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玉堂富貴図 椿椿山筆 その3

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男の隠れ家のテレビ台の上に飾ってある作品・・。



何度も紹介していますが、改めて撮影してきました。



幕末から明治期にかけての古伊万里の大皿です。



さて同じく本日は幕末頃の作品の紹介です。

玉堂富貴図 椿椿山筆 その3
紙本水墨淡彩軸装 軸先 鑑定箱 平野政吉旧蔵
全体サイズ:縦2085*横535 画サイズ:縦1348*横391




*手前は秋田県立美術館の館長である平野庫太郎氏の作品です。



平野本家(平野美術館創始者 平野政吉)旧蔵の作品。



「乙巳小春於琢華堂椿山外史 押印」とあり、1842年(弘化2年)の40歳頃の作で、渡辺崋山が亡くなった直後の作。

  

昭和42年の鑑定ですが、鑑定者の詳細は不明です。真作であるのは相違ないでしょう。

 

「椿山の作品で最も高価なのは肖像画やきれいな色使いの花の絵で、それらだと1000万円になるものもある。」というなんでも鑑定団の評ですが、本作品はその部類ではありません。



平野政吉を知らない人がおられるかもしれませんので、下記の記しておきます。藤田嗣治との関係はとくに著名ですが、また茶道の遠州流とも関わりのある方ですね。



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平野政吉(ひらのまさきち):1895(明治28)年~1989(平成元)年。秋田市の商人町で米穀商を営み、県内有数の資産家でもあった平野家の三代目。



青年期から浮世絵、骨董、江戸期の絵画などに興味を持ち、生涯を賭けて美術品を蒐集しました。平野がはじめて藤田嗣治の作品を観たのは、1929(昭和4)年の藤田の一時帰国時の個展でした。その後、1934(昭和9)年、東京の二科展の会場で、平野と藤田は出会います。



平野は、1936(昭和11)年、藤田の妻・マドレーヌの急逝にともない、その鎮魂のために美術館の建設を構想。藤田の大作を多数、購入し、藤田の壁画制作も進めました。しかし、戦時下、美術館の建設は中止されます。



その約30年後、1967(昭和42)年、平野は「青少年を豊かな人間に」と願い、長年収集した美術品を公開するために財団法人平野政吉美術館を設立。同年5月には、平野政吉コレクションを展観する秋田県立美術館が開館し、現在に至っています。平野政吉コレクションの核である藤田作品は、1930年代の藤田の画業を俯瞰する作品群として、広く知られています。

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*本作品は渡辺崋山が亡くなった直後に描かれた作品であり、その意味で貴重な作品と言えます。また平野政吉氏旧蔵が明確であり、その点でも貴重な作品と言えます。



郷里において後世に伝えるべき作品がまたひとつ増えました。

輪島塗 会席吸物膳鮎文様木地塗

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墓参りに帰郷した時に、男の隠れ家にある漆器類をまた少し整理しました。日帰りでしたのでほんの少しの時間でしたが・・。

 

膳類が主ですが、意外に多いのが高足膳です。五十客? まだ男の隠れ家の荷の山にありそう・・。



木目に透明な漆を塗ったものらしいです。



保護する布がきちん残されていましたが、箱は壊れそうですし、箱内は落ち葉などのゴミがたくさん入り込んでいました。



箱はまだ直して使えそうです。

今回の作品紹介はその膳の中から下記の作品です。

輪島塗 会席吸物膳鮎文様木地塗
十人揃
杉箱入
幅285*奥行285*高さ35



こちらは木目を川の流れに表わした粋なお盆です。



表面が褪せているのが半分ほど・・、磨き直しができるかな?



なんと鮎の目の部分が青く輝きます。青く光る貝(螺鈿)が埋め込まれているようです。



このようなお盆は使ってみたいですね。実に粋だと思うのですが・・・。



少しずつ収納箱などを直した順序に並べていますが、合間をぬっての作業ゆえなかなか進みません。壊れている、もしくは壊れかけている収納箱は接着剤をつけて、接着するまで重し(鬼瓦)を載せておきます。

陶磁器、掛け軸、刀剣類、そして最後の難関は漆器・・、

こういうことは物好きな人でないとできませんね


峡田耕牧 平福百穂筆 その28

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墓参りに際して男の隠れ家の二階へ・・。



神仏混合の間・・・。



りんご台風で屋根が飛ばされた時に天井裏にあった箱・・・・。その箱から出てきた掛け軸の中から修復可能なものを改装した作品群です。



金比羅大権現。誰の書かな?



菊川英山の虎・・・、美人画で有名な浮世絵師の菊川英山ですが、虎を描いた作品は非常に珍しいですしょう。小生は今まで見たことがありません。



庚申様、天神様、不動明王などの版画は当時ではおみやげ物的な作品だったのでしょう。今では郷里に残る「貴重品」でしょうか? 

昔に人の祈りや思いがその作品にこもっているように思えます。通常なら打ち捨てられていた作品を2階に飾ったのは、神々として祭られた作品の上を人が歩かないようにと・・。

さて本日はその郷里にちなんだ作品の紹介です。 

峡田耕牧 平福百穂筆 その28
紙本水墨淡彩軸装 軸先 中田百合鑑定書付 共箱 
全体サイズ:縦2095*横462 画サイズ:縦1348*横330



「己未(つちのとひつじ、きび)五月」とあることから1919年(大正8年)、平福百穂が42歳頃の作品であると推察されます。作品を描いた年が解る作品は平福百穂の作品では珍しいです。

  

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平福百穂:生年明治10(1877)年12月28日~没年昭和8(1933)年10月30日。

平福穂庵の第4子として明治10年(1877)角館に生まれた。本名を貞蔵という。幼い時から地元の豪商那波家のコレクションなどで、秋田蘭画を見て育ったが、1890年(明治23年)、13歳のころに父から運筆を習っている。

14歳の時,穂庵追悼秋田絵画品評会に出品した半切が激賞されるなど,父の画才を色濃く受け継いでいた。父穂庵は常に旅に出て留守勝ちであったが,明治22年,身体をこわして帰郷し,しばらく家にいることになった。その時,筆の持ち方,座り方,墨の擦り方まで教わったが、父が47才のとき,脳溢血のために急逝し,その教えを充分に受けることはかなわなかった。

百穂は「上の兄3人が絵とは違う道を志していたため『一人ぐらいは父の跡を継いだらよかろう』という周囲の勧めもあって,絵を学ぶことになった」と述懐している。

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平福百穂あは秋田蘭画を世間に紹介した人物でも知られています。



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16歳で父の後援者・瀬川安五郎の支援の下,絵の修行のため上京,川端玉章の門人となる。玉章は穂庵と旧知の中であり,そのころ,四条派の第一人者で,東京美術学校日本画科の教授をしていた。ここで,後に盟友となる結城素明を知ることになる。亡父の追悼画会で画才を認められ、「百年」の百と「穂庵」の穂を取って「百穂」と号した。

東京美術学校で学び,画家としての地歩を築いた百穂は22歳の時,いったん郷里に帰り,郷里にあって絵の勉強をするかたわら,友人達と中尊寺などに遊んだ。

素明の勧めもあって,2年後の明治34年(1901)に再び上京し,やがて中央画壇で頭角を現していった。活躍の主舞台は素明らと結成した「无声会(むせいかい)」であった。自然や人間を清新な感覚でとらえた作品を発表して注目された。日本美術院のロマン主義的歴史画とは対照的な自然主義的写生画を目指した。

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平福百穂が歴史画から離れ、近代の自然主義的写生画の基礎を成したともいえます。



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1916年(大正5年)に金鈴社結成後は、百穂の画風はさらに多彩となり,文展に「七面鳥」「豫譲」(第11回特選),「牛」を出品した。中国の画像石や画巻、南画への関心を示す古典回帰が見られる作品を発表した。

平福は、平福を中心に川端龍子・小川千甕・小川芋銭らと日本画グループ「珊瑚会」を形成した。「珊瑚会」は1915年(大正4年)から1924年(大正13年)まで10回の展覧会を主催している。やがて1932年(昭和7年)の「小松山」など、独自の南画的な風格ある作風で自然主義と古典が融合した作品を生み出すに至った。

昭和7年に母校・東京美術学校の教授に任じられている。しかし翌年10月,横手市に住んでいた次兄の葬儀の準備中,脳溢血で倒れ,同月30日に享年57才で亡くなった。

一方で明治36年ころから伊藤左千夫,正岡子規,長塚節,斉藤茂吉らと交友するようになり,アララギ派の歌人としても活躍している。

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多才な画家としても知られています。



*中田百合:平福百穂は祖父にあたり、子息の平福一郎が亡くなった後に平福百穂の所定鑑定人に登録されています。



もう一人の子息である舟山三郎や秋田美術倶楽部、鳥谷播山らの鑑定の作品もありますが、所定鑑定人が一番信頼が置けます。贋作の多い画家ですので、一応の慎重な購入の判断が必要です。



*本作品は大正8年の作で、「南画への関心を示す古典回帰が見られる作品を発表した」時期であり、独自の南画的な風格ある作風で自然主義と古典が融合した作品を生み出す途上にあった時期の作です。本作品のような作品をこの時期に数多く描いています。



描いた時期が著され、鑑定書も添えられ、箱もきちんとしています。このようなあつらえが骨董には大切なことです。



外箱から内箱を引き出す細工もあります。本当はこれに内箱の蓋を保護するカバーが付いていると完璧ですが・・・。なければ内箱に蓋を和紙でカバーしておくと摺れて箱書が薄くなるのを防げます。

陶公図 寺崎廣業筆 その56

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男の隠れ家の勝手口の前の飾り棚に飾れられて染付けの大皿・・・。



ブログでも以前に紹介してありますが、ずいぶんと前に購入した作品です。購入当時は元時代かなどと妄想していた記憶もありますが、時代はあってもせいぜい明末清初?



