毎日帰宅後は、息子と少し遊んで、風呂に家内と入れて、息子を寝かしつけるまでが日課になっていますが、小生はソファベットに、息子は隣に布団の上に寝ていますが、明け方、おそらく3時頃に息子は毎日、小生の布団にもぐりこんできます。しかも時には寝ぼけながら頭突きを食らわせくるので油断できません。よって最近は寝不足気味・・・・
そんな状態で本日のようなこのような「重い作品」の調べはなかなか気が乗らないものです。「思い」というのは生半可な調べでは内容が飲み込まめないという意味です。
四季山水図四幅のうち秋
白居易 陰雨之図 天野方壷筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2070*横740 画サイズ:縦1320*横495
賛には「遊印 嵐霧今朝重 江山此地深 灘聲秋更急 峽氣曉多陰 望闕云遮眼 思鄉雨滴心 將何慰幽獨? 此北窗琴 見白易山人有□□田樹 天方壷 押印」とあり、印章は「□□書画」、「白雲外史□□□」のの白文朱方印が押印されています。
所蔵作品としての二作品目である「鯉之図」と同一な印章を本作品に押印されており、「鯉之図」の賛に「辛巳((かみのと)秋分」とあり、明治14年(1881年)57歳の作と推察されることから、本作品らが同時期に描かれた作品と推察されます。
この賛は「陰雨」という白居易の詩です。
陰雨:しとしとと降りつづく陰気な雨。空が曇って雨が降ること。
漢詩:嵐霧今朝重 江山此地深 灘聲秋更急 峽氣曉多陰
望闕云遮眼 思鄉雨滴心 將何慰幽獨?此北窗琴
まさしく「嵐霧今朝重 江山此地深」という雰囲気が漂います。
白居易は言わずと知れた「長恨歌」で知られた唐の詩人です。詳細は下記のとおり・・。
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白 居易(はく きょい):772年(大暦7年)~846年(会昌6年)。中唐の詩人。字は楽天。号は酔吟先生・香山居士。弟に白行簡がいる。772年、鄭州新鄭県(現河南省新鄭市)に生まれた。子どもの頃から頭脳明晰であったらしく、5~6歳で詩を作ることができ、9歳で声律を覚えたという。彼の家系は地方官として役人人生を終わる男子も多く、抜群の名家ではなかったが、安禄山の乱以後の政治改革により、比較的低い家系の出身者にも機会が開かれており、800年、29歳で科挙の進士科に合格した。35歳で盩厔県(ちゅうちつけん、陝西省)の尉になり、その後は翰林学士、左拾遺を歴任する。このころ社会や政治批判を主題とする「新楽府」を多く制作する。
815年、武元衡暗殺をめぐり越権行為があったとされ、江州(現江西省九江市)の司馬に左遷される。その後、中央に呼び戻されるが、まもなく自ら地方の官を願い出て、杭州・蘇州の刺史となり業績をあげる。838年に刑部侍郎、836年に太子少傅となり、最後は842年に刑部尚書の官をもって71歳で致仕。74歳のとき自らの詩文集『白氏文集』75巻を完成させ、翌846年、75歳で生涯を閉じる。
白居易は多作な詩人であり、現存する文集は71巻、詩と文の総数は約3800首と唐代の詩人の中で最多を誇り、詩の内容も多彩である。若い頃は「新楽府運動」を展開し、社会や政治の実相を批判する「諷喩詩(風諭詩)」を多作したが、江州司馬左遷後は、諷喩詩はほとんど作られなくなり、日常のささやかな喜びを主題とする「閑適詩」の制作に重点がうつるようになる。このほかに無二の親友とされる元稹や劉禹錫との応酬詩や「長恨歌」「琵琶行」の感傷詩も名高い。いずれの時期においても平易暢達を重んじる詩風は一貫しており、伝説では詩を作るたび文字の読めない老女に読んで聞かせ、理解できなかったところは平易な表現に改めたとまでいわれる(北宋の釈恵洪『冷斎詩話』などより)。そのようにして作られた彼の詩は、旧来の士大夫階層のみならず、妓女や牧童といった人々にまで愛唱された。
