Quantcast
Channel: 夜噺骨董談義
Viewing all 2940 articles
Browse latest View live

仁王図双幅 植中直斎筆 その4

$
0
0
週末の土曜日には帰京しました。この度もまたいろんな出会いもあり、骨董とも語らった休日でした。もっとも息子がパパさんを開放してくれず大変でしたが・・・。



さて、本日の作品、家内にこの作品を見せたところ「『あっ!、痛い! この蜂め!』と怒っている仁王様だ~。」と申し述べているのだが・・。小生は「おもしれべ~」と。

出来が良くて、面白いくて、背景に描いた理由があるという作品を蒐集するのは骨董の醍醐味です。あまりに有名な画家の作品ばかりを追い求めると碌なことになりません。女性も美人を追い回すと碌なことがないのと同じです。

仁王図双幅 植中直斎筆 その4
絹本水墨淡彩軸装 軸先塗 共箱
全体サイズ:縦1875*横295 画サイズ:縦1145*横270



箱裏には「己未(つちのとひつじ、きび)初秋錦林草堂於 直斎識 押印」とあり、1914年(大正8年)、植中直斎が40歳頃の作と推定されます。

 

画中にある金剛力士像と蜂の関連については、「天慶2~3年(939~940)の平将門(たいらのまさかど)の乱のおり、執金剛神像の前で将門誅討の祈請を行ったところ、執金剛神像の髪を束ねた元結(髪を束ねる紐)が大きなハチとなって東へ飛び立ち、将門を刺して乱を治めた。」という伝説によるのでしょう。その逸話に倣って像の元結の一部は欠損している仁王像もあるそうです。



***********************************

今でも恐れられている平将門

東京都千代田区にある平将門の首塚・・、関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件であったそうです。



その結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで、その平将門の人気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示しています。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っているそうです。



隣接するビルは「塚を見下ろすことのないよう窓は設けていない」「塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っている。」というのは本当でしょうか?なお笑い芸人の爆笑問題・太田光はブレイクする前、この首塚にドロップキックをしたことがあり、そのせいでしばらくの間まったく仕事が来なかったという噂があります。

***********************************

さて、その恐ろしい平将門が苦手なのはなんと「蜂」?

***********************************

金剛力士(こんごうりきし):仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。サンスクリットでは「ヴァジュラダラ」と言い、「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」を意味する。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には仁王(におう、二王)の名で親しまれている。



日本では寺院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば見かけるが、像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情に表すものが多い。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表している。



仁王像は安置される場所柄、風雨の害を蒙りやすく、中世以前の古像で、良い状態で残っているものはあまり多くない。寺門に安置された仁王像で日本最古のものは法隆寺中門に立つ塑像であるが、後世の補修が甚だしく、吽形像の体部はほとんど木造の後補に変わっている。なお、仁王像は仏堂内部に安置されることもある。奈良・興福寺の仁王像(鎌倉時代、国宝)は旧・西金堂堂内に安置されていたもので、当初から堂内安置用に造られたため、像高は小ぶりである。



仁王像は阿形・吽形の一対として造像するのが原則であるが、これを1体のみで表した、執金剛神(しゅこんごうしん)と呼ばれる像がある。東大寺法華堂(三月堂)の本尊の背後の厨子内に安置された塑造執金剛神立像(国宝)がその例で、形勢や表情は一般の仁王像と似ているが、裸形でなく甲冑を着けている点が異なる。東大寺法華堂にはこれとは別に一対の仁王像があり、阿形像が「金剛力士」、吽形像が「密迹力士」(みっしゃくりきし)と呼ばれている。これも着甲像である。



千手観音の眷属である二十八部衆の中にも仁王像があるが、この場合、阿形像は「那羅延堅固王」(ならえんけんごおう)、吽形像は「密迹金剛力士」(みっしゃくこんごうりきし)と呼ばれる。



現存する大作としては建仁3年(1203)造立の東大寺南大門金剛力士(仁王)像を挙げねばならない。造高8メートルに及ぶこれらの巨像は、平成の解体修理の結果、像内納入文書から運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)が小仏師多数を率いておよそ2か月で造立したものであることがあらためて裏付けられ、運慶が制作の総指揮にあたったものと考えられている。



***********************************

知る人の少ない植中直斎という画家ですが、画力もあり非常に魅力的な画家の一人といえるでしょう。

***********************************

植中直斎 (うえなか-ちょくさい):明治から昭和時代の日本画家。明治18年10月1日生まれ。(1885~1977年没) 円山派。号は直斎、無畏鎧、臥雲、義徳など。

 

奈良県出身で、師匠は深田直城、橋本雅邦、山元春挙。また田中智学に日蓮宗の教義をまなぶ。沢村専太郎に美術史の指導を受ける。大正2年山元春挙に入門。文展、帝展などに仏教画を発表。池田桂仙・井口華秋・上田萬秋らと日本自由画壇を結成するがのち脱退。

昭和48年に代表作である身延山久遠寺の「日蓮聖人絵伝」を完成。昭和52年8月12日死去。91歳。本名は直治郎。

直齋の作品は、東京国立近代美術館。富山県立近代美術館。京都市美術館などに収蔵されている。

***********************************

本ブログでリメイクして投稿されている「山元春挙」に師事して間もない頃の作品のようです。これはこれで手元に置いて、ときおり掛けては楽しみたい作品のひとつでしょう。

早春 奥村厚一筆 その9

$
0
0
甲子園、今年の夏もまた東北の悲願は散ってしまいましたが、高校野球は9回ツーアウトから何が起こるか解らないと痛感する試合が多いようです。人生も然り、何事も最後まで精進して諦めずに生き抜くことが大切ということと共通するようです。

郷里へのルートは今回は新幹線で秋田経由でした。「こまち」に乗って上機嫌の息子は秋田からの各駅停車も興味深々・・、いつものように最前列で見学。

*小生の郷里へのルートは秋田経由、角館経由、青森経由、盛岡経由、そして羽田経由の主に5ルートがあります。



郷里は非常に涼しかった、というより寒い!



男の隠れ家に着いたら息子は熟睡。



ところで夏季休暇前、もとの会社の同期と赤坂で一献。今は施設運営の会社に勤めている友人はなにやら公共施設の運営を民間に委任するという事業に興味があるらしい。

そこで小生の提案をご披露・・、実は今の美術館全般の運営を何とかして欲しい。

人気のある展覧会は雨でも猛暑でも並んで待っている人が多い。しかも美術館の中は混雑していてゆっくり見ていられない。

整理券を出して並ぶのを止めたらどうだろうか? 待っている間に食事するところやグッズ販売、さらには足湯などのくつろげるサービス提供などを考えたらどうだろうかと・・。

また今では金曜日だけ時間延長しているが、平日の夕方5時に閉館はないだろうと・・。勤め帰りの人々にもっと来てもらえるようにしたらどうだろうか。公務員だからと定時での閉館はあまりにも役所的すぎるのではないだろうか。

学芸委員よりビジネスに精通した人物を雇うべきと進言。楽天の野球場を見習うべきと・・。グッズに広告をのせ広告料金をとる、高級感のあるお店より回転の速いショップを呼び込む、子供や老人が遊んで時間を潰している間に両親がゆっくり見れるようなものを有料にする。美術館と骨董店、さらにはオークション会場との併合など。

民間の活力とはもっともっとある。美術館、音楽ホールはこれから外国観光客も多くビジネスとして見込みがあるが、図書館はビジネスにならないと・・。違う観点が図書館には必要であろうと・・。たとえば本を提供してくれた人には、空き家のオーナーになれるなどの特典を与えて、別荘化して空き家が廃墟になるのを防ぐとか。ビジネス優先の民宿のアイデアよりもいいと思うが・・。

「ビジネスにはアイデアが常に泉のように湧くことが必要ですね。」と宴会は盛り上がりました。最後にアイデアは常に行動を伴うことも必要と・・・。「新しいことは総論賛成、各論反対」が多く、動かない人間が多いから・・・・

さて本日は「その9」となった奥村厚一の作品の紹介です。私の好きな画家の一人です。
 
早春 奥村厚一筆
紙本着色額装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1450*横 画サイズ:縦438*横520



骨董蒐集もビジネスと同じ、ビジネスに失敗するタイプは骨董蒐集も失敗するらしい。

贋作が怖くて手を出さない人が多く、理屈ばかりが優先する人が多い。一見理にかなっているようですが、基本的にはつまらない人物が多いものです。頭の良い、サラリーマンに多いようです。



