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百福之一 婦久女之図 その2 綾岡有真筆 その2

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車庫から畑で採れた芋と玉葱を洗うために義母が運ぼうとしていると息子が手伝い始めたそうです。「重いよ?」と義母が言うと、「草取りのときに座る車どこ?」と言って、台車を引っ張り出してきて運び出したそうです。



そういえば、洗濯物の運搬にもおもちゃの大きめの自動車を使っていたのを思い出しました。ものごとを処理するのに自分で考えて工夫をするという点に頭を使い出したようです。

さてインターネットオークションを何気なく閲覧していたら、下記の作品を見つけました。この作品は以前に紹介した作品の参考資料として掲載した思文閣墨蹟資料目録「和の美」第459号の作品NO39の「婦久女之図」と同図の作品です。

以前に紹介した作品は下記の作品です。

婦久女之図 その1 綾岡有真筆
絹本着色 軸先鹿角 古箱
全体サイズ:縦1840*横560 画サイズ:縦1120*横420



そして参考資料はこちらです。

思文閣墨蹟資料目録「和の美」第459号の作品NO39の「婦久女之図」



「婦久女之図」の作品は少なくとも同図の作品を還暦を記念して「百の福女図」を描いたようです。
本日、紹介する作品もそのひとつでしょう。表具の痛みがあるので落札金額は5000円程度です。

婦久女之図 その2 綾岡有真筆
絹本着色 軸先鹿角 古箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横

 

表具直しを考えてもお買い得か否かは読書の皆様の判断にお任せしますが、なんといっても「婦久女之図」、表具を直してきちんとするのご利益が期待できるかも・・。

 

著名な画家よりも「忘れ去られた画家」のような画家の作品をよく覚えていたほうが掘り出しもののク品を入手できるものです。そのためには画集などより販売目録のようなものを熱心に覚えるほうが役に立ちます。



上記の写真の参考作品と下記の本作品の落款と印章が同一ですね。「百幅の一」、もとい「百福之一」と押印されています。



とても残念なことですが、このような資料を提供してくれていた思文閣の墨蹟資料目録「和の美」の編集が変わり、高級志向になったようです。あまりのも高価な作品しか掲載されておらず、お値段も記載されていません。むろん、参考となる説明も少なくなりました。まだ有料でも加島美術のほうが役に立つようです。



吉兆の作品、表具をこのままにしておいてはご利益がありませんね。



表具をやり直すと折れシワも直ります。



参考作品のように梅沢柳真の描き表具でもなければ、箱書も由緒あるものではありませんが、自分で記述するのも気がひけますが本作品は「ひろいもの」です。



思文閣の説明によると綾岡有真が60歳(明治40年頃)、亡くなる3年前に描いた作品、還暦を祝って100枚描いたとありますが、現在は何点遺っているのでしょう。5000円程度で由緒を知っている小生が購入しなかったら、改装もされず打ち捨てられたかもしれません。

人間はものごとを処理するに際して、記録にあるものより、瞬時に記憶にあるものを活用するか否かが肝要なようです。

「記録に残すより、記憶に遺すことを重んじよ!」はすべてに共通します。災害発生の再発防止に小生が最近よく使う言葉ですが、作業標準などの書類に重きを置くよりも、いかにその作業時に当時の災害を思い出して、感性によって危険を感知するかが再発防止の鍵です。

解るかな? その道の本当のプロならわかる筈です。なにしろ三歳半の息子ですら活用し始めています。


富士 伝竹久夢二筆

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学生時代に学業をそっちのけで? 勤しんだ山登り。最初はALK(トーク、ウォーク、歩くをかけた)という同好会から始め、そのうちワンゲルの友人と本格的に登山を始めましたが、なんといって軍資金がない。

学生時代はデートしても途中で軍資金がなくなるという状態でしたので、ましてや登山に使うお金などまるでなかった。そこで選んだバイトのひとつが現在の宅急便のようなもの。

お中元、お歳暮の配達に現在のような宅急便がなかったのでデパートの荷受場に朝早く行き、自転車で配るというバイトです。一升瓶のような荷物には目もくれず、ハンカチのような小さなもので数をこなすという作戦です。大小にかかわらず一個につき100円のバイト料金でした。しかも団地への配達は避け、高級住宅地で一軒あたりの数が多いものを狙う・・・  朝早くいかないとそのようなものはなくなるので、朝4時頃からのバイトで、一回りしたら授業へ・・、意外に真面目な優等生?

さて刀匠は「良業物」にリストアップされている刀剣で、柴田刀剣でも筋の良い作品と評価されています。ヒントは大阪二代です。



拵え共々、貴重刀剣の認定を受けています。



吉兆紋の鍔、拵えもよろしいかと・・。



形式的になる前の草創期の簾刃です。刀剣は角度を変えてみないと刃紋が見えにくいので写真では解りにくいですね。

 

刀剣柴田に依頼し研ぎ直したばかりの作ですが、ここまで説明するとマニアの方は誰の作かお解りですね。

さて本日は「伝」竹久夢二の作品の紹介です。

富士 伝竹久夢二筆
紙本水彩軸装共箱 
全体サイズ:縦1290*横630 画サイズ:縦350*横495



夢二の明治末から大正初期にかけての作品と推察されます。



明治42年8月に富士山に夢二は妻のたまきを伴って富士登山をしています。この頃、夢二はかなりの数の風景画を水彩で描いているため、富士を描いている可能性は高いと思われます。作風は夢二草創期の作風をみせている作品と思われます。



落款の字体はこの頃に一致し、作品の印章はこの白丸印は使用しています。

  

あまりにも著名な竹久夢二ですので、本作品はあくまでも「伝」の作とご理解ください。



富士を見ながら刀剣を見入る。日本人に生まれてよかったと思うひと時です。



水彩絵の具をたっぷりと利かした作品、図の不自然さはどこ吹く風・・・。

感じるのはバイトも骨董も情報の把握とその対応、行動の速さが肝要ということ。このことを身に染みていないと、ぐずぐずと情報分析だけに時を費やし、行動することが不安になり何もしないことなかれに陥るようです。

氏素性の解らぬ作品 三彩飛雁文盤 & 天目台と木の葉天目

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なにやら家内が天目台を購入したらしい。むろん中古品・・。以前に小生が購入した作品は真塗でしたので、図柄のある作品を購入したようです。



合箱があるのでまた箱に解るようにしておいて欲しいということで小生の一時預かりになっていたのを失念していました。未整理の作品の箱が山になっていたのが片付いてきて、残っている作品をチェックしていたら「これ何の箱だっけ?」という具合・・。



箱に貼り付ける写真を撮影しようということになりました。松竹梅の文様。木目のある床で撮影しています。



せっかくの天目台なので天目茶碗を載せてみました。



この作品は以前にブログで紹介していますが保戸野窯の平野庫太郎氏の作品ですが、失敗作だそうです。無理くり平野庫太郎氏を説得して頂戴してきた作品です。



釉薬が垂れ過ぎているのが欠点ですが、いい景色になっていて小生のお気に入りのお茶碗です。天目台では釉薬の垂れでがたつきますので、天目茶碗というよりお薄などに適しています。



「木の葉天目」となっており、焼成のあがりは最高です。木の葉の部分から紫色がかった黒がなんとも神秘的です。



夜更けに展示室で眺めながら、当時秋田市内の平野庫太郎しの窯で陶芸をしていた頃を懐かしんでいました。



あれから30年、思えば時間の経つのは早いものです。



さて本日はインターネットオークションで千円で落札した作品・・・

むろん下記のMOA美術館所蔵の有名な唐三彩の逸品を知っていての入手です。



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唐三彩の盤:唐三彩は、白い素地に緑釉薬・褐釉・藍釉などの鉛釉を掛けた陶器。主に貴族の墓の埋葬品として焼かれた。本品は見込みに飛雁とその周りを霊芝文がめぐる三足の盤で、緑釉・褐釉が施されている。

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本作品は上記の作品の模造作品と疑いながらも、入札していたらあっさりと落札した作品です。お値段は1000円也。

当方では唐三彩はむろん所蔵していませんが、以前に紹介強いますように遼緑釉や漢緑釉の作品は所蔵しています。ただ唐三彩はあまりにもメジャーで本物はとても高価です。

三彩飛雁文盤
合箱
口径243*高さ24*底径



紋様が稚拙ですね。



欠けの補修、裏面の胎土が時代がありそうに見えます。



近代の模倣作とはちと違うように思われます。



唐より時代の下がった遼頃の作品? 発掘品の可能性があります。



三彩の作品といっても時代や産地で様々あります。思いつくまま名を挙げてみても、唐三彩、遼三彩、華南三彩、奈良三彩、源内焼・・・。小生は三彩には基本的に蒐集対象ではありませんが、源内焼蒐集の観点から影響を受けた三彩はいくつか所持しています。これはあくまでも源内焼との比較の資料としてです。



骨董品はたとえ1000円でも知識を増やしてくれて、時間を浪費させてくれます。気がつけばとっくに次の日になっていました。この調子で30年もあっという間・・・・。

再興源内焼? 三彩宝尽くし図皿

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前の職場の同僚らとの会食やら大阪出張、会議やら、なにかとしゃべりまくり疲れたあとの先々週の三連休、息子の体調のいまひとつで酷暑ということもあり、息子が義母と遊んでいることをいいことに、書斎に閉じこもり骨董の整理やらブログの投稿原稿の作成に精を出していたら、小さな悪魔のささやき・・

いつの間にやら義母から離れて書斎に来たのか、息子が脇に立っており、「セミ鳴いているよ!」だと・・。

要は小生とセミを捕りに行きたいらしい。昨年、一緒にセミを捕ったのを覚えているようで、今年になってまだセミが鳴いていないので待っていたようです。先日、庭を這っていたセミの幼虫を小生が捕まえた写真を見せたのも刺激になっていたようです。



セミの幼虫の捕獲は、祖父母と息子が出かけた後だったので、小生が木の幹にセミの幼虫は放してあげたので、息子は見れなくて悔しかったせいもあるらしい。



「鳴いているけど一匹だけだよ?」と諭しても、「捕ろうよ!」だと・・。
仕方なくパソコンの作業を中断し、虫取り網を片手に外へ出ました。まだか細い声のセミ・・。なんとか見つけて「ほら、いるよ。」、「そっと近づくんだよ。」と言った脇から、息子が音の立てて急に近づくのでセミが飛んでいっていまいました。「ほら、だめじゃん。」

「向こうの木に飛んでいったから見てみようか?」と息子と再チャレンジ。くもの巣をかき分けて庭の奥の木の下に着いてしばらく観察・・。「いないね?」と小生が言うと「いるよ。ほら」と息子。「どこ?」、「ほら、そこ」。なるほど、なんとちょうど捕獲に手頃なところにセミがいるではないか!



