本日は天野方壷の四幅対の作品の紹介です。年代などが記された「冬 子猷訪戴図」から紹介します。
四季山水図四幅のうち冬
子猷訪戴図 天野方壷筆 その3
絹本墨淡彩軸装 軸先塗 合箱
全体サイズ:縦2070*横740 画サイズ:縦1320*横495
賛は「子猷訪戴図 平生戴隠居 破琴還雲□ 亦有□竹人 悠然□□調 雲渓夜間舟 未見心正了 乾坤謙虚白 □方□其妙 明人張以寧詩 明治十四年□辛巳自八月至十一月 立冬前□□十二□於□田楼上 西京 白雲外史天方壷 押印」とあり、印章は「方壷生」と白文朱方印と「□□□□」の朱文白方印が押印されています。
1881年(明治14年)天野方壷が58歳頃の作です。
画題「子猷訪戴図」についての詳細は下記のとおりです。
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子猷訪戴図:子猷が月夜雪後の景色を戴安道とともに語り眺めようと思い立って、舟で訪ねたが、着いた頃にははや夜明けとなったので、門内にも入らずに再び舟をさして帰ったという逸話を絵にしたもの。
「子猷」は「王徽之」のことで王義之の子息です。
王徽之:(?~388) 中国,東晋の人。字は子猷。王羲之の第五子。官は黄門侍郎に至る。会稽の山陰に隠居し,風流を好み,特に竹を愛した。
王羲之:詳細は省略しますが、「書の芸術性を確固たらしめた普遍的存在として、書聖と称される。末子の王献之も書を能くし、併せて二王(羲之が大王、献之が小王)の称をもって伝統派の基礎を形成し、後世の書人に及ぼした影響は絶大なものがある。その書は日本においても奈良時代から手本とされており、現在もその余波をとどめている。」と評されている人物です。
戴安道:晋代の人、名は逵、字は安道、譙郡の人、博学穎悟にして能文、また鼓琴をよくし、書画に工で画は範宣を師とし人物及び山水画に妙を得、其の観音は最も得意とするところで、みな帖金をしたといふ。又、常に琴を弾じて楽しむ。ある時太宰武陵王晞、これを聞いて人を遣はして之を召す、逵その使者に対し琴を破つて曰く、戴安道は王者の伶人たるを希はずと、孝武帝の時召されたが辞して就かず、その子戴勃、戴顒また画をよくし、殊に戴勃の山水は顧之に勝ると称せられた。王子猷が剡渓に戴安道を訪ひ会はずして帰つた逸事は剡渓訪戴として有名であり、戴安道を画にしたものには英一蝶の作がある。
明人 張以寧:字は志道、古田の人。元の泰定丁卯の進士で、翰林侍講学士になった。明朝でもそのままだった。洪武二年に安南王冊封の使者となったが、その帰路に死んだ。生涯は『明史』文苑伝に見える。史書には「以寧は春秋科を優れた成績で合格した。学問も春秋にもっとも精しく、自得するところも多かった。著書の『胡伝辨疑』は特に優れた批判書だったが、『春王正月考』はまだ完成できないでいた。安南を訪れたとき、半年かかって完成させた」とある。『胡伝辨疑』は既に散佚し、本書だけが残っている。
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南画というものはその画力もさることながら、その学識が問われることにもなります。小生の遠く及ばざるところに南画の真髄が存在するということを改めて痛感させられる逸品です。
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天野方壷:天野方壷の名はそれほど知られていませんが、出身地の愛媛県では続木君樵と並んで伊予画壇の双壁といわれていました。天野方壷の経歴については、その実家に伝わる明治17年に書かれた自筆の履歴書により知ることができます。
文政7年(1824)8月16日、伊予松山藩の三津浜(松山市三津)に生まれた方壷は、13歳で京都に出て、文人画家の中林竹洞や、書家としても有名な儒者の貫名海屋に学んだのち、関西から山陽山陰を経て九州四国まで数年にわたり西日本各地を歴遊し、勝景、奇景を写生したり古画書を模写したりして修行を続けました。
21歳のとき一旦は京都に戻り、日根対山に師事しましたが間もなく京都を発って関東へ旅行、江戸に至り、渡辺華山高弟の椿椿山に学んだあと、蝦夷地にまで行って海岸の勝景を写生しております。