一方で数は少ないが盲目的に贋作、駄作ばかりを集める人も多い。ま~、小生のような人物でしょうね。ビジネスには失敗しないように要注意人物ですね。



さて失敗が多い時にはこのような心休まる贋作のない画家の作品がいいものです。



共箱で表具もきちんとしていて、保存状態が良好な作品が無難です。

 

このような作品は意外に評価は高いものです。



日本画の実力ある中堅どころの作品は意外に掘り出しものが多くあります。これらを展示して愉しむのも一興でしょう。



今回は春と秋の作品です。このような中堅画家の作品は良く吟味して、共箱のある堅実な作品を選ぶのが賢い蒐集方法です。

 

共箱のある作品は処分しやすいし、共箱まで作っての贋作は非常に数が少ないからです。またこの当時の作品は表具もしっかりしています。

田舎に郷里のあることは幸いです。今回の作品は季節はずれですが、ちょっとした風景に自分の記憶が重なることがあります。都会が郷里の人は積極的に田舎で暮らすことで人生がより豊かになると思うのは小生だけではないでしょう。

出世やお金儲けなどの勝負ごとがすべてではない平均寿命が長いこれからの人生、逆転の発想がより見直される時代になりそう。逆転で負けた高校球児がまぶしく見える。

山柿 麻田辨自筆 その3

$
0
0
田舎では田んぼを息子と散策。大きな秋田蕗が見当たらず小さな蕗で傘代わり。「茎の部分が食べられるよ。」という家内の説明を息子は理解したようです。



本日もちょっと季節はずれの作品の紹介です。

ところで我が家には父の頃から家に麻田鷹司の作品がありました。その作品は小生が結婚して山形市内に居を構えた時に母から譲り受けました。父は小生が中学校に進学してすぐに亡くなっておりましたが、母はこの作品を家のどこに飾っていたのかちょっと覚えていません。玄関には福田豊四郎、応接間には向井久万、福沢一郎・・・・、玄関からの廊下だったかな?

海の見える風景 麻田鷹司筆
紙本着色額装 
画サイズ:横415縦315 F6号



当時、小生が作成した説明文は下記のとおりです。

***********************************

麻田鷹司は昭和62年没、享年58歳。創画会創立会員、京都美術学校卒業。武蔵美術大学教授。創画会の発足は昭和49年、その前身は新制作協会であり、父の友人である福田豊四郎と関係があり、そのようなことから当方で所蔵するようになったものと窺われる。

写生を嫌った横山大観は昭和5年、画面外に霊性を暗示する独自な象徴主義的精神主義を主張するが、院展の床の間的鑑賞主義を嫌った川端龍子は同院を脱退、昭和4年、同志を引き連れて青龍社を結成する。そこで洋風は常識であり、庶民のための剛健な芸術、会場に即した大作を制作の目標とした。昭和13年には、吉岡堅二、福田豊四郎らかつての帝展特選受賞者を中心に日本画のアヴァンギャルドと呼ばれた新美術人協会が結成され、キュービズムやシュールレリズムを積極的に日本画に導入するが、この運動が戦後の創画会に受け継がれ、従来の日本画の因襲に囚われずに世界性に立脚した第3次洋画化時代を現出した。戦後の厚塗りのマチエールへ移行した。現在は極度に偏りすぎて、どうも好きになれない人が増えている。日本画の原点を見つめ直す時期が再び来ていると思われる。
本作品はわが家の伝世品であり、結婚したとき母から譲り受けた作品である。

***********************************

本日紹介します画家の麻田辨自は上記の作品を描いた麻田鷹司の父です。

山柿 麻田辨自筆 その3
紙本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦460*横510


**********************************

麻田辨自:明治33年、現在の京都府亀岡市に中西家の次男として生まれる。本名辨次。京都市立絵画専門学校に学び、1921年(大正10)第3回帝展に初入選。



昭和2年に上村松園の弟子麻田ツルと結婚し麻田姓を名乗ることとなる。

1929年(昭和4)に西村五雲に師事し、その画塾「晨鳥社」に入る。また創作版画も手がけ、30年(昭和5)の第11回帝展には日本画作品とともに版画「燕子花其他」を出品。師五雲から受け継いだ即妙な写実的表現による花鳥画で戦前期の官展 (帝展・文展)などに出品を重ねた。



戦後は日展に出品し、1950年(昭和25)第6回日展で《樹蔭》が特選、52年(昭和27)第8回日展《群棲》で特選・白寿賞、59年(昭和34)第2回新日展《風騒》は文部大臣賞を受賞するなど風景画に新境地を開いた。65年(昭和40)日本芸術院賞を受賞。日展評議員、晨鳥社顧問をつとめた。75年(昭和50)京都府美術功労者となる。



著書に『巴里寸描』(1977年)がある。1984年 (昭和59)没、享年84才。日本画家麻田鷹司は長男、洋画家麻田浩は次男。

 

**********************************

本作品は共箱でニ重箱に保存されています。

 

小生が思うに、意外に麻田辨自の作品は市場に少ないようです。



麻田鷹司から麻田辨自の作品へ・・・。



常に骨董には輪廻がつきまとわりますが、時にはそれを所蔵している人間も・・・。息子へ小生の輪廻も伝達されていくことを願っています。

再挑戦 浅絳山水図 伝桑山玉洲筆 その2&その3

$
0
0
お土産を買おうと寄った道の駅。そこで息子が小生にねだったのがなまはげのお面。どうもこれを被るとなまはげに勝てると思っているらしい。



本日紹介する作品は、なんどか挑戦した「桑山玉洲」の作品ですが、ことごとく山水画は討ち死・・・。非常に贋作が多いようですが、それでも懲りないのが小生の真骨頂???

贋作に懲りずに挑戦して本ブログに投稿している画家の主な作品には「釧雲泉」と「桑山玉洲」の南画の山水画があります。明らかな贋作は本ブログからも削除し、作品も処分していますが、なんとも打率の悪い二人の画家です。一時は蒐集対象から撤退しましたが、またまた挑戦・・・。

浅絳山水図 伝桑山玉洲筆 その2
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱二重箱
全体サイズ:縦1933*横582 画サイズ:縦1322*横450



落款には「桒嗣燐」と記されています。この落款のように「桒嗣燐」のみの記載は珍しいのですが、代表作「那智暴布図」(和歌山県立博物館出版「桑山玉洲」掲載 作品NO53)などにも見られます。

なお当方の調べでは「桑」の字がこのような字体で記されるのは晩年の作らしい?



なお「那智暴布図」は寛政7年作と推定されています。寛政5年に野呂介石、今井元方(藩医)らと熊野地方に旅行しており、その時の旅行が真景の学ぶという玉洲の制作態度に貴重な体験と与えたと思われ、この時期以降の作品は「寛政後期の作」と称され、出来が良く珍重されています。



描いた時期は年号の記載もないので不明ですが、さて本作品は一見、味気ない山水画? 細かく見ると稚拙?、ただ全体の感じはいい感じ。正直なところ出来は良くわからない



画像より実物のほうが出来が良く見える? それらしく見える作品のようです



ちなみに作品中の印章「桑嗣燦印」と「明夫」(白文朱方印)と資料の印章との比較は下記のとおりです。印章はここまで似せられればかなり巧妙?

 

いいのが表具と保存箱 表具は古く茶色の粉が吹いています

「秋斎重嶽?」と外箱には記されています。いい箱だね~。軸先は象牙であり、軸先と箱で購入の元手はとったようなもの・・・

 

恥をかくならとついでにもう一作品を紹介します。

青緑山水図 桑山玉洲筆 その3
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2090*横640 画サイズ:縦1310*横480

 

落款には「丙辰晩春写 玉洲桑嗣燦 押印」と記されています。この作品と同じく「丙辰晩春写 玉洲桑嗣燦 押印」と記され、同年の寛政8年(1795年)51歳の作があるという記録があります(和歌山県立博物館出版「桑山玉洲」掲載)。

小生は上記の真作を見たことがないので、本作品との因果関係などの詳細は不明です。驚くことにまったく同じ構図の明らかな模写のような作品がインターネット上にもあります。

 

本作品と詳細な部分に違いこそあれ、瓜二つの作品です。釧雲泉でもそうであったように、明治期には高値で取引された南画家の作品は数多く模写されたような贋作が多いのではないかと推察されます。



そもそも南画のような即興的な作品にまったく同じ構図の作品が存在するのでしょうか?