「よし、捕るぞ!」といって網をかけるとものの見事に捕獲成功。「捕ったぞ~」と息子と大騒ぎしましたが、向かいの家で今日は告別式があることを思い出し、慌てて「しぃ~」



大喜びの息子にセミの掴み方を教えて虫かごへ・・。「夕方になったら放すんだよ。」、「うん」なかなかききわけの良い子なようで・・・。

さて、骨董品は縁起の良いものを捕獲、もとい収集するのが基本です。縁起の良さに目がくらんで購入したのが本日紹介する作品ですが、「源内焼」と思い購入したら、これは・・・???

三彩宝尽くし図皿
合箱入 
幅310*奥行き*高さ35



本作品は「打ち出の小槌」が目立ちますが、実は打ち出の小槌・隠れ蓑・隠れ笠をデザインした福を招く宝物が型で作られている「宝尽くし」の皿です。

上の写真はさかさまかもしれません。下記の写真のように見るのが正解かな?




裏側には貝の形をしたような脚がつけられており、宝珠の三足となっています。



宝珠はこれも吉祥文です



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打ち出の小槌:振ることにより様々なものが出てくるとされる伝説上の槌。日本の説話や昔話に登場している宝物のひとつである。鬼の持つ宝物であるとされるほか、大黒天の持ち物であるともいわれ、富をもたらす象徴として描かれる。

欲しいもの、願い事を唱えて振ると願いどおりの物があらわれる効果を持つ。隠れ蓑、隠れ笠と並び称されており、福を招く宝物であるとされる。



室町時代に書かれた『御伽草子』のひとつである『一寸法師』では、姫を襲った鬼がこのうちでのこづちを所持しており、一寸法師によって退治された際にこれを落としてゆく。一寸法師は姫に「大きくなれ」とこづちを振ってもらって体を大きくしてもらい、立派な武士として身を立てる結末となっている。

現在、一般に流布している昔話としての一寸法師でも同様にうちでのこづちが一寸法師を大きくするために使われる面が大きくあつかわれているが、『御伽草子』では背を大きくしたり、金銀を出したりする以外に、鬼を退治したあとの疲れをとるために次々とおいしそうな飯を出すなどの効果も発揮しており、その用途は幅広い。

平安時代末期の仏教書『宝物集』には、打ち出の小槌は宝物だけではなく牛や馬、食物や衣服など心のままにすべて出現させる事が出来るが、打ち出した物はまたこれすべて鐘の音を聞くと失せ果せる物であり、結局は現世に実在する宝物と言えるべきものではないという内容の説話を収録している。

うちでのこづちは、日本において大国主(おおくにぬし)の神と同一視されるようになった大黒天の持ち物であるといわれ、大黒天像は槌を持った姿で製作されることが多い。しかし、どのような記述によって大黒天が槌を持つ姿が製作されるようになったのかは明確ではない。

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亀の玄武のようなデザインは実は隠れ蓑・・・。



上部の笠は隠れ笠。これらの宝物の由来を知らないと本作品の有り難味がわかりませんね。

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隠れ蓑・隠れ笠:身につけると姿が消えるという想像上の産物。鬼や天狗の持ち物とされる。
隠れ蓑・隠れ笠は、身につけると姿を隠すことのできる蓑笠の呼び名で、古くから、打ち出の小槌(こづち)とともに、鬼や天狗などの異形(いぎょう)の人の持つ宝物とされた。



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さて、本作品はどこで作られた作品でしょうか?

 

これらは源内焼の亜流で、分類するならおそらく明治に再興された「再興源内焼」ではないかと推察しています。

本ブログでは幾つかの再興源内焼を紹介していますが、その代表的な作品が下記の「三春駒」の作品でしょう。

源内焼 その20 三春駒香炉
高さ184*尾含まない全長165*幅94



インターネットオークションではかなりの数、というよりも出品されているほとんどが源内焼の亜流や再興された源内焼が「源内焼」として紹介されていますが、なんとも「げんなり」ですね。

本ブログで紹介した作品でも数点、そのような作品が紛れ込んでいますので、後日改めて検証結果を投稿してみようかと思っています。ただあまりにもマニアックな説明となりますので控えていますが・・。

本来の源内焼と亜流や再興された源内焼を比較すると、例えがわるいようですが・・・源内焼が成虫したセミに例えると、他の作品はセミの幼虫のようなもので技術の差が歴然としています。

双鯉図 伝土方稲嶺筆

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家内が「そういえば茶室に花が欲しいと言っていたわね?」と植木鋏を片手に庭にでてきました。庭に咲いたヤマユリ、以前に生けた百合はテッポウユリ・・。



美人画を前に生けて、茶室の前の縁側で洗濯物を干しながら「わたしにそっくりね」だと・・・。息子と二人で「どっち? 誰だって?」



もとから置いていた永楽和全の花入をこちらの黒高麗に変えてしまったようです。どうもこちらのほうがお気に入りのようで、女性の好みは相変わらず良く解らない



さて小生が永年欲しくても入手できない画家の作品が幾つかあります。著名な画家ではないのですが、なかなか市場には出回らず、インターネットオークションでもアラートしていますが、いざ出品されると手の出ない高値になります。たとえば片山楊谷、不染鉄、白井烟嵓ら・・、普段は馴染みのない画家なのですが、不染鉄は先日の日曜美術館で紹介されていましたのでご存知の方がいるかもしれませんね。東京駅ステーションギャラリーで展覧会を催しているようです。

そして本日紹介する「土方稲嶺」の画家もその一人です。

双鯉図 伝土方稲嶺筆
紙本水墨軸装 軸先 合箱入
全体サイズ:縦1240*横335 画サイズ:縦430*横545



こちらの展示室にヤマユリを移動、「こちらがそっくり・・」と一人で納得・・

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土方稲嶺:(ひじかた とうれい)享保20年(1735年)または寛保元年(1741年) ~文化4年3月24日(1807年5月1日))。江戸時代中期から後期の絵師。因幡出身。名は廣邦、のち廣輔。字は子直。号は臥虎軒、虎睡軒。稲嶺の号は、地元の名所稲葉山に因んだと言う。



鳥取藩で、代々首席家老を務める倉吉荒尾家の家臣・土方弥右衛門の次男として生まれる。一時、後藤家に養子に入ったという。

稲嶺も先祖同様、荒尾小八郎に仕えていたが、故あって職を辞した。江戸で南蘋派の宋紫石に学び、その画風に心酔する。その後、天明初年には京都に移り、栗田宮家に仕えて画道に精進した。



寛政7年(1795年)には、宋紫石の竹画碑がある北野天満宮境内に、自身も同様の竹画碑を建立しており、紫石への敬愛の深さを見て取れる。円山応挙や谷文晁と親交があった。当時京都画壇の中心にあった円山応挙に入門を申し入れた所、その腕前に驚いた応挙が入門を拒んだという逸話も残っている。ただし、根拠は不明だが『古画備考』土方稲嶺の項目では、「応挙門人」と記されている。



寛政10年(1798年)57歳のときに、鳥取藩主池田斉邦の御用絵師として召し抱えられて、再び故郷に戻る。その際、藩主と同じ字を使うのを憚って、廣輔と名を改めた。

寛政12年(1800年)には江戸詰めを命じられたという。文化4年3月24日死去。没年齢は67歳、73歳の二説ある。人物、山水、花鳥、虫魚いずれも優れ、鯉画が特に巧みであった。



南蘋派の絵師の中には、京都に出ると蠣崎波響のように円山・四条派へ転向する者もあったが、稲嶺は基本的に南蘋画風を守りつつも、円山・四条派の大画面構成法を学び取っていった。そのためか、宋紫石門下では珍しく障壁画や屏風絵の大作を多く残しており、雑華院(妙心寺塔頭)の襖絵「柳鴛図」「竹林七賢図」「波図」「孔雀図」14面、春光院(妙心寺塔頭)の襖絵「波図」「松図」8面、大法院(妙心寺塔頭)襖絵「叭々鳥図」8面、兵庫県養父市の祐徳寺「虎渓三笑図」襖4面[2]、和歌山県由良町の興国寺襖絵38面などが挙げられる。



反面、細密描写は紫石や波響らに比べると一歩劣り、むしろ奔放でやや荒っぽい筆致に持ち味がある。稲嶺の門人は大変多く、因幡画壇の祖と呼ばれている。生前はそれなりに画名が高かったようであるが、今日稲嶺のことを知るには『因伯紀要』『鳥取県郷土史』などの地方史に拠らねばならず、彼の画名が中央より鳥取の地で残されていることを物語る。

土方稲琳は稲嶺の子。高弟に黒田稲皐がいる。

黒田稲皐:特に鯉の絵にすぐれ、「鯉の稲皐」と呼ばれた。本作品で納得できない方のために写りは悪いですが下記の作品を紹介します。



稲嶺は病の床で稲皐を枕元に呼び寄せ、「我が門流中、相当の技量ある者のみ、画号に稲字を冠せしめよ」と語ったとされ(『鳥取藩史』)、師の信頼が厚かったのを見て取れる。

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印影が明確ではありませんが、「廣輔」と思われることから 58歳以降の晩年の作と思われます。



下側にある他の印は判読できません。所蔵印?
 


土方稲嶺の作品については2012年11月14日放映の「なんでも鑑定団」に下記の作品が出品されています。

  

前述のように江戸期において小生の蒐集目標としている画家に黒田稲皐、片山楊谷がいますが、これらの画家の作品は滅多にお目にかかれず、入手の機会があってもとても根強い人気があり値段が高く、今だにこの二人の作品については入手できていません。



風鎮には魚の鋼器の作品をぶら下げてみました。エアコンを入れる時期には掛け軸の振れ止めに風鎮は必需品ですが、普段は基本的に用いないほうがよいものです。



ヤマユリの花を展示してある花瓶に生けてみました。



結局は美人画の前の元の鞘に、もとい元の花瓶に生けておきました。

*「土方稲嶺」については当方の資料不足から本作品をまだ詳しく調べていませんので「伝」としております。





湖上行島 児玉希望筆 その7

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最近の1階の展示スペースです。数点の浜田庄司や金城次郎の民藝陶芸家の大きめの花入を置いています。



その脇に本日紹介する作品を掛けています。

掛け軸を床に掛ける時や外す時に油断すると、掛け軸を落とすことがあります。その場合掛け軸に折れ皺が入ることがあります。これは表具をやり直さないと直らないものとなりますので、掛け軸を掛ける時や外す時には細心の注意が必要です。

本日は掛け軸を落とした際に折れ皺が入った作品かと思われる作品です。このような折れのある掛け軸は意外に多いようです。

湖上行島 児玉希望筆 その7
絹本着色軸装 軸先鹿骨 共箱
全体サイズ:縦1650*横510 画サイズ:縦910*横410



当方の所蔵作品である「富士」と同一印章であり、落款も同じ字体であることから初期の作品と推察されます。



共箱もしっかりしています。

 

