墨を主体として描いていますが、出来は不十分でなんらかの下絵の写しの可能性があります。
「画風は大人しく、父・典信が推進した江戸狩野派の新たな展開に大きく寄与することはなかった。しかし、大和絵を良くし、温和で軽妙な筆致に持ち味がある。」がありますが、その評がしっくりくるような作風ではあります。
痛みのある状態から判断すると本作品自体は再表具されています。
模写に後落款という可能性もあり、本作品は「伝」としております。
*********************************
狩野 惟信:(かのう これのぶ)宝暦3年10月15日(1753年11月9日)~文化5年1月9日(1808年2月5日)。江戸時代の木挽町(こびきちょう)家狩野派7代目の絵師である。父は狩野典信で、子に狩野栄信がおり、鍬形斎が弟子だった時期がある。号は養川(法眼時代)、養川院(法印時代)、玄之斎。号と合わせて養川院惟信と表記されることも多い。
狩野栄川典信の長男で父が築いた地位を順調に受け継いで、歴代の狩野派の絵師の中でも異例に早い出世を遂げる。明和元年(1764年)12歳で早くも奥御用を務め、父と同様10代将軍徳川家治や老中田沼意次に厚遇され、天明元年(1781年)29歳で法眼に叙せられる。
寛政2年(1790年)父の跡をうけ、木挽町狩野家を継ぐ。更に寛政6年(1794年)42歳で法印となり、病死が続いた宗家の中橋狩野家を尻目に、奥絵師四家筆頭の地位を確たるものにする。江戸城障壁画や京都御所関係の絵事を多く手がけた。
文化5年(1808年)、56歳で死去。早い栄達の割に画風は大人しく、父・典信が推進した江戸狩野派の新たな展開に大きく寄与することはなかった。しかし、大和絵を良くし、温和で軽妙な筆致に持ち味がある。
*********************************
表具が剥がれてきていましたので小生が修復しています。これがけっこう大変でひと月ほどかかりました。骨董というものは古くから伝わるものは金額的な価値以前に大切にする思いが大切で、そのことが将来の恩恵につながるものです。粗末してはいけません。