明末清初の呉須染付のわりにはかなり薄く作られいます。それと染付けの発色も少し鈍い・・



男の隠れ家で最初に寺崎廣業の作品に出会っていますが、その作品がなんと六曲一双の屏風。痛んでいたので、大枚を叩いて修復したのですが、後日、贋作と断定

それから時を経て、本作品の「その56」まで辿っています。石原裕次郎の歌の「たった一つの星をたよりにはるばる遠くへきたもんだ。」と口ずさむ今日この頃です。

陶公図 寺崎廣業筆 その56
絹本水墨淡彩軸装 軸先 共箱
全体サイズ:縦2095*横520 画サイズ:縦1192*横397



以前に紹介しました椿椿山の作品とともに、平野政吉旧蔵であった本作品が縁があって当方の所蔵となりました。平野政吉と藤田嗣治、そして近年は吉永小百合の宣伝が記憶に新しいところです。

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平野政吉(ひらのまさきち):1895(明治28)年~1989(平成元)年。秋田市の商人町で米穀商を営み、県内有数の資産家でもあった平野家の三代目。

青年期から浮世絵、骨董、江戸期の絵画などに興味を持ち、生涯を賭けて美術品を蒐集しました。平野がはじめて藤田嗣治の作品を観たのは、1929(昭和4)年の藤田の一時帰国時の個展でした。その後、1934(昭和9)年、東京の二科展の会場で、平野と藤田は出会います。

平野は、1936(昭和11)年、藤田の妻・マドレーヌの急逝にともない、その鎮魂のために美術館の建設を構想。藤田の大作を多数、購入し、藤田の壁画制作も進めました。しかし、戦時下、美術館の建設は中止されます。

その約30年後、1967(昭和42)年、平野は「青少年を豊かな人間に」と願い、長年収集した美術品を公開するために財団法人平野政吉美術館を設立。同年5月には、平野政吉コレクションを展観する秋田県立美術館が開館し、現在に至っています。平野政吉コレクションの核である藤田作品は、1930年代の藤田の画業を俯瞰する作品群として、広く知られています。

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本作品の題名は「陶公」であり、有名な「陶淵明」を描いた作品です。寺崎廣業の「陶淵明」を描いた作品は本ブログにて他に「五柳先生」(NO26 大正6年頃)と題された作品を紹介していますが、箱書から同時期に描かれた作品と推定されます。

 

作品の印章は本ブログで紹介した作品、「寿老」(叔父旧蔵 大正6年頃)、NO48「田家の春」(明治末~大正)、NO13「美人折花図」(明治40年頃)にも押印されていますが、箱書に押印された印章は珍しく、出来の良い作品に押印されてものと推察されます。

 

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陶 淵明(とう えんめい、365年(興寧3年) - 427年(元嘉3年)11月):中国の魏晋南北朝時代(六朝期)、東晋末から南朝宋の文学者。字は元亮。または名は潜、字が淵明。死後友人からの諡にちなみ「靖節先生」、または自伝的作品「五柳先生伝」から「五柳先生」とも呼ばれる。潯陽柴桑(現江西省九江市)の人。郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し、後世「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれる。

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実に品の良い作品に仕上がっています。



陶淵明の見つめる先にはなにがあるのでしょうか?

菊を題材にした陶淵明の作品には下記のものがあります。

「采菊東籬下 悠然見南山 山気日夕佳 飛鳥相共還 此中有真理 欲弁巳忘言」

東の垣根の下で菊を採り、悠然とした気持ちで南の山を眺める、山が夕日に美しく染まり、鳥はみんな連れ立って帰っていく。この自然の中に本当の真理が隠れている。これは言葉では言い表せない。

この詩をもとに明治維新の偉人 高杉晋作が漢詩をつくっています。

「繁文為累古猶今 今古誰能識道深 采菊采薇真的意 人間萬事只其心」

意味は「意味は昔も今も変わりなく、山と詰まれる理はあれど、今も昔も道を識る、事の深きを誰か知る。采菊采薇の歌のもつ本当の意味はすべて、人のただその心に尽きる。」

道をはずれた生き方ではなく、道に従っていくこと、知識を得ることのみが学問ではないということです。



さらりと描いた菊に寺崎廣業のセンスの良さがうかがえます。



賛はどなたが添えたのかは不明ですが、上記の有名な漢詩を知っての作品でしょう。昔の人は知識人であったことがうかがえます。

「□先生句 観□ 押印  陶□□□□意子 泰□□様寿太夫」



表具、状態は良好です。



参考に陶淵明の菊を題材にした漢詩をもうひとつ・・。

秋菊有佳色  秋菊 佳色あり
衷露採其英  露を衷みて其の英を採り
汎此忘憂物  此の忘憂の物に汎べて
遠我遺世情  我が世を遺るるの情を遠くす
一觴雖獨進  一觴獨り進むと雖ども
杯盡壺自傾  杯盡きて壺自ら傾く
日入群動息  日入りて群動息み
歸鳥趨林鳴  歸鳥林に趨きて鳴く
嘯傲東軒下  嘯傲す東軒の下
聊復得此生  聊か復た此の生を得たり

「秋の菊がきれいに色づいているので、露にぬれながら花びらをつみ、この忘憂の物に汎べて、世の中のことなど忘れてしまう、杯を重ねるうちに、壺は空になってしまった

日が沈んであたりが静かになり、鳥どもは鳴きながらねぐらに向かう、自分も軒端にたって放吟すれば、すっかり生き返った気持ちになるのだ。」

ただ呆然と骨董を蒐集するのでは意味がありませんね。常に作品から何かを学びとる姿勢が大切かと・・、仕事も同じ、仕事になればそこがプロ。


灰失透釉茶碗 石黒宗麿作 その3

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家内が本日の幼稚園のバザー用に作った眼鏡に息子はご機嫌です。「アイアム ア ポリースマン!」



パパさんと同じく眼鏡をかけたのが嬉しいらしい



どれがいいかな~?



そうどれがいいかな~? が蒐集のコツ。どれも欲しいは「ほいど(欲いど=欲たかれ)!」と田舎ではいいます。

本日は朝から息子の幼稚園のバザーに出かけてきます。売れるかな?

本日の作品紹介はちょっと面白いお茶碗です。

灰失透釉茶碗 石黒宗麿作
共箱
口径118*高台径*高さ98



石黒宗麿は唐津に魅せられて、昭和10年3月~5月まで12代中里太郎右衛門の元を拠点に窯まで焚いて制作に没頭しています。



これら唐津で制作した作品には一切の銘はなく、斑唐津、朝鮮唐津、灰釉、絵唐津、梅華皮など様々な技法を試みています。そのうち絵唐津を梅華皮を除いた三種を失透釉と石黒宗麿は銘しました。本作品はその直後の昭和11年に「八瀬初窯」と印して制作した作品と推察されます。



本作品はまだ試験的に作られた頃の作品であり、力強さに欠けますが、昭和30年以降の優品の下地となっています。

 

なお「八瀬初窯」の銘の作品は15点の作品のみ現存を確認していますが、石黒宗麿の作品では資料的に非常に貴重な作品となります。この印は宗くずしの「宗麿」の印と常に併用されています。(参考写真は凹凸が反転しているようです。)

 

この当時の共箱は極めて稀で、箱書は後日によるものと思われます。昭和12年以降にはこの「八瀬初窯」の銘の作品はありません。



箱書の「栩」の印は石黒宗麿の共箱の中で最も使用が多く、昭和30年代では旧作にも使用されていますので、昭和30年代の箱書と推測されます。

  

石黒宗麿の座右の銘は荘子の斉物(せいぶつ)論。「モノの価値は見かけ上のものにすぎず、自然にまかせる生き方」を説いた「万物斉同」からの「栩々然」(くくぜん)から、昭和11年、八瀬に築窯してから「栩庵」・「栩翁」・「栩」・「栩園書屋」などと号し、高潔な文人精神を貫いています。



唐津の釉薬とも、均窯の釉薬ともみれる釉薬で「失透釉」とはうまい命名です。



手取りは釉薬の厚みもあって若干重いのですが、景色には十分な味わいがあります。



愛好家にとっては資料的に貴重な作品であり、きちんと後世に伝えるべき作品のひとつでしょう。

骨董は選ぶにはやはりある程度の知識と感性と度胸が要るようです。石黒宗麿の「その1」、「その2」で少しだけ知識を少し広めておいたのが今回の作品との縁になりました。

上記のような知識は本屋の本やインターネット上では掲載のない知識ですので、良く調べないと見つかりませんでした。むろん購入時には印も良く見えないし(上記の写真は少しは解るように加工しています)、上記のような詳しい知識はまったくありませんでしたが、「いい!」、「エイヤ!」の感覚でした。これを「博打」と呼んで非難するのは結構ですが、人生はときおりは博打のような判断も必要です。

猛虎図 都路華香筆 その4

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幼稚園から帰ってきた息子は畑からキュウリを採ってきたらしい。



あっという間にキュウリを二本、食べてしまったとか・・・。好き嫌いがほとんどなく野菜が大好きなことはいいこと。家内が幼稚園の参観に行ってきたのですが、聞くところによると息子は優等生だったとか?? 小生の言うことは良く聞かないの・・・。