さらに、長崎で木下逸雲に学び、明治維新後、明治3年47歳の時には中国上海に渡航し、胡公寿にも師事しました。
各地の有福な書画の愛好の庇護をうけつつ、休みなく全国を旅し画道修行を続けた彼は、明治8年52歳になってようやく京都に居を構え定住しました。
画号としては方壷のほか、盈甫、三津漁者,銭幹、真々,石樵、銭岳、雲眠、白雲外史など多数あり、時々に自分の心境に合った号を付け、楽しんでいたものと思われます。この間35歳の時、那須山の温泉で洪水に見舞われ、溺死しかかったが九死に一生を得ております。しかし、この時携えていた粉本、真景などをことごとく失いました。また、49歳の時東京に寓居中火災に会い、粉本をことごとく焼失しました。
ほとんど日本全国に足跡を残してますが、京都に定住したのちは、四季の草花を栽培しこれを売って生計を営み、売花翁と号していたほか、京都府画学校(現在 京都市立芸術大学)に出仕を命じられたり、内国絵画共進会に出品したりしながらもやはり歴遊を続け、明治28年旅先の岐阜で逝去しました。享年72歳でした。墓は京都市上賀茂の霊源寺にあります。
方壷と交際のあった文人画の巨匠、富岡鉄斎は、私的な筆録(メモ帳)の中で方壷のことを 「画匠」と記していて、かなり高く評価していたことが窺えます。鉄斎といえば[萬巻の書を読み万里の路を行く]を座右の銘として、全国を旅行しましたが、この[万里を行く]ことに関しては方壷は鉄斎を凌駕しているかもしれません。
愛媛県美術館には彼の作品が42点所蔵されております。平成16年は方壷生誕180年に当たり。これに因んで当美術館分館の萬翠荘において7月17日から8月29日の間展覧会が開催され作品20点が展示されました。また、平成15年の10月3日から12月25日まで福島県の桑折町種徳美術館において天野方壷展が開催され、作品13点が公開されました。
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うっすらとして照明の中でこの作品を観ていると背筋がぴんと伸びてきます。雪の月夜に舟を漕ぎ出し、
四季山水図四幅のうち冬
子猷訪戴図 天野方壷筆 その3
絹本墨淡彩軸装 軸先塗 合箱
全体サイズ:縦2070*横740 画サイズ:縦1320*横495
賛は「子猷訪戴図 平生戴隠居 破琴還雲□ 亦有□竹人 悠然□□調 雲渓夜間舟 未見心正了 乾坤謙虚白 □方□其妙 明人張以寧詩 明治十四年□辛巳自八月至十一月 立冬前□□十二□於□田楼上 西京 白雲外史天方壷 押印」とあり、印章は「方壷生」と白文朱方印と「□□□□」の朱文白方印が押印されています。
1881年(明治14年)天野方壷が58歳頃の作です。
画題「子猷訪戴図」についての詳細は下記のとおりです。
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子猷訪戴図:子猷が月夜雪後の景色を戴安道とともに語り眺めようと思い立って、舟で訪ねたが、着いた頃にははや夜明けとなったので、門内にも入らずに再び舟をさして帰ったという逸話を絵にしたもの。
「子猷」は「王徽之」のことで王義之の子息です。
王徽之:(?~388) 中国,東晋の人。字は子猷。王羲之の第五子。官は黄門侍郎に至る。会稽の山陰に隠居し,風流を好み,特に竹を愛した。
王羲之:詳細は省略しますが、「書の芸術性を確固たらしめた普遍的存在として、書聖と称される。末子の王献之も書を能くし、併せて二王(羲之が大王、献之が小王)の称をもって伝統派の基礎を形成し、後世の書人に及ぼした影響は絶大なものがある。その書は日本においても奈良時代から手本とされており、現在もその余波をとどめている。」と評されている人物です。
戴安道:晋代の人、名は逵、字は安道、譙郡の人、博学穎悟にして能文、また鼓琴をよくし、書画に工で画は範宣を師とし人物及び山水画に妙を得、其の観音は最も得意とするところで、みな帖金をしたといふ。又、常に琴を弾じて楽しむ。ある時太宰武陵王晞、これを聞いて人を遣はして之を召す、逵その使者に対し琴を破つて曰く、戴安道は王者の伶人たるを希はずと、孝武帝の時召されたが辞して就かず、その子戴勃、戴顒また画をよくし、殊に戴勃の山水は顧之に勝ると称せられた。王子猷が剡渓に戴安道を訪ひ会はずして帰つた逸事は剡渓訪戴として有名であり、戴安道を画にしたものには英一蝶の作がある。
