本作品のポイントはその大幅であることや、作品のみずみずしさといういいところもありますが、箱書きです。
箱書きには小田海僊と頼家との関わりが伺いしれます。なんといっても小田海僊は箱書をされている頼三樹三郎の父である頼山陽に感化され南画に転じているという関わりがあります。
小田海僊の作品の四作品目となります。
水墨山水観瀑図 小田海僊筆
紙本水墨 軸先木製 頼鴨崖(頼三樹三郎)鑑定箱
全体サイズ:縦2200*横1013 画サイズ:縦1690*横858
賛には「天保癸巳(1833年 天保3年)春日写於圓山寓居 海僊 押印(「王羸」と「巨海」の白文朱方印の累印)」とあり、小田海僊が48歳の作と推察されます。
題名は「小田海僊筆水墨山水観瀑図」とあり、箱の裏には「□仙□伯元学点春?而□□□地而画筆勢偉大□□□妙□為一家□□□□□海内對□珍品也 鴨?□人題 押印」、また別人書と思われる「大正癸丑(1913年 大正2年)冬日□□□□□□□□」とあります。
前者が頼三樹三郎の箱書とすると小田海僊が存命中の箱書きとなります。なぜなら頼三樹三郎のほうが小田海僊より先に亡くなっているからです。
小田海僊は1833年頃には京都に在住し頼 三樹三郎は1849年には京都に戻っているので1850年頃の箱書きかもしれません。
箱書にあるように小田海僊は頼山陽に感化され南画に転向し、九州に遊学し中国元明時代の古書画の模写をするなどして研究を重ねています。
富岡鉄斎に画を教えいたことを示すように、水墨のみずみずしさは両者に共通した秀逸の技です。
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小田海僊:天明5年(1785年)〜文久2年閏8月24日(1862年10月17日))は、江戸時代後期の日本の南画家。 通称良平、名は羸(るい)または瀛(えい)。 字を巨海、号は海僊の他に百谷または百穀。
周防国富海(現 山口県防府市富海)に生まれ、長門国赤間関(現 山口県下関市)の紺屋(染工)を営む小田家の養子となる。 22歳のとき、京都四条派の松村呉春に入門し、写生的な画風を修得し同門の松村景文や岡本豊彦らと名声を競った。のち頼山陽の助言で,中国元明の古蹟や粉本を学び南宗画法に転じた。その勉励の貌は小石元瑞から画痩といわれるほどであったという。
頼山陽と共に九州に遊ぶこと5年,帰京ののち画名を高め,中林竹洞、浦上春琴らと並び称せられた。文政7年(1824年)、萩藩の御用絵師となり、一時江戸に滞在。1826年、京都に戻り活動。嘉永元年(1848年)から安政元年(1854年)にかけて画室を設けているが、このころ富岡鉄斎に絵を教えたと推定されている。
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頼 三樹三郎(らい みきさぶろう):1825年7月11日(文政8年5月26日)- 1859年11月1日(安政6年10月7日))は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。名は醇。通称は三木八。号は鴨崖。頼山陽の三男。1825年、儒学者の頼山陽の三男として京都三本木に誕生。母は近江商人・疋田藤右衛門の四女・梨影(りえ)。
父・山陽をはじめ、1840年からは大坂の儒学者・後藤松陰や篠崎小竹らに学んだ。1843年からは江戸で儒学を学んだが、徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の石灯籠を破壊する事件を起こして退学処分とされた。この時には尊皇運動に感化されており、江戸幕府の朝廷に対する軽視政策に異議を唱えて行なった行動といわれている。その後、東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と親友となった。
1849年には京都に戻り、再び勤王の志士として活動する。しばらくは母の注意もあって自重していたが、やがて母が死去すると家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだ。1853年にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航して一気に政情不安や尊皇攘夷運動が高まりの兆しを見せ始め、1858年には将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と徳川慶喜(一橋慶喜)擁立を求めて朝廷に働きかけたため、大老の井伊直弼から梅田雲浜・梁川星巌・池内大学と並ぶ危険人物の一人と見なされた。
同年、幕府による安政の大獄で捕らえられて、江戸の福山藩邸において幽閉される。父・山陽の愛弟子である福山藩主の侍講・石川和助は、三樹三郎を厚遇すると同時に必死で助命嘆願を行ったが、幕府の厳しい姿勢は変わらず、間もなく江戸小塚原刑場で斬首された。