白居易の詩は中国国内のみならず、日本や朝鮮のような周辺諸国の人々にまで愛好され、日本には白居易存命中の承和5年(838年)に当時の大宰少弐であった藤原岳守が唐の商人の荷物から“元白詩集”(元稹と白居易の詩集)を見つけてこれを入手して仁明天皇に献上したところ、褒賞として従五位上に叙せられ[1]、同11年(844年)には留学僧恵萼により67巻本の『白氏文集』が伝来している。平安文学に多大な影響を与え、その中でも閑適・感傷の詩が受け入れられた。菅原道真の漢詩が白居易と比較されたことや、紫式部が上東門院彰子に教授した(『紫式部日記』より)という事実のほか、当時の文学作品においても、『枕草子』に『白氏文集』が登場し、『源氏物語』が白居易の「長恨歌」から影響を受けていることなどからも、当時の貴族社会に広く浸透していたことがうかがえる。白居易自身も日本での自作の評判を知っていたという。
白居易は仏教徒としても著名であり、晩年は龍門の香山寺に住み、「香山居士」と号した。また、馬祖道一門下の仏光如満や興善惟寛らの禅僧と交流があった。惟寛や、浄衆宗に属する神照の墓碑を書いたのは、白居易である。『景徳傳燈録』巻10では、白居易を如満の法嗣としている。その他、巻7には惟寛との問答を載せ、巻4では、牛頭宗の鳥窠道林(741年 - 824年)との『七仏通誡偈』に関する問答が見られる。但し、道林との有名な問答は、後世に仮託されたものであり、史実としては認められていない。
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一人で旅する姿は天野方壷の自分自身の姿かもしれません。
この天野方壷の四幅対の作品の「秋・冬図」は対にして飾るとより一層、味わい深いものとなります。
日本画の行き着くところはいずれは水墨画の世界・・、南画の世界・・、ということを改めて感じさせてくれる作品です。
南画は富岡鉄斎、浦上玉堂、池大雅などという一握りの一級品と向き合えるならそれに越したことはありませんが、それらを手元に置いて愉しむことはまず無理です。そうすると一握りから外れた画家の一級品を探して入手することで愉しめるものだろうと思います。それらが小生の蒐集の対象作品です。
人生も同じこと・・・、お金や地位、持って生まれた才以外のものを、努力や感性で身のうちに取得できるものがあります。欲しい、いつか手に入るという諦めない気持ちが一番大切・・。繰り返しますが「お金や地位、持って生まれた才以外」の本当に大切なもの・・。
そんな状態で本日のようなこのような「重い作品」の調べはなかなか気が乗らないものです。「思い」というのは生半可な調べでは内容が飲み込まめないという意味です。
四季山水図四幅のうち秋
白居易 陰雨之図 天野方壷筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2070*横740 画サイズ:縦1320*横495
賛には「遊印 嵐霧今朝重 江山此地深 灘聲秋更急 峽氣曉多陰 望闕云遮眼 思鄉雨滴心 將何慰幽獨? 此北窗琴 見白易山人有□□田樹 天方壷 押印」とあり、印章は「□□書画」、「白雲外史□□□」のの白文朱方印が押印されています。
所蔵作品としての二作品目である「鯉之図」と同一な印章を本作品に押印されており、「鯉之図」の賛に「辛巳((かみのと)秋分」とあり、明治14年(1881年)57歳の作と推察されることから、本作品らが同時期に描かれた作品と推察されます。
この賛は「陰雨」という白居易の詩です。
陰雨:しとしとと降りつづく陰気な雨。空が曇って雨が降ること。
漢詩:嵐霧今朝重 江山此地深 灘聲秋更急 峽氣曉多陰
望闕云遮眼 思鄉雨滴心 將何慰幽獨?此北窗琴
まさしく「嵐霧今朝重 江山此地深」という雰囲気が漂います。
白居易は言わずと知れた「長恨歌」で知られた唐の詩人です。詳細は下記のとおり・・。
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白 居易(はく きょい):772年(大暦7年)~846年(会昌6年)。中唐の詩人。字は楽天。号は酔吟先生・香山居士。弟に白行簡がいる。772年、鄭州新鄭県(現河南省新鄭市)に生まれた。子どもの頃から頭脳明晰であったらしく、5~6歳で詩を作ることができ、9歳で声律を覚えたという。彼の家系は地方官として役人人生を終わる男子も多く、抜群の名家ではなかったが、安禄山の乱以後の政治改革により、比較的低い家系の出身者にも機会が開かれており、800年、29歳で科挙の進士科に合格した。35歳で盩厔県(ちゅうちつけん、陝西省)の尉になり、その後は翰林学士、左拾遺を歴任する。このころ社会や政治批判を主題とする「新楽府」を多く制作する。