児玉希望は当初、実業家を目指していましたが祖父の死を機に画家になることを決意し、日本画家川合玉堂の門を叩いています。そのわずか3年後帝展に初入選し新進気鋭の画家として注目を浴びました。



30歳のとき「盛秋」で帝展で特選を受賞し、池の群青と紅葉した樹木の色彩の見事な対比は、大和絵の研究をするうちに自ずと身に着けたもので気品あふれる傑作と絶賛されました。本作品はこの頃の作と推察されます。

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児玉希望:明治31年生まれ、昭和46年没。享年74歳。広島県に生まれる。名は省三、川合玉堂の高弟。師の筆法を継ぎ、山水、花鳥画をよくし、覇気に満ちた性格と共に、「残月」、「盛秋」、「枯野」、「暮春」等の大作を出し、近代的な色彩感覚を風景花鳥画に注いだ。南画院同人、日展評議員、芸術院会員を務めた。



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しかし児玉希望は色彩の効果にのみに頼ることを恐れ、南画を学びさらには花鳥画、歴史画、人物画などありとあらゆる画題に挑戦しました。



さまざまな試行錯誤を経て最後にたどり着いたのが水墨画でした。



下記の作品の「枯野」は北宗画の細密さとヨーロッパ絵画の写実が融合した戦前の代表作で眼光鋭い狐の姿に並々ならぬ技量が見てとれます。



「水墨画だけは素人には絶対に描けるものではない 若し描いたとしてもそれは墨で描いた絵に止まり古来の水墨画とは自ら別のものである」希望はこう語っています。

1957年、59歳で渡欧し1年間滞在し、西洋古今の美術を勉強するとともに異国の地で水墨画を改めて見直し、世界に通じる日本画を描きたいと思ったそうです。



東洋的抽象表現を追及、水墨画の新たな可能性を切り開いた画家と言えます。1971年製作中に持病の脳血栓が再発し筆を持ったまま絵の中に倒れこみそのまま帰らぬ人となったそうです。享年72歳。

*本作品は長期間、掛けていたようで風袋がなくなり、その部分が日焼けしており、前述のように掛けるときか、外すときに落してようで、上部に折れが生じています。気にならない方には支障のないものかもしれませんが、掛け軸という総合美術という観点からは致命傷です。さて本作品の改装をどうする?

掛け軸の基本的な扱い方くらいは日本人は知っておくべきでしょう。小生は母から教わりましたが・・。小さな頃から寝床の脇に床の間があって、普段から狩野芳崖や川端龍子、福田豊四郎の作品が掛かっていましたが、悪さをした覚えがありません。またついでに基本的に同じ作品はひと月以上は掛けておいてはいけませんとも教わりました。

ところで「湖上行島」と題されていますが、描いたのはいったいどこでしょう?

梅花高士図 幸松春浦筆

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義父と義母が息子を連れ立って、畑で取れた果実で作ったジャムを持って叔母の処へ出かけました。そうすると乗用車がなくなり、自転車はパンクしてるので使えない。さて家内と息子が居ないので、外で昼食をと、自転車を修理にだすこともあり、軽トラックで出かけることにしました。



なんとクーラーは効かない、大きな音は出る。自転車を積んで猛暑の中、窓を全開にして出かけました。

帰宅後、ゆっくりと展示している作品を撮影・・。







さて、本日の紹介するこの作品は近代南画、というよりも近代日本絵画の秀作と言えると自負していますが・・・。

梅花高士図 幸松春浦筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦2090*横535 画サイズ:縦1470*横395



手前は秋田市保戸野窯で作陶している平野庫太郎氏作の辰砂の大皿です。



箱書に「戊辰□季」とあり、昭和3年(1928年)1月、幸松春浦が31歳の頃の作。帝展に連続して特選受賞した直後の作となります。

 

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幸松春浦:日本画家。大分県生。名は猪六。大分で佐久間竹浦や秦米陽に南画を学ぶ。1915(大正4)年、大阪に出て、姫島竹外に入門。1920(大正9)年、第2回帝展に初入選。1926・27(昭和元・2)年、連続して特選受賞。以後、無鑑査、推薦となる。官展系展覧会を中心に活躍し、戦後も日展に出品を続けた。中国、朝鮮等を巡迴し、主な作品に「秋思」「雪路」「老子」「旅愁」等がある。昭和37年(1962)歿、享年65才。



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南画家でありながら近代画家としても画業を成した画家ですが、文人としての矜持を持っていた画家です。



漢詩が賛として記されています。



「衆芳揺落独嬋妍 占尽風情向小園 疎影横斜水清浅 暗香浮動月黄昏 霜禽欲下先偸眼
粉蝶如知合断魂 幸有微吟可相狎 不須檀板共金樽
昭和戊辰夏日寓於春□軒□窗六清 風徐□□並疎林逋々□春浦釣史 押印」

 

衆芳揺落して独り嬋妍たり  小園にて風情を占め尽くす  疎影横斜して水清浅  
暗香浮動して月黄昏  霜禽下らんと欲して先ず眼を偸む粉蝶 
如し知らば合に魂を断つべし 幸に微吟の相い狎るべき有り  須いず檀板と金樽とを



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○衆芳 百花をさす。 
○揺落 零落。 
○嬋妍 色彩が明るく、あざやか。ここでは梅の花を形容する。 
○「占断」句 小園の中の美しい風光は、すべて梅の花によって独占されてしまった。 
○風情 風光。 
○「疎影」句 梅の花の疏朗で横斜な枝の影は、清く浅い池の水にさかさに映っている。この句は梅の姿態を書き、視覚を用いている。 
○「暗香」句 梅の花の清くかすかな香気は、黄昏の月色の中にただよっている。この句は 梅の花の香味を書いており、嗅覚を用いている。 
○霜禽 白い鳥。ここでは白鶴をさす。「霜」は、白い色をたとえる。 
○偸眼 盗み見る。 
○粉蝶 白い蝶。 
○合 「応」に同じ。 
○断魂 消魂。ここでは、快活・神往の意味。 
○微吟 小声で詩句を吟誦する。 
○相狎 互いに慣れ親しむ。 
○檀板 拍子木。音楽を演奏する時に、拍子を打つ役目をする。ここではそれによって歌をさす。 
○金樽 貴重な酒杯。ここではそれによって酒を飲むことをさす。「檀板金樽」は、ここでは世俗の人が好む音楽と酒宴をたとえる。



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この漢詩は「林逋」によるものを引用しています。「林逋」すなわち有名な「林和靖」のことです。



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林逋: Lin Bu (北宋):林逋(りんぽ 967~1028)、字は君復。杭州銭塘(浙江省杭州)の人。北宋初期の代表的な隠逸詩人。若くして身寄りがなく貧乏で、苦学した。一生仕官せず、杭州西湖のほとりの孤山に隠居し、詩と書画を愛した。20年間町に足を踏みいれることがなかったという。生涯独身で過ごし、梅と鶴を伴侶とする生活を送り、当時の人々はこれを「梅妻鶴子」(梅は妻、鶴は子)と称した。その人柄を愛した仁宗が没後に和靖という諡をおくり、世に林和靖、和靖先生という。詩の多くは散佚したが、梅花と西湖の美しさをうたった繊細な作品で知られる。『林和靖先生詩集』がある。



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意味は下記のようになります。

《孤山の庭園の小梅》
いろいろな花が散ってしまった後で、梅だけがあでやかに咲き誇り、
ささやかな庭の風情を独り占めしている。

咲き初めて葉もまばらな枝の影を、清く浅い水の上に横に斜めに落とし、
月もおぼろな黄昏時になると、香りがどことも知れず、ほのかにただよう。



霜夜の小鳥が降り立とうとして、まずそっと流し目を向ける。
白い蝶がもしこの花のことを知れば、きっと魂を奪われてうっとりするに違いない。

幸いに、私の小声の詩吟を梅はかねがね好いてくれているから、
いまさら歌舞音曲も宴会もいりはしない。

印章や落款は下記の写真のとおりです。

 

遊印が下部の左右に押印されています。

 

状態、表具も上々です。



暑苦しい日々に清涼の一幅ですね。ともかく軽トラックの中は暑かった!

雪中珠玉 川端龍子筆 その3

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最近畑で採れるのは茄子、採れたての茄子を焼いたのは最高ですが、そこで思い出したのが大きな徳利・・。



朝鮮唐津風・・??? ところで朝鮮唐津の作品は非常に珍重されていますが、小生にはいまひとつその良さがピンときません。



水指や花入、茶碗などの茶器やぐいのみなどの部類が垂涎の的とされていますが、どこがいいのだろう? 骨董店の茶席で一生懸命に朝鮮唐津の花入にスプレーで水を吹きかけていましたが(備前などの作品は水を含むと景色が見栄えするので、こういうことはよくやります。)、どこがいのかな?



釉薬の掛け合わせの作品ならもっと面白い作品が数多くありますが、朝鮮唐津偏重の一端ではないのだろうか? 珍重されるが故に贋作も多いし、見分け方も難儀な分野です。

当方では産地不明の「茄子」 畑の大物の茄子と同じ、玄関に置いておいたら義母も「あら! 茄子!」だと・・。

本作品は熱気ムンムンの屋根裏を捜してダンボールから引っ張り出してきました。とにもかくにも採れたて茄子は美味しい!

