Quantcast
Channel: 夜噺骨董談義
Viewing all 2940 articles
Browse latest View live

福寿草 福田平八郎筆

$
0
0
最近は推理ドラマ以外はテレビを観る気にならなくっています。スポーツ観戦が好きだったのですが、ACLにも勝てない品のないサッカー、髯面のみっともない顔の多いプロ野球、視聴率稼ぎでマスコミの宣伝が優先するテニスにゴルフ。まことに応援するにも興ざめするものばかり。観戦する時間などは人生の時間の無駄遣いであろうと思えることが多いと感じるのは小生だけでしょうか?

さてなにか目新しい一輪挿しの花入れがないものかと未整理の箱を物色していた下記の作品がありました。

交趾耳付花入 16代永楽善五郎作
共箱入
高さ250*胴体径80*口径28*高台径55



************************************

善五郎:京焼の家元の一つ。千家十職の一つ「土風炉・焼物師」であり、代々土風炉、茶碗などを製作してきた。現在は17代目。

初代から9代は、西村姓を名乗り、主に土風炉を製作。10代以降は永樂姓を名乗り、土風炉に加えて茶陶を制作している。正式な改姓は得全が襲名した1871年である。 善五郎の土風炉には素焼きの器に黒漆を重ね塗りしたもの、土器の表面を磨いたものなどがある。室町時代、初代宗禅は奈良の「西京西村」に住んで春日大社の供御器を作っており、西村姓を名乗っていた。晩年に堺の武野紹鴎の依頼で土風炉を作るようになり、土風炉師・善五郎を名乗るようになる。

二代宗善は堺に住み、三代宗全以降は京都に定着した。小堀遠州の用命を受けた際に「宗全」の銅印をもらったことから、以後九代まで作品に宗全印を捺用した。

1788年に天明の大火で家屋敷や印章を失うが、三千家の援助もあり十代・了全が再興した。千家に出入りするようになったのはこの了全以降だと考えられている。

千家十職の中には同じく茶碗を作る樂吉左衛門がいるが、善五郎は主に伝世品の写しなどを作っており楽焼のみの樂家とは住み分けがなされている。


十一代保全は1827年に、紀州藩十代藩主徳川治寶の別邸西浜御殿の御庭焼開窯に招かれ、作品を賞して「河濱支流」の金印「永樂」の銀印を拝領した。以降、「永樂」の印章を用いると共に12代・和全の代から永樂姓を名乗り、さかのぼって了全と保全も永樂の名で呼ばれている。



16代永樂善五郎(即全):1917(大正6)年~1998(平成10)年。16代永樂善五郎は15代永樂善五郎(正全)の長男として京都に生まれました。名を茂一、通称を善五郎、号を即全といいます。

 

************************************



父の蒐集作品で、父は裏千家茶道を教えていた母のために二代徳田八十吉の香炉などを買ってきてくれたそうです。



一輪挿を茶室の床に置いて、季節は過ぎたのですが下記の作品の掛け軸を掛けてみました。

福寿草 福田平八郎筆
紙本水墨 軸先 共箱
全体サイズ:縦1220*横385 画サイズ:縦375*横356



さらりと描いた福寿草・・・。



筆致といい、実に品良く描けており、当方では真作と判断しています。



落款から若い頃の作品と推察されます。



表具も色彩、文様を抑えた品格のある表具です。



落款・印章・箱書は下記のとおりです。

  

福田平八郎の作品は父が好きであったこともあり、骨董の収拾を始めた頃についつい懐具合も考えず購入したことがあります。



「竹」の作品は現在は書斎の机の上に飾ったいます。むろん収入の少ない頃ですから、筋の通った作品名は手が出ませんので、真贋合い交えたような作品ばかりです。この作品は工芸品ではなさそうですが、工芸品にも後絵付けがありますので油断はできません。



次は亡くなった家内と相談して購入した「苺」の作品です。



なんとなく好きな作品です。



こちらは胡散臭い作品・・。



なにはともあれ大家の作品に手を出すときにはそれ相応の錯誤、もとい覚悟が要ります。飽きのきた作品は処分・・。

スポーツ観戦と同じ・・、強い、面白いと錯誤しているようです。

忘れ去られた画家 青緑蜀桟図 村田香谷筆

$
0
0
本ブログを定常的にご覧戴いている方はだいたい300名前後のようです。

読者の方には稚拙な文、ガラクタをご覧いただき感謝しております。そろそろ紹介する作品が無くなると思いながら、ガラクタの山からついついこの作品もと整理を進めるうちに、またブログに載せたくなってくるという思いからまだ続いています。

もう7年になりますが、おかげさまで訪問者数が70万、閲覧が420万を超えました。ここまできたら10年はと思いますが、こればかりは何があるか解りませんし、紹介する作品にも限りがありますので、いつまで続くかは当方でも正直わかりません。ともかく引き続きご愛読をよろしくお願いいたします。独善的な内容のブログとはいえ、訪問数、閲覧数がブログを投稿する意欲になっていのは事実ですから・・。

さて、本日も独善的な評価をしている作品の紹介です。

青緑蜀桟図 村田香谷筆
絹本水墨絹装軸 軸先本象牙 共箱
全体サイズ:横700*縦2050 画サイズ:横561*縦1543



村田香谷の作品は蒐集を始めた頃に作品を所有していましたが、一時期資金調達が必要となり、100作品ほど売却した際に処分しております。



箱には「田香谷青緑蜀桟図 絹本条幅」と題され、「明治辛卯春日再観□題鑑 □□□□押印」とあり、1891年(明治24年)に再鑑定題されていることが解ります。


賛には「憶昔蠺叢開蜀国 崔嵬剣閣入寒雲 林間多少騎驢家 一路猿聲不思聞 丙戌夏日樵耕煙山人筆意香谷田叔 押印」とあり、1886年(明治19年)に描かれた作品と推察されます。



つまり明治19年に描かれた作品に明治24年に画家本人が箱書をしています。これはよくあることですので問題はありません。むろん箱書・作品共々、真作に相違ありません。

****************************

村田香谷:生年天保2年(1831年)、没年大正1(1912)年10月8日。出生地は筑前国博多(福岡県)。本名は村田叔、別名・別号は蘭雪,適圃,鉄翁,海屋。父である南画家村田東圃に画の手ほどきを受け、弘化3年京都に上り貫名海屋に南画を学ぶ。また梁川星巌に詩を学んだ。



安政元年長崎に遊学、日高鉄翁に入門し、木下逸雲、徐雨亭らにも教えを受ける。その後、生涯3回にわたって中国に渡り、張子祥、胡公寿に学んだ。



明治15年第1回内国絵画共進会で「集古名書画式」が絵事著述褒状、17年同第2回で「山水」「花卉」が褒状、23年内国勧業博で「蕉石美人図」が妙技3等賞を受賞。

  

明治30年(1897)に猪瀬東寧・川村雨谷・中島杉陰・菅原白龍・石井鼎湖・山岡米華ら20余名が日本南画会を結成し、香谷も参加した。同年大阪に移り、大阪南宗画会主催の全国南画共進会で2等賞、36年内国勧業博では「米法浅絳山水」が褒状となる。山水にも長じ、関西南画界の重鎮として活躍した。

****************************

本作品の描写は山水として観ると稚拙ですが、人の描き方、とく表情などが愉しめる作品です。村田香谷の作品はこの作品に出会うまで過小評価していたようです。今までは積極的に蒐集しようと意欲を誘う画家ではありませんでした。



下から順番に写真を並べていくとその遠近の描写とともに楽しめます。



難所を皆で緊張感を味わいながらも旅を愉しんでいるようです。



村田香谷は現在では知る人も少ない画家でしょうし、明治末以降の画家では富岡鉄斎以外の画家は「つくね芋山水」としてマンネリ化した南画は近代日本画壇から排除された風潮があります。



「つくね芋山水」と称して全南画家や作品を評価するのはいかがなものかと思います。たしかに村田香谷の作品の多くはその部類の作品が多くあるのは事実です。



それでも「つくね芋山水」と称しされている多くの画家、作品の中には観るべきもの数多くあり、正当な評価をしていくべきでしょうね。村田香谷は綿密描いた青緑山水画に優品が多いようです。



幕末から明治期以降の「つくね芋山水」と揶揄された南画作品は、現代になって解る人には解る作品がそれなりに評価されてきているようにも思いますが、金額的な評価はまだまだ低いものです。

思文閣出版の墨蹟資料目録「和の美」に掲載の作品を見ていると、思文閣ではこのような作品をきちんと正当に評価していることが解ります。ときおり出来のよい南画の作品が、「高いな。」と思う評価を受けています。これは良くみるとその画家の作品の中でもかなり出来のよい作品のようです。



骨董品については「見れるべき人に見られるべき作品が納められていく。」というのが蒐集のあるべき姿なのでしょう。基本的に骨董品は美術館に収められるべきものではないと小生は思っています。

****************************

蜀桟:桟道とは一般に,山中の険しい崖などに木を組んでかけわたして作った道で,〈かけはし〉ともいう。



中国では,関中から蜀への道が大巴山脈を越える所にあるのを蜀桟と呼び,北にある秦桟に対する。



蜀桟は陝西省沔(勉)県(べんけん)より,四川省剣閣に至る道で,長安と成都を結ぶ交通上の難所にあたり,金牛道,石牛道とも呼ばれる。剣閣は大剣山(剣門山)に,諸葛亮(しよかつりよう)が石を鑿(うが)ち空に架して飛閣を作ったものである。



****************************


与謝蕪村の幻の大作「蜀桟道図」(下写真左)といわれている作品が2014年に92年ぶりに確認されいています。またそれを模写した横井金谷の作品(下写真右)が著名です。

 

与謝蕪村の幻の大作「蜀桟道図」はシンガポールにあったようです。

本作品の画題となっている「蜀桟道図」は多くの画家によって描かれている画題のようです。 

百合花 竹内栖鳳筆 その8

$
0
0
休日の朝は義父は畑へ、義母は庭で草取り、家内は食事の準備、小生と息子は・・・??? 食事が終わると洗顔して着映え、本日は「よこしまなる一家」と記念撮影。