さて、本日は知る人ぞ知る、都路華香の四作品目の紹介です。

猛虎図 都路華香筆 その4
紙本水墨淡彩軸装 軸先鹿角 都路華明鑑定箱
全体サイズ:縦1895*横525 画サイズ:縦1235*横325



都路華香についての説明はインターネット上には乏しく下記の資料程度しか見当たりません。

ただ平成18年京都国立近代美術館にて大規模な回顧展が催され、そこで出版された画集は大いに参考になるものでした。

 

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都路華香(つじ・かこう、1871-1931):竹内栖鳳、菊池芳文、谷口香嶠とともに、「幸野楳嶺門下の四天王」と並び称された日本画家。



華香はさまざまな展覧会で活躍する一方、教育者としても近代京都画壇の隆盛を支えました。華香は京都を代表する作家の一人でありながら、今や知る人ぞ知る存在というほど知っている人が少なくなりました。その理由の一つには、主要な作品が散逸し各所に秘蔵されていたという事情があるようです。



幼い頃から学んだ四条派の画風に、建仁寺の黙雷禅師に参禅して得た精神性をまじえ、新技法を積極的に取り入れた華香の画風は、現代の我々から見ても新鮮な魅力に満ちています。

最近では、その画風が海外で愛され、アメリカにて多くの作品が所蔵されています。

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鑑定箱書は都路華香の子息の「都路華明」によるものです。

  

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都路華明:日本画家。京都生。都路華香の子。本名辻宇佐雄。父華香に学び、のち金島桂華に師事、衣笠会に属する。京美工・京都絵専卒。帝展・新文展・日展等に入選を重ねる。山水・花鳥を能くした。昭和40年(1965)歿、62才。



*箱のあつらえ、表具から大切にされてきたことが窺い知れます。



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落款から明治36年頃(1903年)の作と推察され、押印されている印章はこの頃も含めて長い間押印している印章です。

 

参考までに文献資料からの落款と印章は下記のとおりです。

 

なお虎の作品で著名なのは「嘯虎図」(京都市美術館 明治34年(1901年)作)がありますが、その作品は細密に描かれ、岸駒や近代の大橋翆石に似通った描き方であり、都路華香の面目躍如たる描法は本作品のほうが良く現われていると思われます。



都路華香の作品は本ブログにてすでに三作品紹介されています。意外に人気もあり、作品が少ないので入手しずらい画家の一人です。

寿老人 都路華香筆 その1
絹本着色小色紙額装
画サイズ:210*180



波千鳥 都路華香筆 その2
絹本着色小色紙額装 
画サイズ:縦210*横180



*その1とその2の印章は共通であり、資料NO31と同一印章です。

番尾長鶏図 都路華香筆 その3
紙本淡彩軸装 軸先塗 合箱
全体サイズ:縦1895*横525 画サイズ:縦1235*横325



*この作品は落款から明治36年頃の作と推定されますが、資料にこの印章は掲載されていません。この当時の印章の資料は完全とは言えないこともあり、画風や落款から真作と判断されます。

幸野楳嶺亡き後に川合玉堂は橋本雅邦への入門に際し、都路華香を誘っていますが、都路華香は京都との関わりなどからかこれを断っています。そのような経緯から都路華香の作品は東京ではなく関西にその作品のほとんどが遺っています。

現代でもあまり知られていない画家かもしれませんが、もっともっと評価されるべき画家の一人でしょう。

*本ブログでは「もっと評価されるべき画家」(もっと知られるべき画家)として、渡辺省亭、都路華香、天龍道人、釧雲泉らを取り上げています。

ところで展示室において本作品の前に置かれている甕・・。



これもまたもっと評価され、知られるべき弓野焼です。

伝黒高麗花入 OR 黒釉花入

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息子の通う幼稚園は自然が一杯です。



幼稚園のバザーに息子はシンガポールエアラインの制服で・・・??



バザーでは大人に混じって絵本選びに無我夢中・・。



「これ!」といって3冊選び、さらに図書館で、さらに本屋で・・。この日一日で何冊になったのかな?



さて最近の「なんでも鑑定団」に源内焼が出品されることがあるようです。先日の「なんでも鑑定団(2017年6月27日放映)」にも下記の作品が出品されていました。

「なんでも鑑定団」の寸評は下記のとおりです。

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素晴らしい物。平賀源内は今のさぬき市の志度出身だが、彼が指導して始まった、まさに香川の焼き物。形が面白い。分銅型、金銀を量る重りなので吉祥文様。おちょこが付いているが、恐らく、そこに調味料を入れて料理を出す。ヨーロッパ風の花が描かれていて、時代の先を行った平賀源内らしさのある焼き物。状態もとても良い。柔らかい焼き物なので保管に気を付けて欲しい。



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でも鑑定額がさすがに40万円はいくらなんでも高すぎます。

骨董商が売りたい値段であって、実際の売買金額はその10分の1が妥当と思われます。その直後のネットオークションではお猪口がなく、図柄が「なんでも鑑定団」の出品作より少し簡素な作品で落札金額が7万円でした。これも「なんでも鑑定団」の影響でしょうが、少し高すぎます。蒐集する側には「なんでも鑑定団」の鑑定金額は困惑する事象です。

ところで本日は「骨董に大切なのは鑑識眼ではなく審美眼というもの」という作品の紹介です。

伝黒高麗花入 OR 黒釉花入
合箱
口径49~51*最大胴170幅*高さ230*底径95



黒高麗とは16世紀半ば頃から、朝鮮半島で焼かれた日常雑器を日本の茶人が賞玩し茶器に見立てたものです。



ここで注意するのは「高麗」とは「朝鮮渡来」の意であり、「高麗茶碗」と称されるもののほとんどは高麗時代ではなく、朝鮮王朝時代の作品だということでしょう。



黒高麗は鉄釉の「高麗天目」や鉄絵具のうえに青磁釉をかけた「鉄彩手」などの黒物の総称のことです。茶碗以外では徳利や偏壷がほとんどであり、本作品のように梅瓶のような形の花入は珍しく、さらに通常は黒釉が全体に掛かっていますが、本作品のように掛け流れている作品は稀有でしょう。



とはいえ黒高麗ではなく、近代の作品と考えるのは早計で、胎土は黒高麗のものであり、油などを入れた容器という用途を考えるとこのような形があってもおかしくはないでしょうし、また釉薬がもったいないので掛け流しのようになったとも考えられます。



「黒高麗」としてではなく単に「黒釉花入」であろうとも、実に姿の良い、また景色の趣のある作品といえることに変わりはありません。反論があるでしょうが黒高麗はそれほど形の良いものが少なく、また黒釉そのものに味わいがあるものも少ないので、本作品を評価できるという逆説的な発想もありえます。

思うに何事も評価値段に惑わせられない審美眼が重要だと思います。息子の本選びも同じ!

磯釣 酒井三良筆 その6

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叔父が数多くの酒井三良の作品を旧蔵しており、自宅を訪ねた時に床に掛かっていた軸が酒井三良の作品でした。「酒井三良は知っているだろう?」と尋ねられたのですが、当時まだ知識の浅い小生は首を横に振ったら、叔父が残念そうな顔をしていました。叔父は酒井三良の作品がとても好きだったのだろう。

それから30年近く経った今になって、小生も少しずつ酒井三良の作品を蒐集しているのは叔父の影響であろうか?

磯釣 酒井三良筆 その6
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱二重箱 
全体サイズ:横675*縦1418 画サイズ:横543*縦420



F10号サイズの掛け軸としては大きい部類の作品。酒井三良の作品はこれくらいの大きさのある作品がよいのだろう。



酒井三良は福島県の生まれで我が郷里と同じく東北出身の画家です。会津に住み込み、独学で絵画を描き続け、大正10年、小川芋銭を知り、その勧めで院展に出品し認められました。



それでも困窮した生活を送り、昭和21年、横山大観の勧めで茨城県五浦の大観別荘に移り、昭和29年、東京都杉並久我山に転居するまで暮らしています。



戦後、ようやく生活も徐々に安定していく酒井三良は自然と親しんでいた経験を元に、日本の風景や四季を愛しその風景を中心に描くようになります。



自然に包まれながら生きる人々を素朴な筆致で詩情豊かに描いた画風で知られ、その淡く白みを基調とした作品はどこか繊細であり、緻密な表現力で描かれる日本人の琴線に触れるような作風が特徴となっています。

 

雪景や田園風景を描いた作品は生まれ故郷の福島の風土への回想が根底にあり、また戦後住んだ茨城の海浜風景や水郷をテーマにした水墨作品も多くあります。

 

望郷の念が日本人の根底にあるものとすると、これからの都会で住む人の多い日本人は酒井三良をどう評価していくのでしょうか? ただ望郷の思いは日本人の意識の中に深く息づいている以上、酒井三良の作品は今後も高く評価されていくのでしょう。



表具の仕立てもセンスが良く、保存状態も良好です。私が骨董においても師と仰ぐ一人の叔父が旧蔵していた作品は、子息らの手ですべて散逸しました。

それらのほとんどの作品の画像は当方で保存しており、印章はその作品の中のものと同一のものが押印されていることが確認されています。

本作品の大きさ、状態の良さですと市場の取引価格はほぼ30万前後。最低でも10万は超えます。掛け軸において、ある程度著名な画家の作品はある程度の金額で購入しないといい作品は入手できないでしょう。

陶磁器にしろ骨董というものは、ある程度名前の売れた作家の作品は、インターネットオークション、骨董市、骨董店などで10万程度以下で購入できる作品は99%駄作、贋作と思っていいでしょう。駄作ばかりを飾っている御仁は、本人の品格まで問われますので要注意ですね