ちなみに印章「桑粲」・「明夫」の白文朱方印累印の資料との比較は下記のとおりです。大きさは同じですが、「桑」の「木」の部分に違いがあるようですね。

 

右下には遊印「明光居士」の朱文白方印も押印されています。大きさは同じです。

 

これらの印章は資料と見比べて初めて違いが解ることが多く、実際の購入時には資料が手元にない状況での真贋判断ですので難しい判断となります。



明治期にはかなり巧妙な印章が出来ていたのでしょう。横山大観の贋作の印章など、近代画壇の大家の印章は巧くないものが多いのに南画家の印章は巧妙なものが多いのは不思議です。



これら南画は真作を並べて制作したものかもしれません。明治期に入札の行なわれた作品を、その入札に際して贋作づくりをしたのではないかと推察しています。入札や展覧会の印刷物と模写の贋作を揃えて地方で幾つかの贋作を売り抜いたのではないかと推察しています。




南画の作品は素人は手を出さないほうがいい分野と改めて痛感しながらも、ときおり難解な南画に挑戦してます。一般に贋作が勉強になることが多いのもまた事実で、何事も失敗事例に学ぶのは真実や成功に繋がる早道です。

ただなまはげの面を被って挑戦している息子とたいして変わらないかも






2017年夏 保戸野窯

$
0
0
今回のまた帰京に際して、秋田市内の保戸野窯の平野庫太郎氏を訪ねてきました。



千秋公園の蓮の花を眺めながら平野氏の窯元へ・・。



秋田市内にある窯元ですが、平野庫太郎氏は秋田県立美術館の館長も務めていますので、非常に忙しい方です。今回はなにやら蔵の整理をしていたようで、鼈甲や簪の作品を見せていただきました。

脇では息子が蜂の服を着てきたので「ブーン」と遊んでいますが・・。



鼈甲や蒔絵の櫛など現在では貴重な作品です。鼈甲の笄は小生も修復したことがあるので、骨董談義に話題が盛り上がりました。



漆器類も話題となりましたが、漆器の揃いである膳などを兄弟も引きとらないと平野氏も頭を抱えていました。

冒頭の作品は大き目の油滴天目の壷。下記の写真は辰砂や均窯の釉薬の作品です。

最近の陶磁器は新鋭的と称して、轆轤技術が貧相で釉薬の研究もおろそかな作品が多い中で、保戸野窯の作品は技術に裏づけされた希少な作品のように思います。



平野氏は近日中に茶道関係のホテルでの集まりで講演をするとか。持ち時間は90分、長いね~と・・。ただ作陶がままならないらしい。



家内曰く、小生は行く先々で骨董に出会うようです。小生が抱え込んでいる漆器類などを家内が海外相手に売り込めないものかと頭を捻っていました。「海外には売らんぞ!」と小生。


2017年夏 男の隠れ家

$
0
0
りんご台風で屋根が飛ばされて、何十年も前に義父と災害保険を充当して修復した屋根。当時から経年劣化し錆も出てきたので塗装をしようと思い立ち、小生の郷里の近隣の方からの紹介があった職人に頼んで、義母が思い切って全部塗装したようです。



お社も蔵も車庫も、ともかく屋根という屋根を全部塗装したようです。



家内曰く、「ピカピカだね。」



これでしばらくは安心していられるようです。なにしろ家の保存には手間と資金がかかります。今回は近所の方の紹介で、かなり安く塗装してもらったように思います。



庭は義妹が熱心にイギリス庭園?を目指して頑張っているようですが、問題は大きな樹木の剪定かな? 「野趣溢れる庭」とは近隣のお寺の和尚さんの評でしたが、誠に的を得ている評です。

さ~、お盆の宴会じゃ!



宴会となると張り切る奴がいないとつまらない、なんと三歳半の息子はノンアルコール好き!



このたびは亡き義父に研ぎが終わった二振りの刀剣をお返ししました。研げずに紙やすりで手入れしていた跡もあったりした刀剣ですが、この刀剣を何とかしたいという義父の願いをようやく叶えてあげられましたように思います。白鞘を新調し、保存袋も手作りの作です。拵えは輪島にて補修しました。

ものは家のつくもの、家に返すもの、そうすることで家は栄えるものと心得ます。決して遺産相続などお金目当で換金するものあってはなりません。そのような目的で処分すれば家は廃れるものです。



義父と二人きりで一献を交わしたお盆のひとときです。

男の隠れ家にあった酒器ですが、徳利はゲルトクナッパー、盃は高原敏。ゲルトクナッパーについては後日また・・。



真塗の高足膳は以前に紹介した作品です。いったい幾つ揃いやら、ともかく保存箱がたくさんあります。状態は良好、そこいらにある作品とは塗りと生地が全然違う代物です。この違いが嬉しい作品です。

修復で漆を塗り重ねると生地の良さがいったん失われますので、古いままで状態の良い作品はそのままにしてます。塗ればよいという屋根の塗装とは一味違うところがあります。

双鳩図 渡辺省亭筆 その18

$
0
0
京都で有名な大文字焼、実はわが郷里の大文字焼があり、今年で50年の歴史があります。



なんと今年は50周年記念で「犬」になりました。その点はハートマーク! 10分程度でもとの大文字焼に戻りましたが、犬の理由は推察するに秋田犬の原産地だからでしょう。



花火の打ち上げのまん前で寒さをこらえて花火を堪能しました。歩いての距離ですので実に手軽。



膝の上で息子は大喜び、我が家は花火好きが多い。



不染鉄とともに現在、幻の画家として話題の画家が本日紹介する渡辺省亭です。代表作のほとんどが海外に流出しており、また四条派の流れをくむ画法は、現在は人気が低いことからあまり振り返られない画家といえました。ここにきて加島美術を中心に展覧会が催され、再評価の機運があります。

双鳩図 渡辺省亭筆 その18
絹本水墨着色軸装 軸先樹脂 合箱
全体サイズ:縦1960*横525 画サイズ:縦1130*横395



この作品がうぶなままで箱もなく、打ち捨てられように扱われていたのは驚きです。



同時期に描かれたと思われる代表作には下記の二作品が挙げられるでしょう。

Roosters, Chicks, and Morning Glories」   
絹本著色 ウォルターズ美術館所蔵        
1890-1900年頃 



雪中群鶏 東京国立博物館蔵           
シカゴ万博出品作で、省亭の代表作
1893年



さらりと描かれた作品も魅力がありますが、このように濃密に描かれた作品の渡辺省亭の真骨頂があるようです。



海外に代表作の多くが流出しているそうですが、これはなにも日本に限ったことでもなく、渡辺省亭にも限ったことではないので、海外にある作品も揃えた展覧会でも催せたら面白いでしょうね。



今は評価の低い掛け軸、「取り戻せよ日本の文化」と叫びたいところです。



相変わらず印章は数多くのものがあるように思われます。同一印章のパターンを年代別に整理した資料があるといいのですが・・。



掛け軸文化も花火のようなもの、日本ではなく海外で評価されるように方策はないものか? 日本のマンションのような住居では飾れる場所がない。漆器、掛け軸などを海外の骨董市場に売り込む方策はないのかと本気で考え始めています。

漆器と掛け軸は都会のマンション暮らしの多い日本人はもはや投げ出している風潮がある。海外に売らないという固執はもはや時代遅れかもしれない。価値に解る人のところへ作品は流れていくのが自然なのかもしれません。

双鶴図 その2 平福穂庵筆 その17

$
0
0
盆にはなんといっても墓参り。拝んだ後はあげたお菓子をその場で食べます。なんと息子は墓の前の石段に座って食べ始めました。



「は~い、手を拭く!」だと・・。



さ~、またまた宴会じゃ!



本日はきりたんぽ、「熱いよ!」だと。相変わらず息子はノンアルコール・・・。



本日は先日紹介した「双鶴図 その2 平福穂庵筆 その16」と同時期に描いた作品の紹介です。

双鶴図 その2 平福穂庵筆 その17
紙本水墨軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦2000*横740 画サイズ:縦1230*横590


他の所蔵作品「双鶴図 その1」(下記写真)と同時期の作と推察され、その作品には「甲戌春三月」とあり、1874年(明治7年)、穂庵30歳頃の作と推定されます。



なお賛には為書きがされており、「為□□園大人」とありますが、詳細は不明です。

左は「その1」、右は「その2」の作品の落記です。同一印章が押印されています。

 

平福穂庵は平福百穂と同じく贋作が数多くあることは、本ブログでも紹介しています。印章もさることながら、見極めはその筆致にあります。晩年は濃密な作品を描きますが、独特のその筆致は他の追随を許していません。



渡辺省亭の数少ない親交のあった画家ですが、渡辺省亭が一芸に秀でた人物としか交流しないとしたことがその証でもあります。



竹内栖鳳らの当時人気の画家を酷評した渡辺省亭が一目を置いた画家です。



贋作はその貧弱な筆致ですぐに解りますが、地元にもっとも贋作が多いのでややこしいこともあります。地元では「これは先祖伝来の真作です。」と頑張る方が多いのですが、小生もそうならないように心がけます。



表具の生地はなんでしょうか?