食材が足りなくなったので「よこしまなる」一家は畑へ・・。



たまねぎに芋・・。



ネコ(一輪車のこと)を一杯にして「豊作じゃ」と家路につきます。



その後は家から網をもって、畑にいた蝶を息子と一緒に追い回して足が真っ黒に・・。そのまま家に上がり、家中足跡だらけで大騒ぎになりました

さて本日は竹内栖鳳は席画のような作品。竹内栖鳳は席画のような作品を注力して描いたようです。弟子にも、色紙のようなものに描く作品をきちんと描けないと画家として飯が食えないと厳しく指導していたようです。

筆致の少ない中に、己の画力を込めた栖鳳の作品は実に魅力的です。おそらくスケッチ帖に描いた作品でしょう。

百合花 竹内栖鳳筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 王谷山人鑑定箱
全体サイズ縦1195*横439 画サイズ縦219*横319



鑑定箱に記された王谷山人については詳細は不明です。「巳未六月鑑題」とあり、昭和54年(1979年)、もしくは大正8年(1919年)の鑑定箱書と推察されます。

  

家内がこの絵を見て最初の一言・・「なんの百合?」 当方はただの百合として鑑賞しますが、家内は花の中の橙、花弁に模様が無いということを真っ先に気にしたようです。

花弁が橙色、花に模様のない・・・・、テッポウユリ?と推察されます。百合の種類をきちんと書き分けただろうというのが家内の意見・・・。

栖鳳の絵の魅力は、水墨淡彩の濃淡の妙と線描の自在さにあり、さらに大胆な余白や繊細なマチエール、没骨法など、さまざまな技を内に秘めて、結局はどれもが栖鳳の絵になっていることでしょう。



栖鳳の絵は、精神性の高さというよりも、「自然万物の中に美を見出してこの世を楽しんでいる」ような軽やかな感興があります。



さらりと描いた本作品、共箱でもなく真作と判断するには材料に乏しいと思われる方もおられるでしょうが、そこは目利きの力量以外の何者でもないと思います。

 

参考までに印章を文献資料と比較してみました。竹内栖鳳の印章はものすごい数がありますが、贋作は意外に印影が基本的な部分で一致しないものが多いようです。

趣味で蒐集する者には印影の確認はあくまでも二次的なものを割り切るのがいいと思います。まずは印影からと考えると作品の出来不出来の判断力が磨かれないように思います。

調べてみると栖鳳は姫百合などいくつかの種類の百合の花を描いており、たしかにきちんと種類によって書き分けています。

当方では本作品を真作と判断しましたが、異論のある方はどうぞ・・。「よこしまなる」一家にはよこしまなる作品が集まるかも? もとい「よこなが」なる作品

滝猿之図 御船網手筆 その3

$
0
0
「よこしまなる親子」になにやら物騒な宅急便が届きました。家内は「刀?」



送り主は輪島工房・・、修理を依頼していた刀剣の鞘が出来上がったようです。

玄関先で荷を解き、早速出来上がりを確認します。その様子を三歳の息子がデジカメで撮影してくました。



「ね~、ほうちょうを見せてよ!」・・・、息子は刀剣類をいつも「ほうちょう」と称しています。拵えの部分になりますので、刃の部分は竹光です。ご安心を・・・。

鞘の修理の出来の詳細は後日・・。


本日の作品は植物が得意とされる御船網手の作品で猿を描いた作品です。当方には御船網手の作品では以前に投稿した「猛虎図」の作品が二点あり、動物を題材として作品に当方は縁があるようです。

本日紹介する作品は「猿」という動物を題材とした作品ですが、周囲に描かれた植物には植物を得意とした御船網手の片鱗が窺えます。

滝猿之図 御船網手筆
絹本水墨着色 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦2005*横555 画サイズ:縦1072*横411



他の所蔵作品である「猛虎図 その1(1917年 大正6年 41歳作)」と同一印章が押印されており、同一時期の作と推察されます。



「猛虎図 その1」、「猛虎図 その2」も佳作ですが、本作品もまた出来の良い作品と言えますと思います。



良くみかける森祖仙などの大家の贋作よりもこのような作品の方が心落ち着きますね、



本作品の購入理由、「義父の干支は猿、家族は五人」・・・・



骨董にはきちんとした購入理由が要りますが、純粋な動機が一番よいようです。このような動機を純粋な動機と呼ぶかどうかは知りませんが・・・。



滝を描くことで涼しげな逸品となっています。

御船綱手の作品はインターネット上にも紹介されています。その中に加島美術からの出品で下記の作品の紹介がありました。

加島美術の今月(2017年5月)の逸品より
桜藤双猿図 御船綱手筆
絹本 着色 151×84cm / 207×101cm 



評:「桜に藤につつじの花。そして桜の木の枝でひと休みする猿の親子。千種余りもの植物を画室の周囲に植え、植物画の研究をした綱手の精緻な写生がよく表れる本作。遠近法を巧みに活かし、春を代表する花が咲き乱れた幻想的な世界が、より一層強調される。あたたかな春を楽しむ動植物の、なんとも不思議な生命力あふれる一幅。」

本作品もまた「滝の前で涼む五匹の猿」、いかにも涼しげで良いではないですか。骨董の作品には購入する明白な理由が要るのです。

経験から「作品が呼んでいる。」とか「なんとなくいい。」という理由は良くないようです。

「よこしまなる」親子は朝から「なが~い」ものばかり・・・・

三味線 中村貞以筆 その2

$
0
0
昨日は会合で高木豊氏の講演を聞くことができました。野球談義がメインで面白く拝聴できました。やはり巨人の連敗が話題になりましたが、後継者を育てていないツケの恐ろしさを再度認識した次第です。規律のある厳しい監督の元に強い組織が育つということでした。

高木氏が組織を強くすることに大切なのは「人を褒める人間」、「人に意見の言える人間」、「コツコツと努力する人間」を大切にし登用せよということでした。とかく人を悪く言い、人に媚び、天才肌を好む傾向にありますが、それでは組織が強くならないということです。

もうひとつ、組織を強くする本当のプロとは人の気持ちが解る人だとも・・・、批判の多い組織は強くならないということも・・。聴いていてなんともすっきりと飲み込める内容の噺でした。

さて家内がなにやら「カメラはどこ?」と大声で叫んでいます。どうやら永楽の作品である一輪挿しに依頼していた花を生けたらしい。小生が「床に新たな一輪挿しを置いたよ。」とプレッシャーをかけていましたから・・・。



花を生けたら「福寿草」の作品は合わないかと・・・。



ということで本日の作品の紹介となりました。

三味線 中村貞以筆 その2
絹本水墨淡彩軸装 金襴三段表装 一文字は本竹屋町金襴 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦380*横420



中村貞以は幼い頃に両手に火傷を負い、指の自由を失ったため、絵筆を両手に挟む「合掌執筆」により絵を描いています。

そういう画家であったということを思い浮かべて管掌、もとい鑑賞すると作品への思いが違いますね。



拡大写真にするとシミが醜いように写りますが、意外に目立たないものです。しかし掛け軸にシミは大敵です。とくに美人画の顔にシミができると大幅に評価が下がるものですし、鑑賞時にも気になるものです。注意しましょう!




掛け軸の保存には湿度管理が重要で、押入れや天袋などに掛け軸を保存するには命取りになることがありますね。

*************************

中村貞以:明治33年生まれ、昭和57年没(1900年~1982年)。享年81歳。大阪生まれ。はじめ長谷川貞信に、のち北野恒富に師事する。幼児に両手に火傷を負い、指の自由を失ったため、絵筆を両手に挟む「合掌執筆」により、情緒豊で優美な美人画から、戦後は現代的風俗を内面性豊に捉えた人物画を描いた。院展理事。芸術院賞受賞。

  

*************************

漆器は剥げる、硝子や陶磁器は割れる、掛け軸はかびる・・・、これは骨董の宿命です。花はいつか枯れると同じ・・・。



その特性に備えた保存方法を施す必要があります。

本作品は表具、箱の誂えなどは立派なものです。今誂えたらそれだけでもかなりの出費になります。それが掛け軸というもの・・。それが日本の伝統文化です。

そして組織力もまた日本の伝統ですね。

源内焼 その94・95・96 三彩玄武六角香合・蓮弁香合 ・葵楼閣文茶托五客揃

$
0
0
毎朝6時頃の小生の出勤時には見送りしてくれる息子が「今日はいかない!」と言い出しました。どうも前の日に家内もお茶の稽古に出かけ寂しかったようです。親が出かけるのを「寂しい。」と拗ねているようです。「はい、パパさんも寂しいよ。」というと、しぶしぶ見送りに出てきました。ひとつひとつ乗り越えるものが明白になってきている息子です。

さて本日紹介するのは、源内焼の作品においては皿や鉢に比べると数が少ないと言われている香炉、香合、茶托などの小物の作品です。

最近、この手の作品がたやすく入手できるようになっています。もともとは源内焼は幕閣などへの献上品や進物がメインでしたが、評判が高まるにつれて、作品の領域が小物類に広まったように思われます。近年まで献上品などであったがために、源内焼という認知度が低かったのですが、最近になって小物類も源内焼と認識されつつあるのでしょう。

源内焼 その94 三彩玄武六角香合
合箱入 
幅75*奥行57*高さ50



玄武は北の守り神です。

近年まで源内焼という作品群への認知度が低かったために、源内焼は未だに美術館の所蔵作品は少なく、その多くは個人蔵です。美術館では源内焼の代表作である地図皿や軍配皿のようなものを陳列していますが、このような小物類を陳列しておかないと、源内焼の全貌は見えてこないと思います。



根津美術館で開催されてから最近まで源内焼の大きな展覧会は催されていませんが、その大きな理由は作品の多くが個人蔵が多いということでしょう。

さて本作品はまるで最近作ったかのような・・。



源内焼にはときおりやたらと保存状態のいいものがあり、その作品らは新品同様の状態です。一方では軟陶なために非常の保存状態の悪いものと両極端です。



源内焼はその主流の作品と源内焼から派生した亜流の作品群、再興された作品群がありますが、それらの作品群はあまりにも下卑た出来悪い作品が多いゆえ、その線引きはきちんとしておく必要があると思います。



源内焼に玄武の香合はいくつかあるようです。本ブログで紹介した作品には下記の作品があります。源内焼には代表的な陶工が4名、幾つかの窯があったようなので、時代や窯によって作品の種類、作行きに特徴があるようです。



源内焼 その95 三彩蓮弁香合
合箱入 
径77*高さ60 



実際に香を焚いて使われていたようです。



型で作ったのでしょうか? 手作り感があります。



持ち手のつまみの菊文様がいいですね。



蓋の裏が真っ黒になっています。さてこの汚れは落ちるのかな?