よくいるのですよ、立派な部屋に駄作ばかり飾る御仁が・・・、金持ちほどケチということかも? いい作品の入手には知識、鑑識眼が不足しているなら資金で補うしかないのに・・・。

ただ叔父は能ある鷹は爪を隠すが如く、本当のいい作品はなかなか見せてくれませんでした


鉄絵刷毛目大徳利 OR 伝鶏龍山徳利

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新入社員の面接が第2クールに入りましたが、今年は売り手市場が加速し、なかなか思うには人材の確保ができないようです。女性が二名ほど内定しましたが、年々、女性の採用の比率が高くなっています。これも世の流れというものかもしれません。

さて鶏龍山、ましてや李朝を知らぬ人は陶磁器を語ることはできないでしょうが、その李朝の分類の中でも鶏龍山という分類は三島手、粉引などと並んで李朝の中で大きな存在です。

「鶏龍山」は陶磁器を蒐集する人にとっては垂涎の的であって非常に高価なものです。なかなか入手できない作品群ですので、当方の手持ちにある作品でそれらしきもの?にて「鶏龍山」について説明します。

鉄絵刷毛目大徳利 OR 伝鶏龍山徳利
合箱 
口径74*最大胴幅170*高台径95~96*高さ305



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鶏龍山:本来は韓国に実在する地名ですが、陶磁器の分野での場合、李朝陶器の意匠の一種を指しています。白い化粧土に黒の鉄釉でのびのびとした抽象的な線画を施しているもので、鉄絵刷毛目などとも称しています。

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本作品の是是非はさておいて、李朝の鶏龍山の陶磁器がそれほど人気があるのは日本人の感性によるものと思われます。



下記の説明文がそのことを明確に表現しているようですので引用します。

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李朝の始まり:1392年、倭冦や中国紅巾賊の侵入を阻止して、実権を握った高麗の将軍・李成桂(イ・ソンゲ)は、元を北方へ追いやった新興の明に近づき、李氏朝鮮を建国し、「太祖」として初代国王に即位した。その後、1910年まで27代519年間延々と存続する。世界史的にも、こんなに長く栄えた王朝は希有である。

高麗時代の美術工芸品を奨励する仏教から、李朝代の倹約を奨励する儒教によって装飾を嫌い、用に徹した素朴な陶器が焼かれるようになった。

韓国の歴史は日本に大きな影響を与えている、焼きものから見たその歴史は大きく分けると次のようになる。
 
 統一新羅時代 669年から935年
 高麗時代 918年から1392年
 李朝時代 1392年から1910年(明治43年)
 
 鶏龍山のやきものはこの3番目の李朝時代の初期、李成桂による李朝建国1392年から秀吉による朝鮮出兵でやきものが大きな打撃を受ける1598年あたりまでが粉青沙器の全盛期の時代といわれている。この粉青沙器は粉粧灰青沙器の略とされ、色のある土であったため、美しく見せるために白土でさまざまに装飾、化粧掛けされ、そこに灰釉の掛けられた陶器のこと。

 

上記写真の左写真は「伝忠清南道鶏龍山出土  粉青鉄絵魚文壺」。 文様は右の資料の写真のように種々雑多あります。

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「鶏龍山」で特に好まれるのは酒器ですね。



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 日本では一般的に茶の湯の世界では「高麗物」として親しまれてきた。もともと中国の青磁や高麗物は芸術的にもすぐれた最先端技術で作られており、さらに危険な海を渡って日本にもたらされたものであるだけに極めて高額であった。こうしたやきものは日本の茶道にとって、お手本的な存在であり、垂涎の名品でもあった。いまだに李朝の茶道具が骨董マニアの間で愛好され、取引されている理由でもある。
 
 日本人の感性には古くから「侘び・寂び」といわれる無常観の世界があり、気に入った良い品を徹底的に長期間使い込み、その作品が変化してゆく過程を楽しむという、世界には類を見ない、極めて高いレベルの美学が伝統的に残っている。根は同じかもしれないが、ヨーロッパの人々が、不便でも築何百年という歴史や彫刻が刻まれた古い住居に住みたがる傾向とはいささか趣を異にする。

 日本人は四季の変化を楽しむ中で、無常観、死生観を大切にしてきた。すぐれたやきもので茶を喫する折々に、そうした思いをその茶碗や茶道具の変化(使い込みによる、手触りやしぶさなどの時代付け現象)に観たのだろう。それはまさに仏教的な世界観とも合致したものであったともいえる。

 そうした「侘び・寂び」がもっとも顕著に出たのが李朝・粉青沙器。骨董マニアの言葉に「日本人は信楽と李朝で死ねる。」というのがある。もちろんこの場合の日本人とは「日本の茶人・骨董マニア」という意味だが、広く日本人と解釈してもいいのかも知れない。死ねるというのはオーバーな表現だが、死ぬほど好きだということだろう。

 李朝の鶏龍山のやきものを日本人は「三島」と呼ぶことがある。これは静岡県の三島市にある三島大社が昔から発行する「三島暦」の文様に、李朝のこの作品の型押し象嵌文様がたまたま似ていたことから、茶人が名付けたものといわれている。それほどに李朝陶磁器の魅力はさまざまな意味で日本人の心の奥底にまで浸透していた。

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「日本人は信楽と李朝で死ねる」か・・・・。



本作品はちと釉薬の割れが気になります。



はぜが景色になっている点は面白いです。



本作品は李朝と限定すると問題がありそうなので、技法として「鶏龍山」に分類されるというのが正解としておきます。



このような作品に触れながらの入門の領域から真作へとたどり着くものと考えています。



最初から真作というのは土台無理というもの・・、何事も基礎を習得していないと始まりませんね。



新入社員も何事も基礎から・・・。若き社員よ、学べよ、学べ! 今しかない1

美人図 鏑木清方筆

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最近は腹の立つことばかり。仕向けや差っ引きといった部類の赤伝などもその部類・・・、工事の元請責任やプライドはどこへやら。

さて本ブログに投稿した作品の中で掛け軸が1000作品を超え、陶磁器も600を超えたようです。ガラクタが多い中で淘汰された作品も数々あれど我ながらよく続いていると思います。

本日は七夕です。ちょっといい作品を飾ってみることにしました。

美人図 鏑木清方筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先螺鈿 合箱
全体サイズ:縦1290*横310 画サイズ:縦490*横225

茶室の床に飾っていると「パパ、ご飯だよ」と呼びにきた息子も鑑賞・・。



鏑木清方のファンの家内も「いいね~」と・・・。



共箱ではありませんが、おそらく挿絵の原稿かなにかの作品でしょう。

 

墨一色でここまで描ける画力を持つ画家はそうそうにはいない。



着物と指の描き方が只者ではありませんね。



印章、落款の検証は参考資料との比較では下記写真のとおりです。
左が本作品の落款と印章です。

*落款から大正の中頃、清方が40歳頃の作と推定されます。(なんでも鑑定団情報局 鑑定資料より)



軸先には螺鈿は施された塗が施されています。



表具は美人画らしい華やかな布地が使われています。





当方には鏑木清方らしき作品としては下記の作品を紹介したことがあります。

紙雛 伝鏑木清方筆
絹本着色額装 
画サイズ:縦340*横295



この梅雨時の湿度の高い時に飾る作品はエアコンで除湿せざるえないので、風邪で掛け軸が動かないように風鎮を使わざる得ないのです。



ちょっと洒落た風鎮を使い、あとは家内が手前の一輪挿(永楽善五郎作)にとのような花を生けるのか?

息子への八つ当たりのにように腹の立つ思いをおさめる良薬が必要なようです。立場の強い人間が立場の弱い人間をいじめてはいけません。

雪景山水図 釧雲泉筆 その20

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酒とゴルフとギャンブル、そしてゴルフにはまると何の徳も無い。そう、なんの「徳」もない。これを肝に銘じている人は意外に少ない。

さて本日は久し振りに釧雲泉の作品の紹介です。蒐集を始めた頃には紆余曲折のあった釧雲泉の作品ですが、ちょっと落ち着きを取り戻しています。ようやく真贋が、ほんの少しですが判断がつくようになってきました。



雪景山水図 釧雲泉筆 その20
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦970*横465 画サイズ:縦*横

表具は当時そのままのもののように思います。箱もない状態での入手でしたが、なんとか鑑賞できる状態を維持している作品です。



このような作品を「掛け軸は黴臭い。」とか「汚らしい。」とか言われる御仁がよくいますが、シワもあり、虫食いもある、これが古い掛け軸の魅力なのですよ



印章(下記の写真右)のみの作品で印章自体は当方の所蔵作品NO2.「浅絳山水画双幅」(左とその隣の写真)、そして参考作品「河豚図」(右から2番目の写真)と酷似の印章が押印されています。

*経験値から古い作品でここまで印章を真似るのはほぼ不可能と思われます。

   

左下には小印で「雲泉」とあります。なぜ例外的に落款のない、押印のみの作品なのかは良く解っていませんが、釧雲泉の作品の中ではかなり小さな作品であることから、スケッチや下書きのようなものであったのかもしれません。



作品の雰囲気から晩年期の真作と判断しています。



釧雲泉の作品は前期が自由奔放の筆遣いに対して、後期の作品は重苦しいと評価されています。



どちらかというと前期の作品が遺されている作品の数も少なく評価が高いとされています。



本作品は後期の分類される作品と思われます。



小点(小さな南画の作品を総じての名称)ながら、味わい深い作品だと私は評価します。

冒頭に追記すると、骨董にはまるとなんに得もない。そう、なんの「得」もない。これを肝に銘じている人も意外に少ない。



色紙 山高水長 平福百穂筆 その28 

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先日は豊洲のマンションまで・・・。投資対象になっているようですが、採算性はよくなく単に人気があるということで注目を浴びているというのが実感です。投資対象としては半々の状況。

