本作品に仮の題名をつけようと思案・・。「竹林清涼図」、「竹巌清風図」、「清涼吟行図」、・・・・、結局図柄そのままの「竹林渓流図」。家内曰く、「描いたのは中林竹渓?、名前のままじゃない。」・・ 家内はなにやら本作品を気に入ったようです。
幕末南画を語る上で避けて通れないのが、中林竹洞・竹渓父子と山本梅逸ですが、この3名は武士として生活や世襲ということなどから本来の南画ではないという評を受けています。たしかに表面的なものからは本来の文人画とは違うという異論もあろうかと思いますが、純然とその作品と向かうとそうとも言い切れないものがあり、きちんと評価する必要がありそうです。
中林竹洞・竹渓父子の作品は幕末の南画最盛期頃の著名な画家ということから贋作が非常に多いので真贋の判断は難しいのですが、中林竹渓の作品が六作品目となりましたのでここで整理してみました。
竹林渓流図(仮題) 中林竹渓筆 その6
絹本水墨淡彩 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1290*横440 画サイズ:縦310*横220
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文化13年(1816年)中林竹洞の長男として生まれ、幼年から父に絵を学ぶ。竹渓が生まれた時、竹洞は数え41歳で、遅い男児誕生に竹洞は喜び、しばしば自作に竹渓の名を記し、父子の合作も残る。日本の南画の元となった文人画・南宗画とは、実情はともかく理念的には、中国の文人生活を理想とするもので、世襲とは本来馴染まない。竹洞自身も若い頃から画論を出版し、晩年には世俗を離れ隠棲生活を送るなど、日本において最も文人らしい態度をとった画家である。しかし、その竹洞すら世襲を望み、自家を流派として存続させたい願った事が端的に表れている。
20代の竹渓は繊細な楷書で「竹谿」と署名し、竹洞の山水画様式を忠実に習っており、60代に入り枯淡・高潔な山水画様式を完成させていた父の画風をそのまま継承しようとした様子が窺える。反面、大作が殆ど無い竹洞と違い、竹渓には若年から晩年に至るまでしばしば屏風絵の大作を描いており、父との資質の違いを見ることができる。
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中林竹渓の作品で本ブログに投稿された作品で「竹谿」の落款のある作品は下記の作品です。
夕陽孤亭図 中林竹渓筆 その2
絹本水墨淡彩 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1065*横640 画サイズ:縦190*横575
この頃の作品は実に味わい深い作風ですが、父である中林竹洞の踏襲であのかもしれません。
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30歳の時、長崎に旅行。同じ頃、父の親友・山本梅逸に師事したと推測される。落款は楷書で「竹溪」稀に行書で「竹渓」と記し、花鳥画や人物画にも作域を広げ、父や梅逸らのモチーフを手本にしつつも、それらを単に写すのではなく的確に構成し直して独自性を打ち出そうとしている。
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年号が記されており、明らかに30歳代の作品は下記の作品です。
桜下猫図 中林竹渓筆 その1絹本水墨着色軸装軸先 合箱入
全体サイズ:横402*縦1658 画サイズ:横340*縦958
34歳頃
柳桃山水之図 伝中林竹渓筆 その5絹本水墨淡彩 軸先象牙 市島家所蔵箱
全体サイズ:縦2030*横620 画サイズ:縦1240*横405
33歳頃
花鳥画や人物画にも作域を広げることで、父の域から脱却しようとしてるように思えます。
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嘉永6年(1853年)に父竹洞が亡くなると、落款に30代のものに加えて、楷書で「竹渓」と記す変化が起こる。絵も南画以外の円山・四条派、南蘋派、土佐派に学び、実物写生も積極的に行ったと見られる。一方で壮年期には江戸末期の復古思潮からか、加藤清正や楠木正成などの武将を勇壮謹厳に描いた作品が多く残っています。
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下記の二作品については30代と思われますが、詳細な時期については不明です。
浅絳江山閑適図 中林竹渓筆 その3
紙本水墨淡彩 軸先骨 鑑定二重箱
全体サイズ:縦2090*横455 画サイズ:縦1345*横310
水墨山水図 中林竹渓筆 その4
紙本水墨 軸先象牙細工 添箱
全体サイズ:縦2100*横368 画サイズ:縦1330*横240
中林竹渓はたしかに中林竹洞とは違う画風を持っているようになります。