蓮弁の文様の作品は本ブログで以前に紹介した下記の作品があります。これも同じ窯の作品でしょうと推察されます。



最後は前回紹介したと同様の茶托の作品の紹介です。

源内焼 その96 三彩葵・楼閣文茶托五客揃
合箱入 
幅100*奥行85*高さ25



小さな作品ですが品よく仕上げられています。



下記の写真の前回紹介した茶托とは見込みの紋様が違います。前回は見込みが菊文様でしたが、今回の作品は葵の文様です。口縁の楼閣文様には違いがありますね。



葵の文様の茶托も以前に紹介しました。菊と同様に葵の文様もまた献上品であったことが関連していたのかもしれません。



これらの茶托も同じ窯でしょうね。見込みや口縁の文様を変えることで多様なデザインが生まれています。



献上品や進物として作られたと一般的にはされる源内焼ですが、人気が広まるにつれて実用的な作品が作られるようになってのは間違いないようです。

品位を下げることなく実用的な作品が量産されていた工夫があるようですが、幕末の混乱期とともに源内焼は姿を消しました。

鈴木春信の工房という浮世絵の版木の技術を取り入れた稀代の陶磁器は一部の幕僚や富裕層の所持されたまま姿を消したのです。

日本の陶磁器は茶道に関わらないとあまり評価が上がらない傾向にあり、茶道に関わる方々も源内焼を知らない人が多いようです。もっと認知度が上がり、古九谷、古伊万里、古清水のようにメジャーになって欲しい源内焼です。

雲仙霧氷 伝岡本神草筆

$
0
0
二週間に一度は展示室で手元に置く刀剣を替えて、研いだ刀剣のメンテナンスを行なっています。とくに鞘を新調した刀剣は良くメンテしたほうがいいようです。



基本的なことですが、拵えのまま刀剣を保存するのはよくありません。刀剣の本体は白鞘に、拵えは竹で刃を模造して(いわゆる竹光)別々に保管します。そうしないと刀が錆びたり、鞘が痛んできて拵え自体が保存に耐えられなくなります。

本日は古刀に属する刀剣で、拵えはありません。当方は刀剣には詳しくありませんので、こちらも柴田刀剣にてきちんと見ていただいています。

刀剣 その一 南都住金房左衛門尉政定作
長さ:二尺二寸九分0厘 白鞘
反り六分五厘 目釘穴2個



きれいな波紋を楽しみたいなら新刀のほうがいいでしょう。室町期や鎌倉期の刀剣は実際に使われていたものが多く、傷があるものが多いようです。 



ただそれゆえに凄みが伝わってきます。波紋も刃を動かしながら鑑賞すると良く解ります。刀剣柴田の方から「日頃から手入れをしながら見ているとだんだん解ってきますよ。」と言われたのが理解できていたような・・。

************************

大和国金房派、左衛門尉政定の作。金房派はどういう流れの刀工かあまりはっきりとは分って居ない。「金房」は一般的に「かなぼう」と読みますが、地元では「かなんぼう」と読む。日本刀名鑑この派には、正次、正真、正実、政長、政定、政貞、政次などが居り、「正」と「政」の字を通り字としている。金房派の作品は刀、槍、薙刀などを多く見ますが短刀は多くない。主に僧兵の需要に応じて作刀していたようで、槍や薙刀など実用刀を多く製作していた。作風は広直刃や腰開きの互の目などで、平高田や末備前に似た物が多くある。祐定や清光風の物が多いため江戸期には奈良備前とも呼ばれていた。

************************

本日紹介する作品は、特異な美人画を描いて早世した画家「岡本神草」の作と思われる作品です。美人画ではなく風景画の作品であり、真偽のほどは解りませんので「伝」としておきましょう。

雲仙霧氷 「伝」岡本神草筆
紙本着色軸装 軸先骨 共箱
全体サイズ:縦2070*横556 画サイズ:縦1197*横416



雪の景色をこのような色彩で描けるのは岡本神草の感性だろうと推察されますが・・。



*********************************

岡本神草(おかもと しんそう):1894年11月10日 ~1933年2月13日)。神戸市出身の日本画家。本名は敏郎。日本画家。京美工・京都絵専卒。第一回国展出品作「口紅」で画名を高めた。「九名会展」に福田平八郎・堂本印象・宇田荻邨らと参画する。



日本画を学ぶため、京都市立絵画専門学校に入学。青春時代は、一心不乱に日本画を書く毎日だったが、若くして没したため、充分な活躍はできなかった。

遺されている作品はいずれも濃艶な雰囲気の女性像で、成熟した女性の美しさや舞妓の持つ人工的美しさをモティーフに独自の作風をみせている。作品や資料が極めて少ないため幻の画家と呼ばれる。美術館で個展が開催されたこともなく、知名度は低い。

 

神草は昭和6年、画塾で知り合った画学生緑と結婚しますが、わずか2年後、神草は脳溢血で逝去。病弱だった緑もその半年後、後を追うように亡くなります。神草39歳、緑26歳でした。

  

*********************************

本作品を最初に見たときには作者は解りませんでした。ともかく雪の景色の描き方の面白さに惹かれたことが購入の動機です。



そもそも岡本神章は美人画しか印象にありませんし・・・。



ただ変わった画風の本作品は観れば観るほど惹かれるものがあります。



南画や近代絵画にもない、言うならば「大正の色彩」・・・。



当時の画壇では理解されない色彩感覚と推察されます。



美人画だからまだ当時は理解された岡本神章の色彩であったように思います。



岡本神章に対する評価の記事には下記のようなものがあります。

「まぎれも無い天才日本画家と再評価されている岡本神草ですが、若くして他界したために作品数がそれほど多くなく、人々に広く知られる事も無かったようです。ただ大正デカダンスの時勢に楔を打ち込んだ画家であることに異論はないでしょう。

人間の深層心理を芸妓の顔という表現で表し、ルネサンスの古典表現といったものに傾倒していた彼には、宗教画に置ける登場人物の身のこなし、まなざし、ポーズなどを巧みに取り込み、日本画の表現方法として結果的には、ショッキングで新しいジャンルへと昇華させています。」

*********************************

履歴

1915年(大正4年) - 京都市立美術工芸学校絵画科卒業。
1918年(大正7年) - 京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒業。第1回国画創作協会展に「口紅」が入選。甲斐庄楠音の「横櫛」とともに入賞候補に挙げられる。このとき、「横櫛」を推した村上華岳と「口紅」を推した土田麦僊とが互いに譲らず、結局、竹内栖鳳の仲裁で金田和郎の「水蜜桃」が受賞する。



1921年(大正10年) - 第3回帝展に「拳を打てる三人の舞妓」を出品
1922年(大正11年) - 九名会(福村祥雲堂主催)参加
1928年(昭和3年) - 第9回帝展に「美女遊戯」が入選
1932年(昭和7年) - 第13回帝展に「婦女遊戯」が入選
1933年(昭和8年) - 脳溢血により死去。
*女性を描いた作品以外には「岡本神草「海十題」がある。

*********************************

「拳を打てる三人の舞妓」の作品は展覧会への出品の制作が間に合わず、作品の一部を切り取って出品されてた作品のようです。



切り取られた作品の残ったほうは習作と思われていたようです。



そういえば、なんでも鑑定団にも彼の作品が出品されていました。

参考作品

「追羽根」 なんでも鑑定団2011年07月06日出品作



ほぼ同じ構図の絵が存在してるようです。

このように画家を知っていくといろんなことが解ってくるようで嬉しいものです。詳しい方によると「常識よ!」だそうですが・・・。

世の中、常識が多すぎるのか、常識を知らない人が多すぎるのか解らなくなります。逆説的に少なくても骨董を趣味とする人は常識を知らない人が多いようで・・・。

とにもかくにも本日投稿した作品は、作者を知らずして購入して、真偽の確証のない作品です。骨董は常にチャレンジですね。とかくこの世はチャレンジして常識が身につくことが多いようです。

色紙 横綱栃木山 平福百穂筆 その27(真作整理番号) 

$
0
0
最近の展示室からスナップ写真を投稿します。



幕末頃の古伊万里の大皿を展示してみました。



橋本関雪と平野庫太郎氏の作品はしばらく飾っています。



軸は古画(伝秋月等観筆)に、棚には源内焼。



飾り棚にはしばらく平櫛田中作の観音像。



さて本日は平福百穂が描いた小色紙の作品です。

平福百穂は大正時代に、当時の新聞「国民新聞」にて、大相撲力士の似顔絵を描いて人気を博していましたが、現在20世紀の最強力士とも称されている第27代横綱「栃木山」をその当時に描いた作品です。

色紙 横綱栃木山 平福百穂筆 その27(真作整理番号) 
紙本水墨 色紙 タトウ  
画サイズ:縦270*横240



立会いの一瞬を描いた百穂ならでは簡略な筆遣いで見事に表現されています。小品ながらひと目で平福百穂の作と判断される佳作です。

色紙の裏には次のように記されています。

「大正七年(1918年)一月□□□東京築地□□□於て平福百穂□ト飲ム ツヒ」

大正7年にまだ大関であった栃木山と平福百穂が会食した際に、百穂より栃木山に贈られた作品のようです。



平福百穂は明治40年(1907年)国民新聞社に入社。以後20年間同社に籍を置き相撲スケッチ、議会スケッチなどを描いて活躍し人気を博していました。

*******************************

栃木山 守也:(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1959年10月3日)は、栃木県下都賀郡赤麻村(現:栃木県栃木市藤岡町赤麻)出身の元大相撲力士。第27代横綱。本名は中田 守也(なかた もりや)(旧姓:横田)。

1917年5月場所で大関に、1918年5月場所の横綱昇進を挟んで1919年1月場所まで5連覇を達成する。この大関昇進の場所が初優勝で、それから5場所連続優勝を入れて合計9回の優勝を成し遂げている。大関昇進後はほぼ全ての場所で優勝争いに加わり、風邪で途中休場した1場所を除いて9場所で優勝、6場所で半星差の優勝次点、残る1場所は優勝力士との間に半星差の優勝次点力士を挟んで1勝差の3位相当だった。1920年5月場所は8勝1分1預ながら、優勝者は9勝1敗の大錦、翌年1月場所も無敗だったが預り1つの差で大錦が優勝している。幕内の勝率は.878だが、横綱在位中の勝率は.935である。栃木山以降で横綱での最終勝率が9割を超えた者は出ておらず、この安定感をもって近代最強力士に推す意見も多い。