濃密に描かれた晩年の作品も後日紹介したいと思います。


韓信之股潜図 寺崎廣業筆 その59

$
0
0
我が家の大型テレビがとうとうダウン・・・

画像が突然映らなくなるというトラブルが最近続発するので、思い切って新しいテレビに買い換えました。しかも2台・・・。

ところで4K対応と言いながら、4Kの本格的な放送開始予定は来年の12月とは知りませんでした 
ショップで展示してあるテレビの画像は4K専用のデモ用ビデオらしい。BSかケーブルテレビでは放映しているとか?



テレビの購入ポイントで掃除機をゲット! 家を掃除するのは最近は小生の役割なので小生の要望でコードレス! サスペンスドラマ以外はテレビをあまり見ない小生は、テレビよりこちらが欲しかった!



こいつは優れもの!



小生と息子が夢中になっているプラレールですが、予定外の出費ゆえ、しばらくはおもちゃの購入はお見送り! 息子は掃除機がおもちゃと思っている節があるようですが・・。

さて、本日は寺崎廣業の「韓信之股潜図」を描いた作品の紹介です。なんども投稿される寺崎廣業の投稿となるとアクセス件数が大幅に減少するようです。

*現在はブログの順位を公開していますが、順位がだいたい1500~2000番目くらいですが、その母数が275万です。275万というのはずいぶん多いものです。

韓信之股潜図 寺崎廣業筆 その59
紙本水墨着色軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:縦220*横580 画サイズ:縦1290*横440



この作品は最初見たときに寺崎廣業の作品とは思えませんでした。しかし当方は真作と判断しています。理由は「巧い」からです。一見すると同じ郷里出身の奇才の画家、倉田松濤の作品のように見えます。



「韓信之股潜図」はすでに当方では下記の三作品にて紹介されています。

韓信之図 伝長沢芦雪筆
紙本水墨淡彩絹装軸軸先鹿骨 時代杉合箱入
全体サイズ:縦1830*横1000 画サイズ:1540*915



上記の作品はすでに贋作と判断して処分しており、手元にありません。

下記の作品は郷里出身の画家である倉田松涛の代表作ということもあり、手元に遺してあります。

韓信之股潜図 倉田松涛筆
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 極箱
全体サイズ:縦2370*横660 画サイズ:縦1390*横500



下記の作品もまた郷里に近い青森出身の画家という理由で、手元に遺してあります。

韓信之股潜図 野沢如洋筆
絹本水墨着色軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦1810*横510 画サイズ:縦1130*横400



このように多くの画家によって「韓信之股潜図」は画題として描かれています。

本日紹介している寺崎廣業の描いた「韓信之股潜図」は下記の作品と同時期に描いた作品です。

護良親王図 寺崎廣業筆
水墨着色絹本幡山鑑定箱二重箱
画サイズ:横498*縦1148



この作品は昭和24年5月26日に開催された寺崎廣業名作展に出品されています。「昭和16年晩春幡山道人鑑定」と箱書には記されています。

題材の「護良親王(1308年~1335年)」は後醍醐天皇の皇子で、落飾して尊雲と称して大塔宮ともいい著名ですね。倒幕を図り還俗、奈良・吉野・高野に潜行し、諸国に令旨を発して建武中興を招来して征夷大将軍に任じられましたが、のちに足利尊氏のために鎌倉に幽閉、足利直義の家臣、淵辺義博に殺されています。その幽閉の様子を描いた作品です。

叔父が所蔵していましたが、叔父が亡くなった後に手放されています。暗い感じのする作品ですが、寺崎廣業の代表作と言えます。落款と印章から明治40年頃の作と推察されます。

 

現在は非常に評価の低い寺崎廣業の作品ですが、昨年は生誕150年を迎えた展覧会が催されるなど再評価される機会が多くなっているようです。



寺崎廣業の作品は、力作でない作品の数が非常に多い。また贋作、印刷作品が多いなど蒐集する側からは忌み嫌われる傾向のある画家ですが、郷里出身の画家であることから今後はさらに吟味することで秀作を見つけていきたいと思います。



「韓信之股潜」で有名な韓信ですが、その人物像は一言では語れない複雑なものがあります。



人によっては好きになれない人物という評価もあります。



謀略の飛び交う中国の当時の時代では当たり前のことでしたでしょうが、策略家ゆえの謀略であったのでしょう。



「韓信之股潜」のように目先のことはさておいてという生き方のようです。



「韓信之股潜」は目先のことには腹を立てないという教訓の画題です。肝に銘じておきましょう。



表具も標準といったところ、明治末期の寺崎廣業の作品には席画も多いですから、出来のよいものに限定して蒐集するのが肝要のようです。



印章は「寺崎廣業」の白文朱方印のみ。上記の「護良親王図」の印章のひとつと同一印章のようです。

 

落款は「二本廣業」ですから、明治40年より少し前頃かと推察されます。




2017年 夏 男の隠れ家骨董三昧 漆器編

$
0
0
お盆では家内らが宴会の準備やら終了後の余韻を愉しんでいる間は、小生が手近にある漆器の作品を手入れしながら愉しめる時間となりました。



まずは溜塗風の高足膳。「松?塗」・・・??(後日「木地呂塗」ではないかと判断しています。詳細は今後のブログへの投稿にて・・、どなたか「なに塗」かご存知の方がおれるでしょうか?)



50客揃のものらしい。当時は50客揃いも珍しくないものです。



何気ない作品ですが、一尺程度の一枚板で作られているらしく、何気ないこの造りが、最近の作品と格が違う点です。



作りがしっかりしてますが、漆器は日頃から磨いておかないとカビにやられます。



同じ溜塗風の作品で以前に紹介した盃洗です。(こちらも詳細は後日、ブログに投稿します。)



5客あり、ありがたいことにその各々に盆が付いています。見込みは銀塗?。ちょっと色が退色していますが、これも一興。(銀なのか、溜塗が変色したものかも不明)



今では盃洗は用途が少なくなりましたので、これなら食器としての用途にも使えるでしょう。

最近の方は「盃洗」を知らない? そんな方が多くなってきましたね。



次はちょっと可愛らしくて洒落ている足付の膳です。



「波ニ千鳥」の蒔絵ですね。



波は銀、千鳥は金・・・。見所はこの漆の肌、義父が亡くなった後に、小生が仏壇もこれと同様なものを作ってもらいましたが色は濃い緑です。たしかこの技法のやり方の詳細は、当時、聞いた筈なのだが・・。(たしか卵の実を漆に混ぜるとか・・・、この技法についてご存知の方はおられるでしょうか・)。



さらに洒落ているのがこの膳の足。



先祖が揃えたらしいこの漆器類、実にセンスがいい。



次は酒注ぎ。松に鶴文の蒔絵が施されています。



これも当然ながら盆付き。



鶴が折鶴なのがセンスがいい。



簡単そうな蒔絵の絵柄なのですが、現代の漆器工には描けないですね。現代の蒔絵師は絵の修行が足りないようで、現代の漆器には作品に品格が生まれてこない。



海苔用の器も紹介します。これは現代作品ではありません。上記の作品と同時期の作品です。



海苔に真塗では?海苔が映えない・・、というのでこのようなデザインになっていたのでしょう。いかにも現代的な作品です。



数時間で磨いたこれらの作品を並べてみました。収納箱に収めて座敷の隅に積み上げていましたが、これらの箱の目隠しに男の隠れ家で見つけた屏風をたてました。



描いたのは「五島耕畝」。描かせたのは祖父のようで、五島耕畝の作品は本家に他の作品がありました。

*************************************

五島耕畝(ごとう こうほ):日本画家。茨城県生。名は貞雄。初め水戸の南画家松平雪江に、のち荒木寛畝に学ぶ。読画会展・日本美術協会展、博覧会等で入選、受賞を重ね、文展・帝展でも活躍する。花鳥画を得意とした。昭和33年(1958)歿、76才。

*************************************

屏風用の桐箱の収納箱は洗って干しておきました。「保存箱は場所をとるので不要とする。」と「なんでも鑑定団」で説明がありましたが、なんとも嘆かわしいことです。



屏風の扱いも神経を使います。ところでこの屏風の「六曲一双」という呼び名がどういう意味なのか知っている人は少なくなりました。



息子は脇で後片付けを手伝ってくれます。意外にまめな奴!