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40代後半あたりからの落款は、肥痩が強く癖が強い「竹渓」となり、特に元治元年(1864年)以降は「竹渓有節」と記す作品があり、最晩年には「有節」と号していたと考えられる。この頃は文人画風の山水画や中国人物画が再び多く書かれる一方、引き続き大和絵人物や季節の草花、動物なども書かれた。竹渓晩年の山水画は、明治・大正期に煎茶席の掛軸としてよく好まれ、またそれ以上に身近な草花や動物、風景などを描く景物画は、手頃な床掛けとして広く愛好された。明治も間近に迫った慶応3年(1867年)4月死去。享年52。
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中林竹洞の作品は真贋を含めてあちらこちらにあります。贋作が多いのでしょうが、とても小生のような浅学では真贋が解るような代物ではありません。印章や落款ではおそらく真贋は判断できないようです。
それに比して子息の中林竹渓は市場に出回る作品の数は意外に少ないようですが・・。
明らかに晩年の作と判断できる作品は小生の手元にはありません。
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竹渓はしばしば奇行でも知られる。これは、明治に活躍した名古屋出身の南画家・兼松蘆門が著した『竹洞と梅逸』(明治42年(1909年)刊)による。その竹渓伝の元になったのは、竹渓の異母妹・中林清淑の回想と推測される。
清淑は年の離れた竹渓に複雑な感情を抱いていたらしく、『竹洞と梅逸』には竹洞の遺産を竹渓が分けてくれなかったという愚痴が長々と載り、清淑が撰した竹渓の墓碑には「人となり剛狷介、世と合わず、人徒にその絵の巧みなるを見、その志しのなお高遠なるを知らず」と、故人を称えるべき墓碑に「巧みなだけで志が表現されていない」と断言する。こうした清淑の竹渓像が、清淑びいきの蘆門によって増幅され、これが諸書に引用されて広まっていった。
こうした評は幾らかは竹渓自身が招いたものかも知れないが、竹渓の作品を見ると、生き物の夫婦や親子を描き込む作品がかなりあり、自賛や高名な文化人による着賛も殆ど無く、俳画風の略画や他の画家との合作も見られない等、心優しく生真面目な画人を想像とさせる。
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上記のような記事の内容のようなことがなんらかで竹渓の人気に水をさしているのかもしれませんね。
このような軸を床に掛けて一服というもの洒落ていていいように思います。
小点ながら、川の流れの音、竹にそよぐ風の音が聞こえてきそうです。
名古屋南画の画人には本ブログでは投稿が少ないですがこのほかに山本梅逸がいます。
幕末南画を語る上で避けて通れないのが、中林竹洞・竹渓父子と山本梅逸ですが、この3名は武士として生活や世襲ということなどから本来の南画ではないという評を受けています。たしかに表面的なものからは本来の文人画とは違うという異論もあろうかと思いますが、純然とその作品と向かうとそうとも言い切れないものがあり、きちんと評価する必要がありそうです。
中林竹洞・竹渓父子の作品は幕末の南画最盛期頃の著名な画家ということから贋作が非常に多いので真贋の判断は難しいのですが、中林竹渓の作品が六作品目となりましたのでここで整理してみました。
竹林渓流図(仮題) 中林竹渓筆 その6
絹本水墨淡彩 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1290*横440 画サイズ:縦310*横220
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文化13年(1816年)中林竹洞の長男として生まれ、幼年から父に絵を学ぶ。竹渓が生まれた時、竹洞は数え41歳で、遅い男児誕生に竹洞は喜び、しばしば自作に竹渓の名を記し、父子の合作も残る。日本の南画の元となった文人画・南宗画とは、実情はともかく理念的には、中国の文人生活を理想とするもので、世襲とは本来馴染まない。竹洞自身も若い頃から画論を出版し、晩年には世俗を離れ隠棲生活を送るなど、日本において最も文人らしい態度をとった画家である。しかし、その竹洞すら世襲を望み、自家を流派として存続させたい願った事が端的に表れている。
20代の竹渓は繊細な楷書で「竹谿」と署名し、竹洞の山水画様式を忠実に習っており、60代に入り枯淡・高潔な山水画様式を完成させていた父の画風をそのまま継承しようとした様子が窺える。反面、大作が殆ど無い竹洞と違い、竹渓には若年から晩年に至るまでしばしば屏風絵の大作を描いており、父との資質の違いを見ることができる。
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中林竹渓の作品で本ブログに投稿された作品で「竹谿」の落款のある作品は下記の作品です。
夕陽孤亭図 中林竹渓筆 その2
絹本水墨淡彩 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1065*横640 画サイズ:縦190*横575
