日本の「かぐや姫」伝説にも似た話、その原形では?といわれていている神話を画題とした作品です。夜噺骨董談義にはもってこいの画題です。
嫦娥図 西田春耕筆
絹本着色 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2045*横637 画サイズ:縦1327*横493
題材は本ブログで何度か投稿したことのある嫦娥(恒娥または常娥とも書く)です。
嫦娥(じょうが、こうが)は、中国神話に登場する人物で、月の神とされ、后羿(ゲイ)の妻。姮娥とも表記します。
『淮南子』覧冥訓によれば、もとは仙女だったが地上に下りた際に不死でなくなったため、夫の后羿が西王母からもらい受けた不死の薬を盗んで飲み、月に逃げ、蝦蟇になったと伝えられています。月宮(広寒宮)で寂しく暮らすことになったという中秋節の故事です。月の表面に見える蝦蟇のような斑点は嫦娥の姿で、嫦娥は月の女神とも言われ、兎とともに描かれることが多いようです。
賛の読みは解読できていません。
「何□?耒換骨丹 金□九轉□□雖 □□□□三更月
玉露無聲下廣□ □□□写為
龍田雅君清□ 春耕峻 押印」
→追記:入院中の家内からメールにてご指示がありました。
2文字目 :「何□」は「何+雨冠に処で」で「いづくんぞ」
廣に次の字:「寒」
携帯では小さな画面で見えにくいらしい・・・。
押印は「田峻之印」の白文朱方印と「杜子禅」の朱文白方印
右下遊印は「春耕居士」の朱文白方印
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「嫦娥」中国神話の補足説明
帝俊(嚳ないし舜と同じとされる)には羲和という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子(火烏)を儲けた。この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていた。ところが堯の時代になり、10の太陽がいっぺんに現れるようになった。これにより地上は灼熱地獄となり、作物も全て枯れてしまった。
これに対して、堯がこの対策を依頼したのが羿(ゲイ)である。嫦娥の夫の後羿は勇敢で戦に長けている戦いの神であり、狙ったものには必ず的中するほどの弓の腕をもつ。当時、人間世界には多くの猛禽や猛獣が現れ、人々に災いをもたらしていた。これを知った天帝は、これらの害を取り除くよう後羿に命じられたりしていました。
太陽に対する対策を命令された羿は、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが、効果がなかった。そこで仕方なく、1つを残して9つの太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻した。その後も羿は中国各地で数多くの魔物を退治し、人々にその偉業を称えられた。
ところが、子を殺された上帝は羿を疎ましく思うようになり、羿は神籍から外され、不老不死ではなくなってしまった。このときに羿の妻の嫦娥(こうが)も同じく神籍から外され、不老不死を失った。嫦娥から文句を言われた羿は、崑崙山の西に住む西王母の元へ赴き、不老不死の薬をもらった。
この薬は2人で分けて飲めば不老不死になるだけであるが、一人で全部飲んでしまえば昇天し再び神になることができるものであった。羿は神に戻れなくても妻と2人で不老不死であればよいと思っていたのだが、嫦娥は薬を独り占めにしてしまい、羿を置いて逃げてしまった。嫦娥は天に行くことを躊躇して月へ行ったが、羿を裏切った罪のせいかヒキガエルへと変身してしまい、そのまま月で過ごすことになった。
嫦娥・・・やはり美人というものは独善的なようです。
その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、家僕の逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、羿を射殺した。このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」と言うようになった。
なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩に月に団子を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び夫婦として暮らすようになった。」という話が付け加えられることもある。別の話では、后羿が離れ離れになった嫦娥をより近くで見るために月に向かって供え物をしたのが、月見の由来だとも伝えられています。
なるほど、これが月の由来ですか
月にまつわる伝説は中国にもいろいろありますが、日本の「かぐや姫」伝説にも似た話、その原形では?といわれていて、中国人なら誰でも知っている「嫦娥(じょうが)月に奔(はし)る。」という神話です。
日本の「かぐや姫」伝説にも似た話、その原形では?といわれていているとはこれもまた
なお、中華人民共和国初の月周回衛星は「嫦娥第1号」と命名されました。
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作者である西田春耕をご存知の方はかなり少ないと思います。私も本作品を調べるまでは知りませんでした。無銘に近い画家とはいえ、なかなか画力のある作品を描きます。
西田春耕:弘化2年〜明治43年9月10日(1845-1910)。日本画家。名、峻。字、子徳。通称、俊蔵。東京入船出身。号、西圃のち春耕・腐翁。父、幕閣久須美佐渡守祐雋の家臣西田良右衛門高厚(末っ子)。
魚住荊石・高久隆古・山本琴谷に師事。福田半香の塾幹部となる。半香没後、北越(柏崎)に赴き藍沢南城(あいざわなんじょう:1792-1860)に漢学を学び、2年後江戸に帰り独立。南宋画を得意とし、また俳句を好んだ。作品:「五百大阿羅漢図」、「人生快楽十二図」、「耶蘇昇天図」、「電気神女図」。俳句集「句集『空尊集」。66歳。