ちなみに真塗の高足膳も今回、かなりの数を磨きました。当方の漆器の整理はまだ山を越えてません。帰郷に際して、少しずつやり始めてもう3年近く経ちます。母が大切にしていたものなど帰京に際して持ち帰り、修繕していますがきりがありませんね。引き取り手があった処分したい気にもなりますが、そうもいかず・・・






カサブランカ 杉本健吉筆 その5

$
0
0
書斎の床に掛けられている下記の作品は本ブログでも紹介されていますが、小生のお気に入りの作品のひとつです。



渇墨山之図 藤井達吉筆 その16
紙本水墨軸装 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1490*横345 画サイズ:縦690*横250



畳の上で渇墨で描いたと思われる作品、現代の浦上玉堂のような味わいのある作品です。このような作品がどうしてもっと評価されないのか不思議でたまりません。

お気に入りとはいえ、ず~っと掛けいるわけにもいかないので、本日紹介します新たな作品を飾りました。これも藤井達吉と並んで好きな工芸家の一人の杉本健吉の作品です。

カサブランカ 杉本健吉筆 その5
紙本水墨淡彩 版画手彩色 軸先象牙 共箱タトウ
全体サイズ:縦1135*横388 画サイズ:縦260*横257



画中の款から昭和37年(1962年)8月11日にカサブランカで描いた作品であることが推察されます。1962年にインド、中近東、南ヨーロッパに初めて海外旅行しており、その旅行に際して描かれた作品と思われます。



「カサブランカ」は言わずと知れた北アフリカ、モロッコにおける最大都市。映画でも有名ですね。



なんども紹介している杉本憲吉ですが、下記に来歴を記しておきます。

************************************

略歴・解説
生年月日(西暦)1905 生年月日(和暦)明治38年
没年月日(西暦)2004 没年月日(和暦)平成16年

1905年、名古屋市に生まれる。
1923年、愛知県立工業学校図案科卒業。
1925年、岸田劉生に師事。
1926年、第4回春陽展に初入選。
1927年、観光雑誌『旅の友』の表紙絵を描く。*以後、鉄道関係のポスターなどを多数手がける。
1928年、初個展(津島公会堂,愛知)。
1929年、デザイン事務所を開設する。1931年、第6回国画会展に初入選。
    *以後出品を重ねる。38年同人、71年退会。
1937年、第12回国画会展で国画奨学賞受賞。
1942年、第5回新文展で特選受賞。*46年第2回日展で同賞受賞。
1943年、第7回佐分賞受賞。
1948年、第1回中日文化賞受賞。
1950年、「新・平家物語」(作・吉川英治,『週刊朝日』)の挿絵を手がける。
1953年、愛知県県政功労者。
1954年、第1回現代日本美術展。
1958年、「私本太平記」(作・吉川英治,『毎日新聞』)、「新・水滸伝」(作・吉川英治,『日本』,講談社)の挿絵を手がける。
1960年、近代日本の素描-アメリカ巡回展国内展示(国立近代美術館)。
1962年、インド、中近東、南ヨーロッパに初めて海外旅行。
    *以後、世界各地にスケッチ旅行を重ねる。
1977年、ヒマラヤ美術館(愛知)開館、杉本健吉展示室が開設。
1987年、杉本健吉美術館(愛知)開館。
1994年、個展(愛知県美術館)。
2003年、個展(奈良県立美術館)。【『刈谷市美術館収蔵作品目録』(発行:2013年3月)より】

************************************

杉本憲吉の肉筆画は珍しく、陶板画や手彩色の作品は数多く見受けますが、肉筆の作品はオークションなどの市場ではあまり見かけません。本作品は共箱に収められ、タトウにもおそらく杉本憲吉直筆である題名があることから、表装も杉本憲吉が関わっていたのえはないかと推察されます。



さらに興味深いのはずいぶん前に投稿した下記の作品です。

スカラベ図壷 杉本健吉筆
水墨色紙3号 額装 共シール

「古代エジプトでは、その習性が太陽神ケプリと近似したものであることから同一視され、再生、復活の象徴である聖なる甲虫として崇拝され、スカラベをかたどった石や印章などが作られた。古代エジプトの人々は、スカラベはオスしか存在しない昆虫で、繁殖方法については精液を糞の玉の中に注いで子供を作ると解釈していた。」(ブログでの当方の説明文より)



本作品もまた1962年、インド、中近東、南ヨーロッパに初めて海外旅行した際にエジプトで描かれたスケッチをもとも描かれた可能性があります。

杉本憲吉の創作に対する考えを理解するためにエピソードを記しておきます。

************************************

エピソード
・吉川英治が亡くなった時、杉本健吉は感謝の意を込めて、新・平家物語の主人公に囲まれた吉川英治の絵と手紙を描いた。

・名古屋能楽堂が完成し、その鏡板(舞台の背景)の制作を担当した際、他の能楽堂では定番となっている老松を描くところを、杉本健吉は若松を描いたため物議を醸した。これに対し本人は「できたばかりだから元気が良く若々しい松の方が似合う」「伝統に決まったものはない」と語っていた。後に老松の鏡板も描かれ、隔年で配置されている。

・晩年「(やりたいことを)行えばいいんです。私の場合は自然の中でたわむれているうちに絵ができた。それが私の人生だった。」との言葉を残している。また、「長生きするのが目標ではなく、絵を描くのが目的で、そのために長生きしている」とも。100歳になる年の愛知万博に自分の絵を出品して参加することを目標としていたが、その願いはかなわなかった。

************************************

下記の写真は共箱の箱書です。本作品の表装は凝った表装ではないので、本作品の表装に関わったかどうかは詳細は解りませんが、藤井達吉にしろ杉本憲吉にしろ、工芸デザイナーという一面を持っており、表装にはこだわりがあったようです。

 

************************************

主な作品
・名鉄3780系電車(ライトパープル)・名鉄7000系パノラマカー(スカーレット)・名鉄交通のタクシー(エメラルドグリーンとアイボリーホワイトのツートンカラー)や名古屋市営地下鉄東山線(ウィンザーイエロー)の車両色
・青柳ういろう(小野道風の故事をもとに、柳に飛びつくカエルの姿を図案化)や、中部電力(「電」を図案化)・名鉄百貨店(「名」を図案化)の社章(いずれも初代)
・名古屋市営地下鉄のマーク(地下鉄のトンネルと線路を図案化)のデザイン
・常滑市の市章(「常」の字を図案化)のデザイン
・東大寺が経営する東大寺学園中学校・高等学校(奈良市山陵町)において、中学棟・高校棟を繋ぐ「転心殿」を榊莫山と合作し、同校へ寄贈した
・大須観音の鐘楼堂の華精の鐘(女人梵鐘)のデザイン(四面の池の間に、四季の花、梅、牡丹、蓮、菊、その中心に、華の精の姿を描く)

************************************

タトウにまで本人が題名を記しているのは珍しいと思います。



蒐集を続けてきていると、だんだん自分の好みが解ってくるように思います。自分の好みが解ってくるという表現は解りにくいですが、価値や名前にこだわる欲、ストイックな、もしくはマニアックな趣向より、年齢を積み重ねたことによってシンプルな趣向のものが好きになってきたように思います。

2017年 夏 男の隠れ家骨董三昧 掛け軸編

$
0
0
休日につき、ちょっと骨董談義から離れた話題で、郷里の近所のスナップを投稿します。近所が変化しつつありますので記録に残すべく投稿しておきます。

自宅隣地の宅地造成が終了したようです。4区画のうちのひとつを購入しましたが、3区画がすでに売れたようです。



我が家の分は砂利を敷きませんでしたが、そのせいか近所の方から畑を作りたいと申し出がありました。新規に購入した土地は計画は未定ですが、基本的には近隣を含めた除雪の雪捨て場に考えています。将来は第三の茶室を作ろうかと青写真を描いていますが・・・。



