相変わらず、寝ていると小生のベットに足をかけてくる息子ですが、熊さんにも自分でズボンをはかせたらしい。
本ブログで取り上げてきまいした寺崎廣業などの郷土の画家の作品を鑑定していたのが「鳥谷幡山」です。「鳥谷幡山」は寺崎廣業や橋本雅邦の学んだ野田九甫らと同門の画家です。
「鳥谷幡山」は十和田湖とは切っても切れない縁がありますが、本日はそのことに触れてみたいと思います。
十和田山神社 鳥谷幡山筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先樹脂 合箱
全体サイズ:縦2010*横560 画サイズ:縦1250*横440
「□二石砕雖□□ 十和田山神社々□春趣」とあります。
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鳥谷幡山と十和田湖:幡山の十和田湖初探訪は明治28年のことである。
6月1日に七戸を出発、一人で行くにはあまりに困難なため、十和田詣での一行6人を待ち受け、苔に足をすべらせ、岩をのりこえ、道無き道を助け合いながら、ようやく6日に休屋に到着した。7日に十和田神社を参拝し、8日は有志で舟を出して湖水を巡遊した。この探訪により、十和田湖に神の存在を感じるほどの深い感銘を受けた幡山は、十和田湖を「神苑霊湖」と讃え称し、十和田湖の喧伝にその生涯を費やすことになる。
探訪後、東京在住の青森県東南三郡の出身者による組織「奥南郷友会」に幡山が招かれ、そこで五戸出身の春汀と出会い、これが縁で互いに十和田湖の顕彰を誓いあうようになり、桂月の雑誌「太陽」への発表へとつながって行くのである。
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まさしく本作品は明治28年の十和田湖初探訪を描いたと思われる貴重な作品かと思われます。
十和田湖の周囲をドライブすると「キリストの墓」とか「日本のピラミット」という嘘みたいな名跡??があります。
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キリストの墓:「青森キリストの墓」については、キリストにまつわる言い伝えなどまったくない青森県戸来村に竹内巨麿(天津教の教祖)が現れ突然土饅頭を指差し、ここがキリストの墓だと言ったが、これにはお膳立てした人物が戸来村出身の「鳥谷幡山」です。
鳥谷幡山は村おこしの観光資源のため、観光資源の乏しい故郷に何か名所を作りたく友人の酒井勝軍に相談し、ピラミッドとキリストの墓をでっちあげたとされています。竹内巨麿と酒井勝軍は新興宗教と日本民族優越論(竹内文書)のため、キリストの墓は捏造されたと言われています。
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田舎者の狂言と呼ぶにふさわしいでしょうが、当時は真面目だったようです。
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日本のピラミッド:さらに鳥谷幡山が日本のピラミッド調査のために十和田を訪れます。昭和10年のことです。
ピラミッドについてはキリストの墓から十和田湖方面に6km程進むと、「大石神ピラミッド」と「上大石神ピラミッド」と呼ばれる場所が現在もありますが、鳥谷幡山はここがピラミッドであると指摘し、しかも造られたのは5万年前としたのです。
鳥谷幡山に同行していたのは、竹内巨麿でした。彼は天津教の古文書とされる「竹内文書」により、古文書と照らし合わせた結果、ここがイエス・キリストの墓だと発表したのです。当時は大論争となったそうです。
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なんとか十和田湖を有名にしたいという思いが根底にあったようです。
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十和田神社:乙女の像に至る道程、「開運の小径」と名付けられた分岐に入ると「十和田神社」の参道へ。しばらく歩くと整然とした杉木立と、竜神をかたどった手水舎が見えてきて十和田神社の入口へと至ります。流造の様式をたたえる本殿と、どっしりとしたしつらえの拝殿、細部までこだわりが見て取れる彫刻など、重厚な建築美に荘厳さを感じる佇まいです。
祭神として日本武尊が祀られていますが、明治の神仏分離までは東北地方に色濃く残る水神信仰の象徴であったと言われています。その証拠に、江戸時代には十和田山青龍大権現が祀られており、現在も奥の院に祀られています。静謐とした雰囲気の中、今も竜神の息づかいを感じるかのような神秘に満ちた場所です。
青龍権現とも、熊野権現とも呼ばれていた十和田神社。
その縁起には2通りの説があるとされています。
一つは大同2年(807年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂創建とされる説。東征のおり湖が荒れて渡れず、祠を建てて祈願しイカダを組んで渡ったという。
もう一つは、南祖坊(南蔵坊、南草坊ともいう)によるもの。熊野で修行した南祖坊が、鉄の草鞋と錫杖を神から授かり、「百足の草鞋が破れた所に住むべし」と夢のお告げを得て、諸国をめぐり、十和田湖畔で百足の草鞋が尽きたといいます。当時、十和田湖には八郎太郎というマタギが、湖の岩魚や水を喰らううちに八頭の大蛇となり、湖を支配していたそう。そこで、南祖坊は、その霊験により九頭の龍に変化し二十尋(約36m)の身体を、十曲(とわだ)に曲げ、八郎太郎を退治したという伝説が残っています。南祖坊を青龍権現として崇め祀った名残りが今もあり、境内の熊野神社には彼の履いていたという鉄の草鞋が奉納されています。
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乙女の像に至る道程、「開運の小径」・・・、なんともロマンチックでご利益がありそうではありませんか?