さて先日のNHKで放映された日曜美術館の特集では川端龍子を取り上げていました。出光美術館で展覧会があるようです。

川端龍子の作品は父の友人に福田豊四郎氏がいたこともあり、当方でも幾つかの作品が旧蔵されていました。現在は旧蔵されている作品は一作品(本ブログに投稿されていますが、詳細は後日)ですが、母方の実家にも所蔵されていました。その作品が下記の作品です。

東海第一日 川端龍子筆
紙本着色絹装軸装軸先象牙太巻箱二重箱
全体サイズ:横745*縦1795 画サイズ:縦473*横575
第62回鑑賞会出品作品 須磨家旧蔵品

昭和30年25万で叔父が購入したようです。「須磨家画舫 本間儀一郎(秋田県 大曲市)」旧蔵とと記録にあります。叔父が亡くなって思文閣に売却しようとして買取価格として評価された金額は80万(10年前)。その値段で小生に引き取らないかと打診されましたが、当時は家内が闘病中でしたので、残念ながら断念しました。

 

その後、上記の作品は母の実家では思文閣ではないところに手放されたようです。今では叔父が大好きな作品であったこともあり「私の探し物」の作品のひとつになっています。

川端龍子の作品というと食指が動くのは上記のような背景が小生にあるからかもしれません。本日は下記の作品の紹介です。

雪中珠玉 川端龍子筆 その3
絹本着色軸装 軸先象牙 大正11年正月作記 共箱二重箱
全体サイズ:縦2160*横652  画サイズ:縦1400*横505



描いているのは万年青(おもと)で、「雪中珠玉」とは雪に映えて植物が美しいという意味でしょう。「おもと」は「万年青」とかいて「おもと」と読むように、一年中緑の葉を保っている植物。昔から縁起物とされる植物ですが、特に引っ越しの際の縁起物とされています。また長寿のお祝いなどにも喜ばれる品です。



さらに実のついた万年青は子孫繁栄を象徴し、より縁起が良いとされます。また万年青は鬼門に置くと家相のマイナスを和らげるともいいます。万年青を置く方角は鬼門(北東)です。北東に万年青を置く事で鬼門封じといって、鬼門から悪い気が入るのを防ぐと言い伝えられています。



万年青(おもと)を知らない方も多いと思います。小生は家内から教わりました。作品を見るなり「これは万年青(おもと)だね。」と・・・。家内は小生の知らないことをたくさん知っているようです。

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万年青(おもと):栽培の歴史は300年とも400年以上とも言われる。古くは徳川家康が江戸城へ入る時、家臣の中に万年青を献上したものがいるとも伝えられる。

江戸時代は主に大名のもとで栽培が行われた。元禄から享保年間の書物には斑入りの万年青が掲載されたものがある。このころより、栽培がある程度は一般庶民にも広がったようである。



文化文政のころには、縞や矮性のものも栽培されるようになり、その一部は利殖の対象となった。このころは他に錦糸南天や松葉蘭なども同様に持て囃され、一種のブームとして狂乱的な状況があったようで、その中で一部の万年青には一芽百両と言ったとんでもない価格がついた例もあったという。



解説書として長生主人「金生樹譜万年青譜」(1833)などが出版された。これらは天保の改革の際の規制の対象となった。植木鉢にも専用の万年青鉢が作られた。 明治に入り、栽培の中心は武士階級から富裕階層へと移った。1877年頃には京都を中心に大きなブームがあり、1鉢1000円(現代の1億円に相当)という例があった。その後も何度かのブームを繰り返しながら推移している。



愛好者団体としては、1931年に日本万年青聯合会(1945年に日本万年青連合会に改名)という全国組織が結成され、1992年に当時の文部省の許可を受け社団法人日本おもと協会となり、2011年に内閣府の正式の認可を受け公益社団法人日本おもと協会(品種登録および栽培啓蒙を行っている)となり、現在に至る。

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「さらには実のついた万年青は子孫繁栄を象徴し、より縁起が良いとされます。」ん~、我が家にはぴったし!

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「おもと」は「万年青」とかいて「おもと」と読むように、一年中緑の葉を保っている植物。昔から縁起物とされる植物ですが、特に引っ越しの際に活躍します。また長寿のお祝いなどにも喜ばれる品です。葉の美しさ、珍奇さを鑑賞する植物として愛好家も多い植物です。ユリ科の常緑多年草で、日当たりの悪いところでも青々として、強健な性質から何時しか縁起の良い植物とされ、品種改良も進んだようです。さらには実のついた万年青は子孫繁栄を象徴し、より縁起が良いとされます。

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「徳川家康が駿河から江戸へと城を変わる際にまず3本の万年青を持ち込んだ。」というエピソードからの縁起物? これも知らなかった。

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引っ越しの際、他の荷物に先立って、万年青を運び込むと、運が開けるといいます。このような慣習ができたのは徳川家康が駿河から江戸へと城を変わる際にまず3本の万年青を持ち込んだというエピソードもあり、そのエピソードにあやかろうとしたという説もあります。引っ越しの日が吉日に当たらない場合は、先に吉日を選んで万年青だけを持ち込んでおくと、その日に引っ越したことになるともいいます。また万年青は鬼門に置くと家相のマイナスを和らげるともいいます。万年青を置く方角は鬼門(北東)です。北東に万年青を置く事で鬼門封じといって、鬼門から悪い気が入るのを防ぐと言い伝えられている。



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「北東に万年青を置く事で鬼門封じといって、鬼門から悪い気が入るのを防ぐと言い伝えられている。」ということで、飾るのは北側。床の間が基本的に北側が多いのは鬼門を防御するというものを置くためでははなかろうか?

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*お祝い事などの際にかける掛け軸にはやはりおめでたい図柄(吉祥図)が好まれますが、その中に万年青が描かれることも多いです。掛け軸ではさすがに万年青が主役といったものは少なく、脇役といった感じでわきの方や下の方に描かれていることが多いです。また、陶磁器にも万年青が描かれることがしばしばあります。おめでたいということで、引越祝いや長寿のお祝いなどに人気があります。

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「掛け軸ではさすがに万年青が主役といったものは少なく、脇役といった感じでわきの方や下の方に描かれていることが多いです。」と記されていますが、本作品は「万年青が主役」の作品で、川端龍子の真作と判断しています。しかも縁起物・・。

 

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大正11年頃の川端龍子:1921年(大正10年)に発表された作品『火生』は日本神話の英雄「ヤマトタケル」を描いた。赤い体を包むのは黄金の炎。命を宿したかのような動き、若き画家の野望がみなぎる、激しさに満ちた作品である。しかし、この絵が物議をかもした。当時の日本画壇では、個人が小さな空間で絵を鑑賞する「床の間芸術」と呼ばれるようなものが主流であった。繊細で優美な作品が持てはやされていた。龍子の激しい色使いと筆致は、粗暴で鑑賞に耐えないといわれた。



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人間はいつか死ぬもの、いつかはひとりになるもの。その孤独に耐えられるかは小生も自信がない。大切な人を失い、自分も病気になったこともある、そういう経験を踏まえた自分だから、普段からそういうもいのを意識しています。

お金も地位も、時には友人さえもその孤独の前にはあまりにも無力です。心の支えは自我にしかないのですが、唯一家族は大いに支えになります。人間はその孤独の乗り越えるために子孫繁栄を願うのです。

結婚しない、子供を作らないはいつか大きなつけが本人に回ってきます。外食、ゴルフなどで家族大切にしない方も同様ですよ。

木彫極彩色 狂言福ノ神 市川鉄琅作 その2

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どこかの党首が退任されるとか、本ブログでも民主党政権時の仕切り役の時に「人に恨みを買うやり方はいつかは自分に帰ってくる。」と記述しましたが、思いのほか早くつけが回ってきたようです。またおのれの才覚に自覚の無い与党の大臣も辞任したようですが、現在の都知事も同じ道を歩むように思われます。

いずれにしろ人に恨みを買う手法はいずれ自分に帰ってくるものです。最近とくに目に付くものづくりの現場での下請けいじめもまたいずれおのれにかえっていきます。

近所の子供が使っていた自転車を息子が借りていましたが、借りていた先方の弟(お兄さんの自転車を息子が借りていた)が大きくなってきたようなので、そろそろ使うだろうから返却しなくてはいけないということで、息子の自転車を義母が買ってくれました

自転車を買いに行くと「パパと同じのがいい!」と言い出して、鍵まで小生の同じようなものを探して買ってもらい、自慢そうにパパさんに説明してくれました。

「パパのよりいいでしょう!」だと・・、負けず嫌いは遺伝かな?



こちらが参るのは、炎天下でいつまでも自転車の練習につき合わされること 

ともかく子供はタフで、好奇心旺盛で。自分の好きなことに夢中ですが、これは実に羨ましい

さて小生の蒐集の主流ではない木彫が意外に多くなってきました。叔父の所有していた高村光雲の下記の作品が小生の蒐集意欲を刺激しているのでしょう。

観音像 高村光雲刀
木彫共箱 
高さ320*幅62*奥行き60*台150(六角)



一時小生がこの作品を預かっていましたが、上記の作品は叔父が亡くなった後に手放されています。なんとも惜しいことを・・・。現在も小生の探しもののひとつ・・・。

そのような作品が欲しいと捜しているうちに下記の作品を蒐集してしまいました。

聖観音 平櫛田中作
共箱
高さ327*幅113*奥行115



これらの作品はすでに本ブログで紹介しています。祖父もまた仏像が好きだったようで、男の隠れ家にも一体、また見事な不動明王の仏像が祖父の所蔵でありました。

楠木彫聖観音菩薩尊像 市川鉄琅作
楠木 金彩色 共箱
幅136*高さ315



これらの蒐集の過程で「加納鉄哉」を知り、そして本日紹介する作品の作者である「市川鉄琅」を知ることとなりました。

木彫極彩色 狂言福ノ神 市川鉄琅作
極彩色 共箱
幅148*奥行き132*高さ220



下記の写真は実際の狂言からの写真です。



狂言の演目である「福の神」についての説明は下記のとおりです。

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福の神(ふくのかみ):狂言の演目のひとつ。派手な衣装に身を纏った福の神のその出で立ちと世俗的、庶民的な性格とのギャップを楽しむ祝言。



大晦日の夜、毎年神社で豆まきをして年を越すのを恒例としていた二人の男が福の神を祀るために神社へ参詣した。参拝を済ませて「鬼は外、福は内」と豆を持って囃し立てると、大きな笑い声をあげて福の神が現れる。



福の神は自分から名乗ると「毎年参拝に来るお前達を金持ちにしてやろう。だから酒をくれ」と二人に酒(みき)を催促し要求する。男たちが福の神へ酒を奉げると、酒奉行である松の尾の大明神に神酒を捧げてから旨そうに自分も飲みながら、福の神は歌いはじめる。



そして豊かになるには元手がいると2人に話します。

2人が、元手がないからここに来たと反論すると、福の神は「元手とは金銀や米などではなく、心持ちのことだ」とさとします。金持ちになる秘訣として「早起きをし、他人に優しくし、客を拒まず、夫婦仲良くすることだ。それとわたしのような福の神に美味しい神酒をたくさん捧げれば楽しくなること間違いない。」と言って、謡い舞い、朗らかに笑って帰っていきます。



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このような彩色された作品を補修してくれるところがあるようです。



博多人形などもそうですが、修理を依頼する方がいるということは新たな高価な作品を入手する方よりきっと古いものを大切にしている方も多いのということでしょう。



このような木彫の作品には基本的に共箱が不可欠のようです。

 

小生にはあまり馴染みのない木彫作品ですが、少しずつ観る眼を養っていきたいと思っています。

 

いつかは最初のような作品を蒐集したいと思っています。

本作品の修理の見積を依頼していたところ、10万円・・、思ったより高いものです。さて、どうするのか考えどころ・・・。

なにごとでも大切なのは「心のあり方」です。いいものは「心のあり方」の正しい、王道を歩む人に集まります。仕事も然り、安全も然り、現在はこのことが忘れられ、コスト優先、書類優先され、がんじがらめになっています。