この頃の作品は実に味わい深い作風ですが、父である中林竹洞の踏襲であのかもしれません。
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30歳の時、長崎に旅行。同じ頃、父の親友・山本梅逸に師事したと推測される。落款は楷書で「竹溪」稀に行書で「竹渓」と記し、花鳥画や人物画にも作域を広げ、父や梅逸らのモチーフを手本にしつつも、それらを単に写すのではなく的確に構成し直して独自性を打ち出そうとしている。
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年号が記されており、明らかに30歳代の作品は下記の作品です。
桜下猫図 中林竹渓筆 その1絹本水墨着色軸装軸先 合箱入
全体サイズ:横402*縦1658 画サイズ:横340*縦958
34歳頃
柳桃山水之図 伝中林竹渓筆 その5絹本水墨淡彩 軸先象牙 市島家所蔵箱
全体サイズ:縦2030*横620 画サイズ:縦1240*横405
33歳頃
花鳥画や人物画にも作域を広げることで、父の域から脱却しようとしてるように思えます。
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嘉永6年(1853年)に父竹洞が亡くなると、落款に30代のものに加えて、楷書で「竹渓」と記す変化が起こる。絵も南画以外の円山・四条派、南蘋派、土佐派に学び、実物写生も積極的に行ったと見られる。一方で壮年期には江戸末期の復古思潮からか、加藤清正や楠木正成などの武将を勇壮謹厳に描いた作品が多く残っています。
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下記の二作品については30代と思われますが、詳細な時期については不明です。
浅絳江山閑適図 中林竹渓筆 その3
紙本水墨淡彩 軸先骨 鑑定二重箱
全体サイズ:縦2090*横455 画サイズ:縦1345*横310
水墨山水図 中林竹渓筆 その4
紙本水墨 軸先象牙細工 添箱
全体サイズ:縦2100*横368 画サイズ:縦1330*横240
中林竹渓はたしかに中林竹洞とは違う画風を持っているようになります。
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40代後半あたりからの落款は、肥痩が強く癖が強い「竹渓」となり、特に元治元年(1864年)以降は「竹渓有節」と記す作品があり、最晩年には「有節」と号していたと考えられる。この頃は文人画風の山水画や中国人物画が再び多く書かれる一方、引き続き大和絵人物や季節の草花、動物なども書かれた。竹渓晩年の山水画は、明治・大正期に煎茶席の掛軸としてよく好まれ、またそれ以上に身近な草花や動物、風景などを描く景物画は、手頃な床掛けとして広く愛好された。明治も間近に迫った慶応3年(1867年)4月死去。享年52。
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中林竹洞の作品は真贋を含めてあちらこちらにあります。贋作が多いのでしょうが、とても小生のような浅学では真贋が解るような代物ではありません。印章や落款ではおそらく真贋は判断できないようです。
それに比して子息の中林竹渓は市場に出回る作品の数は意外に少ないようですが・・。
明らかに晩年の作と判断できる作品は小生の手元にはありません。
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竹渓はしばしば奇行でも知られる。これは、明治に活躍した名古屋出身の南画家・兼松蘆門が著した『竹洞と梅逸』(明治42年(1909年)刊)による。その竹渓伝の元になったのは、竹渓の異母妹・中林清淑の回想と推測される。
清淑は年の離れた竹渓に複雑な感情を抱いていたらしく、『竹洞と梅逸』には竹洞の遺産を竹渓が分けてくれなかったという愚痴が長々と載り、清淑が撰した竹渓の墓碑には「人となり剛狷介、世と合わず、人徒にその絵の巧みなるを見、その志しのなお高遠なるを知らず」と、故人を称えるべき墓碑に「巧みなだけで志が表現されていない」と断言する。こうした清淑の竹渓像が、清淑びいきの蘆門によって増幅され、これが諸書に引用されて広まっていった。
こうした評は幾らかは竹渓自身が招いたものかも知れないが、竹渓の作品を見ると、生き物の夫婦や親子を描き込む作品がかなりあり、自賛や高名な文化人による着賛も殆ど無く、俳画風の略画や他の画家との合作も見られない等、心優しく生真面目な画人を想像とさせる。
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上記のような記事の内容のようなことがなんらかで竹渓の人気に水をさしているのかもしれませんね。
このような軸を床に掛けて一服というもの洒落ていていいように思います。
小点ながら、川の流れの音、竹にそよぐ風の音が聞こえてきそうです。
名古屋南画の画人には本ブログでは投稿が少ないですがこのほかに山本梅逸がいます。