帰省に際して盛岡駅で乗り換えのため、時間があったのでステーション内をぶらぶらしていると、なぜかしら仙台名産のはずの「ずんだシェイク」が売っていました。「お~」とばかりさっそく買って息子と飲んでいると、周りの観光客も集まってきて数人が買っていました。よほど二人でうまそうに飲んでいたらしい??
さて本日の作品は、絵が面白くて入手した作品ですが、画家が干支の年号を間違えているとしか思えないのがまた面白い作品です。普通は贋作と考えて購入しにくいものです。小生は物好きな性格なようですが、そもそも「御船網手」という画家を知っていること自体が相当にマニアックらしい。
忘れさられた画家 猛虎図 御船網手筆
紙本水墨着色 軸先骨 共箱
全体サイズ:縦1950*横560 画サイズ:縦1060*横420
箱書には「大正丁未(ひのとひつじ、ていび)冬 網手筆 押印」とありますが、大正と丁未が一致せず、一番近い「丁未」が1907年は明治40年である。とはいえ贋作ではなく、「丁巳(ひのとみ、ていし)(1917年 大正6年 41歳)」と誤記した可能性が高い?
そのようなミスを犯すのだろうか? まるで本ブログで紹介した伝高村光雲作の「菅公像」→「官公像」のように題を誤字するなど・・。
作品そのものは実に真面目な作品です。
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御船綱手:(みふね つなて)。1876年(明治9年)-1941年(昭和16年)。日本画家。明治9年(1876)岡山県倉敷市に生まれる。東美校卒。
明治43年欧米各国を漫遊。植物画の研究に専念する。画室の周囲に内外の植物千余種を栽培し、その写生に努める。大阪に住した。
14歳の時、画家を志して、初め円山派の木村応春に、ついで大阪の渡辺祥益に学ぶ。その後上京し、川端玉章に師事する。1896年、東京美術学校に編入、橋本雅邦に師事する。1897年、日本絵画協会第2回共進会で「山櫻鷲」が2等褒賞を受ける。
1899年に東京美術学校日本画科を卒業した後は、大阪で画業に励む。1910年、日英博覧会に際して欧米を旅行。ハワイからアメリカ合衆国を横断してヨーロッパに渡り、イギリス、フランス、イタリア、スイス、ドイツ、オランダ、ノルウェーを経て、ロシアからシベリア鉄道で帰国した様子を、1913年、「世界周遊実写 欧山米水帖」として描いた。晩年は、自宅に植物園を造り、植物の研究を深めて週刊朝日に「百花画譜」を発表するなどした。昭和16年(1941)歿、65才。
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虎の絵の近代の名人はなんといっても本ブログでもなんどか投稿している大橋翠石ですが、ちょっと違った虎を描いています。
「これはこれで近代の佳作といえるでしょう。」というと興味を持つ人が増えるかもしれません。骨董も「ずんだシェイク」のようなものでうまそうに飲む人、この作品がいいと認める人によってファンが増えるものです。
ただ本作品もまた軸先の片側が紛失しているなど粗末な扱いをうけていたようです。
もともとはそれなりの表具はされていたようですが・・。
このような痛んだ作品ばかりを蒐集していても、費用がかさんで困ったものです。小生の所蔵する作品については、処分する作品ときちんと保存しておく作品を整理する時期にきているようです。
さて本日の作品は、絵が面白くて入手した作品ですが、画家が干支の年号を間違えているとしか思えないのがまた面白い作品です。普通は贋作と考えて購入しにくいものです。小生は物好きな性格なようですが、そもそも「御船網手」という画家を知っていること自体が相当にマニアックらしい。
忘れさられた画家 猛虎図 御船網手筆
紙本水墨着色 軸先骨 共箱
全体サイズ:縦1950*横560 画サイズ:縦1060*横420
箱書には「大正丁未(ひのとひつじ、ていび)冬 網手筆 押印」とありますが、大正と丁未が一致せず、一番近い「丁未」が1907年は明治40年である。とはいえ贋作ではなく、「丁巳(ひのとみ、ていし)(1917年 大正6年 41歳)」と誤記した可能性が高い?
そのようなミスを犯すのだろうか? まるで本ブログで紹介した伝高村光雲作の「菅公像」→「官公像」のように題を誤字するなど・・。
作品そのものは実に真面目な作品です。
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御船綱手:(みふね つなて)。1876年(明治9年)-1941年(昭和16年)。日本画家。明治9年(1876)岡山県倉敷市に生まれる。東美校卒。
明治43年欧米各国を漫遊。植物画の研究に専念する。画室の周囲に内外の植物千余種を栽培し、その写生に努める。大阪に住した。
14歳の時、画家を志して、初め円山派の木村応春に、ついで大阪の渡辺祥益に学ぶ。その後上京し、川端玉章に師事する。1896年、東京美術学校に編入、橋本雅邦に師事する。1897年、日本絵画協会第2回共進会で「山櫻鷲」が2等褒賞を受ける。
1899年に東京美術学校日本画科を卒業した後は、大阪で画業に励む。1910年、日英博覧会に際して欧米を旅行。ハワイからアメリカ合衆国を横断してヨーロッパに渡り、イギリス、フランス、イタリア、スイス、ドイツ、オランダ、ノルウェーを経て、ロシアからシベリア鉄道で帰国した様子を、1913年、「世界周遊実写 欧山米水帖」として描いた。晩年は、自宅に植物園を造り、植物の研究を深めて週刊朝日に「百花画譜」を発表するなどした。昭和16年(1941)歿、65才。
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虎の絵の近代の名人はなんといっても本ブログでもなんどか投稿している大橋翠石ですが、ちょっと違った虎を描いています。
「これはこれで近代の佳作といえるでしょう。」というと興味を持つ人が増えるかもしれません。骨董も「ずんだシェイク」のようなものでうまそうに飲む人、この作品がいいと認める人によってファンが増えるものです。
ただ本作品もまた軸先の片側が紛失しているなど粗末な扱いをうけていたようです。
もともとはそれなりの表具はされていたようですが・・。
このような痛んだ作品ばかりを蒐集していても、費用がかさんで困ったものです。小生の所蔵する作品については、処分する作品ときちんと保存しておく作品を整理する時期にきているようです。