裏の勝手口から見えるのは新たに作られた道路になりました。この道路で近所の裏側の方は除雪を含めてだいぶ便利になったと思います。ただ当方の風呂場に車のライトがあたる?ようになってしまいましたが・・・。



庭は休み前に家を管理されている方々と近所の方で伐採が行なわれていました。ありがたいことです。



初日にはその庭に朝から雉が挨拶に来ました。



「お~い、どこに行くんだよ。」・・・、造成地を横切って雉が走っていきましたが、この見慣れた光景はいつまで続くのでしょうか? 家が建ち始めたら見られなくなるかもしれません。



家の中で小生が片付けを行なっていると家内の姿が見えなくなり、どこだろうと思ったら門の脇にある松の木の剪定にとりかかっていました。



いらなくなった脚立?を近所の方が持ってきてくれたらしく、家の脇に見慣れない脚立があり、それを利用して早速剪定を家内がし始めたようです。



見かねた向かいのご主人が高いところを剪定してくれました。



なんと近くでは熊が出没するらしいですが、のどかな休暇になりました。



小生は縁側でのんびり・・。



家は長いあいだ不在にしていても郷里の方々の協力でなんとか住める状態を保っています。



母が使っていた寝室は息子の遊び場になりつつあります。



床には舘岡栗山のお気に入りの作品を掛けておきました。この作品はまだ未投稿ですが、他の舘岡栗山の作品は本ブログに投稿しています。



郷里の家は幼稚園の時からの同級生の設計、その同級生の紹介の建築会社での施工ですが、もう30年近く前のことです。母のために建てたようなもので、20年近く母が一人で住んでいました。



吹き抜けをたくさんとりましたが、明るくていいのですが冬は結構寒い? 夏は涼しくて快適ですが・・。今は暖房器具の良くなり、冬も快適になりました。



水屋周りは換気を良くしておきます。



小生の書斎部屋は和室にしています。



小生が東北での転勤時代にあちこちの骨董店から集めた掛け軸の作品はこのたび湿気を抜きした。安田靭彦、西村五雲、川村曼舟、中村貞以、田崎草雲、立原杏所、貫名海屋ら・・・。紹介は後日また・・。



玄関では生意気にも靴べらを使う息子・・。



玄関にある衝立は祖父の代からの一枚杉板板目の隔て。



玄関も吹き抜けに・・・。小生のモットーは玄関は広く!



最後は息子が撮った写真です。



息子は意外のも掛け軸を踏んで歩かない。さて湿気を抜いた掛け軸は宅急便で帰京に際して持ち帰り、掛け軸の整理の大詰めです。

転勤時代に小遣いから骨董店のご主人と仲良くなりながら、吟味して購入した作品。時には分割払い、作品を処分して資金を作って購入した作品です。たいした作品ではないのですが、ひとつひとつに思い出がつまっています。初心忘れるべからずですね、この当時の慎重さ、知識への貪欲さ。

修復完了 津軽塗御櫃二種・盆

$
0
0
週末に会社の同僚が穂高で滑落で遭難死したという連絡が入りました。小生も学生時代には何度か登山している穂高ですが、ロック以外の一般的な登山道でも油断のならないルートがいくつもありますが、詳細はまだ不明です。とにもかくにもまだ若すぎる・・・。

男の隠れ家にあった津軽塗、前回は母が大切にしていた御碗二十人揃いを修復しましたが、今回は御櫃二対を修復しました。

津軽塗 御櫃二種・盆
サイズ:丸盆その1:口径300*高さ30
丸盆その2(2個):口径255*高さ24 丸盆その3(2個):口径239*高さ24 
御櫃その1:最大口径262*高さ230 御櫃その2:最大口径232*高さ220
御櫃膳その1:幅289*奥行289*高さ116 御櫃膳その2:幅258*奥行258*高さ116
杓その1:最大長248 杓その2:最大長224



他の漆器に比べて漆器の工程の多い津軽塗ですが、塗の工程の多い分、艶が無くなった部分を磨くことで新たな艶が出てくるそうです。



前回の御碗でそのことを試していたので、思い切って他の御櫃の二対も修復してみました。一般的には唐塗という技法が津軽塗では多いのですが、下記の御盆のように変わった文様の作品もあります。



こちらも青森の組合を通して紹介いただいた弘前の小林漆器に問い合わせたところ、津軽塗の一種のようです。



御碗のそうですが、御櫃についても現代の唐塗より手が込んでいるようです。近況の民芸品ということで男の隠れ家にはそれほど高級ではありませんが、幾つかの津軽塗がありましたが、修復の必要な残りの作品としてまだ下記の作品があります。

津軽塗 乱れ箱(着物盆)
サイズ:幅576*奥行425*高さ75



普段使いに使っていたもののようです。



こちらの文様はちょっと面白いですね。



大きさのあるものですから、収縮などで角の木地に割れがあったり、漆が剥がれている箇所があります。



費用対効果を鑑みなくてはいけませんが、漆器は直して使えるということをもっと考慮してみてもいいと思います。

遭難の連絡の入る前の予約原稿ですので本日は原文そのまま投稿していますが、今後の投稿予定は未定です。息子は土曜日には手足口病を発症・・・、なんとも気を病む週末となりました。

忘れ去られた画家 鳥海山 一木弴作 

$
0
0
最近、義父は朝天気が良いと毎日5時前からイチジクを採りに出かけています。散歩に来た人も欲しがるので一緒に採っているようです。散歩で採りに来る人は義父が居ない日は、採ってきた代金(50円?/個)を支払いに早朝に我が家の玄関で「ピンポン~」。我が家は6時には皆起きて仕事にとりかかっていますので、それほど迷惑ではないのですが・・・

今年は雨も多く不作気味であり、大きなイチジクの木が枯れたこともあってそれほど数多くは採れないようです。ほんの少しだけ会社にて配りました。



本日紹介するのは我が郷里の出身の洋画家である「一木弴」です。「一木弴」を知っている人は少ないでしょう。わが郷里の出身の洋画家はそれほど多くはありませんが、本ブログで紹介したのは伊勢正義、伊藤弥太(日本画に転向)がいます。

男の隠れ家にあり、額が古く、絵の具も剥離してきていますので、額を新調して保管しておくことにしました。

鳥海山 一木弴作 
油彩額装 裏サイン有
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横 F8号



額を新調すると見栄えが良くなりましたが、額を選ぶのはなかなか難しいものです。いいものは結構言いお値段がしますし・・。



*******************************

一木弴:(いちきとん)明治38年(1898年)~昭和48年(1973年)。

明治31年に現在の秋田市土崎港中央一丁目に生まれた。父工藤規、母リセの次男で父は医院を開業していた。本名工藤国次郎。 18歳の時父が亡くなり、その後画家を志して上京し、日本美術院の山村耕花に師事し日本画を学んだ。しかし2年後には洋画に転向し、春陽会の長谷川昇に師事した。

春陽会は大正11年に、小杉放庵、岸田劉生、岡本一平、長谷川昇、木村荘八、梅原龍三郎、中川一政らがメンバーとなって結成されたものである。 一木は大正14年に春陽会に初入選し、昭和2年には第一回のY氏賞(のち昭和洋画奨励賞と改称)を受賞している。(第二回受賞者は東郷青児)

昭和11年に退会するまで、春陽会を主な発表の場とし、以後は個展を開催し、作品を発表している。 また、大正12年の江戸川乱歩「二銭銅貨」のさし絵をはじめ、戸川貞雄作「愛の航空路」(読売新聞)、今野賢三作「明暗の窓」(秋田魁新報夕刊)、村松梢風作「愛の国境」(同)など、さし絵画家としても活躍した。

男鹿半島・八郎潟の南に位置するアキタパーク美術館(天王町)の5000坪もある日本庭園の中に、一木弴の絵画館がある。

30歳代には裸婦を多く描き、マチスの影響がみられる明るい色彩が用いられたものが多い。風景を描いた作品ではモネ等の印象派の明るい色彩に影響を受けたものが多い。また、50、60歳代の作品には、グワッシュ(不透明水彩)や、墨を使ったものがある 。

*******************************

「風景を描いた作品ではモネ等の印象派の明るい色彩に影響を受けたものが多い。」という説明に適う作品かな? 資料から推定するに最晩年の昭和44年頃の作だと思います。




作品の裏には「鳥海山」とあります。



キャンバスの枠にも記されています。残念ながら製作年代は記されていません。

  

男の隠れ家にはいろんな作品がまだ眠っていそうですが、その歴史もまた同時に眠っていそうです。



最近は同じ年代の同僚が心筋梗塞、先週末には若い同僚が山で遭難して亡くなるなど身近の人が突然続けて亡くなっています。展示室で一人、冥福を祈るしかありません。今夕はお通夜です・・。

休稿

$
0
0
弔意により投稿を休まさせていただきます。

源内焼? その99 緑釉松葉文四段重箱 

$
0
0
本日紹介する作品は釉薬の発色、作りから当方では源内焼と判断しましたが、「源内焼」か否かが議論になるでしょう。

源内焼 その99 緑釉松葉文四段重箱 
合箱入 幅150*奥行150*高さ220



内側の黄釉薬が虹彩を発色しているなどの点から、断定は出来せんが源内焼の可能性がある作品です。最下段の脚部分に大きな補修跡、角の部分に欠けや釉薬の剥げがありますが、品格のある作行となっており、珍しい作品です。



重箱ですので通常は五段担っているはずですが、ひとつは破損してしまっている可能性があります。保存箱もなにもない状態ですし、釉薬の剥離、欠けがありますので、保存状態は良好ではなかったかかもしれません。源内焼はもともと軟陶磁器ですので完品は貴重で、保存の難しい作品群です。



蓋の部分の字はなんという字ですかね?



