茶室は子供のジャングルジム、縁側は洗濯物の干し場や義父と息子の昼寝場所・・・・。実に実用的です
二階の展示室を見ていった電気工事の方が「ずいぶんと良くなりましたね」といってくれました。改装前を知っていて、電気工事にて工事にもきてくれていたようです。「一般の人はは見れないのですか?」とも聞かれましてが、一般の人??? 当家の一般に人はとっくに充分に使っています
ブラインドや棚などまだ小生としてはまだ未完成ですが、資金をまた貯めなくては完成しません。
さて本日の作品は遼三彩? 本作品のような小生の未知の分野の作品を購入したのは、源内焼と同じ三彩であったからに他ありませんが、そもそも本作品が遼三彩か否かも定かではありません。
遼三彩印花牡丹文皿
合箱
最大口径185*底径*高さ38
遼三彩とは中国の東北部に建国した契丹族の遼で焼造された三彩陶器のことです。北宋王朝と北方の領土を巡って激しく争ったことで知られる契丹族の国・遼で作られた三彩です。
遊牧民族であった契丹族は,むろん製陶業はもたなかったのですが,国家意識に目覚めて916年に建国すると中国文化の摂取につとめ,文化向上のために華北の陶工を領内に拉致して窯を築かせました。
遼寧省赤峰市に近い乾瓦(かんが)窯はその代表的な窯であり,ここで遼三彩は焼造されました。その創始は遼後期の1060年代からですが、単色の緑釉陶と褐釉陶はすでに10世紀に焼造していると思われます。
遼三彩は唐三彩と同様にすべて「副葬品」であり、遼三彩の起こりは遼代中期に政府が厚葬(手厚い埋葬)を禁じたことと関わりがあります。
遼は北部に位置し自然資源はもちろん、献上される貢ぎ物にも限りがあったので、貴族たちの厚葬の風潮は社会財源にとってきわめて大きな浪費でした。そこで政府は金銀器の副葬を禁じ、代わりに金銀器の効果にならった三彩釉の陶器や金メッキした銅器を用いたのです。
唐三彩とは違って、朔北の草原に生まれたこの三彩はある程度の粗放さに裏打ちされた力強い野性味に満ちています。唐三彩と同様に赤い素地に白化粧をして低温釉の三彩釉を施すことに変わりはありませんが、地肌に付けられる刻花文や印花文が唐三彩のそれのように整然とはしておらず、その上の三彩釉も規矩にこだわらず自由奔放に掛けられますので、かなり印象は唐三彩と違ったものになります。
唐三彩ほどの繊細さはない作品ですが、素朴な雰囲気が日本のわびさびの精神に通ずるところから日本では人気がありました。また重ねて焼成するので、三点の目あとがついていることがあります。当然、一番上の作品には目跡がつきませんが・・。
本作品は遼三彩の典型的な作例で、牡丹などの花や虫の図を型押しの浮文で表し、緑釉と褐釉を掛けており、遼三彩らしい素朴さとエキゾティシズムに溢れています。
外側に2列、円を描くように各々4つずつ計8つの牡丹があらわされています。花には黄褐色の釉薬が、葉には緑の釉薬が塗られており、口縁に黄褐釉が掛けられています。遼のやきものは金銀器の影響が色濃いのですが、形や文様にきびきびとした印象が強い宋時代の陶磁器と比べると明るくおおらかであり、むしろ唐時代の中国陶磁の作風に通じるものがあります。
遼が11世紀後半になると、乾瓦窯はひときわ優れた三彩を生み出しました。轆轤成形した器面に、型で文様を浮彫りする技を得意とし、三彩の色彩も鮮やかさを増しましたが、本作品は高台もなく、成型は稚拙でそのような時期より少し前のものと推察されます。
三彩という陶磁器には主流として唐三彩・遼三彩・ペルシャ三彩・奈良三彩・明三彩・華南三彩、そして本ブログでお馴染みの源内焼などがあります。源内焼が対抗したのは「華南三彩」と呼ばれる三彩の作品群で、なかなか入手は難しいようです。
