最近は推理ドラマ以外はテレビを観る気にならなくっています。スポーツ観戦が好きだったのですが、ACLにも勝てない品のないサッカー、髯面のみっともない顔の多いプロ野球、視聴率稼ぎでマスコミの宣伝が優先するテニスにゴルフ。まことに応援するにも興ざめするものばかり。観戦する時間などは人生の時間の無駄遣いであろうと思えることが多いと感じるのは小生だけでしょうか?
さてなにか目新しい一輪挿しの花入れがないものかと未整理の箱を物色していた下記の作品がありました。
交趾耳付花入 16代永楽善五郎作
共箱入
高さ250*胴体径80*口径28*高台径55
************************************
善五郎:京焼の家元の一つ。千家十職の一つ「土風炉・焼物師」であり、代々土風炉、茶碗などを製作してきた。現在は17代目。
初代から9代は、西村姓を名乗り、主に土風炉を製作。10代以降は永樂姓を名乗り、土風炉に加えて茶陶を制作している。正式な改姓は得全が襲名した1871年である。 善五郎の土風炉には素焼きの器に黒漆を重ね塗りしたもの、土器の表面を磨いたものなどがある。室町時代、初代宗禅は奈良の「西京西村」に住んで春日大社の供御器を作っており、西村姓を名乗っていた。晩年に堺の武野紹鴎の依頼で土風炉を作るようになり、土風炉師・善五郎を名乗るようになる。
二代宗善は堺に住み、三代宗全以降は京都に定着した。小堀遠州の用命を受けた際に「宗全」の銅印をもらったことから、以後九代まで作品に宗全印を捺用した。
1788年に天明の大火で家屋敷や印章を失うが、三千家の援助もあり十代・了全が再興した。千家に出入りするようになったのはこの了全以降だと考えられている。
千家十職の中には同じく茶碗を作る樂吉左衛門がいるが、善五郎は主に伝世品の写しなどを作っており楽焼のみの樂家とは住み分けがなされている。
十一代保全は1827年に、紀州藩十代藩主徳川治寶の別邸西浜御殿の御庭焼開窯に招かれ、作品を賞して「河濱支流」の金印「永樂」の銀印を拝領した。以降、「永樂」の印章を用いると共に12代・和全の代から永樂姓を名乗り、さかのぼって了全と保全も永樂の名で呼ばれている。
16代永樂善五郎(即全):1917(大正6)年~1998(平成10)年。16代永樂善五郎は15代永樂善五郎(正全)の長男として京都に生まれました。名を茂一、通称を善五郎、号を即全といいます。
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父の蒐集作品で、父は裏千家茶道を教えていた母のために二代徳田八十吉の香炉などを買ってきてくれたそうです。
一輪挿を茶室の床に置いて、季節は過ぎたのですが下記の作品の掛け軸を掛けてみました。
福寿草 福田平八郎筆
紙本水墨 軸先 共箱
全体サイズ:縦1220*横385 画サイズ:縦375*横356
さらりと描いた福寿草・・・。
筆致といい、実に品良く描けており、当方では真作と判断しています。
落款から若い頃の作品と推察されます。
表具も色彩、文様を抑えた品格のある表具です。
落款・印章・箱書は下記のとおりです。
福田平八郎の作品は父が好きであったこともあり、骨董の収拾を始めた頃についつい懐具合も考えず購入したことがあります。
「竹」の作品は現在は書斎の机の上に飾ったいます。むろん収入の少ない頃ですから、筋の通った作品名は手が出ませんので、真贋合い交えたような作品ばかりです。この作品は工芸品ではなさそうですが、工芸品にも後絵付けがありますので油断はできません。
次は亡くなった家内と相談して購入した「苺」の作品です。
なんとなく好きな作品です。
こちらは胡散臭い作品・・。
なにはともあれ大家の作品に手を出すときにはそれ相応の錯誤、もとい覚悟が要ります。飽きのきた作品は処分・・。
スポーツ観戦と同じ・・、強い、面白いと錯誤しているようです。
さてなにか目新しい一輪挿しの花入れがないものかと未整理の箱を物色していた下記の作品がありました。
交趾耳付花入 16代永楽善五郎作
共箱入
高さ250*胴体径80*口径28*高台径55
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善五郎:京焼の家元の一つ。千家十職の一つ「土風炉・焼物師」であり、代々土風炉、茶碗などを製作してきた。現在は17代目。
初代から9代は、西村姓を名乗り、主に土風炉を製作。10代以降は永樂姓を名乗り、土風炉に加えて茶陶を制作している。正式な改姓は得全が襲名した1871年である。 善五郎の土風炉には素焼きの器に黒漆を重ね塗りしたもの、土器の表面を磨いたものなどがある。室町時代、初代宗禅は奈良の「西京西村」に住んで春日大社の供御器を作っており、西村姓を名乗っていた。晩年に堺の武野紹鴎の依頼で土風炉を作るようになり、土風炉師・善五郎を名乗るようになる。
二代宗善は堺に住み、三代宗全以降は京都に定着した。小堀遠州の用命を受けた際に「宗全」の銅印をもらったことから、以後九代まで作品に宗全印を捺用した。
1788年に天明の大火で家屋敷や印章を失うが、三千家の援助もあり十代・了全が再興した。千家に出入りするようになったのはこの了全以降だと考えられている。
千家十職の中には同じく茶碗を作る樂吉左衛門がいるが、善五郎は主に伝世品の写しなどを作っており楽焼のみの樂家とは住み分けがなされている。
十一代保全は1827年に、紀州藩十代藩主徳川治寶の別邸西浜御殿の御庭焼開窯に招かれ、作品を賞して「河濱支流」の金印「永樂」の銀印を拝領した。以降、「永樂」の印章を用いると共に12代・和全の代から永樂姓を名乗り、さかのぼって了全と保全も永樂の名で呼ばれている。
16代永樂善五郎(即全):1917(大正6)年~1998(平成10)年。16代永樂善五郎は15代永樂善五郎(正全)の長男として京都に生まれました。名を茂一、通称を善五郎、号を即全といいます。
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父の蒐集作品で、父は裏千家茶道を教えていた母のために二代徳田八十吉の香炉などを買ってきてくれたそうです。
一輪挿を茶室の床に置いて、季節は過ぎたのですが下記の作品の掛け軸を掛けてみました。
福寿草 福田平八郎筆
紙本水墨 軸先 共箱
全体サイズ:縦1220*横385 画サイズ:縦375*横356
さらりと描いた福寿草・・・。
筆致といい、実に品良く描けており、当方では真作と判断しています。
落款から若い頃の作品と推察されます。
表具も色彩、文様を抑えた品格のある表具です。
落款・印章・箱書は下記のとおりです。
福田平八郎の作品は父が好きであったこともあり、骨董の収拾を始めた頃についつい懐具合も考えず購入したことがあります。
「竹」の作品は現在は書斎の机の上に飾ったいます。むろん収入の少ない頃ですから、筋の通った作品名は手が出ませんので、真贋合い交えたような作品ばかりです。この作品は工芸品ではなさそうですが、工芸品にも後絵付けがありますので油断はできません。
次は亡くなった家内と相談して購入した「苺」の作品です。
なんとなく好きな作品です。
こちらは胡散臭い作品・・。
なにはともあれ大家の作品に手を出すときにはそれ相応の錯誤、もとい覚悟が要ります。飽きのきた作品は処分・・。
スポーツ観戦と同じ・・、強い、面白いと錯誤しているようです。