光によって虹彩が出るのは古九谷などにも特徴があります。ただし虹彩があるから古九谷などという断定の根拠には一切なりません。



型によって原型が作られるのは源内焼の大きな特徴ですが、文様を線描によって描くのは退化した作品に見受けられますので、線描だから源内焼ではないと一概には言えません。

*釉薬が剥がれいる部分は黒漆で応急的に補修しておきました。放っておくと釉薬の剥離が進行する恐れがありますから・・。



外側を緑釉一色にして、松葉を一面に文様にした本作品は魅力的な作となっています。飾り物として制作された源内焼の珍しい作品のように思います。

漆器再考 輪島塗 溜漆 盃洗・盃洗盆五客揃

$
0
0
昨日は母の元へ、今後の施設の見学も兼ねて訪問してきました。息子とお薄を点てましたり、楽しんできましたが、帰宅時は新宿で小田急線の火災を知ることになりました。



すぐに路上でタクシーを拾い、即座に自宅まで・・、なにしろ息子が寝てしまいましたので・・。

さて現在、お盆の帰郷時に男の隠れ家にある作品を少し持ち帰っては整理しています。整理が終わった作品は陶磁器と区別するために風呂敷に包んでいます。この風呂敷もサイズを探すのに一苦労しますね。古着市やネットオークションでう探しますが、大きなサイズが意外に少なくて困っています。

下記の写真は展示室の倉庫に置ききれなくなり、男の隠れ家に戻す段取りです。



男の隠れ家にある普段使いの器ですが、漆器に関して調べるに従いいろんなことが解ってきます。本日はそのひとつ「溜塗」と「木地呂塗」についてです。素人により文献からの推察ですので、間違っている部分もあろうかと思います。

輪島塗 溜漆盃洗・盃洗盆五客揃
杉保存箱
盃洗 サイズ:口径*底径*高さ
盃洗盆 サイズ:幅*奥行*高さ



本作品の盃洗の内側は銀塗となっています。溜塗は、熱に弱い塗りです。熱湯を注ぐと、白っぽく濁りますので、本来の溜塗は溜塗のお椀の内側は黒塗にしてあります。お椀の内側も溜塗になっているものを見かけますが、あれは自ら「漆じゃないよ」「混ぜ物してるよ」という証拠です。



本作品も白っぽく変色したのでしょうか? どうも見込み内部は銀塗ではないかと思われますが・・。

銀塗であればちょっと洒落ています。見込みが真塗(黒塗)ならば、おそらく盃が黒っぽい盃なら見えにくいと気遣いしているのでしょうか? 溜塗の変色とはちょっと違うように思われます。



************************************

溜塗(ためぬり):古くは、貴族だけが使うことを許された色。紫に近い(転ぶ)色だからかもしれませんし、手間がかかり取扱いも気を遣う塗りだからかもしれません。

下塗りをして、その上に透漆(すきうるし:精製した漆そのままのもの)を塗ります。塗り上がったばかりのころは、黒と見わけがつきません。時間が経つと、漆が紫外線によって落ちて引いていき、木目が透けて見えてくるようになります。

透けて見える(色が抜けてくる)度合いは、保管の状態によって異なります。できあがってから1年ほど箱にしまっておくと漆は強固になり、あまり透けないものになります。

反対に、ずっと放置しておくと、すぐに透けてきます。溜塗にはいくつか種類があり「黄溜」「朱溜」と呼ばれています。まったく木目の見えない艶消しもあります。飛騨の春慶塗も、溜塗のひとつです。似た塗りに「木地呂(きじろ)」があります。

************************************



茶道具などで、古くに作られたものが、えもいわれぬ風合いを醸していることがあります。見事なまでに透き通り、傷ひとつない棗などがそうです。



時の流れによって変化していくことは、自然素材だけが持ちうる特質です。傷がつきやすいようにえる溜塗ですが、布で拭いても傷がつきません。ちゃんとした素材であれば、そんなことはないのです。



保存方法はきちんとしておく必要があり、紫外線は、日光だけでなく蛍光灯などの灯りにも含まれているので、黒に近い感じで使い続けたい方は箱や棚に入れておく必要があります。



木地呂塗が3回透漆を重ねるのに対して、溜塗は中塗に朱・紅柄・青・黄などの彩漆を塗り、上塗に透漆を塗り放したものです。基本的に透漆を通して中塗の色が透けて見えます。

本作品に使われていた包装紙の一部が残っています。このことから輪島塗と推定していますが、正しいかどうかは断定できていません。祖父は輪島にかなりの漆器を依頼して作ってもらったいたようですが・・。



盃洗に使うにはもはや用途が限られますので、盛付用の器として重宝するでしょう。

さて「木地呂塗」の作品として、以前に溜塗として紹介した下記の作品が挙げられます。

輪島塗 木地呂塗五客揃(五拾ノ内)
杉保存箱
サイズ:口径*底径*高さ




************************************
木地呂塗(きじろぬり):呂色仕上げの一つ。木目を生かすために、下塗・中塗・上塗3回とも透漆を塗り、最後に磨き仕上げをして天然木目が透けて見えるようにする。赤または黄で着色する場合もある。春慶塗も木地呂塗に似ていて、木目を透かせて見せる塗り方だが、木地呂塗のように磨き仕上げをしない。



呂色塗(ろいろぬり):立塗に対し、油分を混ぜない上塗を塗り、磨き仕上げをして艶をつけたもの。木炭で平滑に水研ぎし、研いだ表面を植物性の油と砥粉で磨き、さらに生漆を薄く塗り、乾燥したら種子油と磨粉(鹿の角を焼いて粉末にしたもの)で磨くという工程を何回か繰り返す。

************************************

漆器といってもいろんな技法があり、またその技法に基づいたいろんな作品があるものです。



作品を調べるにあたって、いろんなことが解ってくるものです。漆器に関してはもっと知識の吸収が必要なようですので、「漆器再考」と題しましたが、当方の修正原稿と思って下さい。



蒐集の最初の頃に集めた掛け軸も持ち帰り、骨董の整理も活況に入りました。いずれすべてはあるべきところへ戻していきます。遺す価値のないものは処分しますので、だいぶ少なくなるはず・・・

湖畔の冬 福田豊四郎筆 その74

$
0
0
父の着物をいくつか郷里から持ち帰りました。男の隠れ家から持ち帰るのは骨董だけではありません。

もともと着物にはそれほど興味のない小生ですが、家内の親族から大島紬をいただき、着てみるとなかなか気が引き締まるので「いいかな」と思いつつありました。

義母が着物に関しては仕立てもしており、非常に詳しいのでこういう時は重宝しますね。まずは長襦袢・・。



着物の下着ですが、男のお洒落。



いろんな柄があります。なんとなく親爺の趣味がうかがわれます。



男のお洒落には羽織の裏地。吉祥文様・・・。



団十郎、「成田屋!」



祖母は福田豊四郎に羽織の裏地に描いたもらったりしていたそうです。叔母の嫁ぎ先には福田豊四郎の帯があるそうです。

結城紬・・・、調度いい具合に着やすくなるまで三代かかるとか、ともかく丈夫な生地らしい。すべて重ね着分もあります。郷里は寒かったので重ね着分まで同一生地で作ったようです。



大島紬の村山。要は普段着。大島紬の普及品。



大島紬の上等品は家内がピンボケ撮影



普段用の着物はいくつかありました。





紋付・・。



袴もいくつかありましたが、時間切れ!