引退後は、養父である木村宗四郎の持ち株であった年寄・春日野(8代)を襲名した。当時は「分家を許さず」の不文律があった出羽ノ海部屋から例外的に独立を許され、春日野部屋を創立した。不文律の作者・常陸山が唯一認めた例外で、養父の名跡を受け継ぐものであると同時に栃木山自身を人物的に高く評価していたためだった。

*******************************

引退後6年経ってからの大相撲選手権大会で現役の大相撲力士を破って優勝したこともある相撲の名人と称されましたが、体は小兵であったそうです。稽古場では頭のつるつるのおじいさんが倍もありそうな力士に胸を貸し、現役幕内力士を相手をコロコロと転がして負かしていたそうです。

実に愉快な逸話ですが、人格・実力抜群、早めの引退、後進指導・・・、プロとはそうありたいものですね。小さな色紙に歴史が詰まっています。


羅漢図 寺崎廣業筆 その55

$
0
0
当方は地元に縁の作品を数多く紹介していますが、刀剣はずべてが地元縁の作品です。





由来から、メンテナンス、登録証、鑑定の経緯まですべて記録に残されています。



本日紹介する刀剣は非常の痛みの酷かった刀剣です、拵えの鞘は割れており、鯉口は散々な状態でした。

脇差 無銘
長さ:一尺七寸 反り:四分 目釘:一個
無銘 刀 白鞘 拵え有

作行は美濃の関氏のものに近いとか。



刀剣柴田でも価値からいってそこまで直す必要はないだろうと判断していたようですが、当方は代々伝わる刀剣ですから、少しでもきちんと修復しておくことにしました。



とはいえほうがいに費用をかけることもできませんので、漆器修復で縁があった輪島工房に依頼しました。



全体を塗り直すと時代感も無くなるので部分補修にしておきました。



刃は錆だらけでしたが、きれいに研いでおきました。



金銭的な判断なら、これらの補修などされずに打ち捨てられていた可能性のある刀剣です。



刀剣類は物騒なので所持したがらない、所持していることは公表しない方が多いようです。もっと評価されていい分野でしょう。

むろん仏門の方が所持するのはもってのほかですが・・。



さて、本日は地元縁の寺崎廣業の作品の紹介です。

羅漢図 寺崎廣業筆 その55
絹本水墨軸装 軸先象牙 後年箱書共箱二重箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1275*横515

箱書には「十三年前作 辛亥(明治44年 1911年)冬日 廣業自題 押印」とあり、明治31年頃に作と推察されます。


「1898年(明治31年)東京美術学校助教授に迎えられ、翌年、校長の岡倉天心排斥運動がおこり、天心派の広業は美校を去った。天心と橋本雅邦は日本美術院を興し、橋本門下の横山大観・下村観山らと広業もこれに参加した。」という波乱の頃の作品。

男の隠れ家 床の間

$
0
0
昨日は仙台訪問後、女川原発・女川復興を見てきました。復興はだいぶ進んでいましたが、本当の意味での復興にはまだ道のりが長いようです。

さて五月の帰郷に際して男の隠れ家で床の間の飾りを変えました。まずは飾ってあった飾り棚を仕舞いました。



祖父の代からの作品ですが、保存状態がよいと最近作ったかのようにいい状態で遺っています。



螺鈿も細かな見事な細工が施されています。



引き出し内部は梨地が施されています。作者の名前はありませんが、シックに抑えられた上品なデザインです。



このような華奢な漆細工の作品を扱うには細心の注意が必要です。



湿度の高い時、乾燥しやすい時期、夏のような高温な時には飾れないし扱えません。むろん手跡が残るような扱いも現金です。



絹の布で包まれ、収納箱もぎりぎりの大きさで誂えられていますので、傷つけないように慌てずにじっくりと収めます。

さて次は何を飾ろうかと男の隠れ家をさらに物色。またなにやら大きな箱・・。

置物木彫唐獅子像 越中井波彫刻
共箱 
作品寸法:縦*横*高さ(未計測)



*********************************

井波彫刻(いなみちょうこく):富山県南砺市井波地区(旧 井波町)を中心に生産される木彫工芸品。井波彫刻の発祥は、1390年(明徳元年)に建立された井波別院瑞泉寺が何度も焼失し、その度井波の大工により再建されてきたことが大きく関わっている。

 

宝暦・安永年間(1763年〜1774年)の瑞泉寺の再建には、御用彫刻師の前川三四郎が京都の本願寺より派遣されたことにより、井波の大工が師事し教えを被り、その後寺社彫刻の技法が、欄間や獅子頭、天神様(菅原道真)などの工芸品に派生し今日まで受け継がれている。また4年に一度「南砺市いなみ国際木彫刻キャンプ」が開催されている。

伝統的工芸品産業の振興に関する法律(伝産法・1974年(昭和49年)5月25日法律第57号)に基づき、1975年(昭和50年)に伝統的工芸品として通商産業大臣(現 経済産業大臣)より井波彫刻協同組合が産地組合として指定(第2次)を受ける。現在、伝統工芸士(伝産法に基づく資格)、一級井波木彫刻士(厚生労働大臣認定資格)をはじめ、組合員を含め約300名もの彫刻職人が集中しているのは世界的にも珍しく、観光地化しているメイン通り以外の住宅地でも木彫りの槌の音が聞こえ、この音が「井波の木彫りの音」として日本の音風景100選に選定されている。また1947年(昭和22年)に設立された、全国唯一の木彫の専修学校「職業訓練法人井波彫刻工芸協会 井波彫刻工芸高等職業訓練校」があり、師匠に弟子入りしながら、デッサンや彫刻の基礎を学ぶ生徒が多い。

井波彫刻の作品としては、欄間や獅子頭、天神様(菅原道真)像がよく知られており、日常生活で使用する木工品より美術工芸品が制作の中心である。近年では、若手の作家が龍を纏ったエレキギターなどもある。その他井波別院瑞泉寺をはじめ、多くの寺社彫刻を手掛けてきた。また富山県内には、数多くの曳山(山車)祭りが行われているが、「放生津(新湊)」、「城端」、「八尾」、「海老江」、「伏木」、「出町(砺波)」、「石動(小矢部))」など、曳山を彩る彫刻や欄干(勾欄)などが、江戸時代より井波の名工によって制作や修理がされてきた。

*********************************



これは先ほどの飾り棚とは違っておおらかな作品ですが、木彫もまた扱いは慎重に行う必要があります。



井波彫刻についてご存知の方は少ないでしょうし、小生もあまり詳しくありません。



本作品の作者についての詳細は当方の資料では解っていません。どなたか知っておられる方はいませんでしょうか?



掛け軸はなにか良いものはないかと物色・・・。



木材で財を成した先祖はどうも「山神様」を大切にしたようです。男の隠れ家では仏壇からも「山神様」の作品がでてきました。



「山神様」は女性です。よく田舎では「うちの山上様は怖い。」といますが。「うちの山神様」とは奥さんのこと・・。



まさかまさかりまでは持っていないでしょうが・・。

 

共箱はありますが、作者は不明です。共箱から大正10年(1921年)の作と推察されます。

この画家をしておられる方は居ませんでしょうか?

いつなんどき災いがこの身に降りかかるか解りません。日ごろから魔除けの備えはしておくべきかもしれません。

豊干 小川芋銭筆 その4

$
0
0
本日は本ブログでも何度か投稿しています小川芋銭の作品の紹介ですが、記事でも説明のように非常の贋作が横行している画家の一人でもあります。美術館の購入でも何度かトラブルになっているようです。とくに河童を描いた作品は贋作のリスクが高いと聞いていますが、当方では詳細は良く解りません。

好きな画家ではあるのですが、上記の理由により河童の作品などは購入を極力避けるようにしています。

本日の作品はたまたまインターネットで見かけて購入した作品です。東京美術倶楽部の鑑定もあり、酒井三良の鑑定もしっかりしているので思い切って購入しました。

落札した翌日に何気なく思文閣墨蹟資料目録「和の美」第495号(平成28年1月発刊)を読んでいたら、掲載されている作品NO47(P104)と同一作品と解りました。こういうことがあるのですね



購入金額が20万弱・・・・、安いか高いかはよく解りませんが、インターネットオークションでは高額の取引には相違ありません。ただ、本物や出来のよい作品が非常に少ないインターネットオークションでも、その数の少ないいいものには目利きが多く入札するようになってきており、その程度の出費をしないといいものは入手できないようです。一万、二万ではいいものは入手できませんが、ネットオークションはすでに骨董市よりはましな市場であることには間違いありません。

豊干 小川芋銭筆
紙本水墨緞子装 軸先象牙 酒井三良鑑定箱二重箱
東京美術倶楽部鑑定書 鑑定NO.016-0273 平成28年2月9日 
全体サイズ:横650*縦2100 画サイズ:横490*縦1380



思文閣墨蹟資料目録「和の美」に掲載されている時点では、二重箱ではなく東京美術倶楽部の鑑定書もありませんでした。思文閣から購入時にと同時に鑑定を受けたものと推察されます。



二重箱の外箱はサイズが完全には合致していませんので、保存のために手元にある箱を誂えたものでしょう。



「豊干」については本ブログで投稿されている「寒山拾得」の説明で記載されていますので詳細な説明は省略しますが、寒山拾得とともに描かれた「四睡図」もまた画題として著名ですね。

*********************************

思文閣の本作品に対する説明文:豊干禅師は、中国唐時代に天台宗国清寺に住み、数々の奇行で知られたが、とくに虎に乗って歩いて僧たちを驚かしたという。



しばしば日本画の好画題として取り上げられる寒山拾得図の拾得は、豊干禅師に拾われていることから名付けられていますが、後には寒山拾得とともに三聖と称されています。



ここでは、単に刺した茄子を焼いている豊干の姿を表しているが、そのかたわらには蕪などの他の野菜も置かれており、つい今し方、小さな畑から収穫してきたところ焚火を見つけてふと思いつき、茄子を焼いているといった風情であろう。その様子を後ろから覗き込んでいる虎のとぼけた表情はあたかもお腹を空かせて焼き上がりを心待ちにしている人間のように見えてきた愉快この上ない。

