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氏素性の解らぬ作品 白化粧彫絵山猫文大皿 伝バーナード・リーチ作(作者不詳) その4

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端午の節句が近いので展示も替えました。



福田豊四郎の鐘馗図をメインとした床飾りにしてみました。



棚には香道具箱、田村耕一の作品など・・。

本日の作品は小鹿田の系統の作品であることには相違ないでしょうが、バーナードリーチの作品かどうかは不明です。「BL」のサインや刻印がないとかえって安心にて見ていられる作品なのですが・・・。バーナードリーチの作品もまた贋作が多いようで、この図柄の贋作もまた存在します。私の見た贋作はかなり稚拙な作品で贋作の共箱に収められていました。

本日は作品の真贋よりもバーナード・リーチの日本での交流について調べてみました。

氏素性の解らぬ作品 白化粧彫絵山猫文大皿 伝バーナード・リーチ作(作者不詳)
口径445*高台径*高さ75



バーナード・リーチは日本のみならず陶磁器の近代史には欠かせない人物であり、その人となりを調べていくといろんなことが解ってきます。作品の好みではなくバーナード・リーチを知らずして近代陶芸を語ることはできないと思います。



資料より

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1887年(明治20年)、植民地官僚だったイギリス人の父とイギリス人の母の間に香港で生まれた。母は出産で死去したため日本にいた母方の祖父に引き取られ、関西に住んだ。リーチの祖父は京都の第三中学校や彦根中学校で英語教師をしていた。来日から4年後、植民地官僚だった父の再婚にともない香港に戻ったが、1895年、父の転勤でシンガポール移った。1897年、イギリス本土に移され教育を受ける。

《高村光太郎との出会い》

1903年、芸術家を志してロンドンの美術学校に入学するが翌年父が死んだため銀行員となり、1907年からロンドン美術学校でエッチングの技法を学んだが、ロンドン留学中の高村光太郎(高村光雲の息子)と知り合って日本に郷愁を抱くようになり、1909年(明治42年)、日本へ戻って東京・上野に居を構えた。



《柳宗悦・富本憲吉・六代尾形乾山とのい出会い》

リーチは生涯の友となる柳宗悦をはじめ白樺派の青年達と知り合いになり、1917年には彼らの本拠であった我孫子にて版画指導を行った他、イギリスで起こったウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動など西洋芸術についての議論を通して手仕事の復権や日用品と美の問題などを語り合った。またリーチは富本憲吉と知り合い、富本とともに訪れた上野の博覧会会場で楽焼の絵付けを始めたことをきっかけに茶道や茶道具に惹かれた。
1912年に六代尾形乾山に陶芸を学び、中国から戻った1917年、我孫子の柳の家に窯を開いて陶芸家としての一歩を踏み出した。後に七代乾山の名を免許された。



《浜田庄司との出会い》

この時リーチたちのもとを訪れた陶芸家の濱田庄司と友人になり、リーチは1920年に濱田とともにイギリスのセント・アイヴスに移り日本の伝統的な登り窯を開き、1922年には「リーチ・ポタリー」(Leach Pottery)という名の窯を開いた。彼らはセント・アイヴスで西洋と東洋の美や哲学を融合させた陶磁器を作り朝鮮や日本、中国の日用陶器に注目したほかスリップウェアや塩釉といったイギリスやドイツの忘れられつつあった伝統的な日用陶器にも着目してその技法をマスターした。
(*1924年、濱田は関東大震災をきっかけに帰国、栃木県益子にみずからの窯を築きます。)



 彼らは陶磁器を芸術、哲学、デザイン、工芸、そして偉大な生活様式の融合したものと見ていたが西洋人の多くは陶芸を一段低い芸術と考え、彼らの作品を当時の洗練された工業製品に比べて粗野で下手なものとみなしていた。1934年、リーチはイギリスでの陶芸全般の評価に失望し再び来日し日本民藝館設立を目指していた柳に協力した。イギリスに戻って1940年に出版した『A Potter's Book』(陶工の書)はリーチの職人としての哲学や技術、芸術家としての思想を明らかにした本でリーチの名を知らしめるもとになった。