購入なら少なくても5千万以上から1億、賃貸なら月に20万以上から30万程度。若い人が多く入居しているようですが、いずれ一般感覚では高嶺の花。家内曰く「生活のレベルを落とすときに大変ね。」。たしかに若い時はお金などないほうがいい、苦労したほうがいい。徐々に生活レベルを上げればいいのであって、親との同居など、親の遺産や援助で高いレベルの生活を自分の稼ぎで地についた感覚でしていない人は将来が思いやられます。出入りする車はベンツなどの外車が多い・・・。

さて最近、子供は昼寝をしない。夜も遅くまで起きているので、帰宅してもなかなか作品を整理している時間がとれません。よって、ブログの原稿の作成もままならず・・、そろそろブログの投稿も時間がとれずに限界か・・。当方は貧乏暇なし・・。

最近の展示室二階のスナップ・・。小倉遊亀、高山辰夫・・・胡散臭くとも色紙は実に気軽に飾れる作品です。



近代画家の色紙の作品で購入に際して留意しなくてはいけないのは印刷作品や印刷に手彩色したいわゆる工芸作品と呼ばれる量産品との混同です。

本日はそのように工芸作品の多い画家のひとりである平福百穂の色紙作品の紹介です。

色紙 山高水長 平福百穂筆 その28
紙本水墨淡彩 色紙 タトウ   
画サイズ:縦270*横242



最近、馴染みにしている骨董店で近藤浩一路の作品でいいものがあったので購入しようかと思ったのですが、家内とその作品を良く見ると「工芸印」と押印している印章が読めそうなので購入を諦めました。印影が明確ではないので、骨董店のご主人は肉筆と判断していたようですが、どうしても当方は納得できずに購入を諦めました。



*色紙の保存にはタトウ、保存箱などがついているのがいいですね。その中に作品の説明書を添えておくと良いでしょう。

色紙の額はちょっと凝ったものがいいですね。味気ない額は蒐集するものとしてプライドが許さないものです



通常は複製NOを箱などに明記したり、印章に明確に「工芸印」と押印するのですが、本物そっくりということで印章も本物そっくり、絵の具の本物という複製作品がたくさんあります。素人ではまったく判別できない作品も数多くあります。



複製品を真筆と判断して購入したという骨董店の見習いの人が「お前は見る眼がある。」と先輩に褒められたという逸話もあるそうです。作品そのものは複製でも、出来は本物ということで褒められたということです。



色紙という分野も非常に複製作品の多い分野です。肉筆か印刷かの判断には色紙の端部に墨などの絵の具がのっているかどうかというのがあるそうです。これも手彩色ではごまかしがききますのでなんともいえませんが・・・。



ところで本作品は工芸品? いえ「肉筆」です。



平福百穂には工芸品が多いので良く注意して下さい。むろん贋作も・・。ネットオークションはおおかた贋作です。落款の字が下手なのはまず贋作で、この点であらかたの贋作を判断できます。



本作品は金地に描かれた晩年の秀作といえる作品だと思います。金地は金が地についた状況・・・・、若いときは背伸びした生活をせず、自分の稼ぎで貯金ができるレベルの生活を地道に暮らすことがベストです。骨董などもってのほかです


基本的に大学に進学したなら親元を離れ、卒業したら親の支援を受けないのが基本です。小生も18歳で上京、大学卒業時に母から渡された当座の生活費が最後で、その後は逆に仕送りはしても援助はありませんでした。それでもかなり恵まれているほうだと感じていましたが、今の若い人は自立という意識はどうなのだろう? 親元から通勤し、親に作ってもらった弁当で食事しているのはどうかと思う。そのまま豊洲のマンション暮らしなどという生活そう長くは続かないと確かに思う。思いのはか人生は生活レベルは平等のようで、頑張った人は向上し、し、贅沢した人は堕落する。



リメイク 仙山遊鹿図 伝冨岡鉄斎筆

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先週末には息子が金曜日の夜から高熱で、夜中に苦しそうにするので、小生はず~っと添い寝し、朝早くから病院に駆け込み、日中はまた添い寝、土曜日にはまた寝かしつけて、ようやく日曜日には元気になりましたが、朝から「パパ!、遊ぼうよ」だと・・・当方はぐったり・・。

さrw本日の作品は男の隠れ家の床の間に時折、掛けられていた本作品ですが、だいぶ湿気を含んできたので、湿気を抜こうかと思い、またちょっとさらなる調べるところもあって持ち帰ってきました。

掛け軸の保管にはこの季節は油断大敵です。掛け軸の保管する場所にはエアコンが必需品です。飾り終わったらエアコンのあるところで湿気を抜いて保存箱に収納するのが基本です。また収納する場合も全体を紙で包んで収納します。布などで直接包むのは危険です。

仙山遊鹿図 伝冨岡鉄斎筆
絹本着色軸装 軸先本象牙 共箱二重箱 
全体サイズ:横454*縦1970 画サイズ:横424*縦1338



掛け軸には湿気は禁物ですが、湿度を管理した状態で保管するのはなかなか難しいものがあります。同じ骨董品でも漆器や刀剣は乾燥しすぎると木に割れが発生したりして、決して同じ音湿度の環境でよいというものでもありませんので、各々の管理は非常にデリケートのようです。

ただ、一定の湿気を超えると掛け軸はカビが発生したり、紙魚という虫を呼び込むことになりますので、湿気は避けなくてはなりません。湿気の抜けない場所に長く放置することは避けたほうがいいでしょう。床の間や天袋、押入れというものは北面に接しており、結露しやすい場所、もしくは湿気が抜けない場所にあることを肝に銘じておく必要があります。

*ところで掛け軸の箱に一般の防虫剤(着物用などのもの)も厳禁ですよ。黒く変色する可能性があります。

さて、本作品はずいぶんと以前に入手した作品であり、本ブログにもなんどか投稿されています。購入当時、自分で調べた記録は下記のとおりです。

 

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遊印は「□□」、印章は「百練□印」の朱方印と「□□鉄史」の白方印が押印されている。白方印は明治15年頃(47歳頃)から使用されているが他の印章については未確認です。

 

明治元年(33歳)から百錬の名を用いていますが、賛に「鉄斎外史写并録」とあり、作風や賛、書体から大正7年(83歳)の作と思われます。

「(遊印押印) 惟永□々田禾熟 伹願人々福寿長 此郡尭来白也□ □□見只求実□ 年風調雨順五穀 豊登天□災傷之 苦則人々辛福遍 地□可□祝慶我 鉄斎外史寫聘并録 (押印)」

*富岡鉄斎は自分の作品は絵を観るより賛を読めと言っていたとか・・・。



箱書きは後日なされたものと推察されます。印章は「鉄□□斎」が押印されており、真作箱書きに押印されているものと同一印章であることは確認できています。

  

稚拙にみえる絵ですが、全体構図、賛の出来から購入に踏み切りました。稚拙ながら眺めるほどに不思議な味があり、その判断に間違いは無いと思っています。

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真贋はともかく、富岡鉄斎の作品を観ても、「最近の人にはきっと理解できないであろうな~」と思わざる得ません。現代人の理解の枠を越えているようなところがありますね。

鉄斎は、京都で第一流の学者や芸術家たちの塾に通い、広範な知識を蓄積していきます。国学、漢学、陽明学、詩文、さらには勤王思想などを深めていったようです。またその過程で、鉄斎は女流歌人としても知られていた大田垣蓮月という尼僧を知り、蓮月焼と呼ばれる彼女の陶器作りの手伝いをするために、一時、一緒に暮らししています。鉄斎が二十歳、蓮月が六十五歳の時のことです。

この母親と息子あるいは祖母と孫のような共同生活の中で、鉄斎は慈悲深く謙遜な蓮月に大いに感化されています。つまり、蓮月との出会いによって、鉄斎は人間性を深め、真の人間の在り様みたいなものを把握したのでしょう。だからこそ、鉄斎は国学者であり、儒者でありながらも、決して偏狭な思想の中に自らを閉じ、目と心を外に向けてオープンにしていけたのでしょう。それでいて、学問をする中で把握し得た人間の真実を自らの立脚点にしていたから、決して時流に流されて浮遊するようなことはなかったようです。鉄斎はフェノロサの提唱に端を発した文人画の排斥という、嵐のような逆風にもびくともしなかったとのことです。彼は飽くまでも自らの姿勢を崩さず、ひたすら独自の道を突き進み、そこには、自分の絵は従来の文人画家たちのものとは違うんだという鉄斎の自負があります。

梅原龍三郎が富岡鉄斎を評して次のような言葉を遺しています。「近き将来の日本美術史は徳川期の宗達・光琳・乾山と、それから大雅と、浮世絵の幾人かを経て明治・大正の間には唯一人鉄斎の名を止めるものとなるであろう」と・・・。

一方の富岡鉄斎は「俺は知っての通り元が儒生で、画をかくというのが変体じゃ。それで師匠もなければ弟子も取らぬ。唯もう書物の中から出して画を画くばかりで、それで書物という書物、画論という画論は大概買って読んで居る。(中略)南画の根本は学問にあるのじゃ。そして人格を研かなけりゃ画いた絵は三文の価値もない。俺の弟子取りをせぬ理由もコヽじゃわい。新しい画家に言うて聞かしたい言葉は、『万巻の書を読み、万里の道を徂(ゆ)き、以て画祖をなす』とこれだけじゃ」と言っています。

鉄斎は長寿でしたが、80歳を過ぎてますます画力は増し、葛飾北斎の如く80歳はまだまだ雛と思っていたのではないでしょうか? 本作品の「長寿」はまるで自分の長生きしてもっと絵が描きたいという願いだったようにも思えます。

人は湿気のように甘えの多いところに長く居てはいけません。掛け軸に喩えるのはなんですが、常に自分を鍛錬する場に置き、腐敗しない日頃の努力が大切です。そして地道な努力こそが、天才を超える結果を生み出すことになるように思います。

そう、若き人よ! 人間性を磨け!