*********************************

下記の掲載作品と同一作品です。

参考資料
豊干
思文閣墨蹟資料目録「和の美」第495号(平成28年1月発刊)作品N47(P104)





右上の遊印は「筆端通造化」と読むようです。落款の下の印章は「□」と記されていますが、「芋銭」のことでしょう。




*********************************

小川芋銭:慶応4年、江戸赤坂の牛久藩邸大目付小川伝右衛門賢勝の長男として生まれ。幼名は不動太郎、のち茂吉(しげきち)。若い頃は画塾彰技堂に入り洋画を学ぶとともに南画にも興味を示し独自の画風を身につける。

スケッチ漫画を新聞に発表。俳雑「ホトトギス」などに挿絵や表紙を描き、やがて横山大観に認められ日本画壇に入る。

「河童の芋銭か芋銭の河童」と言われるぐらい、小川芋銭にとって、河童の絵は代名詞の如く思われているが、芋銭は松尾芭蕉の旅心への憧れから生涯旅を愛し、各地の山水や農村風景を描き、「仙境の画人」・「俗中の仙人」などともいわれている。昭和13年永眠、享年70才。



*********************************

このような作品を稚拙な絵と思うのか、高尚な作品と感じ入るのかは各々の感性の差でしょうが、このような作品を大いに評価している人が多くいるのは事実です。




*********************************

補足

小川家は武家で、親は常陸国牛久藩の大目付でしたが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り農家を営むようになります。



芋銭は最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となっています。

父に命により、生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らしました。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれています。牛久で、妻の農事に支えられて絵筆をとっていた芋銭は、農村に暮らす人々の様子や田園風景を多く描きました。

*箱書は本ブログでもお馴染みの酒井三良のよるものです。



画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによります。身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表しましたが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われています。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られています。

参考作品



芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動しました。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残しています。

芋銭の墓は1943年(昭和18年)、自宅近くの曹洞宗の寺院、稲荷山得月院(牛久市城中町258)に建てられました。

雲魚亭:芋銭が自宅敷地に建てたアトリエ。完成してまもなく芋銭が脳溢血で倒れたため、ほとんど病室として使われた。現在は牛久市の管理の下、小川芋銭記念館として公開され、複製画や芋銭の愛用品が展示されている。

*たしかにとぼけた虎の表情が面白い作品です。



*贋作が多く作られた作家でもある。そのため、公的機関が「小川芋銭の作品」を公費で購入する際、仮に贋作であるとすると無意味かつ税金の無駄であるため、購入の正当性や鑑定依頼先を巡ってしばしば議論になる。

*********************************

本ブログで取り上げていない作品に下記の作品がありましたが、こちらはすでに売却しています。

蛙 伝小川芋銭筆
水墨淡彩紙本 額装アクリル板 
全体サイズ:横337*縦377 画サイズ:横135*縦172



ちなみに他の作品は下記の通りです。

鍾馗斬河童之図 小川芋銭筆
紙本水墨淡彩軸装箱入 
画サイズ:横485*縦1350



東天紅図 小川芋銭筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱 
全体サイズ:横452*縦1895 画サイズ:横337*縦1285



水郷初夏 小川芋銭筆
紙本水墨軸装 軸先象牙 共箱二重箱 
全体サイズ:横550*縦2130 画サイズ:横360*縦1360



贋作の多い画家の作品は右往左往しながら、失敗を積み重ねてようやく真に近づけているようです・・。

月下老狸図 三木翆山筆 その4

$
0
0
狸は「他を抜く」という語呂から、出世の吉祥画題として描かれることの多い動物でもあります。

亡くなった家内に生前、「狸の絵が欲しいね。他の抜くということで縁起いいからね。」と話したら、「まだ出世とか、そんなことを考えているの?」と諭されたことがあります。

たしかに「他を抜く」というのは他人をだしにくようで、あまり品の良い表現ではありませんね。



もうすぐ家内の命日です。飛行機でとんぼ返りで墓参りの予定です。仏壇は展示室の一角に設け、毎日とはいきませんが少なくとも毎週末には線香をあげて拝んでおります。

本日は亡くなった家内の言葉を思い出させる「狸」を描いた作品です。

月下老狸図 三木翆山筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 共箱
全体サイズ:縦1990*横575 画サイズ:縦1280*横425



************************************

三木翆山:(みき すいざん、明治20年〈1887年〉7月15日 ~昭和32年〈1957年)3月25日〉
大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家、版画家。竹内栖鳳の門人。明治20年7月15日、兵庫県に生まれた。本名は三木斎一郎。明治36年(1903年)から竹内栖鳳に師事し、竹杖会において日本画の研鑽を積んだ。

  

竹内栖鳳の門人。本名三木斎一郎。兵庫県社町(現加東市)に生まれる。明治36年(1903年)から竹内栖鳳に師事し、竹杖会において日本画の研鑽を積む。



大正2年(1913年)第七回文展に「朝顔」を出品して初入選。以降、文展や帝展といった官展で活躍した。大正13年(1924年)に京都の佐藤章太郎商店という版元から、京都風俗を取り上げた新版画「新選京都名所」シリーズを版行する。昭和7年(1932年)第13回帝展からは無鑑査となる。



昭和17年(1942年)に師の栖鳳が没した後は画壇を離れた。しかし、昭和27年(1952年)から昭和33年(1958年)にかけて渡米し、美人画の個展を開催、メトロポリタン美術館から終世名誉会員の称号を贈られた。享年69。美人画や風俗画を得意とし、代表作に「嫁ぐ姉」、「元禄快挙」などがある。

************************************

本作品は印章や落款から三木翆山の真作と判断されます。

三木翆山もまた美人画で著名は画家ですが、美人画と得意とした岡本神章と同じように美人画以外の画題を描いてもその画力には見るべきものがあります。



狸を描いている画家では木島桜谷、大橋翆石、望月金鳳などがいて、本ブログにもすでに投稿されています。狸の絵が多いから決して他人をだしぬこうなどとは考えておりませんが・・・



月の下で食い物を探して歩く狸が愛嬌があって好きなのです。



さすがに田舎の私の郷里でも狸は家の周りにはいませんが・・。



表具はなかなかいい表具です。

スケジュールが多い日が続きます。出張、大会、総会、祝賀会、帰郷、出張、検診・・・・・。ブログが途絶える日があるかもしれません



羅漢図 寺崎廣業筆 その55

$
0
0
*先日、未了の原稿のままパソコンの操作を誤り、本文を投稿してしまったようです。

当方の蒐集作品に共通しているのはメンテナンスの必要な作品が多いことです。陶磁器、掛け軸、漆器、掛け軸類ですが、硝子製品や洋食器のような綺麗なだけ?の作品は基本的に面白味がないので蒐集対象になっていません。

性分として仕事も同じくメンテナンスの必要な組織、あらたな分野に興味が湧くようです。そして実体の遺る仕事が・・・。

当方は地元に縁の作品を数多く紹介していますが、刀剣についてもその縁が多く、ずべてが地元縁の作品です。



いずれいくつかは男の隠れ家に戻すことになりますが、しばしメンテナンスのため手元に置いてある作品もありますが、その後はどうなるのやら・・・。



一応は由来から、メンテナンス、登録証、鑑定の経緯まで専用のファイルにすべて記録に残すようにしています。



本日紹介する研ぎや補修する前は非常に痛みの酷かった刀剣です。刀剣自体は錆だらけで、拵えの鞘は割れており、鯉口は散々な状態でした。

脇差 無銘
長さ:一尺七寸 反り:四分 目釘:一個
無銘 刀 白鞘 拵え有

見ていただいた「刀剣柴田」の見立てでは作行は美濃の関氏のものに近いとか。



当方では金銭的な価値から判断すると直す必要はないだろうという思いもありましたが、最終的には代々伝わる刀剣ですから、少しでもきちんと修復しておくことにしました。



とはいえ法外に費用をかけることもできませんので、鞘部分は漆器修復で縁があった輪島工房に依頼しました。研ぎはむろん「刀剣柴田」に依頼したものです。



鞘の部分は全体を塗り直すと費用もかかり、時代感も無くなるので部分補修にしておきました。



刃は錆だらけでしたが、きれいに研いでおきました。白鞘がなかったので新調しました。なんと前の所蔵者は紙やすりで錆を落としていたとか



金銭的な判断からなら、これらの補修などされずに打ち捨てられていた可能性の高い刀剣です。蘇った刀剣は新たな愉しみとなります。



刀剣類は物騒なので所持したがらない、刀剣柴田の方も所持していることは公表しない方が多いとおっしゃていました。最近は下火となり、闇に隠れている作品の多い分野ですが、改めてもっと評価されていい分野でしょう。



他の骨董と同じく刀剣類もまたメンテナンスなどをしながら、手元に置いて初めてその良さが解るものと痛感しています。刀剣女子などには価値が解ろうはずもない代物です。

さて、本日の作品は地元に縁のある寺崎廣業の作品の紹介です。すでにその作品の数も55作品目となりました。

羅漢図 寺崎廣業筆 その55
絹本水墨軸装 軸先象牙 後年箱書共箱二重箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1275*横515



箱書には「十三年前作 辛亥(明治44年 1911年)冬日 廣業自題 押印」とあり、明治31年頃に作と推察されます。

  

「1898年(明治31年)東京美術学校助教授に迎えられ、翌年、校長の岡倉天心排斥運動がおこり、天心派の広業は美校を去った。天心と橋本雅邦は日本美術院を興し、橋本門下の横山大観・下村観山らと広業もこれに参加した。」という波乱の頃の作品です。



寺崎廣業の作品は数多く投稿していますので、詳細な説明は省略させていた台ますが、郷里出身の画家ということもあり、今後も蒐集を続けていくことになりそうです。



墨一色で描かれた大きめの作品です。俗に言う大幅というほどでもないにしろ広めの床の間でないと掛けられない大きさかと思います。



掛け軸の人気がない理由のひとつが飾るスペースの無さなのですが、飾るにはやはりそれなりのスペースがいるものです。



羅漢に龍・・・・、廣い空間、もとい広い空間が必要な作品ですね。



印章は他の紹介した作品の幾つかにも押印のある作品です。ただこの印章もちょっと厄介な印章です。本作品は真作なのですが、贋作に酷似した印章を用いているものがあり、検証が必要な印章だからです。

 