さて、我が神々にもお神酒を捧げなくては・・・。神仏を敬わぬものには人を敬うことはできないそうです。

リメイク 琵琶に菊 鈴木其一筆 その1

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洗濯物を干すのを手伝い始めた息子。今までは片付けは手伝っていましたが、椅子の上に乗って手伝いを始めたようです。



本日はまだ仙台に赴任していた頃に入手した作品の紹介で、写真を取り直したのでリメイクした原稿での投稿です。

琵琶に菊 鈴木其一筆
絹本着色絹装軸箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横305*縦905


鈴木其一の画風をよく表している作品。琳派の影響とともに其一の独自の装飾性が現れている。「青々其一」の落款と「祝琳」の白方印が押印されていています。



仙台の骨董店「吸古堂」からの購入作品ですが、琵琶の蒔絵の表現、菊の描写が見事であり、大切にしていきたい作品。



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鈴木其一:寛政8年生まれ、安政5年没(1796年~1858年)、享年63歳。名は元長、字は子淵。酒井抱一の弟子となったが、同門の鈴木蠣潭が文化14年(1817年)に26歳で早世したので、その姉と結婚させて鈴木家を継がせ、酒井家の家臣に列して抱一の付け人とした。

その画は抱一の画風の影響をよく受け、抱一以上に装飾的で象徴的な画体に達し、俳諧や諸芸にも通じた。あまりにも抱一の影響を受け、画体が良く似ていたので、其一が絵を描き、抱一が落款を書いたと言う諸説がある。

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1844年頃からは、「菁々其一」と号を改めた菁々落款に変わります。「菁々」も『詩経』小雅にあり、「盛んなさま」「茂盛なさま」を指し、転じて人材を育成することを意味しています。明らかに光琳の号「青々」も踏まえており、この改号には、師抱一を飛び越えて光琳を射程としつつ、次なる段階に進み、自ら後進を育てようと目論む其一の意欲が窺えるものです。

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その作風は再び琳派の伝統に回帰する一方で、其一の個性的造形性が更に純化する傾向が混在したまま完成度を高め、ある種の幻想的な画趣を帯びるようになっていきます。ただし、晩年には工房作とおぼしき其一らしからぬ凡庸な作品が少なからず残り、師・抱一と同様、其一も弟子に代作させたと見られています。

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高い描写力に裏打ちされた明快な色彩と構図、驚きや面白みを潜ませる機知的な趣向は、敢えて余情を配するかのような理知的な画風を特徴付けています。

琳派の掉尾を飾るとも評されますが、美人画や風俗画などの単に琳派や抱一様式に収まらない、個性的な要素を多く含んでいると言えましょう。

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描き方も、本来は仏画に用いる技法である表具にも絵を施す「絵描装(描表装)」をしばしば用い、本紙の絵に多様なデザインを取り合わせ、時に本紙の中に侵入するだまし絵のような効果を与えている作品もあります。

こうした肉筆画の一方、其一は狂歌本挿絵や狂歌摺物、団扇絵版錦絵や千代紙といった版下絵の仕事も積極的にこなしています。

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雅趣豊かな抱一の作風とは対照的に、硬質で野卑とも言うべき感覚を盛り込んだ其一の作品は、長く国内の評価が低迷し、作品の流失と研究の立ち遅れを余儀なくされていました。

しかし、近年の所謂「奇想の絵師」達の評価見直しが進むに連れて、琳派史上に異彩を放つ絵師として注目を集めつつあります。

平成20年(2008年)東京国立博物館で開かれた『大琳派展』では、宗達・光琳・抱一に並んで其一も大きく取り上げられ、琳派第4の大家として認知されつつあります。

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付き人から後世に琳派の代表的な画家に昇華した人物ですね。



細かいところも良く描けています。



ちょっと洒落た風鎮を付けてみました。

 

男の隠れ家に状況する以前に蒐集した作品がありますが、そちらの整理にかかりだしました。早くから蒐集した作品の整理は、着ているものを洗濯をして干しているような感覚です。「解るかな~?、この感覚」。お気に入りの服はながく~着る、気に入らなくなったものは捨てて新たな服が欲しくなる・・・・



雪月花三幅対 鬼頭道恭筆 その3 

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幼稚園でプール遊びがあるというので息子の水着を準備・・・。どうやら魚尽くしのよう。



さて本日紹介する作品はどうやら「雪月花」らしいのだが・。水着と同じでわけがよくわからない。

雪月花三幅対 鬼頭道恭筆 
絹本水墨淡彩軸装 軸先塗 荒川静渕極箱入 
各々全体サイズ:横325*縦1675 画サイズ:横220*縦920

  

桜の下に花魁はまだしも、月の下に骸・・、雪に子守・・・?? 

印章と落款は下記のとおりです。

 

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鬼頭道恭:天保11年(1840年)~明治37年(1904年)。 幕末-明治時代の日本画家。天保(てんぽう)11年生まれ。森高雅(こうが)に入門,京都に出,巨勢(こせ)派の北村季隆に仏画を,岡田為恭(ためちか)に土佐派の技法をまなぶ。郷里名古屋で仏画を専門とし,身延山(みのぶさん)久遠寺(くおんじ)六角堂内の装飾絵を完成した。明治37年4月15日死去。65歳。字は一斎、通称は玉三郎。

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左幅は月の下に遺骸・・・・。どういう意味かな?



家内も首を捻り、物語性がある作品ではと・・・。

もともと雪月花(せつげつか、せつげっか)は、白居易の詩「寄殷協律」の一句「雪月花時最憶君(雪月花の時 最も君を憶ふ)」による語で、雪・月・花という自然の美しい景物を指す語ですが・・。



音読語としては「雪月花」が用いられることが多いのですが、和語としては「月雪花」(つきゆきはな)の順で用いることが伝統的ですから、絵の順番もこの順なのかもしれません。



月に骸、桜に花魁、雪に子守・・・・・、なんとも不可解ですが仏画を良く描く鬼頭道恭ですから、なんらかの関連があるものと思います。

雪月花は仏教ではお釈迦様が悟りを開かれた12月8日の鶏鳴の刻(午前2時頃)修行僧が暖を取るため「うずみ豆腐粥」(簡単な点心)を食したことに由来しているともいいます。ちなみに、雪は豆腐、月は大根、花は人参で表現するそうですが・・・。



雪月花と本作品の関連は未だに良く解っていません。良く解っていない作品でもインスピレーションで購入することは良くあることですが・・。



雪国に育って、成人して花魁になって、死んで骸となる・・・??? やはり良く解らない



ところで「雪月花」の題名にて思い起こす日本画の秀作は上村松園作のものです。こちらは宮内庁所蔵作品ですが、小生の探しものである「清少納言」はこの作品と大いに関連のある作品です。

上村松園(1875~1949)
3幅対
昭和12年(1937)
絹本着色  各158.0×54.0



貞明皇后の御用命を受けて以降,完成まで実に20年以上を要した,女流画家・上村の畢生の力作です。

画題は「雪月花」にこと寄せた平安期の宮廷での雅やかな女性風俗であり,それぞれ『枕草子』,『源氏物語』,そしておそらくは『伊勢物語』等に想を得たと思われる優美な情景が,端正な画面構成と美しい色彩布置により表されている傑作です。

なお本作品の鑑定箱書は荒川静渕によるものです。本ブログでお馴染みの寺崎廣業に師事した画家です。

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荒川静渕:日本画家。愛知県半田市出身。はじめ奥村恭法につく。のち上京して寺崎広業に師事、小堀鞆音の教えを受け、画を生業としたが、関東大震災のため帰郷。

名古屋市南外堀町、さらに西区上園町に住む。名は秀太郎、秀法と号する。仏画を能くする。昭和32年(1957)歿、70才。

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保存状態は良好です。



この表具の生地はなんでしょうか?



とにもかくにも息子の水着といい、この世には不可解なことが多い。

続編 四季山水図 色紙 川合玉堂筆(工芸版)

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最近畑で採れたブルーベリー、会社や現場におすそ分けです。あとはジャム・・。



息子は畑で採れたとうもろこしをがぶり・・、「がぶり」ついでに恐竜展へでかけたらしい。



小生は夜中にごろんと展示室で横になり、蒐集した作品を再度鑑賞することがなんどもあります。気分転換になりますが、何度も見直すことは大いに大事なことです。蒐集したまま作品を振り返らない方は進歩がまったく無い方です。集めて箱に入れたらお終いの方は、進歩もお終い・・。

なにごとも常に問題意識を持って、あれはどうだったか、これはどうだという振り返る意識がないといけません。

さて、本日もそのような内容の作品紹介です。

インターネットオークションで「四季山水図 色紙 川合玉堂筆(工芸版)」なる作品を見つけ、入札してみたところ、工芸品のわりには値段が上がり、一万円ほどで落札しました。

インターネットオークションでは値段を吊り上げるようなことが見受けられ、真贋も含めてもっと節度あるオークションにしなくていけないと思います。

さて左のタトウがその工芸品の作品です。右の箱が前に投稿しまいした肉筆の「四季山水 色紙」の作品です。



工芸品は著名な大塚工芸社の作品で、各色紙の説明書が添付されています。

工芸作品と肉筆の作品を比べてみましょう。左が工芸作品、右が肉筆作品です。工芸作品は一部手彩色のようにも思えますが、やはり全体にツルツルした感じがあり、実物ではすぐに工芸品と解ります。



工芸品では夏は「帰帆」という作品が添えられていますが、肉筆では正月用にか「梅に鶯」の作品となっており、夏用の作品はありません。

この「帰帆」はかなり肉筆に近似しています。祖父が東京のお土産にこの大塚工芸社の作品を買ってきて在郷の方々に配ったと母が言っていました。男の隠れ家にも中村岳稜や徳岡神泉らの大塚工芸社の色紙の作品があります。



「峠」の作品など肉筆画と工芸作品では構図は同じながら明らかな違いがあります。工芸品を模写した作品ではなさそうです。



印刷に出す前に何枚か候補があったと考察できるかもしれません。後日、夏用の色紙が加えられたと思われます。

調度この工芸品が盛んになった頃は戦後の昭和に時期ですから、川合玉堂が生存していた可能性がありますが、詳細は不明です。



ちなみに大塚巧藝社は、大正8年(1919)に美術写真印刷、コロタイプ印刷専門として創業されています。



上記の写真のように色紙の縁まで絵の具がのっており、非常に印刷の区別が難しくなっています。色紙の裏にはシールが通常はシールが貼られていますが、これを剥がして売るという輩が多いのです。

 

基本的に工芸品に押印されている印章は印刷ですが、「工芸」ときちんと印字されているのが基本ですが、この印章を曖昧に実際の印章に近いものが使用されると区別は格段に難しくなります。

  

肉筆の作品は二作品に鑑定シールがあること、落款の字体と印章の使用時期が同一であること、印章は印影がきちんと一致していることから、贋作と断定する証拠はありません。

こういう資料が揃ってくると我が趣味はおおいに面白くなります。読者の皆さんは真贋を気にされると思いますが、当事者はそのことは意外にどうでもよくなるものです。

この世で大事なことは「真実とはなにか?」ということで、それを突き止める過程が「生きる」という証なのでしょう。


リメイク 雲海朝陽 川村曼舟筆 その1

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暗くなってきて玄関の戸締りに出かけたら、玄関の照明に紛れ込んできたセミを祖父と息子で捕まえたようです。鳴かないゆえに雌かな?