 リーチは実用より美学的関心を優先させた純粋芸術としての陶芸に対し、実用的な日用陶器を作ることを擁護した。リーチは陶磁器に重要なのは絵画的な絵柄でも彫刻的な装飾でもなく、日用品としての用を満たす器の形状や触覚だと考えた。このため、リーチの制作スタイルは1950年代から1960年代のミッドセンチュリーのアメリカ合衆国でカウンターカルチャーやモダニズム・デザインに大きな影響を及ぼした。



 リーチは近代的で協同組合的なワークショップを運営して、一般大衆向けの手作り陶磁器のラインナップを制作することを切望していた。世界中からリーチ・ポタリーに陶芸家が弟子にやってきて、リーチの様式と信念を世界に広げていった。例えば、カナダから来た見習い陶芸家達は1970年代にかけてバンクーバーを中心としたカナダ西海岸に活発な陶芸シーンを形成した。アメリカ人の弟子たちの中にはウォレン・マッケンジー(Warren MacKenzie、彼もミネソタ大学で多くの後進の陶芸家に影響を与えた)やバイロン・テンプル(Byron Temple)、クラリー・イリアン(Clary Illian)、ジェフ・ウェストリッチ(Jeff Oestrich)といった陶芸家がいる。ニュージーランドの陶芸の第一人者レン・キャッスル(Len Castle)も1950年代半ばにイギリスへ旅しリーチと働いて大きな影響を受けた。また長年リーチの助手だったマイケル・カーデューやオーストリアで陶芸を修めた後にナチスから逃れてイギリスに渡りリーチの影響を受けたルーシー・リーらは、リーチと協力しあるいは競いながらイギリス陶芸の地位向上に努めた。
またたびたび来日し各地で作陶したほか、『Unknown Craftsman』(知られざる職人)などの書を通して民芸運動やその関連作家をイギリスに紹介、展覧会も開きその理論を解説した。



 リーチは1940年、アメリカ人画家マーク・トビーとの交友を通じバハーイー教に入信していた。1954年、イスラエルのハイファにある寺院に巡礼に行ったリーチは、「東洋と西洋をより一つにするため東洋に戻り、バハーイ教徒として、またアーティストとして私の仕事により正直になろうと努力したい」との感を強くした。

 リーチは1972年まで制作を続け、なお世界を旅して回ることをやめようとしなかった。また、リーチは視力を失っても陶芸に関する著述をやめなかった。1963年に大英帝国勲章(Order of CBE)を受章。1974年には国際交流基金賞を受賞した。ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館は1977年にリーチの大規模回顧展を開いたが、リーチはその2年後逝去した。リーチ・ポタリーは今なおセント・アイヴスに残り、リーチやその関係者たちの作品を展示する美術館を併設している。

下記は浜田庄司らとの写真です。

 

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バーナードリーチは、1954年(昭和29年)4月、小鹿田に約3週間滞在し、作陶を行っています。 民芸運動の中で小鹿田焼の転機となったのは、バーナード・リーチが小鹿田に来た時からだそうです。



当時67歳と既に陶芸家として大きな名声を得ていたバーナード・リーチの小鹿田での作陶と、大手デパートでの展示会は、マスコミで大きく取り上げられ、小鹿田の知名度が高まる大きな契機となったそうです。



参考作品:「鹿文大皿」(昭和29年)。

 

参考作品:「白化粧彫絵飛燕文皿」1954年 口径38.7cm 高さ8.2cm 



著名な「蛸図大皿”(1925)」もその頃の作品で、動物、植物、幾何学文などを生き生きと描いた魅力的な皿、鉢を数多く制作したそうです。

バーナードリーチの作品の参考作品として所有していますが、このような大きな皿の贋作を製作するのもたいへんだったろうねと思います

大皿の釉薬、図柄の彫り、胎土の味わいはなかなかのものです。



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