ニ重箱の蓋が欠落しています。これはよくあることで、落としたりすると軸箱の蓋は溝、ほぞが破損しやすく、そのうち簡単に取れて蓋を失くしてしまうからでしょう。さてこれをどうにかするのもひとつのメンテ・・・

源内焼 その97 二彩淳于髠図鉢

$
0
0
以前の説明のように刀剣は研ぎが完了し、鞘を新調、もしくは研ぎなどの修理したばかり作品は一年間、きちんとメンテする必要がある?ことから、展示室に一振りずつ展示して、メンテしています。現在の展示は下記の作品です。

刀剣 その三 京二代丹波守吉道
長さ:74.3CM 反り1.2CM 目釘穴1個 白鞘
鎺梵字「麻利支天」 句おくり(刀身つめ)有
黒石目塗 半太刀拵



やがて元の男の隠れ家に戻されますが、小生の後はどうなるやら・・、いずれにしろ後世に伝わるように作品の氏素性、鑑定、メンテの詳細は一冊のファイルに綴じられています。

保存袋は義母が古い着物の帯で作ってくれたものです。



刀剣柴田の鑑定では本作品は「京二代丹波守吉道」とのことです。



「丹波守吉道」は「簾刃」紋で著名ですね。そう、「簾刃」などは知る人ぞ知るマニアックな話です。

 

他の所蔵作品には大阪二代の作もありますが、こちらはいずれまた・・。大阪、京二代は初代と混同されることも多いようです。

本格的な蒐集対象ではない刀剣はさておき、本日は97作品目となった源内焼の作品の紹介です。本作品は源内焼の作品の中では代表的な作品のひとつです。

源内焼 その97 二彩淳于髠図鉢
合箱入 
口径265*底径*高さ55



源内焼は軟陶ゆえか吸水性があるようで、埃を被った状態にあったものは汚れがあるものが多いようです。

*なお出来のよい源内焼は「虹彩」を放つ特徴があります。これは古九谷も同様です。



購入時には上記の写真のように黒く汚れた部分が多くありました。



以前にも説明したようにこの汚れはクレンザーにて傷をつけないように注意深く洗うと落ちます。



強くこすると釉薬が剥がれますのであくまでも軽くこすることが肝要です。




本作品は見込みは緑釉、口縁の文様の一部に褐釉が施されている作品です。



同形の作品は「源内焼のまなざし」に掲載されており(作品NO67 P67)、さらには「さぬきの源内焼」にも掲載されています(作品NO54、55、56)。




釉薬の使い分けは様々で、本作品と同じような釉薬が施されている作品は掲載されていません。本作品の釉薬の使い方が一番デザイン的には美しいと思います。また本作品はサイズ的には僅かながら他の作品より大きい部類に入ります。



「淳于髠(じゅんうこん)」は中国戦国時代斉の人。言葉巧みで、斉の外交などに当たった。構図は、斉の宣王が長夜の飲を好んで国が荒れた際、宣王を説得して隠居させた故事を描いたもの。



本作品は作品中の印銘に「民」が押印されていますが、これは珍しいようです。源内焼の陶工として、源吾、松山、舜民、珉山が知られていますが、その中でも源内焼の主な陶工としては、堺屋源吾、五番屋伊助(赤松松山)が活躍しました。



陶工らが苦心した源内焼の魅力のひとつはその精妙な陽刻にあります。



舜民は志度房前の人物で姓は脇田、号は皥々斎。なお珉山についての詳細は不明です。本作品は「舜民」の作かもしれません。



印銘のある作品は圧倒的に数が少ないが、それは幕閣などへの献上品や進物に用いられたことを考えると印銘のないほうが都合が良かったと推察されます。現代では印銘のある作品のほうが珍重されています。



本作品のような大きめの源内焼の作品は飾り皿として用いることが多かったようです。

津軽塗の器達

$
0
0
墓参りに帰郷のため臨時原稿を投稿します。

五月の帰郷に際しても漆器の補修にかかろうかと幾つかの漆器を男の隠れ家から持ち帰っています。



その中のひとつが津軽塗の御櫃です。本来御櫃と御盆のセットで使われますね。



製作されたのは昭和の初めの頃と推察されます。



本家から分けられた食器のひとつと思われ、使用していた跡があります。



驚くほど痛みは少なく状態は良好ですが、さすがに光沢がなくなっていますし、底の部分に傷が多くなっています。



良く見かける津軽塗ですが、さすがに御櫃は数が少ないでしょう。また木製の厚みのある重量感はなんともいえない趣があります。



収納されている箱も木材業を営んでいた先祖が作ったものでしょう。



磨きをかける時期にきていると判断していいのですが、いくら費用がかかるか見積次第で補修するかしないかの判断にしようと考えています。



御盆もまた・・。津軽塗は磨き直すと格段の味わいが出るものです。ただ磨き直してまで使う人が少ないのが現実でしょう。



下記は以前紹介した蓋付汁碗ですが、20客を磨き直しています。



下記の銀吹の膳は現在、輪島工房にて見積もり依頼中・・。



一の膳、二の膳、(三の膳は梨地)と揃っています。冠婚葬祭にて真塗、朱塗と使い分けて当時は普通に揃いであった器達です。



揃いでまともに残っている作品はどんどん少なくなっているのでしょう。なにしろ手入れしていないとどんどん痛んでいきますし、10客以上必要な場は少なくなっていますので・・・。



漆は痩せますし、湿気でカビが生えます。ただ骨董は維持管理できる状況下で育つものです。


雪裡出山図 中林竹渓筆 その7

$
0
0
先週末には東北の震災復興関連でお世話になった会社の20周年記念パーティに出席のため大阪まで一泊で出かけてきました。その会場の会社の社長との知人ということで亀田興毅氏が出席されていました。早速、小生の息子繋がり?で祝いの枡にサインと記念撮影・・(写真は後日)。



なにかと慌しい日々、本日もまた早朝から北海道の予定でしたが、耳の調子が思わしくなく、耳鼻科にて軽度の中耳炎とのこと。飛行機はNGとのことで出張は中止となりました。少し休めということでしょうか?

新たな整理をしている時間がないので、男の隠れ家の秘蔵作品を収納棚から・・、本来は当方の門外不出の秘蔵蒐集作品。

柿釉面取抜繪花瓶 浜田庄司作 その27 うち花瓶 その7
杉共箱入
高さ305*胴径150~125*口径90*高台径102



浜田氏のトレードマークともいえるサトウキビをモチーフにした唐黍(きび)文が蝋抜きで描かれた花瓶です。



浜田庄司の作品で花瓶が高さが30cmを超える作品は珍しく評価は高いですが、その中でも作行きが良いものとなっています。



保存箱は共箱で、杉箱となっており、木材業を営んでいた当方と関わりのあるものです。

 

その花瓶を前に本日の作品を紹介します。掛け軸の作品に飾りが合うとか合わないとかはさておき・・・。

雪裡出山図 中林竹渓筆 その7
絹本水墨淡彩 軸先象牙 大雅堂定亮鑑定箱 田中柏陰鑑定巻止
全体サイズ:縦1150*横550 画サイズ:縦310*横420



箱には「竹渓中林翁畫雪裡出山図」と題され、箱裏に「中林竹渓之於舟青可謂精妙筆鈨墨霊観者無不覚之者□蓋其人亦□余青□時□訪之今観□画憶起當時交態□如□世也 鑑題并識□尾□一宮□舎□□ □□□士大雅堂定亮 押印」と記されています。

  

巻止には「竹渓書仏祖出山図絹本小品 柏陰山人田□題鑑 押印」とあります。

*****************************

大雅堂定亮:天保10年(1839年)~明治43年(1910年)。画僧。京都生。大雅堂清亮の子。俳句や和歌を能くし、風流閑雅を好んで、悠々自適の生活を送った。金玉山房と号した。明治43年(1910)歿、72才。



田中柏陰:日本画家。静岡県生。本名は啓三郎、字を叔明。別号に静麓・孤立・柏舎主人・空相居士。京都に出て田能村直入に南画を学び、竹田・直入の画風を継ぐ青緑山水を能くした。京都と山口県右田に画塾を設け、多くの後進を育成し、関西南画壇の重鎮として活躍した。竹田系統鑑定家の第一人者でもある。昭和9年(1934)歿、69才。



*****************************

このような鑑定箱にも贋作がありますが、多くの作品の鑑定書付を見てくると真贋が解るようになります。




*****************************

中林竹渓 :1816-1867 幕末の画家。文化13年生まれ。中林竹洞(ちくとう)の長男。父にまなび,のち山本梅逸(ばいいつ)にあずけられる。写生を主とした洋画風をとりいれた。奇行でも知られた。慶応3年4月22日死去。52歳。名は成業。字(あざな)は紹文。通称は金吾。別号に臥河居士。作品に「中林竹渓先生四季十二景」。

*****************************

中林竹洞と中林竹渓の父子の作品は、武士を営みながらの画業ゆえ、本来の南画の作品とは一線を画すべきという議論がありますが、私の賛同します。ただだからといって作品の評価に影響することとは別次元とも思っています。



*****************************

補足

文化13年(1816年)中林竹洞の長男として生まれ、幼年から父に絵を学ぶ。竹渓が生まれた時、竹洞は数え41歳で、遅い男児誕生に竹洞は喜び、しばしば自作に竹渓の名を記し、父子の合作も残る。日本の南画の元となった文人画・南宗画とは、実情はともかく理念的には、中国の文人生活を理想とするもので、世襲とは本来馴染まない。竹洞自身も若い頃から画論を出版し、晩年には世俗を離れ隠棲生活を送るなど、日本において最も文人らしい態度をとった画家である。しかし、その竹洞すら世襲を望み、自家を流派として存続させたい願った事が端的に表れている。



20代の竹渓は繊細な楷書で「竹谿」と署名し、竹洞の山水画様式を忠実に習っており、60代に入り枯淡・高潔な山水画様式を完成させていた父の画風をそのまま継承しようとした様子が窺える。反面、大作が殆ど無い竹洞と違い、竹渓には若年から晩年に至るまでしばしば屏風絵の大作を描いており、父との資質の違いを見ることができる。

30歳の時、長崎に旅行。同じ頃、父の親友・山本梅逸に師事したと推測される。落款は楷書で「竹溪」稀に行書で「竹渓」と記し、花鳥画や人物画にも作域を広げ、父や梅逸らのモチーフを手本にしつつも、それらを単に写すのではなく的確に構成し直して独自性を打ち出そうとしている。