嫦娥図 西田春耕筆
絹本着色 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2045*横637 画サイズ:縦1327*横493
題材は本ブログで何度か投稿したことのある嫦娥(恒娥または常娥とも書く)です。
嫦娥(じょうが、こうが)は、中国神話に登場する人物で、月の神とされ、后羿(ゲイ)の妻。姮娥とも表記します。
『淮南子』覧冥訓によれば、もとは仙女だったが地上に下りた際に不死でなくなったため、夫の后羿が西王母からもらい受けた不死の薬を盗んで飲み、月に逃げ、蝦蟇になったと伝えられています。月宮(広寒宮)で寂しく暮らすことになったという中秋節の故事です。月の表面に見える蝦蟇のような斑点は嫦娥の姿で、嫦娥は月の女神とも言われ、兎とともに描かれることが多いようです。
賛の読みは解読できていません。
「何□?耒換骨丹 金□九轉□□雖 □□□□三更月
玉露無聲下廣□ □□□写為
龍田雅君清□ 春耕峻 押印」
→追記:入院中の家内からメールにてご指示がありました。
2文字目 :「何□」は「何+雨冠に処で」で「いづくんぞ」
廣に次の字:「寒」
携帯では小さな画面で見えにくいらしい・・・。
押印は「田峻之印」の白文朱方印と「杜子禅」の朱文白方印
右下遊印は「春耕居士」の朱文白方印
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「嫦娥」中国神話の補足説明
帝俊(嚳ないし舜と同じとされる)には羲和という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子(火烏)を儲けた。この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていた。ところが堯の時代になり、10の太陽がいっぺんに現れるようになった。これにより地上は灼熱地獄となり、作物も全て枯れてしまった。
これに対して、堯がこの対策を依頼したのが羿(ゲイ)である。嫦娥の夫の後羿は勇敢で戦に長けている戦いの神であり、狙ったものには必ず的中するほどの弓の腕をもつ。当時、人間世界には多くの猛禽や猛獣が現れ、人々に災いをもたらしていた。これを知った天帝は、これらの害を取り除くよう後羿に命じられたりしていました。
太陽に対する対策を命令された羿は、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが、効果がなかった。そこで仕方なく、1つを残して9つの太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻した。その後も羿は中国各地で数多くの魔物を退治し、人々にその偉業を称えられた。
ところが、子を殺された上帝は羿を疎ましく思うようになり、羿は神籍から外され、不老不死ではなくなってしまった。このときに羿の妻の嫦娥(こうが)も同じく神籍から外され、不老不死を失った。嫦娥から文句を言われた羿は、崑崙山の西に住む西王母の元へ赴き、不老不死の薬をもらった。
この薬は2人で分けて飲めば不老不死になるだけであるが、一人で全部飲んでしまえば昇天し再び神になることができるものであった。羿は神に戻れなくても妻と2人で不老不死であればよいと思っていたのだが、嫦娥は薬を独り占めにしてしまい、羿を置いて逃げてしまった。嫦娥は天に行くことを躊躇して月へ行ったが、羿を裏切った罪のせいかヒキガエルへと変身してしまい、そのまま月で過ごすことになった。
嫦娥・・・やはり美人というものは独善的なようです。
その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、家僕の逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、羿を射殺した。このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」と言うようになった。
なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩に月に団子を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び夫婦として暮らすようになった。」という話が付け加えられることもある。別の話では、后羿が離れ離れになった嫦娥をより近くで見るために月に向かって供え物をしたのが、月見の由来だとも伝えられています。
なるほど、これが月の由来ですか
月にまつわる伝説は中国にもいろいろありますが、日本の「かぐや姫」伝説にも似た話、その原形では?といわれていて、中国人なら誰でも知っている「嫦娥(じょうが)月に奔(はし)る。」という神話です。
日本の「かぐや姫」伝説にも似た話、その原形では?といわれていているとはこれもまた
なお、中華人民共和国初の月周回衛星は「嫦娥第1号」と命名されました。
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作者である西田春耕をご存知の方はかなり少ないと思います。私も本作品を調べるまでは知りませんでした。無銘に近い画家とはいえ、なかなか画力のある作品を描きます。
西田春耕:弘化2年〜明治43年9月10日(1845-1910)。日本画家。名、峻。字、子徳。通称、俊蔵。東京入船出身。号、西圃のち春耕・腐翁。父、幕閣久須美佐渡守祐雋の家臣西田良右衛門高厚(末っ子)。
魚住荊石・高久隆古・山本琴谷に師事。福田半香の塾幹部となる。半香没後、北越(柏崎)に赴き藍沢南城(あいざわなんじょう:1792-1860)に漢学を学び、2年後江戸に帰り独立。南宋画を得意とし、また俳句を好んだ。作品:「五百大阿羅漢図」、「人生快楽十二図」、「耶蘇昇天図」、「電気神女図」。俳句集「句集『空尊集」。66歳。