小型のセミで羽がアブラゼミと比較して半分が透明になっています。息子と図鑑で調べて「ニイニイゼミだよ。」と教えてあげました。明朝、庭に放してあげようということになりました。

さて北アルプスから見る日の出は格別のものがあります。本日紹介する作品は、学生時代に夢中になった思い出深い登山を思い出させてくれるので購入した作品です。

雲海朝陽 川村曼舟筆
絹装軸絹本着色共箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横412*縦1303



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川村 曼舟(かわむら まんしゅう、1880年7月9日 - 1942年11月7日)は、日本画家。京都生まれ。本名は万蔵。

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山元春挙に師事し、1902年新古美術品展で三等賞、1906年京都市立美術工芸学校助教諭、1910年教諭。1908年文展で三等賞、1916年「竹生島」で特選、翌年「日本三景」で特選、1922年京都市立絵画専門学校教授、1936年校長(兼美術工芸学校長)。春挙門下四天王の一人と言われ、師の没後早苗会を主宰。1931年帝国美術院会員、37年帝国芸術院会員。

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師春挙の色彩豊かで写実的な画風、豪快華麗と言われた春挙の作調を継承しながら、風景表現に新しい感性を導入し、瀟洒で繊細な詩情味ある日本の風景を描き、温雅な世界を築いた画家です。



山元春挙については本ブログにて幾つかの作品を紹介していますが、改めて近日中にまた陶工したいと思っております。



描かれている山々は北アルプスを彷彿とさせます。穂高か槍ヶ岳か・・。



川村曼舟にも贋作の作者が居て、地方では鉢合わせになったというエピソードが知られています。

 

戦前、戦後の頃にはやはり数多くの贋作する画家がたくさん徘徊していたのでしょう。



ところで北アルプスの登山ルートに表銀座、裏銀座の二つの縦走ルートがあることをご存知ですか? むろん買い物をするルートではありません。また白馬岳から日本海の親知らず海岸に抜けるルートもありますが、小生が登山していた頃は道なき道のルートでした。

学生時代に欲張って表銀座から一気に日本海に抜けたルートを縦走したのですが、ともかくくたびれたし、腹が減った思い出があります。海岸に着くと食堂に駆け込んで思い起こせるメニューをすべて頼んだのですが、胃袋が小さくなっていたのか、ほとんど食べれなかった記憶があります。

夕方になって、ぎりぎりのお金で日本海側を電車を乗り継いで郷里に帰りましたが、そのときの夕陽もまた忘れられません。ところで夕陽を描いた日本画の作品は少ないと思いませんか? 朝陽に比べるとアブラゼミとニイニイゼミとの数量の差

源内焼 その98 三彩桐鳳凰文(輪花)皿 その2 

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まくりの状態で入手し、ボロボロに痛んでいた作品を表具して額装にした釧雲泉の本作品。ちょっと展示室の廊下に飾ってみました。

改装して額装にしていたのですが、布タトウを作りに、それに入れたまま題名も記さないまま放置?していました。これはまずいと早速、説明書を作りタトウにも題名を記しておきました。



蒐集する者には入手したら、仕舞い込んで終わりという方が多くいますが、これはよくありません。使えるものは使い、鑑賞するものは鑑賞する。つまらなくなったら売却するなりの処分をするのが基本のように思います。

秋渓蕭散 釧雲泉筆
水墨金紙本 まくり
画サイズ:縦220*横370*2枚



以前に詳細は記述している作品ですが、賛には「秋渓蕭(ものさびしい)散」とあり、癸亥(みずのとい)重陽写寫干波懐楼 雲泉樵人就 押印」とあり、享和3年(1803年)釧雲泉が43歳の時の作品と推察されます。



享和2年(1802年)には江戸に下向し湯島天神の裏門付近に居住しており、儒学者の亀田鵬斎、海保青陵や篆刻家の稲毛屋山、漢詩人の菊池五山、書家の巻菱湖など多くの文人墨客と交わり、この頃に結婚したと推測され、この当時の作品と思われます。欄間額か天袋の襖絵として描かれた釧雲泉には珍しい横長の作品です。当方では真作と判断しています。

本ブログに寄せられたコメントに「大正2年6月9日の売立目録「長井越作氏蔵幅第一回入札」に、扁額の作品として掲載されているものと恐らく同一作品のようです。目録に掲載されている作品のサイズは「27.6㎝×71.21㎝」とあります。これを剥がした作品がこちらの紹介作品のようです。」とあります。

さて本日はそろそろ蒐集して100作品になろうとしている源内焼の作品です。

下記の写真の棚に現在、蒐集されている源内焼の100近い数の作品がすべて収められていますが、そろそろ氾濫し始めていますので、向かい側の棚の一部を使い始めました。もう少し工夫すると収まりそうですが・・。

同じ系統の作品は同一の場所に収納するのが好ましいようです。あちこちに分散すると探すのにたいへんです。



源内焼ならなんでもという状況から、そろそろ厳選しての蒐集に入ろうとしてしていますが、その厳選する条件のひとつに状態のいいものというが挙げられます。

源内焼 その98 三彩桐鳳凰文(輪花)皿 その2 
合箱入 口径258*高さ44



今後評価の上がる源内焼の作品ですが、その中でも「 大型の抜けのよいもの」、「多彩釉(3~4彩、出来れば黒・藍などの色があるもの)」、「擦れなどがなく、壊れていない完全なもの」に該当するのが本作品です。

実は本日のこの作品は「源内焼 その2」として本ブログで紹介しています。その作品はちょっと状態が悪かったので、本作品を入手することになったのですが、本作品を見た家内が「懐かしいわね~この図柄! 汚れを落とすのがたいへんだったのよ!」と、数年前の前の作品を覚えていたようで、相変わらずの記憶力の良さです。家内の記憶力の良さには時折、驚かされるのですが、反面小生の頼みごとは三回頼んでも忘れていますが・・

左側が「その2」、右側が「その98」となりますが。僅かに大きさが違います。



得意の記憶力だがどうも私の頼みごとには賞味を示さないらしい。別腹? もとい別脳・・。「〇〇を買っておいてね。」と頼んでも、三回言わないとだめらしい。しかも「冷蔵庫の扉にメモして貼っておいて!」だと。ひとつしか頼んでいないのに・・・・

「その2」は補修があるものの味わいがあります。



「別」というと最近の息子の覚えた言葉が「別腹」・・・。お菓子となるとお腹の脇を指差し「別腹!」だと・・、教えたのは甘いものが好きな「おじいちゃん!」らしい 最近もとうもろこしを四本も平らげたらしい。



裏側はかえって「その2」のほうが真新しいようです。



桐に鳳凰は吉祥文です。



このような陽刻の精密さや釉薬の虹彩が源内焼の特徴です。



口縁にも隙のない斬新なデザインもまた魅力となっています。



源内焼から派生した他の焼き物や再興された源内焼とは一線を画すものですね。



飾り専用の大きな作品も同一の型で作られた作品が数多くありますが、中皿程度の大きさで同じ型の作品が数多くあるのは、揃いで作られ売られた作品だからでしょう。



現在は大きな作品でも10万円を超えた作品は数少ない源内焼ですが、もっともっと評価されていいのでしょう。



飾り皿には皿立てにも凝ってみたいものです。



源内焼の蒐集当初の「その2」の作品、蒐集が習熟してきた段階での「その98」の作品。思い入れにそれぞれの当時において違いがあります。



思いは違えど同じ腹・・・・所謂「別腹?」



扇面撫子図 寺崎廣業筆 その57

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週末には畑で採れたブルーベリーでジャム作り。外は雨なので祖父も息子もお手伝い?



暑さが和らいできたせいもあり、義父は熱心にブルーベリーを採りに畑に出かけるので、小生は再度会社に持ち込み、同僚らに持ち帰りをお願いしています。



さてプロとは何か? という問いが最近テレビでよくありますが、小生なら「プロとは現状の成果に一度も満足しないこと」と答えるでしょう。「もっといい仕事ができたはず」という自分を疑う問いが常にその道のプロにはあるものです。

趣味といえども骨董も同じ、過去の蒐集作品を常に疑う、確かめる努力が必要ですし、常にさらに上の作品を追い求めることです。

さて本日紹介する作品は寺崎廣業の扇面の作品です。

扇面撫子図 寺崎廣業筆 その57
紙本着色扇面軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦1310*横570 画サイズ:縦110*横370



本作品に押印されている印章は、本ブログで紹介した大正7年に描かれた「寿嶽 伝寺崎廣業筆 その7」と同一印章です。印章が未確認であったため、ブログに投稿した際には「伝」としておりましたが、本作品と同一印章であることから真作の可能性が高くなりました。



寿嶽 伝寺崎廣業筆
紙本水墨淡彩軸装由来書箱入
全体サイズ:縦2190*横438 画サイズ:横308*縦1250



この作品に入手時に小生が記録した文章には下記のように記されています

「大正7年9月に咽頭癌で箱根、信州別荘で静養中に赤倉温泉(妙高山の中腹に広がる妙高高原の温泉のなかでも最大の規模を誇る赤倉温泉は、文化13(1816)年に高田藩の事業として、地獄谷から引き湯をしたのがはじまり。明治時代以降は、文化人や芸術家、財界人の別荘地として栄え、日本近代美術の祖・岡倉天心はこの地で没した。近代的なホテルも多いが、静かで昔ながらの湯治場の雰囲気は今も健在)にて描いた作品である。箱書きに「此紙本半切富嶽ハ大正7年9月 先生赤倉温泉来遊揮毫ス」とある。所有者の名は、所有者の希望により箱書から消されている。大正8年2月21日に、全盛期の廣業は惜しまれながら亡くなっている。落款等に力強さが失せているのも病気のせいであろう。売主は長野県諏訪市在住である。落款、印章、出来から真作と判断される。」

大正8年の2月には亡くなっていますので、癌の病はかなり進んでいたかもしれません。

本作品との違い落款で、本作品の落款は「二本廣業」ですので明治期に描かれた作品と推察されます。

下左写真が「寿獄」、下右写真が本日紹介している「扇面撫子図」です。

 

依頼されて描かれた作品や小作品に押印された印章と思われます。「寿獄」はあまりにもさらりと描かれた作品ゆえ、また贋作が非常に多い寺崎廣業の作品ゆえ、贋作ではないかという思いがありましたが、今回の作品の入手で真作という確信を持つことができました。

「扇面撫子図」の作品についてですが、扇面の表具は意外に面倒で、きちんと表具されている作品は少ないのですが、本作品は丁寧に表具され保存もしっかりしています。



表具の記事も洒落ており、扇面の金も効いています。



家内は「カワラナデシコね。」だと・・・。

撫子の花言葉は「純愛 無邪気 純粋な愛 いつも愛して 思慕 貞節 お見舞 女性の美」など女性的なイメージが強いですが、「才能・大胆・快活」などもあります。ちなみにヤマトナデシコ(カワラナデシコ)の花言葉は、可憐・貞節ですが、最近はどうも遠遠いようで・・・・。おっと家内には内緒!