嘉永6年(1853年)に父竹洞が亡くなると、落款に30代のものに加えて、楷書で「竹渓」と記す変化が起こる。絵も南画以外の円山・四条派、南蘋派、土佐派に学び、実物写生も積極的に行ったと見られる。一方で壮年期には江戸末期の復古思潮からか、加藤清正や楠木正成などの武将を勇壮謹厳に描いた作品が多く残っている。



*本作品は楷書の時代の作と推定されます。

40代後半あたりからの落款は、肥痩が強く癖が強い「竹渓」となり、特に元治元年(1864年)以降は「竹渓有節」と記す作品があり、最晩年には「有節」と号していたと考えられる。この頃は文人画風の山水画や中国人物画が再び多く書かれる一方、引き続き大和絵人物や季節の草花、動物なども書かれた。竹渓晩年の山水画は、明治・大正期に煎茶席の掛軸としてよく好まれ、またそれ以上に身近な草花や動物、風景などを描く景物画は、手頃な床掛けとして広く愛好された。明治も間近に迫った慶応3年(1867年)4月死去。享年52。




竹渓はしばしば奇行でも知られる。これは、明治に活躍した名古屋出身の南画家・兼松蘆門が著した『竹洞と梅逸』(明治42年(1909年)刊)による。その竹渓伝の元になったのは、竹渓の異母妹・中林清淑の回想と推測される。清淑は年の離れた竹渓に複雑な感情を抱いていたらしく、『竹洞と梅逸』には竹洞の遺産を竹渓が分けてくれなかったという愚痴が長々と載り、清淑が撰した竹渓の墓碑には「人となり剛厲狷介、世と合わず、人徒にその絵の巧みなるを見、その志しのなお高遠なるを知らず」と、故人を称えるべき墓碑に「巧みなだけで志が表現されていない」と断言する。こうした清淑の竹渓像が、清淑びいきの蘆門によって増幅され、これが諸書に引用されて広まっていった。こうした評は幾らかは竹渓自身が招いたものかも知れないが、竹渓の作品を見ると、生き物の夫婦や親子を描き込む作品がかなりあり、自賛や高名な文化人による着賛も殆ど無く、俳画風の略画や他の画家との合作も見られない等、心優しく生真面目な画人を想像とさせる。

*****************************

本作品は出所もしっかりしており、「釈迦出山」を描いた品の良い秀作となっています。

ところで花瓶に花を生けてその後ろに掛け軸を飾るときには、花粉がつかないように高さなどの距離を考える必要があります。そのことを考えないで花との近距離に掛け軸を飾るのはもってのほかです。

枡酒にサインといい、種々雑多なものが人生いろいろと集まってくるものです。

リメイク 松ニ鶴図 岡本秋暉筆 その1

$
0
0
豊洲問題についての知事の判断は驚くべきものでした。散々議論したはずが突然のユータン案に食のテーマパーク・・・
前任をあれだけ批判しながら説明責任のない判断。「恨みを買い、人気優先」と前にも述べましたように早く都民はこのやり方の欺瞞に気がつくべきと思うのは小生だけでしょうか?

さて週末には家族で小生の誕生会・・。

朝から息子は「ハッピーバースデイトウユー、ハッピーバースデイデイアパパさん、・・・」とご機嫌にお掃除のお手伝いです。



週末にはパパさんから食事もトイレもかたときも離れません。



気分転換に昼は誕生祝ということで外食。



昼寝も一緒・・。



夕方は買ってきたケーキで誕生祝い・・。

「おいおい、蝋燭を消すのはオレだってば・・・」

さて本日の作品紹介です。

男の隠れ家に保管されていた岡本秋暉の作品を帰京に際して持ち帰り、再度資料を製作しています。以前に投稿しているために「リメイク」と題して投稿します。

松ニ鶴図 岡本秋暉筆 その1
絹本着色絹装軸 改装有 軸先木製 時代箱入 
全体サイズ横672*縦1890 画サイズ横515*縦1265



ずいぶんと前に入手した作品ですが、その後二作品ほど岡本秋暉の作品を入手しており、すでに投稿されていますが、同じく鶴を画題とした作品もその中にあります。



以前の投稿では「忘れ去られた画家」として紹介していますが、改めて岡本秋暉について説明いたします。

********************************

岡本秋暉(おかもと しゅうき):文化4年(1807年) ~ 文久2年9月24日(1862年11月15日))は、日本の江戸時代後期から末期に活躍した絵師。通称は祐之丞。名は隆仙。字(あざな)は柏樹。秋暉は画号で、別号に秋翁。

主に花鳥画、特に孔雀を得意とし、「若冲の鶏」「光起の鶉」「狙仙の猿」などと並んで、「秋暉の孔雀」と評される。谷文晁、渡辺崋山、椿椿山ら江戸南画の大家が没した幕末期の江戸で、山本琴谷、福田半香、鈴木鵞湖と共に四大家と呼ばれた。

********************************

孔雀を画題とした作品も投稿されていますので参考にして下さい。


********************************

江戸芝に彫金家・石黒政美(まさよし)の次男として生まれる。政美は幕臣の出だが家を継がず、画を狩野派に学び、彫金は石黒政常について師より一字襲名し、門弟は十数名いたという(『岡本碧巌事績』)。母の実家で、町医者だった岡本家に男子がなかったため養子に入る。

初め奥平藩のお抱え絵師で、南蘋派に属する大西圭斎に弟子入りする。圭斎が没した翌文政13年(1830年)24歳の時、100石取りの奥平藩士・中里彌右衛門の娘文子と結婚し、同年『慊堂日暦』の記事から此頃までに小田原藩主大久保氏に仕えたことがわかる。秋暉の弟子の述懐では、奥平候が圭斎を通じて小田原藩の大久保候に秋暉を推薦したという。

********************************


「大西圭斎」についても作品が投稿されていますので参考にしてください。



********************************

文政12年(1829年)圭斎が死ぬと渡辺崋山に学んだと言われ、「崋山十哲」に数えられる。確かに、束脩を携えて絵の品評を請い、酒を酌み交わしながら画論を交わたという記述が崋山の日記『全額堂日記』にあるが、門人ではないようだ(『椿山尺牘』其四五)。

崋山が蛮社の獄で捕らえられ国元に護送されるのを聞きつけた秋暉は、直ちに一包の浅草海苔を懐に入れて、昼夜兼行追いかけ、追いついたものの面会は許されなかった。秋暉は声上げて泣きなおも篭を追いかけるうちに、それが高名な絵師・秋暉であるとわかり、特別に対面を許された。

崋山は「自分は捕らえられたが、もとより死は覚悟している。これからは先は同門の者たち同士研鑽して良い絵を描き、自分の墓前にかけて欲しい。それが何よりの供養である」といい、形見として自分の涙を拭った白紙を与えた。秋暉は持参した浅草海苔を渡して、崋山の涙痕が点々とした白紙を懐にし、自分も涙を拭いつつ幕吏に厚く礼をして去ったという。

********************************

渡辺崋山の作品も「伝」ですが投稿されています。



*******************************

他にも椿椿山、福田半香、菊田伊洲、佐竹永海、松浦武四郎、臼杵藩士國枝外右馬らと交流があった。特に幕府儒者・林鶴梁とは親しかったらしく、『林靏梁日記』に秋暉はしばしば登場する。靏梁は秋暉の絵の注文を取り次ぎ、時に売り込みもし、天保14年(1843年)6月11日条では秋暉は靏梁の紹介で、松代藩主真田幸貫を訪ねている。

安政5年(1858年)の『順席帳』(小田原市立図書館蔵)によると、切米7石3人扶持で広間番の職についており、本来の役職を勤めながら絵画制作に取り組んだと見られる。100石取り藩士の女子の婿としては微禄過ぎるが、これは40歳近くなるまで贅沢な暮らしをしていた秋暉が、絵に専念すべく心機一転して俗世の絆を断って貧乏生活したためだという証言がある。

*******************************

椿椿山、福田半香、菊田伊洲、佐竹永海の作品も投稿されています。



*******************************

文久2年(1862年)死去。戒名は浄楽院一串秋暉居士。墓は大久保家の菩提寺である教学院。弟子に来日間もない頃のフェノロサと交流し、師と同じく孔雀を得意とした娘婿の尾口雲錦や、荒木寛畝、中村晩山、羽田子雲がいる。

*******************************

荒木寛畝の作品は投稿されていませんが、その一派の説明は池上秀畝の作品に記載されています。



*******************************

画風は初期は長崎派の影響が強い。その後中国明代絵画、狩野派、円山・四条派などの古画を学習し、写生に基づく鳥獣描写の工夫や華麗な画面構成の追求により、装飾的でありながら格調高く重厚な作風を確立した。

作品は東京国立博物館、出光美術館、静嘉堂文庫美術館、山種美術館、松岡美術館、ボストン美術館等に所蔵されているが、特に摘水軒記念文化振興財団に多くの佳品がある。

*******************************

例に漏れず贋作が多い長崎派系統の作品ですが、岡本秋暉はその独特の雰囲気のある作風で特殊な趣を持っています。



記事には記載されていませんが、岡本秋暉と本ブログで取り上げた鈴木鵞湖には共通の知人も多く、面識があったものと思われます。



秋暉の画風は、中国人画家沈南蘋の画風を学んだもので、南蘋の精緻な描写と華麗な彩色は江戸時代中期以降の日本絵画に大きな影響を与えています。



岡本秋暉は渡辺崋山、椿椿山と親しく交わっています。崋山の師、谷文晁は文人画(南画)の他さまざまな画派を学び、江戸時代後期の非常に重要な画家で、谷文晁、渡辺崋山、椿椿山は日本画を語ることでは外すことのできない画家といえます。



最近椿椿山の作品を入手しましたので、後日紹介しますが、さすがに谷文晁、渡辺崋山の真作の入手は難しいようです。



長崎派を組み込んだ日本画の流れの中で岡本秋暉の作品は重要な位置付けにある画家といえるでしょう。



江戸期の作品で杉箱に収められている作品は要注意です。当時は収納箱などない作品が多く、行李に纏めて収納されている作品が多かったからです。

後であつらえた桐箱ではなくきちん時代のある杉箱には優品が多いようです。むろん中身を入れ替えている贋作も多々あるし、鑑識眼のないまま杉箱をあつらえた作品のほうが多いのが現状ですが、箱のない作品にはもっと贋作が多いようです。

吉祥図として描かれた本作品ですが、どこか不気味で、どこか愛嬌があり、そしてどこか異国風でもあります。

似たような作品で本ブログで紹介している作品に下記の2作品があります。岡本秋暉の作品は例に漏れず贋作が多いので、厳選して集めました。



今回も比較検討には念を入れています。



説色不老長春白鶴図 岡本秋暉筆 その3
絹本着色軸装 軸先象牙 中原家旧蔵 玉木環斎並び渡辺華石鑑定箱入 布製タトウ入 
全体サイズ横580*縦2070 画サイズ横420*縦1215








岩上孔雀ニ牡丹図 岡本秋暉筆
絹本着色金泥絹装軸 軸先象牙 渡辺華石鑑定箱 
全体サイズ:横563*縦1968 画サイズ:横431*縦1185







本ブログをお読みの方はお忙しいでしょうが、江戸後期の画家は各々関わりのある画家が多く、作品の数は少ないですが、本ブログで関わりのある画家を検索してみると面白いかと思います。

豊洲問題もすべて過去との関わりからの分析、未来への判断はそこをベースにしていくべき・・。「食のテーマパーク」の発想はどこからか?