弁財天 平野富山作 その2

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水屋近くの展示スペース。棚に丸い空かしがあったので裏側に窓を設けています。そこからの景色が良いものだったらもっとよかったのですが・・。



そこに本日紹介する作品を飾っています。



木彫の極彩色された作品は飾るところに要注意です。まず陽があたるところはダメで、湿度管理ができていないといけません。といって乾燥しすぎてもいけません。

弁財天 平野富山作
ガラスケース入
ケース:幅400*奥行365*高さ450 本体:幅175*奥行155*高さ230



小さめの作品ですので、拡大する写真で見ると彫りの粗さがちょっと目立ちます。



家内に「貴方にそっくり・・・」と言ったら、「顔が怖くない?」だと。



日本では「才」が「財」の音に通じることから財福をもたらす女神として信仰されています。



容姿じゃなくて「辯才(言語の才能)」、「辨財(財産をおさめる、財産をつぐなう)」という意図なのですがね・・・。



弁才天は財宝神としての性格を持ち、「才」の音が「財」に通じることから「弁財天」と書かれるようになります。



室町時代の文献には、「大黒天・毘沙門天・弁才天の三尊が合一した三面大黒天の像を、天台宗の開祖・最澄が祀ったという伝承」があり、大黒・恵比寿の並祀と共に、七福神の基になったと見られています。



ともかく下記の以前に投稿した作品「桃太郎の鬼退治」は息子の三歳の誕生祝、本作品は家内の干支年のお祝いのつもりです。

家内はさらに「人形はケースもあって場所をとるのよね。どこに飾るの?」だと・・・

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平野富山:明治44(1911)年3月7日、静岡県清水市に生まれる。本名富三。清水市立江尻高等小学校を卒業して昭和3(1928)年に彫刻家を志して上京、池野哲仙に師事する。同16年より斎藤素巌に師事。翌17年第5回新文展に「女」で初入選。この頃から昭和50年代初めまで「敬吉」の号を用いる。



同18年第6回新文展に「想姿」を出品したのち一時官展への出品がとだえるが、戦後の同24年第5回日展に「若者」を出品以後は一貫して日展に出品を続けた。同31年第12回日展に「若人」を出品して特選となり、同34年第2回新日展出品作「裸婦」で再び特選を受賞。同38年日展会員、同57年同評議員となった。日展審査員をしばしば務めたほか、同33年より日彫展にも出品を始め、同37年には第58回太平洋展に「習作T」「現」を初出品して文部大臣賞を受け、同年会員に推挙された。

参考作品:なんでも鑑定団出品作 評価金額140万(状態良ければ350万)  



団体展出品作は塑像が多く、ブロンズ像を中心に制作したが、彩色木彫も行ない、昭和33年には平櫛田中作「鏡獅子」の彩色を担当。同60年静岡駿府博物館で「平野富山彩色木彫回顧展」が開催された。裸婦像を得意とし、若く張りのある肉体をなめらかなモデリングでとらえる。ポーズによって「流星」「かたらい」等、自然物や抽象的概念を暗示する甘美な作風を示した。能や舞、女性像、動物をモチーフにした木彫り彫刻作品に日本画に使われる光沢のある顔料を用いて衣装や装飾を描く「彩色木彫」の第一人者として高く評価されています。また、平櫛田中が制作した作品のほとんどの彩色を担当しています。享年78。



*平野は同じモデルの作品を40~50体作ったが、完璧なコンディションで残っているものは少ない。

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当方での他の所蔵作品として投稿した作品には下記の作品があります。                    
桃太郎の鬼退治 平野富山作
ガラスケース入
ケース:幅590*奥行550*高さ550 本体:幅340*奥行280*高さ255







良く知られている弁才天は下記の説明によります。

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弁才天:仏教の守護神である天部の神々の1つ。インドの神でヒンドゥー教の女神として信仰されているサラスヴァティー(Sarasvatī) が仏教に取り込まれてこのように呼ばれている。古代インドの水の神サラスヴァーティーのサラスは「水」を意味し、もともとは西北インドにあった大河の名前を指し、大河の自然としての偉大さ自体を神としたものらしい。さらに河がもたらす恵みから豊穣の女神となり、さらさらと流れる河の音が音楽を奏でるようだとの連想から、音楽の女神にもなる。

また、日本の神道にも取り込まれている。また、弁天とも呼ばれ、七福神の一員となっている。元々は古代インドの河神として音楽や学芸などの神として信仰されていたが、日本では「才」が「財」の音に通じることから財福をもたらす女神として信仰されている。

琵琶を弾く姿とは別に「金光明最勝王経」というお経の「大弁才天女品」によると、「その姿は一面八臂(八本の腕)で、人々に弁才、無尽の智恵、財宝、延命」を与え、さらに「悪夢・邪気・呪術・鬼神などの人を惑わすものどもを排除し、病苦や疾病、闘争などからも遠ざける」とある



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「弁財天図」は本ブログに掛け軸の幾つかの作品を紹介していますが、掛け軸の作品として改めて下記の作品を紹介します。

弁財天図 田能村直入・小斉・小篁筆
合箱
全体サイズ:縦1880*横487 画サイズ:縦1067*横360



賛は「弁財天女楽琵琶心 以春風顔以花□寫 乾坤廣□極性来福 青妙生涯 明治三六年乙巳夏日謹題於東畫神堂 九十二齢翁真徹人」とあります。賛は田能村直入が92歳の時の賛を著した作品であり、1905年の作品と判断されます。

さらに右下には田能村小斎による落款があり「華甲小斎田順敬寫」とあり、弁財天の絵を描いたのは小斎であり、60歳の時の作であることが分かります。左下には田能村小篁により「小篁逸士□寫水石」と落款があり、岩と水を小篁が26歳と時に描いたことが分ります。

*本作品は「夏」の作で「秋」に描かれた共箱の作品が存在します。田能村竹田から始まる画家の田能村家ですが、二代目の田能村直入を始めてとする三代で描かれた貴重な作品です。

後世にはこれらの優品とともに祈りや祈願をせめて遺していきます。



ただ木像などで注意しなくてないけないのは、像の中に怨念めいた思いが入っている作品があるということです。亡くなった家内の時に観音像、今の家内の時に別の像を処分しています。

双方ともに家内が嫌な感じがすると・・・。処分後、いろんなことが好転しましたが、仏像らの処分はお寺さんなどにお願いするなど面倒なものです。理屈ではないことをよく見極めないといけないのが木像などの作品です。あくまでも骨董品は自分の福をもたらすもの。

松上双鶴図 渡辺省亭筆 その15

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家内がなにやら書斎の床の上に葉書を並べて絵の具をつけて筆でなにかを描いている・・・??



どうも息子が幼稚園で作った笠をモチーフにしてデザインしたようだ。これに文をつけて送られたほうは「傘」と理解できるのだろうか? いつもながら家内の葉書には読む側の苦労を察してならない

さて本日は渡辺省亭の作品を紹介します。すでに本ブログでは15作品目の紹介となり、説明内容の重複している部分も多いと思いますが、改めて「加島美術」を中心に近年再評価されている画家ですので、読者の皆様にも再評価していただきたいと思います。

松上双鶴図 渡辺省亭筆 その15
絹本水墨着色軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:縦1970*横650 画サイズ:縦1130*横500



来年の2018年には渡辺省亭の没後100年にあたり、それを目前に控えて、近年、急速に研究が進み、美術評論家たちの中で最も話題となっている画家です。



16歳で指導の厳しい菊池容斎の門人となり、本ブログでお馴染みの画家である柴田是真に私淑。23歳で日本初の貿易会社に就職して、七宝工芸の図案を描く仕事を始めます。洗練された江戸の美意識と西洋の感覚を融合させた省亭の工芸図案は評判になり、パリ万国博覧会に出品すると銅牌を獲得し、これを契機に日本画家で初めてフランスに渡りました。



パリではドガやマネなどの画家たちと交流し、その圧倒的な画力に印象派の画家たちも驚いたようで、ドガが省亭の筆を使って絵を描いてみたという記録も残ってるそうです。日本画の技術を伝承した職人気質の画家というイメージでしょうか?



花鳥図や動物画など自然をテーマにした洒脱な構図と洋風表現を取り入れた精緻な筆づかいの肉筆画が省亭の真骨頂と評されていますが、晩年に画壇と距離を置いたためか、その死後に回顧されることがありませんでした。本ブログでは早めに再評価されるべき画家として取り上げ、作品の紹介も本作品で15作品目となりました。



日本画の代表的な胡粉という白の絵の具を実にうまく用いています。胡粉の名手と言われている画家の一人に本ブログで紹介している福田豊四郎がいます。



日本画の特徴である淡い色彩で、かつ最小限の筆遣いで、写実的に単純化されて表現された作品は西洋には衝撃的であったことが推察できます。



ちなみに渡辺省亭と数少ない親交のあった画家にこれもまた本ブログでお馴染みの小生の郷里出身の画家である平福穂庵がいます。

本作品と同様に「双鶴」を題材にして平福穂庵が描いた作品は最近のブログに投稿しています。

「双鶴図 平福穂庵筆」



なお本作品の印章は、本ブログで紹介している他の所蔵作品「月明秋草図」(真)と同一印章です。





上部にはうっすらと赤く表現されている朝陽が感じられます。これもまた日本画独特の表現です。



表具には鶴の紋様が使われ、上下に色の違う部分の鶴を配置するあたりも洒落ています。



渡辺省亭という画家は確かにもっと評価されてよい日本画家の一人だと思いませんか?