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鳥谷幡山(とや-ばんざん):明治9年1月18日(1876年)~昭和41(1966)年2月20日。青森県七戸出身。明治-昭和時代の日本画家。名は又蔵、別号に宗山。
明治28年に上京し、日本画家寺崎広業の内弟子となる。同門の野田九浦らと画技を磨き合い、30年には日本絵画協会主催の第3回絵画共進会に「南海観音」を出して二等褒状を獲得。同年東京美術学校日本画科に編入学して橋本雅邦に学ぶが、31年の東京美術学校事件における同校長岡倉天心の辞職に共感し、同校を中退した。
その後、一時絵画から遠ざかるが、間もなく復帰し、師の広業が主宰する天籟画塾の塾頭に就任。37年には同門下生による美術研精会の創立に参加し、主任幹事として会を運営するが、文展が開設した40年頃に師との折り合いが悪くなり、中央画壇から去った。
以後は、専ら十和田湖の美を描き、その紹介に努めた。作品は他に「十和田湖大観」などがある。昭和41年(1966)歿、90才。画家としてまた寺崎廣業や平福百穂らの 鑑定士として活躍した。
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「寺崎廣業や平福百穂らの 鑑定士として活躍した。」とありますが、意外にいい加減な鑑定は少ないようです。郷里の画家との関連、郷土の観光地を描いた作品という理由から入手してみた画家の作品です。
本ブログで取り上げてきまいした寺崎廣業などの郷土の画家の作品を鑑定していたのが「鳥谷幡山」です。「鳥谷幡山」は寺崎廣業や橋本雅邦の学んだ野田九甫らと同門の画家です。
「鳥谷幡山」は十和田湖とは切っても切れない縁がありますが、本日はそのことに触れてみたいと思います。
十和田山神社 鳥谷幡山筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先樹脂 合箱
全体サイズ:縦2010*横560 画サイズ:縦1250*横440
「□二石砕雖□□ 十和田山神社々□春趣」とあります。
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鳥谷幡山と十和田湖:幡山の十和田湖初探訪は明治28年のことである。
6月1日に七戸を出発、一人で行くにはあまりに困難なため、十和田詣での一行6人を待ち受け、苔に足をすべらせ、岩をのりこえ、道無き道を助け合いながら、ようやく6日に休屋に到着した。7日に十和田神社を参拝し、8日は有志で舟を出して湖水を巡遊した。この探訪により、十和田湖に神の存在を感じるほどの深い感銘を受けた幡山は、十和田湖を「神苑霊湖」と讃え称し、十和田湖の喧伝にその生涯を費やすことになる。
探訪後、東京在住の青森県東南三郡の出身者による組織「奥南郷友会」に幡山が招かれ、そこで五戸出身の春汀と出会い、これが縁で互いに十和田湖の顕彰を誓いあうようになり、桂月の雑誌「太陽」への発表へとつながって行くのである。
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まさしく本作品は明治28年の十和田湖初探訪を描いたと思われる貴重な作品かと思われます。
十和田湖の周囲をドライブすると「キリストの墓」とか「日本のピラミット」という嘘みたいな名跡??があります。
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キリストの墓:「青森キリストの墓」については、キリストにまつわる言い伝えなどまったくない青森県戸来村に竹内巨麿(天津教の教祖)が現れ突然土饅頭を指差し、ここがキリストの墓だと言ったが、これにはお膳立てした人物が戸来村出身の「鳥谷幡山」です。
鳥谷幡山は村おこしの観光資源のため、観光資源の乏しい故郷に何か名所を作りたく友人の酒井勝軍に相談し、ピラミッドとキリストの墓をでっちあげたとされています。竹内巨麿と酒井勝軍は新興宗教と日本民族優越論(竹内文書)のため、キリストの墓は捏造されたと言われています。
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田舎者の狂言と呼ぶにふさわしいでしょうが、当時は真面目だったようです。
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日本のピラミッド:さらに鳥谷幡山が日本のピラミッド調査のために十和田を訪れます。昭和10年のことです。
