週末の土曜日には帰京しました。この度もまたいろんな出会いもあり、骨董とも語らった休日でした。もっとも息子がパパさんを開放してくれず大変でしたが・・・。
さて、本日の作品、家内にこの作品を見せたところ「『あっ!、痛い! この蜂め!』と怒っている仁王様だ~。」と申し述べているのだが・・。小生は「おもしれべ~」と。
出来が良くて、面白いくて、背景に描いた理由があるという作品を蒐集するのは骨董の醍醐味です。あまりに有名な画家の作品ばかりを追い求めると碌なことになりません。女性も美人を追い回すと碌なことがないのと同じです。
仁王図双幅 植中直斎筆 その4
絹本水墨淡彩軸装 軸先塗 共箱
全体サイズ:縦1875*横295 画サイズ:縦1145*横270
箱裏には「己未(つちのとひつじ、きび)初秋錦林草堂於 直斎識 押印」とあり、1914年(大正8年)、植中直斎が40歳頃の作と推定されます。
画中にある金剛力士像と蜂の関連については、「天慶2~3年(939~940)の平将門(たいらのまさかど)の乱のおり、執金剛神像の前で将門誅討の祈請を行ったところ、執金剛神像の髪を束ねた元結(髪を束ねる紐)が大きなハチとなって東へ飛び立ち、将門を刺して乱を治めた。」という伝説によるのでしょう。その逸話に倣って像の元結の一部は欠損している仁王像もあるそうです。
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今でも恐れられている平将門
東京都千代田区にある平将門の首塚・・、関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件であったそうです。
その結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで、その平将門の人気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示しています。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っているそうです。
隣接するビルは「塚を見下ろすことのないよう窓は設けていない」「塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っている。」というのは本当でしょうか?なお笑い芸人の爆笑問題・太田光はブレイクする前、この首塚にドロップキックをしたことがあり、そのせいでしばらくの間まったく仕事が来なかったという噂があります。
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さて、その恐ろしい平将門が苦手なのはなんと「蜂」?
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金剛力士(こんごうりきし):仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。サンスクリットでは「ヴァジュラダラ」と言い、「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」を意味する。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には仁王(におう、二王)の名で親しまれている。
日本では寺院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば見かけるが、像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情に表すものが多い。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表している。
仁王像は安置される場所柄、風雨の害を蒙りやすく、中世以前の古像で、良い状態で残っているものはあまり多くない。寺門に安置された仁王像で日本最古のものは法隆寺中門に立つ塑像であるが、後世の補修が甚だしく、吽形像の体部はほとんど木造の後補に変わっている。なお、仁王像は仏堂内部に安置されることもある。奈良・興福寺の仁王像(鎌倉時代、国宝)は旧・西金堂堂内に安置されていたもので、当初から堂内安置用に造られたため、像高は小ぶりである。
仁王像は阿形・吽形の一対として造像するのが原則であるが、これを1体のみで表した、執金剛神(しゅこんごうしん)と呼ばれる像がある。東大寺法華堂(三月堂)の本尊の背後の厨子内に安置された塑造執金剛神立像(国宝)がその例で、形勢や表情は一般の仁王像と似ているが、裸形でなく甲冑を着けている点が異なる。東大寺法華堂にはこれとは別に一対の仁王像があり、阿形像が「金剛力士」、吽形像が「密迹力士」(みっしゃくりきし)と呼ばれている。これも着甲像である。
千手観音の眷属である二十八部衆の中にも仁王像があるが、この場合、阿形像は「那羅延堅固王」(ならえんけんごおう)、吽形像は「密迹金剛力士」(みっしゃくこんごうりきし)と呼ばれる。
現存する大作としては建仁3年(1203)造立の東大寺南大門金剛力士(仁王)像を挙げねばならない。造高8メートルに及ぶこれらの巨像は、平成の解体修理の結果、像内納入文書から運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)が小仏師多数を率いておよそ2か月で造立したものであることがあらためて裏付けられ、運慶が制作の総指揮にあたったものと考えられている。
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知る人の少ない植中直斎という画家ですが、画力もあり非常に魅力的な画家の一人といえるでしょう。
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植中直斎 (うえなか-ちょくさい):明治から昭和時代の日本画家。明治18年10月1日生まれ。(1885~1977年没) 円山派。号は直斎、無畏鎧、臥雲、義徳など。
奈良県出身で、師匠は深田直城、橋本雅邦、山元春挙。また田中智学に日蓮宗の教義をまなぶ。沢村専太郎に美術史の指導を受ける。大正2年山元春挙に入門。文展、帝展などに仏教画を発表。池田桂仙・井口華秋・上田萬秋らと日本自由画壇を結成するがのち脱退。
昭和48年に代表作である身延山久遠寺の「日蓮聖人絵伝」を完成。昭和52年8月12日死去。91歳。本名は直治郎。
直齋の作品は、東京国立近代美術館。富山県立近代美術館。京都市美術館などに収蔵されている。
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本ブログでリメイクして投稿されている「山元春挙」に師事して間もない頃の作品のようです。これはこれで手元に置いて、ときおり掛けては楽しみたい作品のひとつでしょう。