ま~、かみさんの葉書の評価よりは簡単かもしれません。

大津絵 鬼の三味線 柴田是真筆 その11

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展示室には改築前に物置にあった桐箪笥を収納に使っています。桐箪笥のほとんどは収納スペースに置いてありますが、普段使う小物入れを入れておくための茶箪笥は展示室に置いてあります。



郷里の男の隠れ家も桐箪笥が多く、いったい何が入っているのやら・・、まだ見ていないものもたくさんあります。基本的には衣類が多いのですが、都会ではマンションに住む人が多くなり、無用の長物と化している桐箪笥・・・。いかに使うかはこれからの課題。男の隠れ家や展示室を設計した際には、箪笥の寸法を計測し、収まるようにしてスペースを確保したものです。



古い桐の箪笥などは一部を補修して、クリアで塗装などするときれいに蘇ります。以前は桐箪笥を解体して、掛け軸の保存箱の製作に使ったりもしました。国産の桐材は少なくなり、現在では掛け軸の保存箱の多くは中国産です。

日本人は木の文化で育っており、決して西洋のような石のDNAではありません。日本古来の家具をもっと活用したらよいと思うのは小生だけではないでしょう。

さて大津絵の画題を題材にして描いた近代画家の作品は数が非常に多いのですが、本日は柴田是真の作品の大津絵の作品の紹介です。

大津絵 鬼の三味線 柴田是真筆 その11
紙本水墨淡彩軸装 軸先鹿骨 合箱入
全体サイズ:縦1157*横563 画サイズ:縦284*横316



最近の一階の展示室のスナップ写真です。



大津絵は一種の風刺画という側面を持つということを知っておく必要があります。



落款には「行年七十五翁之是真 押印」とありますから、1881年(明治14年)頃の作品です。押印は「対柳居」という印章です。

*参考にした落款と印影は漆絵の作品からですので、多少の違いは印影に出てきます。

柴田是真の印章を検証していくと真作の中でも多少の違いにあるものが混在していることがあります。漆絵に用いることが多かったので、多少彫り直しをしたのではないかという可能性があると推察しています。もちろん贋作という可能性も視野に入れて判断していくことも必要です。

  

大津絵の「鬼の三味線」を題材にした作品で、「酒と音楽三昧の日々に溺れる姿、音曲や酒に心を惑わされる男性」を風刺したものです。

大津絵では下記のような作品が描かれています。

 

酒、女、ゴルフ、ギャンブルなどの刹那的な楽しみはある意味で日々の努力と対極的なところに位置しています。そんな金と時間があるなら、もっと有効に使う道があろうかと・・・、これは経験が言わせている 

最近新入社員との面接でアルバイトしたことをいい経験になったと説明する学生が多いのですが、内容を聞いていると本当にいい経験になったのか疑問に思うことが多いです。

アルバイトをあくまでも学費稼ぎであり、稼ぐという刹那的な経験は辛かったという思いしか小生にはなかったですが、今では就職活動のPRになるらしい。小生の場合は肉体労働が多かったせいかな? 小生の場合は学費より山に登る費用のためという要素が大きかったかも

ある意味で骨董も刹那的な快楽かもしれませんが「ものが遺る」という点で大きく異なります。「ものが遺る」というのが、刹那的な愉しみが多い現代、桐箪笥などもそうですが子々孫々がどう活用するかです。

古伊万里 猪口賛歌

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畑で虫取り網を振り回し、小生が息子にモンシロチョウを捕ってあげてから、息子にせがまれて義母と家内は蝶が来るたびに虫取り網を振り回しているようです。



時には戦利品を獲ているようで、クロアゲハやアゲハなど子供の垂涎の蝶を捕まえているようです。蝶の掴み方も教えたとおりしているようです。小生が帰宅したら「見せる!」と言っていたらしく、帰宅したらすぐに虫かごを持ってきました。

「さ~、放してあげるんだよ。」と言うと、虫かごから出して逃がしてあげていましたが、放された蝶は息子としばらく遊んでいました。飛んでからもしばらく頭の上を回っていました。なかなかない珍しい光景を見せてくました。



さて、本日はお猪口の紹介です。

古伊万里の猪口は骨董店で気に入った作品があると、少しずつ買い集めています。普段使いなので、男の隠れ家や現在の居の食器棚に納まっており、時折家内が食器として使っています。



食器棚から溢れた作品は骨董店で買ってきた桶を細工した飾り棚などにも置いています。

お猪口は高台が高いものほど価値が高いとか、生掛けの初期伊万里が珍品とか、幾つかの決まりごとがありますが、基本的にはその各々のデザイン性が高く、使いやすいものが良いのでしょう。

幕末から明治期の眼鏡底と呼ばれる作品群は最近までは蒐集の対象外でしたが、近年では品不足のせいか、その作品群まで蒐集対象となり、境目がなくなったようです。

今まで紹介していないと思われる作品を本日は紹介します。

古伊万里 薊文染付のぞき猪口 一対 
口径52*高台径*高さ63



江戸中期頃のの古伊万里かな? 「薊」はお猪口にはよく描かれる文様ですが、ここまで染付の面白味が出ている作品は珍しいかと思います。



焼き上がり発色好いです、歪みなく、座りも良い薄い作りの上手作と思われます。



6cmほどの頃良い大きめのサイズで、内側は口縁に「墨はじき」で描かれた草文が効いており、趣があります。

*「墨はじき」:あらかじめ墨で描かれた文様を描き、その上から呉須を塗って窯に入れます。墨は燃えて飛んでしまうので、その部分が白く残るという技法です。この手法は17世紀の中頃にはおこなわれているいて、伊万里の歴史の中では古くからある技法です。蠟抜きという技法とは違い、細かい文様を柔らかく白く残すことができるのでよく使われていたと思われます。本作品のように内側の口縁の部分に用いているのは珍しく、粋ですね。



古伊万里 錆釉のぞき猪口 
口径44*高台径34*高さ50



江戸後期の古伊万里かな?



初期伊万里の吸坂手に似ているこのような錆釉薬ののぞき猪口は非常に珍しい。



内側の口縁の染付と文字の文様が洒落ています。ここが現代ものと違う趣向でしょう。幼稚園のバザーで息子が買ってきたコースター・・・、年長組の園児が作ったものです。



お猪口の本流はやはり染付でしょうね。色絵のある錦手はちょっと主流から外れていると思うのは小生だけではないでしょう。



高台は深めのものがやはり味わいがあります。このへんはこだわりというもの。



生掛けの味わいもこだわり・・。



そして図案・・・。



眼鏡底と称される幕末から明治期の作品は、江戸期とは一線を画すべきものかもしれません。



お猪口の良いものは滅多に市場の出なくなりました。数多くあればよいというものではないようで、納得した作品を集めていくようにしています。





当方ではあちらこちらの神々のお水入れに用いています。

骨董はそれを使ったり、飾ったりした人々と古いものが心を通わせることが主眼であり、さらに忘れ去られたような古い作品の中に新たな美やときめきを発見することに本来の愉しみがあるものです。むろん商品としての金額的なことは避けては通れないのですが、「たいしたことではないのだ。」ということを忘れてはいけません。

白洲正子が「美しい、欲しいという衝動を金額で測ってはいけません。」ということを述べており、「なんでも鑑定団」が生み出している「なんでもお金に置き換える」という風潮はいいものではありませんね。

骨董は所詮、子供の頃の昆虫捕りのようなもの、昆虫を金で買ってはつまらない。

さて本日は午後から日帰りで大阪まで出張です。

富士海浜図  高倉観崖筆 その3

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掛け軸は日本の総合芸術ということですが、その中に軸先というものがあります。軸先の代表的なものに象牙あります。象牙は取引禁止ということもあり、これ以上は象牙の軸先は増えることはなく、象牙の軸先だけで2万円するという話も聞いたことがありますが、掛け軸から象牙だけ切り取られ売買の対象になることが流行するかもしれません。



本日紹介する作品も骨の加工されたもののように思われます。象牙以外には鹿の角、漆の塗、陶磁器、鋳物、木製の加工品、プラスティック、練りなど様々の材料があり、とくに戦時中や戦後には品不足があったようです。



軸の紐の結び方も様々です。見せる結び方?にもいろいろありますが、単純に丸めたような結び方は軸本体を痛めますので、きちんと覚えておく必要があります。



掛け軸の箱も中身が解るように小口に作品名と作者を記しておく必要があります。中を見ないと解らないようにしておくといちいち広げることとなり、掛け軸の本体や箱を落としたりして痛めてしまいます。



掛け軸の保存は桐箱だけの保存では不十分です。桐箪笥の収納し、桐箪笥にも防虫剤を入れ、さらに部屋全体をエアコンでコントロールする必要があります。



掛け軸は収納箱の誂えから表具まで作品本体以外にも鑑賞する要素がたぶんにあります。たとえが悪いかもしれませんが、西洋画の額よりも知識が必要であろうと思われます。

本日紹介する作品は三作品目となる高倉観崖の作品です。豪雨の被害にあった大分の画家であり、被害に遭われた方々へのお見舞いの意図も兼ねた紹介となります。

富士海浜図 高倉観崖筆
絹本水墨着色 軸先 合箱
全体サイズ:縦2045*横575 画サイズ:縦1255*横420



手前の大皿は平野庫太郎氏の作品です。



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高倉観崖:日本画家。明治17年(1884)大分県生。名は孫三郎、通称は宏明。京美校卒。竹内栖鳳・菊池芳文・山元春挙らに師事する。数回にわたり中国に遊び、『蘇江所見』を出版した。また画のかたわら俳句もよくした。昭和37(1962)年歿、74才。