ところでインターネットオークションに出品されている作品はほとんどが贋作ですので、とくに寺崎廣業や平福父子の作品の入札には注意してください。寺崎廣業の作品では縦長の「廣業」の白文朱方印の作品の贋作がとくに要注意のようです。

当方の蒐集作品の中にもいくつか贋作が紛れ込んでいましたので除去 

疑え疑え!己の蒐集作品、プロには程遠いが、「玄人はだし」にはなれるかも


神使 渡辺省亭筆 その16

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あまりの暑さに庭で息子と水撒きをしていると、祖父が車庫からなにやら取り出してきました。古くから家にある燭台やら二眼レフの古いカメラやら・・・。「捨てるんですか?」と聞くと「いや、もったいないね~。」・・。どうやら小生にきれいにしてとっておいて欲しいということらしい。どうも小生がいろんな物を修理しているのを見ていると、次から次にいろんなものが出てきます。取り合え水洗いして、汚れを落として玄関で干しておくことにしましたが、祖父と息子が古いカメラで意気投合したらしい。

「これはなに?」といつもの始まり・・・。



そんな二人を放っておいて小生は展示室で作品の整理、なんといっても貴重な休日。ともかく休日は滅茶苦茶忙しい・・



屋根裏の展示室の照明を点灯し、二階の照明を消すと展示室はいいムードになります。森の木立にいるような・・・、これも展示室の狙いの設計意図・・。そして本日の作品紹介は木立に居る神の使いを描いた作品です

神使 渡辺省亭筆 その16
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1910*横495 画サイズ:縦1300*横375



題名のない状態での入手で「神使」は仮題です。「神使」と題した理由は下記によります。

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石清水八幡宮と鳩:八幡神は、皇室の祖先である誉田別命(ほんだわけのみこと)を祭神とし、誉田別命が国内を平定するときに、水先案内人となったのが鳩であったとされ、以来、鳩は八幡神の使いであるとされるようになったこと。(春日大社・鹿島神宮・厳島神社)

春日神社と鹿:武甕槌命(藤原氏守護神)が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。

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つまり鳩と鹿は神の使いとされていることによります。



この春日神社の鹿と八幡神社の鳩を題材にした作品では本ブログで下記の作品を紹介しています。

三社託 春日百鹿・八幡百鳩・二見浦朝日図 
三幅対 池田孤邨筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1900*横545 画サイズ:縦1040*横360



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三社託:三社とは伊勢神宮(アマテラスオオミカミ),春日神社(春日大明神),石清水八幡宮(八幡大菩薩)のことで、その三社の託宣(たくせん:神託ともいう。神が人に憑 (かか) り,その意志を述べることをいう) を三幅に描いたもの。正直,清浄,慈悲が表現されています。

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ところで渡辺省亭の作品の印章は意外に複雑極まりないようです。単純に「省亭」という印章が多いのですが、その印影が多種様々であり、一概に贋作と決めつけられない作品もあり、最終的には作品の出来不出来しか真贋のポイントがないと思われます。



所定の鑑定人も不在で、共箱の作品も数が少ないようです。ただ省亭の箱書は、弟子が少ないので箱書があるとすると共箱ですが、これを「共箱」が多いと表現してる解説もありますが、この表現は誤解を招きます。

ところで省亭には正妻の「さく」の他にもう一人の妻がおり、そちらの家は外面上はアトリエとし、没するまでの30年に渡りそれぞれの家に通い続けたそうです。「やるね・・・」。



最近まではこのような日本的な作品はあまり好まれていなかったように思います。西洋の技法の影響は受けているものの菊池容斎から徹底した日本画法を仕込まれているので、日本画から離脱した描き方はしていません。



近年の日本画は絵の具も含めて西洋画風のものが好まれていました。極端な例ではスプレーで描いたもの、顔料を油絵のごとく塗り重ねたものなどもあります。



しかしそれはあくまでもひとつの過程であり、行き着くところ日本の美の原点に戻ります。



決して渡辺省亭がそこに位置する代表的な画家とは思いませんが、その一端に位置する画家には相違ないでしょう。



日本人は日本の心を忘れてはならないのです。日本の美から日本の心を学びとることこそ、今の日本人に必要なことでしょう。



先週の日曜美術館で取り上げた漆器、すなわちジャパンしかり、掛け軸、陶磁器、刀剣、金工、それらに日本の心の将来の有り様が隠されているように思えるのは私だけでしょうか?

神の使いはなにを伝えたいのでしょうか?

舞子朝陽出帆図 寺崎廣業筆 その58

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我が家の朝は早い。早朝の5時に小生が起きると義父と義母はすでに畑へ出ていていません。家内は朝食の準備、小生は出勤の準備。息子は6時に起きて小生の見送り。

その後皆で朝食をすませた8時半頃、息子はそとでセミの鳴く声を聞いて、外の様子をみて
息子:「ねえ、今日、お外・・、暑いですよ~。」
皆 :「そ~ぅお」(自転車かな?)
息子:「かき氷つくりましょう!」
皆 :「そっち、きたかー!」



我が家に「かき氷機」があるのを知っていた?
それから氷作り・・、結局食べるのはパパさんが帰宅してからということになってようです。

帰宅するとかき氷機があるのを知らなかった小生と息子の会話。
小生:「我が家にはなんでもあるんだね~」
息子:「すごいね~、なんでもあるね~」
小生:「ないのはお金くらいだね。」
息子:「お金ならたくさんあるよ~」
と言って義母からもらった小銭の入ったがまぐちを持参。100円玉を取り出して
息子:「パパ、あげようか?」

かき氷機には義母が作ったという立派なカバーがありました。我が家はものもちがいいらしい。



夕食後、皆でかき氷を食べることになりました。



シロップはカルピス・・・、未だになぜ息子が我が家にかき氷機があったことを知っていたのかはなぞ! 先週末に近所の喫茶店でかき氷を食べたのと関連しているかな?

さて、本日はまたまた寺崎廣業の作品の紹介です。夏季休暇には帰郷する予定ですので、郷里の画家の作品を紹介します。帰郷の準備やら、各種の補修の手配でブログの原稿は手につかず、ありあわせの投稿です。

舞子朝陽出帆図 寺崎廣業筆 その58
絹本水墨着色軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦2120*横560 画サイズ:縦1170*横415


共箱の作品ではないので題名「舞子朝陽出帆図」は小生の仮題です。



同時期の作品で、本ブログに紹介されている作品はいくつかありますが、本日比較紹介するのは下記の作品です。

舞子之帰帆図 寺崎廣業筆 その22
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 鳥谷幡山鑑定二重箱 
全体サイズ:横495*縦2070 画サイズ:横357*縦1095

 

本日紹介する作品と同一印章が押印されています。同じように「舞子」の風景が描かれた作品ではないかと推定しています。



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舞子(まいこ):神戸市垂水区の南西部にあり、明石市に接する地区である。旧山田村の地域、現在の西舞子・東舞子町・舞子台・北舞子・舞子坂・狩口台・舞子陵が舞子地区である。昭和16年7月に神戸市に合併されるまでは、明石郡山田村に属していた。

舞子の地名の由来は諸説あり有名なものでは明石海峡の潮が舞い込む「廻い込浜」から転訛して舞子の字があてられた等、他にもいろいろな言い伝えがある。多く茂っていた松の木の枝ぶりが、女性の舞う姿に似ていることが由来という説もあります。

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「舞子朝陽出帆図」と仮題しましたが、「舞子之帰帆図」と同じく「帰帆図」で夕陽の可能性もあります。今回はめでたく「朝陽」と題させていただきましたが、どちらが正しいかは後学とさせてください。



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舞子の浜:名勝「舞子の浜」として古くから知られる。小高い柏山から海と淡路島を望む景色が絶景であるとして有栖川宮熾仁親王は別邸を構えたという歴史もある。1934年には当時の日本の文部大臣から史跡名勝記念物の指定を受ける。1996年の日本の渚百選に選ばれた小舞子海岸 (石川県白山市湊町) の「小舞子」という名称は、「舞子の浜」から取られたとされている。日本の白砂青松100選に選定された福島県いわき市の新舞子ビーチも「舞子浜」に由来する。



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落款や印章から明治末から大正初期の作の作品と推定しています。「舞子之帰帆図」には鳥谷幡山鑑定箱書に「寺崎廣業先生晩年作」とあります。

小生:「我が家にはなんでもあるんだね~」
息子:「すごいね~、なんでもあるね~」
小生:「ないのはお金くらいだね。」

掛け軸にも納得・・・、ものもちがいいらしい。

輪島銀吹 修理途中の報告

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週末には家内と息子は仲間内のお茶会に出かけました。息子は緊張気味・・・?