さて、本日の作品、家内にこの作品を見せたところ「『あっ!、痛い! この蜂め!』と怒っている仁王様だ~。」と申し述べているのだが・・。小生は「おもしれべ~」と。
出来が良くて、面白いくて、背景に描いた理由があるという作品を蒐集するのは骨董の醍醐味です。あまりに有名な画家の作品ばかりを追い求めると碌なことになりません。女性も美人を追い回すと碌なことがないのと同じです。
仁王図双幅 植中直斎筆 その4
絹本水墨淡彩軸装 軸先塗 共箱
全体サイズ:縦1875*横295 画サイズ:縦1145*横270
箱裏には「己未(つちのとひつじ、きび)初秋錦林草堂於 直斎識 押印」とあり、1914年(大正8年)、植中直斎が40歳頃の作と推定されます。
画中にある金剛力士像と蜂の関連については、「天慶2~3年(939~940)の平将門(たいらのまさかど)の乱のおり、執金剛神像の前で将門誅討の祈請を行ったところ、執金剛神像の髪を束ねた元結(髪を束ねる紐)が大きなハチとなって東へ飛び立ち、将門を刺して乱を治めた。」という伝説によるのでしょう。その逸話に倣って像の元結の一部は欠損している仁王像もあるそうです。
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今でも恐れられている平将門
東京都千代田区にある平将門の首塚・・、関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件であったそうです。
その結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで、その平将門の人気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示しています。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っているそうです。
隣接するビルは「塚を見下ろすことのないよう窓は設けていない」「塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っている。」というのは本当でしょうか?なお笑い芸人の爆笑問題・太田光はブレイクする前、この首塚にドロップキックをしたことがあり、そのせいでしばらくの間まったく仕事が来なかったという噂があります。
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さて、その恐ろしい平将門が苦手なのはなんと「蜂」?
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金剛力士(こんごうりきし):仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。サンスクリットでは「ヴァジュラダラ」と言い、「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」を意味する。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には仁王(におう、二王)の名で親しまれている。
日本では寺院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば見かけるが、像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情に表すものが多い。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表している。
仁王像は安置される場所柄、風雨の害を蒙りやすく、中世以前の古像で、良い状態で残っているものはあまり多くない。寺門に安置された仁王像で日本最古のものは法隆寺中門に立つ塑像であるが、後世の補修が甚だしく、吽形像の体部はほとんど木造の後補に変わっている。なお、仁王像は仏堂内部に安置されることもある。奈良・興福寺の仁王像(鎌倉時代、国宝)は旧・西金堂堂内に安置されていたもので、当初から堂内安置用に造られたため、像高は小ぶりである。
仁王像は阿形・吽形の一対として造像するのが原則であるが、これを1体のみで表した、執金剛神(しゅこんごうしん)と呼ばれる像がある。東大寺法華堂(三月堂)の本尊の背後の厨子内に安置された塑造執金剛神立像(国宝)がその例で、形勢や表情は一般の仁王像と似ているが、裸形でなく甲冑を着けている点が異なる。東大寺法華堂にはこれとは別に一対の仁王像があり、阿形像が「金剛力士」、吽形像が「密迹力士」(みっしゃくりきし)と呼ばれている。これも着甲像である。
千手観音の眷属である二十八部衆の中にも仁王像があるが、この場合、阿形像は「那羅延堅固王」(ならえんけんごおう)、吽形像は「密迹金剛力士」(みっしゃくこんごうりきし)と呼ばれる。
現存する大作としては建仁3年(1203)造立の東大寺南大門金剛力士(仁王)像を挙げねばならない。造高8メートルに及ぶこれらの巨像は、平成の解体修理の結果、像内納入文書から運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)が小仏師多数を率いておよそ2か月で造立したものであることがあらためて裏付けられ、運慶が制作の総指揮にあたったものと考えられている。
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知る人の少ない植中直斎という画家ですが、画力もあり非常に魅力的な画家の一人といえるでしょう。
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植中直斎 (うえなか-ちょくさい):明治から昭和時代の日本画家。明治18年10月1日生まれ。(1885~1977年没) 円山派。号は直斎、無畏鎧、臥雲、義徳など。
奈良県出身で、師匠は深田直城、橋本雅邦、山元春挙。また田中智学に日蓮宗の教義をまなぶ。沢村専太郎に美術史の指導を受ける。大正2年山元春挙に入門。文展、帝展などに仏教画を発表。池田桂仙・井口華秋・上田萬秋らと日本自由画壇を結成するがのち脱退。
昭和48年に代表作である身延山久遠寺の「日蓮聖人絵伝」を完成。昭和52年8月12日死去。91歳。本名は直治郎。
直齋の作品は、東京国立近代美術館。富山県立近代美術館。京都市美術館などに収蔵されている。
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本ブログでリメイクして投稿されている「山元春挙」に師事して間もない頃の作品のようです。これはこれで手元に置いて、ときおり掛けては楽しみたい作品のひとつでしょう。