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高倉観崖は南画の里とも称しても差し支えのない大分出身の画家です。



高倉観崖の主要な活躍期は大正初年から昭和前期ですが、この時期、日本画家は洋画や南画の影響を受けながら新たな日本画の創造を模索しており、特に江戸、代後期以降、南画が隆盛した独特の土壌に育った大分の画家たちは南画と近代日本画表現の間で様々な試み、展開を見せたています。



本ブログに紹介されている甲斐虎山や白須心華は生涯南画を制作し続けました。幸松春浦は南画風から次第に近代日本画の画風へと移っています。

*「幸松春浦」の作品は近いうちに投稿予定です。



首藤雨郊は初め日本画作品を帝展に出品し、後年は田能村竹田への憧憬から、南画風作品を多く描いています。

福田平八郎は大正中期に新南画風の作品が見られましたが、大正後期になると、こうした作品は見られなくなりました。そして観崖の場合は、一般には日本画を描く一方で、新南画風、俳画風の作画を行ったとされています。



朱文白方印「観崖」が押印されています。

 

大分の画家の中では南画から脱却し、近代画家となり得たのは福田平八郎だけだったかもしれませんね。

にしてもありきたりとも評されかねない本作品のような高倉観崖の作品も、床に掛けて見るとほっとするのは小生だけではないように思います。

大分など豪雨の被害を受けた地域の方々もほっとされるように、一刻も早い復興を祈っています。

千手観音 伝木村武山筆 その7

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展示室は祈りや願いの作品が数々あります。



照らす照明も少し凝っています。これは展示室を設計した友人が即興で作った作品。



千手観音 伝木村武山筆 その7
紙本水墨軸装 所定鑑定人横山陽子鑑定 軸先プラスティック 共箱 
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1390*横497



千手観音菩薩は仏教における信仰対象である菩薩の一尊です。「十一面千手観音」、「千手千眼(せんげん)観音」「十一面千手千眼観音」、「千手千臂(せんぴ)観音)」など様々な呼び方があります。



「千手千眼」の名は、千本の手のそれぞれの掌に一眼をもつとされることから由来しており、千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする観音の慈悲と力の広大さを表しています。



「代」は所定鑑定人の横山陽子女史によるもので、箱書の印章は他の所蔵作品「不動明王」に一致します。

 

箱書の木村武山の印章は不動明王」の作品中の印章と一致します。



作品中の押印については検証中です。神仏を描いた作品には基本的には落款、しいては印章する押印しない作品が多いようです。本作品はなにかの作品の下書きかもしれませんが、敢えて落款は著していない理由があるのでしょう。



左右のバランスがとれていないのも下書きと考えるのが妥当のようです。



昭和12年(1937年)に脳内出血で倒れ、郷里である笠間で静養し、後年は病で右手の自由が利かなくなったため左手で絵筆を執り、「左武山」の異名があります。



1916年(大正5年)、笹川臨風と共に大和・河内巡りをした際、観心寺の如意輪観音坐像に驚嘆したのを契機に後年は仏画を多く描きましたが、昭和17年(1942年)喘息によって死去しています。



本作品は仏画を描いていた頃の作品に相違ないでしょうが、脳内出血の時期との関係については不明です。



すさんだ事件の多いこの世に救いのあることをただただ願わざるえません。

高倉健と刀剣 & 葡萄図-21 天龍道人筆 その33

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代々伝わる刀剣の整理も手入れのみになってきました。順繰りに展示しては手入れをしています。



子々孫々まで伝えるということは並大抵のことではありません。登録・鑑定資料、維持する費用・方法をきちんと伝えて整理しております。



ところで高倉健が刀剣が好きだったということをご存知の方は少ないように思います。



週末に行きつけの理髪店で雑誌を読んでいたらそのことに触れている記事を見つけました。知らなかった知識との出会いはいろんなところであるというの骨董という趣味の面白さです。なんと理髪店では本を貸してくるというので、ご好意に甘えて次の来店まで借りてきました。

高倉健さんの次のような言葉が記事に載っています。

「父が縁側に座って刀の手入れをしている後姿がとても頼もしく、またとてつもなく好きだった。今にして思えば父と刀がオーバーラップして、日本の魂を象徴する刀の魅力にとりつかれていたのかもしれない。」

「日本刀は心が安らぐんですよ。夜中に引っ張り出して、すーっと抜き身にして、ぽんぽんって打ち粉を打って、眺めます。刃物というのはただの道具なのですが、日本刀だけはそんな機能を通り越した美しさを持っているように思います。」



人間国宝であった宮入小左衛門行平刀匠と交流のあった高倉健さんが、宮入小左衛門行平刀匠が亡くなった後に建てられ、作品の多くを展示している長野県坂城町の「鉄の展示館」に寄贈した日本刀のひとつが上記の刀剣とのことです。

さて本日は日本刀の展示した脇の掛けてある葡萄の画家と言われた天龍道人の作品です。

葡萄図-21 天龍道人筆 その33
紙本水墨軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1806*横630 画サイズ:縦1291*横574

二階の展示室に掛けてみました。この季節はエアコンの大活躍ですが、欄間の材料でエアコンの目隠しをしています。この欄間のエアコンの目隠しは取り外しが可能になっています。



弓野焼の甕に明末赤絵の皿・・、明末呉須赤絵の鉢が最近の「なんでも鑑定団」に出品され、なんと鑑定金額が50万・・・  当方には明末呉須赤絵の鉢が三点、本ブログでも紹介していますが、作品は出品作品より時代が古く、赴きも良い作品ですが、その値段なら即売りますね



天龍道人の作品は久し振りの紹介ですが、なかなか入手するにも機会が少なくなりました。



また入手可能でも、状態の良い作品がさらに少なくなりました。本作品も虫食いがあり、軸先も片側が欠損しています。



改めて天龍道人の来歴を紹介します。

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天龍道人:日本画家。姓は王。名は瑾、子は公瑜、通称は渋川虚庵、別号に草龍子・水湖観。鷹・葡萄の画を能くした。肥前鹿島(佐賀県鹿島市)の出身。半生の詳細は明らかでないが19歳の時に京に出て、絵画と医術を習い、京では勤皇の活動をしていた。

44歳の時温泉と風向明媚な信州諏訪湖の近くに住み着いた。54歳のころから絵に専念し、74歳の頃からは諏訪湖が天龍川の水源であることにちなんで「天龍道人」と号した。

50歳代から死去する93歳までの後半生、画歴の詳細は明らかでないが、確認される作品は50歳代以降の後半生、信州で制作したもので、鷹と蒲萄を題材とした作品を得意とした。

天龍道人は諏訪に来てからは、渋川虚庵と称していた。龍道人は鷹と葡萄の画家とも言われる様に、葡萄の絵はかなり多く制作しています。文化7年(1810)歿、93歳。

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見過ごしてしまいそうな墨一色の作品・・。



以前にも紹介していますが、天龍道人の作品に対する評価の記事を引用しておきます。

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補足説明

信州の諏訪湖畔で西の方角を見ては、遠く離れたふるさとを思う老爺がいた。「鹿城(ろくじょう)は余の故郷なり」と副題がつく漢詩で詠んでいる。諏訪湖を水源とする川にちなみ、晩年は天龍道人と名乗った。不遇の人である。



約300年前に鹿島鍋島藩の家老の子として生まれたが、藩主家の後継ぎ問題に父が巻き込まれ、改易となって流浪の人生が始まる。40代は京都で尊王論者とも交わった。93歳で亡くなるまで後半生を信州で過ごした。



江戸文化の研究者で文化功労者の中野三敏さん(武雄市出身)が、『江戸文化評判記』(中公新書)で、肥前が生んだ風流人として、煎茶(せんちゃ)道の祖とされる高遊外売茶翁(ばいさおう)とともに挙げている。



「道人の名を不朽にしたのは、勤王の志ではなく葡萄(ぶどう)と鷹の絵事による。特に葡萄は絶品で、肉筆の大作も多く伝世する。画業にいそしむのは50歳を過ぎてから。道人は10代で鹿島を離れ、二度と戻ることはなかった。時代や理由を思えば、帰郷は許されることではなかったのだろう。今やその名を知る人は地元でも少ない。」




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本作品は八十八歳の最晩年の作で、いわゆる「枯淡の作」と称せられる作品です。天龍道人の作品の中でも秀作と言えるでしょう。



掛け軸は見上げるようにして鑑賞してもよいように描かれているものです。大幅の作品は少し見上げて鑑賞すると新たな感動がありものです。



「天龍道人八十八年筆」とあり、印章には「天龍王瑾印」の白文朱方印と「□号観自在」(「葡萄図-18 八十五歳の作」と同一印章)の朱文白方印が押印されています。

 

この作品は痛みがあり、保存箱もありません。表具はうぶなままが良いの思いますが、軸先を取り替えて、虫食いを裏から補修し、紐を交換して保存箱を誂えてみようと思っています。

墨一色の世界が日本刀には良く似合います。当方の作品は寄贈してみていただくほどの作品でもないのですが、せめて子々孫々まで伝えるべく、皆が寝静まった頃におもむろに抜き身にして、打ち粉をぽんぽんと・・・。



我が家の高倉健は雛人形の刀剣?がお気に入りのようです。




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