815年、武元衡暗殺をめぐり越権行為があったとされ、江州(現江西省九江市)の司馬に左遷される。その後、中央に呼び戻されるが、まもなく自ら地方の官を願い出て、杭州・蘇州の刺史となり業績をあげる。838年に刑部侍郎、836年に太子少傅となり、最後は842年に刑部尚書の官をもって71歳で致仕。74歳のとき自らの詩文集『白氏文集』75巻を完成させ、翌846年、75歳で生涯を閉じる。
白居易は多作な詩人であり、現存する文集は71巻、詩と文の総数は約3800首と唐代の詩人の中で最多を誇り、詩の内容も多彩である。若い頃は「新楽府運動」を展開し、社会や政治の実相を批判する「諷喩詩(風諭詩)」を多作したが、江州司馬左遷後は、諷喩詩はほとんど作られなくなり、日常のささやかな喜びを主題とする「閑適詩」の制作に重点がうつるようになる。このほかに無二の親友とされる元稹や劉禹錫との応酬詩や「長恨歌」「琵琶行」の感傷詩も名高い。いずれの時期においても平易暢達を重んじる詩風は一貫しており、伝説では詩を作るたび文字の読めない老女に読んで聞かせ、理解できなかったところは平易な表現に改めたとまでいわれる(北宋の釈恵洪『冷斎詩話』などより)。そのようにして作られた彼の詩は、旧来の士大夫階層のみならず、妓女や牧童といった人々にまで愛唱された。
白居易の詩は中国国内のみならず、日本や朝鮮のような周辺諸国の人々にまで愛好され、日本には白居易存命中の承和5年(838年)に当時の大宰少弐であった藤原岳守が唐の商人の荷物から“元白詩集”(元稹と白居易の詩集)を見つけてこれを入手して仁明天皇に献上したところ、褒賞として従五位上に叙せられ[1]、同11年(844年)には留学僧恵萼により67巻本の『白氏文集』が伝来している。平安文学に多大な影響を与え、その中でも閑適・感傷の詩が受け入れられた。菅原道真の漢詩が白居易と比較されたことや、紫式部が上東門院彰子に教授した(『紫式部日記』より)という事実のほか、当時の文学作品においても、『枕草子』に『白氏文集』が登場し、『源氏物語』が白居易の「長恨歌」から影響を受けていることなどからも、当時の貴族社会に広く浸透していたことがうかがえる。白居易自身も日本での自作の評判を知っていたという。
白居易は仏教徒としても著名であり、晩年は龍門の香山寺に住み、「香山居士」と号した。また、馬祖道一門下の仏光如満や興善惟寛らの禅僧と交流があった。惟寛や、浄衆宗に属する神照の墓碑を書いたのは、白居易である。『景徳傳燈録』巻10では、白居易を如満の法嗣としている。その他、巻7には惟寛との問答を載せ、巻4では、牛頭宗の鳥窠道林(741年 - 824年)との『七仏通誡偈』に関する問答が見られる。但し、道林との有名な問答は、後世に仮託されたものであり、史実としては認められていない。
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一人で旅する姿は天野方壷の自分自身の姿かもしれません。
この天野方壷の四幅対の作品の「秋・冬図」は対にして飾るとより一層、味わい深いものとなります。
日本画の行き着くところはいずれは水墨画の世界・・、南画の世界・・、ということを改めて感じさせてくれる作品です。
南画は富岡鉄斎、浦上玉堂、池大雅などという一握りの一級品と向き合えるならそれに越したことはありませんが、それらを手元に置いて愉しむことはまず無理です。そうすると一握りから外れた画家の一級品を探して入手することで愉しめるものだろうと思います。それらが小生の蒐集の対象作品です。
人生も同じこと・・・、お金や地位、持って生まれた才以外のものを、努力や感性で身のうちに取得できるものがあります。欲しい、いつか手に入るという諦めない気持ちが一番大切・・。繰り返しますが「お金や地位、持って生まれた才以外」の本当に大切なもの・・。