本日はサイズ確認。ちと痩せる努力が必要かと・・。でもだいたい手直しせずに着れるようです。

さて本日はこの着物の持ち主であった父、その友人である郷里への思いを描いた画家、福田豊四郎の作品です。この画家の作品を好きな人が意外に多いのです。

湖畔の冬 福田豊四郎筆
紙本着色軸装 軸先象牙 共箱太巻二重箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横



落款から製作時期は昭和30年~昭和40頃の晩年の作と推察されます。他の所蔵作品「富士」などが描かれた時期が近い。

 

本作品は今年の帰省に際して、郷里の骨董店から購入した作品です。落款から製作時期は昭和30年~昭和40頃の晩年の作と推察されます。他の所蔵作品「富士」などが描かれた時期が近いと思われます。

 

郷里の骨董店は福田豊四郎の作品を扱っている骨董店では、全国で一番福田豊四郎の作品を取り扱っている骨董店だと思われます。



思文閣では販売リストに滅多に福田豊四郎の作品の出品はなく、加島美術でも数点がある程度です。このたびも3点の作品が新規に納入されており、前から合った作品も二点ほどありました。その中から今回は本作品を小生が購入しました。帰省するたびに寄らせていただくのですが、いつも新たな作品を用意されています。こちらとしては愉しみでもありますが、いい作品があると資金繰りに頭を悩ますことになります。



今回の作品は落款から昭和30年後半から昭和40年にかけての晩年の作品と推察されます。「冬の湖」と題されていますので、福田豊四郎の画題として多く取り上げられている十和田湖を描いた作品ではないかと推察しています。



十和田湖は紅葉に季節がもっとも観光客が多い時期で、またもっとも人気のある時期ですが、冬の十和田湖が一番美しいという方も多くいます。冬は奥入瀬からのアプローチしかなく、他のルートは通行止めですので、小生の郷里からのアプローチしかありません。小生も冬の十和田湖は何度か訪れたことがあります。人気は少なく、スケッチに来られる方が何人かいました。



紅葉の季節以外は奥入瀬は賑わっても、十和田湖畔は閑散としていることが多くなっています。十和田湖自体をもっと観光資源としての活用があろうかと思います。

奥入瀬には星野リゾートもできて雰囲気が明るくなりましたが、十和田湖畔は観光施設の建物が老朽化したものが多く、雰囲気が暗いというより不気味になってきています。自然を残すならこの老朽化してきている湖畔の観光施設をもっとなんとかしないといけませんね。壊すものは壊して元に戻さないといけません。

着物も骨董もすべて次世代へ伝えていきましょう。なにしろ三代で着やすくなる着物もあるらしい。小生は着てもいずれ数回であろうから、これは長く着続けられるでしょう。

源内焼 その100 緑釉象人物文角皿

$
0
0
週末には息子と母のもとへ出かけてきました。行きは豪華にロマンスカー・・。



新宿で食事、息子はレシート入れで「メガネだぞ~」。



母の元では息子は近況の写真の説明に熱心です。



母は茶道を教えていたので、お茶を点ててみました。



最初に飲んだのは息子・・。



小生もお手伝い。



車椅子を押してあげるのが、息子の役割になっています。



さて本日は「源内焼 その99」と同様に線描に近い源内焼と思われる作品の紹介です。

源内焼 その100 緑釉象人物文角皿
合箱入 幅212*奥行き212*高さ45



五島美術館発刊「平賀源内のまなざし 源内焼」掲載作品NO46(P58)と同じ作品。



「源内焼の特徴である型を用いた作品には相違ないが、文様が線描に近くなり、口縁部分の文様にも退化現象が認められる。底部や高台の成形も仕上がりは粗い。象は当時の人々の好奇心をかきたてたのであろう。」と記載されています。



「文様が線描に近くなり」・・、たしかにそうですね。







「口縁部分の文様にも退化現象が認められる。」



型で作られたのか、線描で作ったのか微妙ですが、複数の作品が存在する点から型で作られた作品でしょう。



「底部や高台の成形も仕上がりは粗い。」



たしかに底部は歪み、高台も粗雑ですね。



明らかに「削り高台」ではなく、「付け高台」になっていますので、これまでの源内焼とは作り方が違います。

「削り高台」と「付け高台」の違いは本ブログを読めれている方はご存知ですよね?



意見はいろいろあるでしょうが、これも源内焼・・・。



記念すべき?「源内焼 その100」ですので、きちんと保存しておきます。このような保管を整えるのも蒐集家の大きな役目です。









信楽風徳利 ゲルト・クナッパー作

$
0
0
本ブログに投稿されている加藤唐九郎、濱田庄司、バーナード・リーチ、島岡達三らと関わっていたドイツから日本にきて陶芸をしていた作家の作品の紹介です。

信楽風徳利 ゲルト・クナッパー作
共箱
口径*最大同径*高さ*底径



溜塗の盃洗用のお盆に載せてみました。

「ゲルト・クナッパー」については下記の説明のとおりです。

****************************

ゲルト・クナッパー:1943年(昭和18年)ドイツ、ブッパタール市に生まれ。ニューヨークで彫刻家のアシスタントを経て1966年に来日。

1967年 加藤唐九郎を訪問。瀬戸の鈴木清々に師事、益子に濱田庄司を訪ねる。1968年 イギリスのバーナード・リーチを訪問する。

一時、ドイツへ帰国、1970年(昭和45年)頃に栃木県益子町へ移り住み、島岡達三の援助で益子にて修業の後、26歳の時に外国人として初めてとなる益子焼の窯を築く。

庄屋だったボロボロの古民家を買取り、骨組みだけを残し改築し、大子に移住したのが1975年。




1980年頃からは、ハワイ大学での講師を務め、ドイツ、デンマーク、バンコク、タイ、香港、日本、その他世界の各地で個展を開き、1986年には、第25回「日本現代工芸美術展」で内閣総理大臣賞を受賞。

***************************

「庄屋だったボロボロの古民家を買取り、骨組みだけを残し改築」ということですが、当方の男の隠れ家に似ていますね。

徳利は持った感じが軽いことが肝要なようです。お酒がたっぷり入ったときに手頃な重さになり、持ちやすいことが大切ですね。ただ熱燗にはこのような釉薬のない徳利は不向きですが・・。



「ゲルト・クナッパー」は亡くなってからそれほど経っていませんが、知られている陶芸家かどうかについては人それぞれでしょう。



***************************

作品を通して日本の陶芸を海外に広めた偉大な作家としてその名が知られる。日本の伝統的な陶芸文化にとらわれず、モダンアートなどの要素も取り入れたその作品は、東洋とも西洋ともとれる両文化の風を感じさせる。

数々の伝統文化などを混ぜ合せ、東西の陶芸の文化を混ぜ合せた希少な陶芸家の一人であり、日本に住んで40年以上となる有名な陶芸家として著名。

加藤唐九郎などとの親交があり、瀬戸焼の鈴木清々に師事をして陶芸の基礎を身に着ける。現在では芸術的な、日本人では思いもつかないような芸術的な作品を多く手掛けている。

伝統を重んじる陶芸界では、外国人として見られていたが、次第に評価があがり、第一回毎日新聞社日本陶芸展で文部大臣賞を受賞。

現代日本陶芸展巡回展に参加するなど、国内での評価も非常に高くなる。 そして、バンクーバー・アートギャラリーをはじめ、アメリカのシアトル現代美術館やコーネル大学美術館とクレーブランド美術館など、世界各国の美術館でも個展を開く。ドイツ連邦共和国功労勲章・功労十字章受賞。「現代日本陶芸のアメリカにおけるコレクション展」、または「4つのエレメント、3つの国、ドイツ、イギリスそして日本展」など、国際的な個展にも参加。日本と西洋の陶芸文化の架け橋としての存在を打ち出していった彼の功績は大きい。 2012年11月2日逝去、享年70才。

***************************

箱書には特徴があります。

 

最近の陶芸家の作品はこのような栞をとっておくといいでしょう。



本作品は製作さた時期は、箱書から1978年(昭和53年)と判明しますが、通常は製作された年号は入れませんので、栞を残しておくと大体の製作時期が解るものです。

ところで作品の整理もおかげさまで終盤を迎えることができました。日頃の業務も終盤、毎日の投稿もいつまで続くか・・・。
Viewing all 2940 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>