ピラミッドについてはキリストの墓から十和田湖方面に6km程進むと、「大石神ピラミッド」と「上大石神ピラミッド」と呼ばれる場所が現在もありますが、鳥谷幡山はここがピラミッドであると指摘し、しかも造られたのは5万年前としたのです。
鳥谷幡山に同行していたのは、竹内巨麿でした。彼は天津教の古文書とされる「竹内文書」により、古文書と照らし合わせた結果、ここがイエス・キリストの墓だと発表したのです。当時は大論争となったそうです。
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なんとか十和田湖を有名にしたいという思いが根底にあったようです。
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十和田神社:乙女の像に至る道程、「開運の小径」と名付けられた分岐に入ると「十和田神社」の参道へ。しばらく歩くと整然とした杉木立と、竜神をかたどった手水舎が見えてきて十和田神社の入口へと至ります。流造の様式をたたえる本殿と、どっしりとしたしつらえの拝殿、細部までこだわりが見て取れる彫刻など、重厚な建築美に荘厳さを感じる佇まいです。
祭神として日本武尊が祀られていますが、明治の神仏分離までは東北地方に色濃く残る水神信仰の象徴であったと言われています。その証拠に、江戸時代には十和田山青龍大権現が祀られており、現在も奥の院に祀られています。静謐とした雰囲気の中、今も竜神の息づかいを感じるかのような神秘に満ちた場所です。
青龍権現とも、熊野権現とも呼ばれていた十和田神社。
その縁起には2通りの説があるとされています。
一つは大同2年(807年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂創建とされる説。東征のおり湖が荒れて渡れず、祠を建てて祈願しイカダを組んで渡ったという。
もう一つは、南祖坊(南蔵坊、南草坊ともいう)によるもの。熊野で修行した南祖坊が、鉄の草鞋と錫杖を神から授かり、「百足の草鞋が破れた所に住むべし」と夢のお告げを得て、諸国をめぐり、十和田湖畔で百足の草鞋が尽きたといいます。当時、十和田湖には八郎太郎というマタギが、湖の岩魚や水を喰らううちに八頭の大蛇となり、湖を支配していたそう。そこで、南祖坊は、その霊験により九頭の龍に変化し二十尋(約36m)の身体を、十曲(とわだ)に曲げ、八郎太郎を退治したという伝説が残っています。南祖坊を青龍権現として崇め祀った名残りが今もあり、境内の熊野神社には彼の履いていたという鉄の草鞋が奉納されています。
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乙女の像に至る道程、「開運の小径」・・・、なんともロマンチックでご利益がありそうではありませんか?
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鳥谷幡山(とや-ばんざん):明治9年1月18日(1876年)~昭和41(1966)年2月20日。青森県七戸出身。明治-昭和時代の日本画家。名は又蔵、別号に宗山。
明治28年に上京し、日本画家寺崎広業の内弟子となる。同門の野田九浦らと画技を磨き合い、30年には日本絵画協会主催の第3回絵画共進会に「南海観音」を出して二等褒状を獲得。同年東京美術学校日本画科に編入学して橋本雅邦に学ぶが、31年の東京美術学校事件における同校長岡倉天心の辞職に共感し、同校を中退した。
その後、一時絵画から遠ざかるが、間もなく復帰し、師の広業が主宰する天籟画塾の塾頭に就任。37年には同門下生による美術研精会の創立に参加し、主任幹事として会を運営するが、文展が開設した40年頃に師との折り合いが悪くなり、中央画壇から去った。
以後は、専ら十和田湖の美を描き、その紹介に努めた。作品は他に「十和田湖大観」などがある。昭和41年(1966)歿、90才。画家としてまた寺崎廣業や平福百穂らの 鑑定士として活躍した。
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「寺崎廣業や平福百穂らの 鑑定士として活躍した。」とありますが、意外にいい加減な鑑定は少ないようです。郷里の画家との関連、郷土の観光地を描いた作品という理由から入手してみた画家の作品です。