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美人図 池田輝方筆 その2

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今週末より郷里に家族で帰省します。行きは花輪線経由、帰りは内陸縦断鉄道経由かな? 十和田湖、弘前、八甲田、八幡平・・・、さてどこに行こうか・・。ブログはしばし休稿となります。

先週末に家内の友人が来訪しました。



案内役は息子・・・。



なかなかの芸達者・・。



床にはクマガイソウ。



女性好きは誰の遺伝か・・・

ということで本日は滅多に投稿しない美人画・・・。

美人図 池田輝方筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:横600*縦2140 画サイズ:横400*縦1220



池田輝方は師えある鏑木清方の立会いの下、池田(旧姓:榊原)蕉園と婚約するも、自身は直後に別の女性と失踪、さまざまな曲折ののち、蕉園とは明治44年(1911年)に結婚したそうです。

  

池田焦園の作品と並べて展示してみています。



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池田輝方:明治16年(1883年)1月4日~大正10年(1921年)5月6日)は明治、大正期の浮世絵師、日本画家。本名池田正四郎。女性日本画家・池田蕉園の夫。



明治16年(1883年)1月4日、東京市京橋区(現在の東京都中央区)木挽町で建具職人池田吉五郎の次男として誕生。明治28年(1895年)に水野年方に内弟子として入門。明治32年(1899年年)から一年余りを岡山で過ごした後帰京、再び年方のもとで学ぶ。



明治35年(1902年)に日本絵画協会と日本美術院の共催による第12回絵画共進会で「山王祭」が、同13回展では「婚礼」がともに1等褒状を得、翌明治36年(1903年)の第14回展では「江戸時代の猿若町」が銅賞3席となった。他方、鏑木清方らによって明治34年(1901年)に結成された烏合会にも、結成直後から参加、明治36年(1903年)の同会の第6回展に「暮靄」と、同門の榊原蕉園(のちの池田蕉園)をモデルとした「墨染」を、第8回展には「奥勤め」を出品した。



この年に師・清方の立会いの下、榊原蕉園と婚約するも、自身は直後に別の女性と失踪、さまざまな曲折ののち、蕉園とは明治44年(1911年)に結婚した。この事件の顛末は田口掬汀によって連載記事「絵具皿」として万朝報に掲載され話題となる。この間明治40年(1907年)には川合玉堂に師事しており、風俗画に特色を示している。また、同年、浮世絵に惹かれて来日していたフランス人の浮世絵師ポール・ジャクレーに日本画を教えている。



大正3年(1914年)の第8回展では「両国」で3等賞、大正4年(1915年)の第9回展では「木挽町の今昔」で2等賞を受賞し、大正5年(1916年)の第10回展では「夕立」(山種美術館蔵)で妻の蕉園とともに特賞を得た。大正8年(1919年)の第1回帝国美術院展(帝展)では江戸時代の絵師・英一蝶の流刑を画題とした「絵師多賀朝湖流さる」(島根県立石見美術館蔵)が推薦出品とされ、浮世絵の精神、造形美を受け継ぐ画家としての評価を確立した。同年石井林響(1884-1932)、山内多門(1878-1932)と如水会を結成。大正10年(1921年)5月6日没。

輝方は水野年門下で後に川合玉堂に学んだ人物画の名手であるが、惜しむらしくは39歳、その力倆の熟し輝きつつある途中の、いわば「未完の美」で生涯を閉じてしまった。しかし、天性の才能がもたらせる彼の作品の秀逸さは、五歳年長の同門鏑木清方より一年先(大正5年)に「夕立ち」一対で文部省美術展覧会特選になったことで知られる。

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池田焦園が33歳、池田輝方が39歳で亡くなっていますが、まことに惜しいことです。



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池田焦園:(1886年5月13日 ~ 1917年12月1日)明治から大正にかけての女性浮世絵師、日本画家。本名池田(旧姓榊原)百合子(あるいは由理子)。

夫も日本画家の池田輝方日本画家。水野年方、川合玉堂に師事する。文展等諸種の展覧会に出品し、多くの賞を得た。烏合会会員。大正6年(1917年)没、享年33歳。明治、大正、昭和初期の近代日本画において美人画のジャンルは絶頂期を向かえ、その中でも女流画家の活躍はめざましいものがあったが、「三都三園」とはそんな近代女流美人画家の代表的な3人を称しますが、京都の上村松園、東京の池田焦園、大阪の島成園がその3名で池田焦園があげられています。ただし島・池田とも松園にあやかって園の文字が使われたとのことです。

明治に始まる東京画壇の鏑木清方、池田輝方と池田焦園の夫婦などは浮世絵の美人絵を清新な時代感覚で蘇生させようとした画人達であり、伊東深水などに受けつがれて、これらの人々は近代美人画の主流となっていきます。

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池田輝方と池田焦園は紆余曲折後に結婚していますが、結婚後は仲睦まじく、池田焦園が病気の際は池田輝方は懸命の介護をしたそうです。

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