明人 張以寧:字は志道、古田の人。元の泰定丁卯の進士で、翰林侍講学士になった。明朝でもそのままだった。洪武二年に安南王冊封の使者となったが、その帰路に死んだ。生涯は『明史』文苑伝に見える。史書には「以寧は春秋科を優れた成績で合格した。学問も春秋にもっとも精しく、自得するところも多かった。著書の『胡伝辨疑』は特に優れた批判書だったが、『春王正月考』はまだ完成できないでいた。安南を訪れたとき、半年かかって完成させた」とある。『胡伝辨疑』は既に散佚し、本書だけが残っている。
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南画というものはその画力もさることながら、その学識が問われることにもなります。小生の遠く及ばざるところに南画の真髄が存在するということを改めて痛感させられる逸品です。
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天野方壷:天野方壷の名はそれほど知られていませんが、出身地の愛媛県では続木君樵と並んで伊予画壇の双壁といわれていました。天野方壷の経歴については、その実家に伝わる明治17年に書かれた自筆の履歴書により知ることができます。
文政7年(1824)8月16日、伊予松山藩の三津浜(松山市三津)に生まれた方壷は、13歳で京都に出て、文人画家の中林竹洞や、書家としても有名な儒者の貫名海屋に学んだのち、関西から山陽山陰を経て九州四国まで数年にわたり西日本各地を歴遊し、勝景、奇景を写生したり古画書を模写したりして修行を続けました。
21歳のとき一旦は京都に戻り、日根対山に師事しましたが間もなく京都を発って関東へ旅行、江戸に至り、渡辺華山高弟の椿椿山に学んだあと、蝦夷地にまで行って海岸の勝景を写生しております。
さらに、長崎で木下逸雲に学び、明治維新後、明治3年47歳の時には中国上海に渡航し、胡公寿にも師事しました。
各地の有福な書画の愛好の庇護をうけつつ、休みなく全国を旅し画道修行を続けた彼は、明治8年52歳になってようやく京都に居を構え定住しました。
画号としては方壷のほか、盈甫、三津漁者,銭幹、真々,石樵、銭岳、雲眠、白雲外史など多数あり、時々に自分の心境に合った号を付け、楽しんでいたものと思われます。この間35歳の時、那須山の温泉で洪水に見舞われ、溺死しかかったが九死に一生を得ております。しかし、この時携えていた粉本、真景などをことごとく失いました。また、49歳の時東京に寓居中火災に会い、粉本をことごとく焼失しました。
ほとんど日本全国に足跡を残してますが、京都に定住したのちは、四季の草花を栽培しこれを売って生計を営み、売花翁と号していたほか、京都府画学校(現在 京都市立芸術大学)に出仕を命じられたり、内国絵画共進会に出品したりしながらもやはり歴遊を続け、明治28年旅先の岐阜で逝去しました。享年72歳でした。墓は京都市上賀茂の霊源寺にあります。
方壷と交際のあった文人画の巨匠、富岡鉄斎は、私的な筆録(メモ帳)の中で方壷のことを 「画匠」と記していて、かなり高く評価していたことが窺えます。鉄斎といえば[萬巻の書を読み万里の路を行く]を座右の銘として、全国を旅行しましたが、この[万里を行く]ことに関しては方壷は鉄斎を凌駕しているかもしれません。
愛媛県美術館には彼の作品が42点所蔵されております。平成16年は方壷生誕180年に当たり。これに因んで当美術館分館の萬翠荘において7月17日から8月29日の間展覧会が開催され作品20点が展示されました。また、平成15年の10月3日から12月25日まで福島県の桑折町種徳美術館において天野方壷展が開催され、作品13点が公開されました。
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うっすらとして照明の中でこの作品を観ていると背筋がぴんと伸びてきます。雪の月夜に舟を漕ぎ出し、