お茶会に興味のある方は、詳細は家内のブログ「Verdure 4F」で検索してみて下さい。本ブログで紹介した「呉器茶碗」を濃茶に使用していただいたようです。



小生は久方ぶりに息子から開放されて、のんびりと靴の手入れ・・・、靴磨きの道具だけは本格的です。



小生の靴は長く履いている靴なら数十年、おそろしく靴に関しては物持ちが良いのです。

修理の依頼はするし、手入れはするし、ローテーションで履くし、雨天では雨天用と使い分けするという一連のメンテをすると、すごくはき心地がいい状態で靴は長く履けます。ちなみにワイシャツも袖や襟が傷んだ頃が一番着やすいのだとか・・、小生はワイシャツも襟や袖の修理を依頼して着るようにしています。

そんな物持ちのよい?小生が修理に乗り出したのが、掛け軸や刀剣の次に漆器です。漆器は宴席などに用いた揃い物などや普段使っていたものが多くあります。その中からまず母の大事にしていた作品から修理しています。むろん保存状態が良く修理可能なもの、もしくは修理する価値を見出せる作品から手をかけています。

その中で現在修理中なのが、祖父があつらえた輪島塗の「銀吹」の揃いの漆器です。靴の手入れが終わったあとで、修理先から塗り直しの終わった漆器の作品が届いたので整理してみました。

まずはお櫃は前のブログで紹介したとおりです。



保存用の箱もあつらえてもらっています。



御櫃の添えられていた大小のお盆も塗り直しました。母が普段使っていたのでだいぶ傷だらけでしたがきれいに修理されていました。しかも新品同様になるのではなく、古い感じがそのまま出ているので修理には満足しています。



祖父が入れた銘も書き換えてもらいました。



保存箱は新規です。作品そのものは昭和20年代の作品ですので、後世に勘違いしないように説明書を添付しておきます。



今回はお碗も10客揃いを塗り直しました。外のみ塗り直して、内側は蒔絵があるので修理せずそのままにしました。



銀吹のお膳に銀吹の碗・・、祖父のセンスの良さを改めて理解しました。



別の汁碗用の膳の組み合わせにも良く似合います。



当時の粋な男の粋な世界です。

10客揃いの一の膳、二の膳の塗り直しにもかかるため、一対のみ試験的に塗り直しました。



木の厚み、塗りの重厚感がそこいらの漆器の作品とはかなり違います。この感覚は文章では分かりづらいかもしれません。現在売れれている作品や骨董市に並んでいるものとはかなり違います。



この膳の保存用のための当時の箱があり、その収納には布で包むのが普通です。



その布も試験的にあつらえてもらいました。



高足膳用の保存袋です。高足部分が袋状になっていて、当時は多くは紙で作ったもので、高級な作品には布製のものがあります。こういうものを知っている人は少ないでしょうね? 

おそろしくものもちの良い方は、おそろしく保存の仕方にこだわる

なお輪島塗の修理の依頼先は「輪島工房長屋」です。丁寧で対応も感じがよいと思いますので、漆器の修理が必要な方はインターネットで検索すると連絡先が分かります。












庚午図 中村岳陵筆 その3

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我が家の「福の神」の像は彩色の補修で家を留守にしますので、現在我が家の頼みの綱は「大黒天」・・・。



本作品はシミが発生していますが、実物はそれほど見苦しくないので購入しました。

庚午図 中村岳陵筆 その3
絹本着色額装 紙タトウ 共シール
額サイズ:縦570*横690 画サイズ:縦400*横520



賛には「昭和五年庚午(かのえうま、こうご) 正月元旦」とあり、1930年(昭和5年)に描かれています。中村岳稜が40歳頃の作品です。


「本画は義兄要山義一郎氏より寄贈 昭和五十八年六月九日 小生の喜寿を□りて記す 片桐□雪 花押」とあり、「要山義一郎」や「片桐□雪」という片桐某氏についての詳細は不明です。



ともかく日本画に大敵なのは湿気、掛け軸でも額装でも色紙でもカビやシミの原因になります。シミ抜きするとある程度はきれいになりますが、結構なお値段がかかります。染み抜きするほどの価値のあるものなら、染み抜きしても仕方がないと踏ん切りがつくでしょうが・・。

染み抜きはしっかりとした技術のあるところで、かつお値段が手頃なところがいいでしょう。染み抜き自体はそれほど高くありません。1万から2万円なのですが、再表具代金(〆直しも同じ)が掛け軸ですと2万~3万円かかります。このお値段できちんとしてくれるところはそうそうありませんが、そういう誠実な依頼先をもつことが骨董蒐集では大切なことです。

またまたリメイク 保津川清流之図 山元春挙筆

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家内が友人と息子とで東京ステーションギャラリーで開催中の「不染鉄」展を観てきたようです。観終わって後にメールがきて「観たほうが良いよ!」だと・・。



夕方、眼科の帰りにまだ時間があったので、足早に観てきました。たしかにいい! 一見の価値有りですね。あまり知られていない画家の作品をこのように展示するのにはかなり苦労したでしょう。素晴らしい展覧会でした。



家内のブログにも投稿されていますが、不染鉄の墨絵は強烈なインパクトがあります。日本の忘れていた世界を心の奥底から揺さぶるなにかがあります。是非知らない方も一見の価値は大いにあると思います。息子も熱心に観てきたようですが、一番強烈だったのは初めて食べた回転寿司だったかも・・。



物事に感動する素直な反応は見習うものがある。



まるで電車のようだったらしい・・。刺身が大好きだったのでうまかったようで。



*明日より帰郷しますので、しばし投稿はお休みとなります。郷里にて今回はどのような作品とまた出会えるのか、はたまたどのような作品を持ち込めるのか愉しみです。

本日紹介する山元春挙は遠州七窯の一つとされてきた膳所焼の再興の尽くし、膳所焼の別称である「陽炎園」と命名者でもあります。

本作品はなんどか本ブログに投稿していますが、男の隠れ家に掛けられていたために、かなり湿気を含んでいたようなので、湿気を抜くためにこちらの展示室に持ち込み、再度写真撮影しました。

湿気を含んだ掛け軸はカビやシミが発生しやすくなりますので、きちんと除湿する必要があります。湿気を含んだ掛け軸は手に触るとすぐに解ります。

保津川清流之図 山元春挙筆
絹装軸絹本着色 二重箱共箱入
全体サイズ:横513*縦2140 画サイズ:横360*縦1203



山元春挙は大津出身で明治4年生まれ、昭和8年没、享年62歳。野村文挙、森寛齋の門に学び、京都絵画専門学校の教授に就任しています。文展に出品、大正6年に帝室技芸員、大正8年には帝国美術院会員となり、仏国勲章を叙されています。



滋賀県滋賀郡膳所町(現在の大津市中庄付近)で生まれ、祖父は戦前の修身教科書で勤勉な商人の鏡として紹介された高田善右衛門です。

打出小学校卒業後、12、3歳で遠縁にあたる京都の日本画家野村文挙に入門、その後文挙が上京したため、明治18年(1885年)文挙の師森寛斎に学んでいます。翌年の京都青年絵画共進会に「呉孟」「菊に雀」を出品、一等褒状を受けました。



明治24年(1991年)、竹内栖鳳、菊池芳文らと青年絵画懇親会を結成。同年、京都私立日本青年絵画共進会の審査員となり「黄初平叱石図」(西宮市大谷記念美術館蔵)を出品、二等賞銀印となっています。

明治27年(1994年)に師寛斎が亡くなり、同年如雲社の委員となました。

明治32年(1899年)京都市立美術工芸学校の教諭となり、翌年、画塾同攻会(1909年に早苗会と改称)を組織し、展覧会を開いています。明

治34年(1901年)第7回新古美術品展に出品した「法塵一掃」が1等2席となり、春挙の出世作となりました。



明治40年(1907年)文展開設にあたり、竹内栖鳳らと共に審査委員を命ぜられています。

大正6年(1917年)6月11日帝室技芸員に任命され、同年、故郷の近くに別荘・蘆花浅水荘(国の重要文化財)を営み、のち庭内に記恩寺を建立、寛斎と父の像を安置しました。



大正8年(1919年)帝国美術院会員となります。この頃、地元膳所焼の復興を目指し、初代伊東陶山・岩崎建三らと新窯を開いています。

大正11年(1922年)パリ日仏交換展に「義士隠栖」(三の丸尚蔵館蔵)・「秋山図」を出品し、サロン準会員となり、大正15年(1926年)フランス政府より、シュヴァリエ・ドラ・レジョン・ドヌール勲章を授与されました。

昭和3年(1928年)大嘗祭後の大饗の席に用いる「主基地方風俗歌屏風」を制作すましたが、昭和8年7月12日死去、享年63。死後の15日従四位に叙せられました。戒名は奇嶽院春挙一徹居士。墓は等持院。

画風は、四条派の伝統を受け継ぎつつも西洋の刺激を受け、墨彩や色彩表現を豊麗さへと徹底的に純化した表現に特色です。こうした画風は、千總など絵を享受する京の大店に支持され、さらには明治天皇も春挙のファンで、亡くなる際、床の間に掛かっていたのは春挙の作品だったといいます。

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着色された作品で絵の具が剥離する可能性のある掛け軸は太巻き用の保存箱に入れるのが基本です。ただし太巻きにするとその分箱も大きくなり箱の製作費用が高くなります。

またニ重箱に入れる際には内箱の箱書が痛まないように紙を挟むのが基本です。通常は保護カバーが付いていますが、保護カバーが痛んでなくなっている場合には包装紙などを折りたたんで入れておきます。私は掛け軸の一連のことは母から教わりましたが、こういうことを教える人は今は数少ないでしょうね。私も教わったというより、見て学んだというほうが正しいです。



山元春挙が再興に尽くした「膳所焼」は遠州七窯の一つでもあり。ご存知の方も多いと思いますが、詳細は下記のとおりです。

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膳所焼:江戸時代初期の茶人で武将であった小堀遠州政一(1579-1647)の指導により、好みの茶陶を焼造した遠州七窯の一つとされてきた。しかし近年の研究から、膳所焼の前史には勢田焼と呼ばれたものがあり、それに続く膳所焼には国分窯・大江窯などの窯があり、また幕末、この地域に興された梅林焼や雀ヶ谷焼、さらに大正8年(1919)に再興された復興膳所焼などを含む諸窯の総称と考えるようになっている。

その歴史は、元和年間(1615-24)の記録や茶会記などに、勢田焼の名が登場するのに始まる。寛永年間の膳所藩主 石川忠総の時代に藩窯として当時茶道具として注目された茶壺や茶入、水指などの茶陶が作られていた。しかし藩主の国替えにより藩窯としての膳所焼は短命に終わった。
 
大正8年、膳所の人岩崎健三、名窯の廃絶を惜しみ「山元春挙画伯」とはかり、その再興に生涯をかけ途中非常な努力を以て経営維持につとめ、茶器製作に於いては遠州七窯の一つとして恥ずかしからぬものとなり続いて健三の長男、新定その業をつぎ、今日では陶磁器業界はもとより茶道界にても膳所窯は著名な存在になっている。

邸内には「東海道名所絵図」にも描かれた名勝「陽炎の池」(かげろうのいけ)があることから、春挙により「陽炎園」と命名された。

現在は大津市中庄一丁目に工房と窯があり庭内には名勝、陽炎の池が昔の姿を残している。

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さて本日改めて紹介した作品、「保津川清流之図」は小生のお気に入りの作品のひとつです。男の隠れ家に来客された方も幾人かが「ほ~」と眺めていました。

山元春挙の著名な作品には下記の作品があります。

参考作品「奥山の春図」(足立美術館蔵)

昭和8年(1933年)淡交会展出品で山元春挙の最後の大作と言われています。



上記の作品には遠く及びませんが、本作品は大切に保管しておきたい作品のひとつです。

 

ここでの保津川は川下りで有名な京都の保津川のことです。繰り返しの投稿の作品ですが、猛暑の折、湿気ではなく涼気を感じてもらえたら幸いです

それにしても不染鉄の作品、ひとつ欲しいもの・・・。素直な感動以外に大人になると欲が出るようで反省!


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