遼三彩は副葬品・・・、「遼三彩」は一般の人が使うために作られた実用的な器ではないようです。
二階の展示室を見ていった電気工事の方が「ずいぶんと良くなりましたね」といってくれました。改装前を知っていて、電気工事にて工事にもきてくれていたようです。「一般の人はは見れないのですか?」とも聞かれましてが、一般の人??? 当家の一般に人はとっくに充分に使っています
ブラインドや棚などまだ小生としてはまだ未完成ですが、資金をまた貯めなくては完成しません。
さて本日の作品は遼三彩? 本作品のような小生の未知の分野の作品を購入したのは、源内焼と同じ三彩であったからに他ありませんが、そもそも本作品が遼三彩か否かも定かではありません。
遼三彩印花牡丹文皿
合箱
最大口径185*底径*高さ38
遼三彩とは中国の東北部に建国した契丹族の遼で焼造された三彩陶器のことです。北宋王朝と北方の領土を巡って激しく争ったことで知られる契丹族の国・遼で作られた三彩です。
遊牧民族であった契丹族は,むろん製陶業はもたなかったのですが,国家意識に目覚めて916年に建国すると中国文化の摂取につとめ,文化向上のために華北の陶工を領内に拉致して窯を築かせました。
遼寧省赤峰市に近い乾瓦(かんが)窯はその代表的な窯であり,ここで遼三彩は焼造されました。その創始は遼後期の1060年代からですが、単色の緑釉陶と褐釉陶はすでに10世紀に焼造していると思われます。
遼三彩は唐三彩と同様にすべて「副葬品」であり、遼三彩の起こりは遼代中期に政府が厚葬(手厚い埋葬)を禁じたことと関わりがあります。
遼は北部に位置し自然資源はもちろん、献上される貢ぎ物にも限りがあったので、貴族たちの厚葬の風潮は社会財源にとってきわめて大きな浪費でした。そこで政府は金銀器の副葬を禁じ、代わりに金銀器の効果にならった三彩釉の陶器や金メッキした銅器を用いたのです。
唐三彩とは違って、朔北の草原に生まれたこの三彩はある程度の粗放さに裏打ちされた力強い野性味に満ちています。唐三彩と同様に赤い素地に白化粧をして低温釉の三彩釉を施すことに変わりはありませんが、地肌に付けられる刻花文や印花文が唐三彩のそれのように整然とはしておらず、その上の三彩釉も規矩にこだわらず自由奔放に掛けられますので、かなり印象は唐三彩と違ったものになります。
唐三彩ほどの繊細さはない作品ですが、素朴な雰囲気が日本のわびさびの精神に通ずるところから日本では人気がありました。また重ねて焼成するので、三点の目あとがついていることがあります。当然、一番上の作品には目跡がつきませんが・・。
本作品は遼三彩の典型的な作例で、牡丹などの花や虫の図を型押しの浮文で表し、緑釉と褐釉を掛けており、遼三彩らしい素朴さとエキゾティシズムに溢れています。
外側に2列、円を描くように各々4つずつ計8つの牡丹があらわされています。花には黄褐色の釉薬が、葉には緑の釉薬が塗られており、口縁に黄褐釉が掛けられています。遼のやきものは金銀器の影響が色濃いのですが、形や文様にきびきびとした印象が強い宋時代の陶磁器と比べると明るくおおらかであり、むしろ唐時代の中国陶磁の作風に通じるものがあります。
遼が11世紀後半になると、乾瓦窯はひときわ優れた三彩を生み出しました。轆轤成形した器面に、型で文様を浮彫りする技を得意とし、三彩の色彩も鮮やかさを増しましたが、本作品は高台もなく、成型は稚拙でそのような時期より少し前のものと推察されます。
三彩という陶磁器には主流として唐三彩・遼三彩・ペルシャ三彩・奈良三彩・明三彩・華南三彩、そして本ブログでお馴染みの源内焼などがあります。源内焼が対抗したのは「華南三彩」と呼ばれる三彩の作品群で、なかなか入手は難しいようです。
遼三彩は副葬品・・・、「遼三彩」は一般の人が使うために作られた実用的な器ではないようです。