鯛釣図 中村左洲筆 その2

$
0
0
亡くなった家内の墓参りです。墓参りは月曜日になり、すでに家内の友人が墓に来ていただいたようで、花が添えられていました。



家に戻ると仏壇には遠方から花が届いていました。



もう無くなって10年近くなりますが、ありがたいことです。感謝・・・



昼食は皆で食事、久方ぶりのきりたんぽ



皆で作った食器や古い器で・・。仏壇にも食事を供えるましたが、写真を撮り忘れました。

食事中は今回来れなかった息子の写真を見ながら盛り上がりました。母との写真を見ながら「皆を元気づけるために生まれてきたみたいだね。」と義妹が話したのが印象的でした。そう、母も義母も家内も小生も家族皆・・。亡くなった家内からの贈り物かも・・・。



帰りの飛行機の乗る前にも食べて帰りました。

闘病中の義母の「今度はお盆ね!」という元気な顔と声を聞きながら帰宅しました。そう「またね。」

本日、紹介する作品は中村左洲の二作品目の紹介です。

鯛釣図 中村左洲筆 その2
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:縦2035*横540 画サイズ:縦1170*横420



中村左洲といえば、 伊勢地方では 「鯛の左洲さん」 として広く親しまれている画家です。 昭和28年に81歳で没するまで、終生二見の地にあって鯛の絵をはじめとする多くの作品を残しました。




10歳で父を亡くした左洲は、生業の漁業に従事するかたわら絵を描き、伊勢では、左洲といえば鯛の専門画家のようにいわれることがあります。



それは、左洲が漁師でもあったこと、 魚類は円山四条派の重要な写生対象であったこと、 鯛の絵は吉祥画として多くの需要があったことなどが主な理由でしょう。



伊勢神宮が近くにあり、皇族や宮司からの依頼や招待が多く、作品を献上することもあったとのことです。



確かに、鯛を描いた作品には終生伊勢の海に親しみ、伊勢志摩の自然と一体化したかのような彼の特質を見ることができます。



一方、内宮や外宮、山岳風景を主題とした情趣こまやかな風景作品には画家中村左洲の技量が より強く現れているように思われます。本作品はその両方が伺える佳作といえる作品です。



夜明けの海上で鷗が舞い、鯛を釣り上げて喜ぶ人の様が写実的に、かつ叙情的に描かれています。



中村左洲の作品の鯛を比較してみました。



「内宮や外宮、山岳風景を主題とした情趣こまやかな風景作品」より、生業の漁業に従事するかたわら絵を描いた中村左洲の作品の真骨頂はやはり鯛を題材にした作品ですね。



「内宮や外宮、山岳風景を主題とした情趣こまやかな風景作品」はよく見かけますが、見るべき作品とは言えないように思われます。



印章・落款は下記のとおりです。



表具は波の図柄です。



天地が傷み、箱もないので天地交換、収納箱をあつらえる必要があります。

墓参りに吉祥の図柄はそぐわないかもしれませんが、元気をもらった墓参りの帰郷であり、亡くなってから10年経っても、家内は小生に元気をくれているようです。



リメイク 蝦蟇仙人 伝円山応挙筆 その1

$
0
0
墓参りでの帰郷、男の隠れ家の勝手口には亡くなった家内が描いた作品が飾ってあります。



花入の作品は作者不詳・・・。義妹が庭の手入れをこまめにしているようで、百花繚乱・・。



イメージはイングリッシュガーデンらしい?



イングリッシュガーデンはそぐわないように思われますが・・。



裏庭も・・。



友人に「粗野なる庭」と称されていましたが、とにもかくにも変貌しつつあるようです。



前は蛇やらトカゲやらたくさんいたのですが・・。



さて本日は以前に投稿した作品ですが、画像が不鮮明であったこともあり、帰京に際して持ち帰り再度資料の見直しを行なってた作品です。

30年以上前、骨董を蒐集を始めて間もない頃に、盛岡のリサイクルショップにて12万ほどで購入した作品。むろん、リサイクルショップに真作などあろうはずもないのですが、当時はそんなことは思いもせず家内と銀行に行き資金をおろして購入した思い出のある作品です。

その後、思い出の作品なので、痛んでいた表具は締め直して、さらに保存の外箱も製作していています。

蝦蟇仙人 伝円山応挙筆
絹本淡彩絹装軸 軸先木製 二重箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横305*縦765



落款の「挙」の最終がはねているとは一般には真作にはないとされていることから、しばらくこれが真贋の決め手と思っていましたが、これは誤りで跳ねているように書かれている落款にも真作とされている作品もあることが解りました。



ただ印章には若干の違いがみられることから真作とは断定できないということには変わりはありません。



円山応挙は人物画は苦手としたことから、修練を積んだようで、裸の線描を基本として、それに衣服を着せたような描き方をしています。円山応挙は決して人物画は得意とは言えないようです。



蝦蟇仙人(がませんにん)は中国の仙人です。青蛙神を従えて妖術を使うとされています。

左慈に仙術を教わった三国時代の呉の葛玄(中国語版)、もしくは呂洞賓に仙術を教わった五代十国時代後梁の劉海蟾をモデルにしているとされています。特に後者は日本でも画題として有名であり、顔輝『蝦蟇鉄拐図』の影響で李鉄拐(鉄拐仙人)と対の形で描かれる事が多い。

ただ両者を一緒に描く典拠は明らかでなく、李鉄拐は八仙に選ばれていますが、蝦蟇仙人は八仙に選ばれておらず、中国ではマイナーな仙人とのことです。



日本において蝦蟇仙人は仙人の中でも特に人気があり、絵画、装飾品、歌舞伎・浄瑠璃など様々な形で多くの人々に描かれており、小生も好きな画題のひとつです。

真作ではないにしても、いろんな意味で手元においておきたい作品のひとつです。他人からみるとガラクタでも、蒐集する側にはいろいろな理由があるものです。

男のネクタイは褒めることはしても、決してけなしてはいけないという基本ルールがあります。男のネクタイの影に女あり・・。

骨董も同じルールが存在するようです。ガラクタ三昧と誹謗するのは結構ですが、我がガラクタにも読者の寛容なる判断をお願いする次第です。

胡散臭い作品達 林檎 伝小倉遊亀筆ら その2

$
0
0
茶席で使われるのが真塗の足のないお盆。当方には意外に数が少ないので新たに購入したりしていたのですが、男の隠れ家の中にありました。



厚みのある木の下地にたっぷりの漆塗で重厚感があります。



五客揃いで普段かなり使っていたようです、使用感がありますが、まだまだ使えそうです。保管をきちんとしていたようです。



保存箱から戦後すぐの頃に日本橋で購入した作品のようです。

さて本日は「胡散臭い」作品らの紹介です。

どうしたらいいものやら胡散臭い茶碗の作品ら・・。



このような胡散臭い作品には関わらないのが一番ですが、人間には時々欲に目がくらんで鑑識眼が曇るときがあるようです。



加藤唐九郎の作? もっともらしい共箱、共布に刻銘・・・。

志野茶碗 伝加藤唐九郎作
共箱・共布 
口径124*高さ90*高台径



作行もそれなりに・・。



箱書、印章も含めて良く出来てきますが、今ひとつ品格がないようです。



もうひとつ・・。



川喜田半泥子というつもりらしい。字体もそっくりだが・・・。

志野茶碗 伝川喜田半泥子作
合箱
口径135*高さ82*高台径



志野釉薬と灰釉薬の掛け合わせ。



加藤唐九郎と同じ土に釉薬?



単体で出てきたら誤魔化されそうですね。銘がなければ普段使える茶碗です。

さて騙されついでに本日の作品の紹介です。

林檎 伝小倉遊亀筆 その2
紙本着色 色紙
画サイズ:縦265*235



このような作品はなにか予期せぬ事が起こってもいいところに何気なく飾っておきます。



***********************************

小倉遊亀(おぐらゆき):小学館 (1895―2000) 日本画家。旧姓溝上(みぞがみ)。滋賀県大津に生まれる。1917年(大正6)奈良女子高等師範学校国語漢文部を卒業後、しばらく教壇に立ったのち、安田靫彦(ゆきひこ)に師事する。1926年第13回院展に『胡瓜(きゅうり)』が初入選、28年(昭和3)に日本美術院院友、32年同人に推された。38年小倉鉄樹と結婚したが44年に死別した。

古典を基礎に、大胆でおおらかな構成と、さわやかな情感がにじむ画風を築いて今日に至っている。初期では『浴女』、第二次世界大戦後では『O夫人坐像(ざぞう)』『月』『良夜』『越(コー)ちゃんの休日』『舞妓(まいこ)』『姉妹』などがよく知られている。1976年(昭和51)女性では上村松園(うえむらしょうえん)に次いで日本芸術院会員に推された。80年に文化勲章を受章。90~96年日本美術院理事長。晩年、一時体調を崩したものの、105歳で亡くなるまで制作を続けた。

***********************************



鑑定、共シールもありません。



このような作品が骨董市やインターネットオークションでお小遣い程度買えるとついつい・・。



ま~、こういうのもひとつの骨董の愉しみ方かもしれません。



当然印章の確認もしていません。

Viewing all 2940 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>