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箱書きには小田海僊と頼家との関わりが伺いしれます。なんといっても小田海僊は箱書をされている頼三樹三郎の父である頼山陽に感化され南画に転じているという関わりがあります。
小田海僊の作品の四作品目となります。
水墨山水観瀑図 小田海僊筆
紙本水墨 軸先木製 頼鴨崖(頼三樹三郎)鑑定箱
全体サイズ:縦2200*横1013 画サイズ:縦1690*横858
賛には「天保癸巳(1833年 天保3年)春日写於圓山寓居 海僊 押印(「王羸」と「巨海」の白文朱方印の累印)」とあり、小田海僊が48歳の作と推察されます。
題名は「小田海僊筆水墨山水観瀑図」とあり、箱の裏には「□仙□伯元学点春?而□□□地而画筆勢偉大□□□妙□為一家□□□□□海内對□珍品也 鴨?□人題 押印」、また別人書と思われる「大正癸丑(1913年 大正2年)冬日□□□□□□□□」とあります。
前者が頼三樹三郎の箱書とすると小田海僊が存命中の箱書きとなります。なぜなら頼三樹三郎のほうが小田海僊より先に亡くなっているからです。
小田海僊は1833年頃には京都に在住し頼 三樹三郎は1849年には京都に戻っているので1850年頃の箱書きかもしれません。
箱書にあるように小田海僊は頼山陽に感化され南画に転向し、九州に遊学し中国元明時代の古書画の模写をするなどして研究を重ねています。
富岡鉄斎に画を教えいたことを示すように、水墨のみずみずしさは両者に共通した秀逸の技です。
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小田海僊:天明5年(1785年)〜文久2年閏8月24日(1862年10月17日))は、江戸時代後期の日本の南画家。 通称良平、名は羸(るい)または瀛(えい)。 字を巨海、号は海僊の他に百谷または百穀。
周防国富海(現 山口県防府市富海)に生まれ、長門国赤間関(現 山口県下関市)の紺屋(染工)を営む小田家の養子となる。 22歳のとき、京都四条派の松村呉春に入門し、写生的な画風を修得し同門の松村景文や岡本豊彦らと名声を競った。のち頼山陽の助言で,中国元明の古蹟や粉本を学び南宗画法に転じた。その勉励の貌は小石元瑞から画痩といわれるほどであったという。
頼山陽と共に九州に遊ぶこと5年,帰京ののち画名を高め,中林竹洞、浦上春琴らと並び称せられた。文政7年(1824年)、萩藩の御用絵師となり、一時江戸に滞在。1826年、京都に戻り活動。嘉永元年(1848年)から安政元年(1854年)にかけて画室を設けているが、このころ富岡鉄斎に絵を教えたと推定されている。
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頼 三樹三郎(らい みきさぶろう):1825年7月11日(文政8年5月26日)- 1859年11月1日(安政6年10月7日))は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。名は醇。通称は三木八。号は鴨崖。頼山陽の三男。1825年、儒学者の頼山陽の三男として京都三本木に誕生。母は近江商人・疋田藤右衛門の四女・梨影(りえ)。
父・山陽をはじめ、1840年からは大坂の儒学者・後藤松陰や篠崎小竹らに学んだ。1843年からは江戸で儒学を学んだが、徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の石灯籠を破壊する事件を起こして退学処分とされた。この時には尊皇運動に感化されており、江戸幕府の朝廷に対する軽視政策に異議を唱えて行なった行動といわれている。その後、東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と親友となった。
1849年には京都に戻り、再び勤王の志士として活動する。しばらくは母の注意もあって自重していたが、やがて母が死去すると家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだ。1853年にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航して一気に政情不安や尊皇攘夷運動が高まりの兆しを見せ始め、1858年には将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と徳川慶喜(一橋慶喜)擁立を求めて朝廷に働きかけたため、大老の井伊直弼から梅田雲浜・梁川星巌・池内大学と並ぶ危険人物の一人と見なされた。
同年、幕府による安政の大獄で捕らえられて、江戸の福山藩邸において幽閉される。父・山陽の愛弟子である福山藩主の侍講・石川和助は、三樹三郎を厚遇すると同時に必死で助命嘆願を行ったが、幕府の厳しい姿勢は変わらず、間もなく江戸小塚原刑場で斬首された。
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